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最終章

第64話 堪能してるんだよ

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 たった一日だ。たった一日で、どうしてこんなに変わるのか――ノエの部屋の窓から見える景色に、私はぞっとしたものを感じた。
 今、ノストノクスの外は人で溢れている。それも強い怒気を孕んだ大声を上げながら、今か今かとその時を待っている。

 エルシーを出せ、スヴァインの子を殺させろ――ノエに教えてもらった彼らの言葉の意味は、とてもではないけれど無視できないもので。

「――うるさいけどもうちょっと我慢して。まだクラトス達が来てない」

 この状況を作った張本人であるノエは私の頭に手を置きながら、落ち着いた声で言った。

「なんで分かるの?」

 私が尋ねると、ノエはへらりと笑う。

「スヴァインの子を殺させろってことは、まだほたるのことを簡単に殺せる気でいる――ほたるの種子が発芽したことを知らないんだよ。それにほたるへの敵意が高まりすぎることはクラトス達にとっても本意じゃない。来てたらとっくに何かしてるはずだよ、この前みたいにね」
「この前?」
「前にノストノクスに大勢押しかけてきた時。スヴァインに怒っていたはずの連中があんなに早く来たのはあいつらの仕業だろ。ノストノクスをぶっ潰したい側からすれば色々と都合が良い」

 だからあの時、ノエにも想定外のことが起こったのか――まだしばらくは安全なはずのノストノクスへと向かったら、着いた時には状況が一変してしまっていたことを思い出す。そういえばノエは誰かが怒りの矛先をすげ替えたんだろうと言っていたけれど、その後にあったことも考えるとあの時点でクラトス達が関わっていると気付いていたのだろう。
 そういう部分が、今までノエがやってきたことが事実なのだと私に告げてくる気がした。周りの動きを常に予想していることも、こうやって今の状況を作り出せたことも、彼が催眠という手段を使わずとも人を思い通り動かすことに長けているのだと思わされてしまう。

 自分とは全然違う生き方をしてきたのだと思うと少し寂しくなる。そんな気分の落ち込みを感じながらそっと隣を見れば、優雅に紅茶を飲むノエと目が合ってその気持ちはどこかへ行った。
 なんでノエはこんなに暢気なんだろう。この部屋に紅茶を入れる道具はないから、彼はわざわざ食堂まで取りに行ったということだ。普段ならまだしも今はこんなに外が殺気立っている。それなのによくもまあのんびりとお茶なんてしていられるな。……一緒に持ってきてくれた私の分はありがたくいただくけれども。

 とはいえノエのその暢気さが、事が彼の想定どおりに動いていることを表していた。
 昨日まで閑散としていたノストノクスが怒り狂う人々に囲まれているのは、ノエがある噂を流したからだ。と言っても勿論ノエ一人でそんなにすぐ広めることはできないので、ノストノクスの職員に協力してもらった。本来ノエにそんな権限はないらしいのに実現したのは、エルシーさんが指示したから。

 死んだとされていたエルシーさんが出てきたことでノストノクスは大騒ぎになり、その勢いのまま彼らはノクステルナ中に噂を広めてくれたのだ――エルシーさんが実は生きていて、スヴァインの子と手を組んだ、と。
 これにより何も知らない人達からすれば、ノストノクスは罪人であるスヴァインと手を組んだも同然。更にクラトス達が離反して体制の整っていない今であればノストノクスを落とし、スヴァインをも討ち取ることができると人々の考えも誘導しているらしい。ちなみに既に破壊された正門付近ではなく、ノエの部屋から見えるこの位置を中心に集まっているのもそうなるよう誘導しているからだそうだ。

「にしても、面白いくらいキレてんなー。見てあれ、皆手に武器持ってるでしょ。あれ戦争に使ってたやつだよ。きっと気合入れてお気に入りを持って来たんだろうな」
「そんな勝負服みたいに……。っていうかあれなんなの? 槍?」

 戦争に使っていた武器を持ち出すくらい怒っているというのは分かったのだけれど、彼らの持っている物がなんなのかよく分からない。
 先が三つに分かれた槍のようなもので、なんというか虫歯菌のイメージキャラクターとかが持っていそうなやつ。あれってそんなに殺傷能力は高いのだろうか。まあ先が三つに分かれている時点で当たり判定は大きいのだろうけれど。

「日本語だとなんだっけ……そうだ、三叉槍って聞いたことない? それだよ」
「武器の種類なんてそんな知らないよ。っていうかみんな同じの使うの? 剣とかの方がそれっぽいけど」
「単純な刃物で切られたり刺されたりしても死なないから、吸血鬼同士の戦いじゃ基本的に使わないよ。ちょっとグロい話だけど、あれで胴体刺して内臓を身体の外に引きずり出すんだよ。三つの槍の根元も返しみたいになっててさ、刺して貫通させた時か、それをねじりながら引っこ抜く時か、まあどこかのタイミングで内臓が引っかかって――」
「待って急にグロい話やめて」
「あ、やっぱり駄目? 吸血鬼になって血は平気になってもこの手の話苦手な奴多いんだよな」
「知ってるならせめてその楽しそうな顔はやめてくれない?」

 武器の説明自体は普通の顔でしていたくせに、私が待ったをかけた途端ににこやかな笑顔になるノエは一体どういう神経をしているんだろう。

「まあまあ、聞きなさいって。あれをほたるにまともに使えるのはスヴァインとアイリス、それから一応俺だけ。とりあえず絶対に食らっちゃ駄目だよ。人間の三叉槍は片側だけだけど、俺達のは両方とも同じようになってる。刺された時点で運良く内臓が無事でも、柄をどうにか折ってからじゃないと引き抜いた時にほぼ確実に死ぬから。影になれば逃げられなくもないけど、大怪我してる時に影になるのはそりゃもう痛いから大抵みんな無理だよな」
「……こわ」
「そりゃ怖いよ、あれは殺すための道具だから。あとはまァ普通に頭を狙われたら死ぬと思うからそれも避けてね」

 生き死にに関わる話をしているはずなのに、ノエはいつものへらり顔で笑ったまま。そういう説明はもう少し真剣な顔でして欲しいのだけれど、まあ言っても無駄なのだろう。ノエの表情筋がまともに仕事をしていないのはいつものことなので、昨日からずっと聞こうと思っていたことを聞くことにした。

「気になってたんだけどさ、これって火種ってことにはならないの? 失敗した時は勿論そうだけど、成功してクラトス達が全員スヴァインに操られてましたって話にできたとしても、それとこれとは別じゃん。表向きはクラトス達以外も巻き込んで戦争を引き起こそうとしてるんだし。いくらノエの仕事のためって言っても、許容範囲を超えてそうな気がしてるんだけど……」
「超えてるだろうな、これだけ派手にかき回したんだから。でもまァ他にやりようもないし、その辺はしょうがないだろ」
「しょうがないって……! それじゃあ誰かはアイリスに殺せって言われるってこと!?」
「大丈夫、そこはうまくやるよ。だからほたるは気にしない」
「でも……!」
「ごめんな、流石にこれ以上は言えないのよ」

 困ったような顔で言うノエに、私は何も言葉を返すことができなかった。
 だって、全部は話せないって知っているから。今回の件で全部を知りうるのはそれを考えたノエだけ――ノエだけが、全部抱えようとしてくれている。
 なんだか彼に押し付けているような気持ちになってしまっておずおずと見上げれば、私の視線に気付いたノエはふわりと微笑った。持っていたカップを置いて伸びてきた手に、頭を撫でられるのだろうと少し下を向いて迎える準備をする。けれど次の瞬間に感じたのは、全身を包み込まれる感覚だった。

「ッなになになに!?」
「堪能してるんだよ」
「はあ!?」

 ぎゅうと抱き締められながら、一体この男は何を言っているんだと顔を顰める。自分の頬が赤いことなんて見なくても分かって、どうせこの角度じゃノエからは見えないのに顔を横に背けた。
 背中に回されたノエの両腕は、苦しいくらいに私の身体を締め付けてくる。恥ずかしいからやめてくれと言いたかったけれど、言葉にする前にその腕は離れていった。

「さてほたる、今後のことは分かってる?」

 何事もなかったかのように問いかけてくるノエに、自分の顔が思い切り歪むのが分かった。なんなんだこの男は。そっちこそ私を弄んでいるじゃないか。
 という不満を口にしたかったけれど、ノエに問われた内容は真面目なことだったので引っ込める。代わりに記憶を整理して、聞かれた答えを用意した。

「クラトス達が来たら逃げればいいんでしょ?」
「そうなんだけど……ま、それでいいや。まずはエルシーと一緒にちょっと目立ってもらって。その後派手に外壁壊すから、それでクラトス達が慌てたら逃げて。タイミングとかやり方は全部エルシーに任せればいいよ」
「……おおう」

 なんだろう、私信用されてない気がする。
 でも全部を理解できていないのは自覚しているし、そもそもノエが全てを話してくれていないのも知っているので、とりあえずエルシーさんに任せようと思う。

 そう思って返事をしてから少し経った後、外から聞こえる声に変化があった。


 § § §


「――準備はいいか?」

 エルシーさんが問いかけてくる。
 私とエルシーさんがいるのはノストノクスの建物の一番高いところ。眼下には夜の青い光に照らされた群衆。彼らはまだ私達には気付いていない。
 下から聞こえてくる怒声は今やエルシーさんの死を求めるものが大半を占めているらしいけれど、大して違いの分からない私にはどちらにせよ恐ろしかった。

「えっと……」
「まずは私が、スヴァインの子として吸血鬼になったお前と手を組むと宣言する。そうするとノエの仕込みもあるから、すぐに彼らのお前への殺意が大きくなるだろう。その後はちょうど良いタイミングで外壁が吹き飛ばされて一気に群衆がこちらに向かってくるから、合図したらお前はあちらに向かって走ればいい」
「走るって普通でいいんですか? 私あの高速移動みたいなやつまだできないんですけど……」
「すぐにノエと合流できる。お前が影になれなくてもあいつがうまくやってくれるさ。何せノエは昔からこういう騒ぎを起こすのが得意だ。逃げ足も速い」
「……なるほど」

 逃げ足も速い、というのは見たことなんてないのに物凄く納得感があった。
 騒ぎというのはやはり人間時代にやったことを指しているのだろうか。それとも吸血鬼になってからも色々やっている? でも仕事でそういうことをする必要性が分からないから、もしそうだとしたら悪戯で……? 駄目だ、否めない。

 そんなことを考えていると、エルシーさんがよく通る声で人々に向かって話し始めた。

「――――!」

 エルシーさんが声を出した途端、私達の存在に気付いた群衆が大きくどよめいた。直後は罵声が響いていたけれど、彼女が気にせず話を続けると、その声を聞くためか人々が少しずつ静かになっていった。それでもエルシーさんが何か言うたびに野次のような声が飛んでくるから、やはり彼らには受け入れがたいことなのだろう。
 彼女が話している言葉は私には理解できないけれど、事前に聞いていたとおりなら吸血鬼になった私――スヴァインの子と手を組むと宣言しているはずだ。これは私を仲間に引き入れようとしていたクラトス達を、エルシーさんに先を越されたと焦らせるため。クラトス本人は乗せられなくても、彼の仲間全てがそうじゃない。

「――――!」

 エルシーさんが言葉を続けるごとに、人々のざわめきが大きくなっていく。最初は動揺したようにまとまりのなかった声が、段々と同じような言葉ばかりを並べ始める。
 これはきっと私を殺せというものだろう。クラトス達に弱められてしまった私への殺意を、群衆に紛れ込んだノストノクスの人達が煽っているから。

 全てノエの計画どおり――そう分かっているのに、身体が強張る。今の私を殺せる人なんてそうそういないと知っているのに、それでも恐怖が足元から背中を這っていく。いくら言葉が分からなくても、自分への殺意は嫌でも感じ取れてしまうから。

 早くここから遠ざかりたい。早く、早く。

 駄目だと分かっているのに、無意識のうちに後ずさろうとしてしまう。その脚を止めることだけに集中して少し経った時、大きな爆音が鼓膜を貫いた。
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