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新菜いに/丹㑚仁戻

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第一章 吸血鬼、吸血鬼ハンターになる

【第一話 落下】1-1 ……やばいその顔見下されたい睨まれたい

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 〝恋に落ちる〟とはよく言ったものだ。
 落ちるってどういうことだよと思っていたけれど、こうして自分が体験するとよく分かる。それまでの常識とかプライドとか、そういう私を形作っている欠片が全部ストンとどこかに落っこちて、残るのは相手への身を震わすような熱い気持ちだけ。恋の中に落ちるのではなくて、恋によって堕ちていく――それがきっと〝恋に落ちる〟の言いたいことなのだろう。

 まあ、言葉の意味はそれでいい。
 じゃあ落っこちた欠片はどこに行くの?

 ビュンビュンと叩きつける風が肩までしかない私の髪を巻き上げる。
 バサバサと棚引くオーバーサイズパーカーは胸まで捲れ上がって、自慢の身体を顕にする。
 普段ならきゃあと言ってみてもいいけれど、今はそんなことをしたってきっと誰も見ていやしない。

 ここは深夜の東京タワー。
 ライトアップももうおしまい。真っ暗闇にぼんやり浮かぶ赤い鉄筋だけが、私のお腹を覗き込む。

 これは一体どういう状況?
 そんなの簡単、考えるまでもない。

 恋によって落ちているのだ――東京タワーのてっぺんから、私が。


 § § §


 少し時を戻そう。そうだな、砂時計をひっくり返した分だけでいいだろう。
 で、一旦停止。

 私こと一葉ひとはは東京タワーのてっぺんにいた。何故かと聞かれたら『そういう気分だった』と答えるしかない。
 仕事で久々に東京にやって来たのだけれども、ちょっと来ない間に東京タワーがただの鉄のオブジェになったって言うじゃないか。実際はスカイツリーの予備的な役割があるみたいだけど、そんな細かいことは置いておこう。
 昔は関東の皆さんの生活に支障を来しちゃいかんと思って我慢してた。でも予備ならもう良くない? 私、東京タワーから大都会を見下ろしたかったの。

 そう思ったのは私だけではないようで、私の仕事相手も偶然そこにいた。
 分かるよ、分かる。ちょっとやそっとじゃ死なない身体を手に入れれば、前までは怖かったことをやってみたくなる気持ちは大いに分かる。
 深夜だからエレベーターは動かないけれど、それも大した問題じゃない。だってよじ登ればいいんだもの。落ちたってそうそう死なないんだったらそりゃ挑戦したくもなるよね。

 そろそろお気付きだと思うけれど、私の仕事相手は人間じゃない。人間にはモロイって呼ばれてるんだったかな。ルーマニアだかどっかの伝承を元にした名前だそうだ。
 モロイっていうのはいわば吸血鬼のこと。でも現代人間社会の常識では吸血鬼はファンタジーだ。もしくはUMA、フィクション、勘違い――つまり

 こうして存在しているのに存在しないってことになっているのにはそれなりに理由があるのだけれど、それも面倒だから置いておこう。
 多くの創作物の中でそうであるように、実在する吸血鬼っていうのは人間から見たら悪役だ。特にモロイは理性がぶっ飛んでる奴が多いから、放っといたら人間を襲ってしまうこともある。

 だからそんな悪役から人間を守るために、この世には二種類の仕事があるのだ。
 一つはもうお分かりかな、吸血鬼ハンターだ。ハンターって響きなんかいいよね、格好良い。
 でも残念ながらこっちは私の職業じゃない。私の持つ肩書は執行官。『なんの?』って聞かないで、私も未だによく分かってない。

 執行官の仕事は色々あるけれど、その中の一つがこうして理性をぶっ飛ばした吸血鬼を捕獲することだ。殺すのもアリっちゃあアリだけど、その場合は欲しい情報が全て得られている必要がある。じゃないと後々面倒だし、何より私が怒られるから極力避けたい。私の上司って怒るとめちゃくちゃ怖いの。イケメンなのに良心がぶっ飛んでるから躊躇と手加減ってものをしてくれない。

 はい、嫌なことを思い出しそうなのでそろそろ時を動かそう。
 東京タワーのてっぺん、吹きすさぶ強めな風、勿論屋外。そんな安全性の欠片もない場所に立つ私の目の前には一人の男がいた。人間にはモロイと呼ばれる、吸血鬼の従属種だ。
 今時の服装なのは、この男が最近人間じゃなくなったということなのだろう。でも誰もどう生きればいいのか教えてあげなかったのかな、口元を汚す血は鼠の匂いがする。
 抑えきれない食欲のままに鼠の生き血を啜ったのだということは、汚れた衣服を見ればよく分かった。普通の日本人なら汚れは気にするはずなのに、きっと彼はそれもできなかったのだ。

「……可哀相に。でも人を殺す前で良かったね」

 鉄筋を足場に後ずさる男は、私が何者なのか気付いたのだろう。時折強く吹く風に体勢を崩しながらも、それでもどうにか逃げ道を探すように強張った顔をあちらこちらに向けている。

「大丈夫、私は君を殺さないよ。だから痛い思いをする前にこっちに――ッ!?」

 パンッ、と何かが弾けるような音がして思わず言葉を飲み込んだ。その直後に男の方へと閃光が走って、彼の胸に何かが刺さる。

 あ、やばい――こんな場所だからと周囲への警戒を怠っていたせいで気付くのが遅れた。
 急いで閃光の軌道から死角になるよう鉄骨に身を隠す。ろくに脚を置く場所がないものだから、ほぼほぼ左手の指の力だけで体重を支える。強い風で煽られる髪を右手で押さえながら、私は男の方へと目を向けた。

「あ……ああっ……」

 小さく呻き声のようなものを上げる男は、酷く苦しんでいるように見えた。
 彼に刺さった閃光はおそらく弾丸だろう。ただの弾丸なら彼は死なない。大して苦しみもしない。
 それなのに彼の身体は一気に赤く腫れ上がって、かと思えば真っ黒に焦げていく。まるで陽の光に灼かれた時のように。

「何あれ……紫外線とか……?」

 ひく、と頬が引き攣る。
 おとぎ話のように銀や聖水なんて吸血鬼に意味はない。だから人間が簡単に吸血鬼を殺す手段はなかったはずなのに、いつの間にか厄介な武器を開発していたらしい。弾丸を食らって黒焦げになった男は、全身を炭にしたかと思うとそのまま風に吹かれて都会の空気に溶けていった。

「――大丈夫ですか?」

 男の落下に気を取られていると不意に声が聞こえてきて、私は慌てて足元を見た。そこには鉄骨にかかった梯子を上る男の姿。勿論さっき消えていった彼とは別人だ。この男がきっと彼を殺した弾丸を放ったのだろう。
 この国で合法的に銃火器をぶっ放せるのは警察か自衛隊くらい。だけどどちらも吸血鬼なんて相手にしない。ならば彼は一体何者なのか、答えなんて分かりきっている。

 吸血鬼ハンターだ――頭の中に男の正体を浮かべながら、私は安定した足場を求めて鉄骨の裏から彼の方へと一歩進み出た。

「早まらないでください。どうやったのは分かりませんが、こんな場所まで来れるならもう少し頑張ってみてもいいんじゃないですか?」
「早まる……?」

 なんのことだろうと思ったのは一瞬、その言葉の意味はすぐに分かった。彼は私を自殺志願者だと勘違いしているのだ。
 確かに普通の人はこんな場所にいないだろうけれども、もしそうだとしたら相当ガッツがある自殺志願者だぞ。常識的に考えて同業を先に疑うべきじゃなかろうか。

「俺ももう下りますから、一緒に下まで行きましょう」

 私がいるところまで上ってきた男は、そう言ってこちらに手を差し伸ばした。
 今上ってきたところなのにもう下りるとか人間のくせに体力凄いな、とか。ていうか梯子じゃ仲良く下りれないんじゃない、とか。そういういつもの思考が、なんだかうまくできない。

「ッ……!!」

 だってこの人、顔が良い。物凄く好みのお顔をしていらっしゃる。
 しかも一生懸命ここまで上ってきたからだろう、額にはほんのり汗が滲んでいてより眼福。差し出された手はゴツゴツとした男らしさを感じさせるもので、良く鍛えられているのだと容易に分かる。
 どことなく冷たさを感じる顔立ちだったけれど、それとは裏腹に私を気遣うような言葉は低い声に乗せられて頭の奥まで深く染み込んでくるようだった。

 ああ、やばい。本気で好み。
 うっとりしていると、私を安心させるように細められていた目はだんだんと訝しむようなものに変わっていった。ああ、うん。色々堪能するのに忙しくて返事してないからね、そりゃそういう反応になるでしょうよ。
 でもそんな視線も素敵だわと思っていたら、次の瞬間にはその目は大きく見開かれた。

「お前ッ……吸血鬼か!?」

 言葉と同時に男は後ろに大きく飛び退いた。器用に鉄骨を掴んでバランスを取り、胸元に手を突っ込む。

 そう、言い忘れていたけれど私は吸血鬼。でも見た目は普通に人間だ、ハロウィンじゃなくたって街中を歩ける。
 だからなんでこの人は私が吸血鬼だと分かったんだろうと思ったけれど、それよりも彼の手が何を取り出そうとしているのか察したから慌てて両手を上げた。

「執行官です! 一葉と申します!」
「執行官って……上位種!? なんでこんなところに……!!」

 男はすでに胸元から取り出した銃を構えていた。でも私が執行官だと名乗ったから、慌てたようにその銃口を私から逸らす。
 吸血鬼ハンターが狩るのはモロイだけだ。つまり彼の言うように上位種である私のことは原則狩らない。というか狩ったら駄目っぽい。理由はまあ、なんとなく察している。
 きっと上位種というのを見るのが初めてだったんだろう、彼は酷く混乱している様子で私の方を見ていた。でも――

 一秒、二秒。

 たったそれだけの時間で覚悟が決まったらしい。男はキッと視線を強めると、「ここで何をしている」と吐き捨てた。

「……やばいその顔見下されたい睨まれたい」
「は……? ――おいッ!」

 ふらり、彼の格好良さに視界がくらんで。

「あっ……」

 私は東京タワーのてっぺんから足を滑らせた。
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