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第八章
第57話 そんなこと言わないで……!
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『役割を果たせない奴は、アイリスにとって価値がないんだよ』
その言葉に含まれた想いから耳を塞ぐように、私は咄嗟に「でも……!」と声を上げた。
「あんな状況じゃ、クラトス達に何もできなくてもしょうがないじゃん……!」
クラトス達、というのが誰のことまでを指すのか分からないけれど。
でも私がスヴァインに操られたせいでノエが身動きを取れなくなったのは事実だ。それなのにノエは表情一つ変えず、それに何の意味もないと言わんばかりに小さく首を振った。
「ほたるを助けることは命令されてないし、そもそもアイリスにとって今のところほたるは割とどうでもいいと思う。序列が高いから俺の手伝いにすることには納得はしてくれても、他を差し置いてまで必要だとは考えてくれないよ。だからほたると逃げることを優先した俺の行動を命令違反と取られる可能性もある」
あの状況では私を捨て置くべきだった、というのがアイリスの考え方なのだろう。それなのにノエが私を優先してしまったから、彼の立場が危うくなっている――ノエの言っていることは理解できたけれど、それを受け入れるわけにはいかない。
何かないのだろうか。ノエの言葉を否定する何かは。
そう思って必死に思考を巡らせれば、一つあることに気が付いた。
「命令違反って言うけど、ノエはアイリスの命令には逆らえないでしょ? なら私を逃せたってことは命令違反じゃないってことじゃないの……!?」
吸血鬼は上位の吸血鬼の洗脳には抗えない。全ての吸血鬼の親であるアイリスの命令にノエが逆らえるはずがない。そう期待して問いかけたけれど、ノエの表情は変わらなかった。
「俺は人間の頃の同胞殺しを買われてさっき言った役割を命じられたんだよ。敵に媚売って騙して、味方ごとってやり方のね。それをやるためには、誰かを騙すために命令に背いているように見える行動も取らなきゃならないことがある――だから違反できる。俺を殺すのはアイリスの命令じゃない、アイリス自身だよ」
「命令は口約束みたいなものってこと……?」
「そういうこと」
つまり最終的にノエが命令に背いたかどうか判断するのはアイリスということなのだろう。だからノエはいくらでも命令以外の行動ができる。クラトスの処分を後回しにして私と逃げることができたのも、命令に背いてはいけないと催眠をかけられているわけじゃないからだ。
「これからどうするの……?」
アイリスがノエを裏切り者と判断すれば、ノエは殺されてしまうかもしれない。
そうならないためには、アイリスに命令違反をしたわけではないと納得してもらわなければならない。だからきっと、ノエは改めてクラトス達に手を下す必要がある――そこまで考えると、自然と眉間に力が入った。
ノエには誰も殺して欲しくないけれど、そうしないとノエが殺されてしまうかもしれないと分かったから。
「正直、クラトス達はどうしようか迷ってる。やり方はともかく、提起している問題自体は真っ当だしな。もうスヴァインを信じてないならこれからの行動が変わるかもしれないし」
「でも、それじゃあノエが……!」
「そうねー……。アイリスも許すとは思えないけどさ、なんか今更殺してもっていう気がしちゃうっていうか。今もクラトスがほたるにしたことは許せないとは思うけど、それとこれとは別だし。なんていうか、勢いが削がれた感じ?」
いつの間にか普段の調子に戻っていたノエは笑って言ったけれど、私は同じようにする気にはなれなかった。
確かにクラトス達に何もしないというノエの考えは歓迎できる。だけどそれを選んでしまえば、ノエが――。
「そんな理由で……」
「勢いは大事だよ。どんな理由であれ、人の命を奪うのは凄く……疲れる」
そう言って、ノエは大きな溜息を吐いた。
「ま、クラトス達はともかくスヴァインに関しては何もしないっていうのは無理なんだけど。こっちは仮に逃げたところでどうせいつかは絶対に見つかるから、嫌でも何かしないとな。何せ向こうから見れば俺は相当な子供だろうし、ほたるもいる」
「……私?」
まだクラトス達のことを考えたかったけれど、急に自分の名前を出されれば思考を中断するしかない。
私が顔を上げると、ノエは難しそうな顔をしながら口を開いた。
「スヴァインに近付きすぎたら、多分ほたるはまたスヴァインに操られると思うんだよな。それらしいきっかけもなしにいきなり操れるとか正直意味分かんないけど、まァ事前に仕込まれてたならどうにかなるんだろうって納得できなくもない。つーかだとしても完全に乗っ取れるだなんて聞いたことねーわ。これだからアイリスに近い年寄り連中は怖いんだよ、他にも何か隠してんじゃねーの?」
そう気だるそうに声を上げながらノエは後ろに倒れ込んだ。そこには私の脚があって急な重さにびっくりしたけれど、加減はしてくれていたようで痛みはない。
膝枕のような形でだらんと仰向けになったノエに少し緊張して、私はそれを隠すために急いで質問を探した。
「で、でもそれを言ったら……ノエだってアイリスに操られちゃうかもってことじゃない?」
「そうそれ。どうしよう」
顰めっ面のノエが顔を横に向けて私を見上げる。久々にゆっくりとしながらこんな近い距離に来られたせいで、場違いにも胸がきゅうとなった。
話していることは命のかかった大事なことのはずなのに、この時間がもっと続いて欲しいとも思ってしまう。少し前までノエのことが信じられなかったのに、聞きたかったことを話してくれたという事実がそれを解きほぐしていく。クラトスの元でノエの近くがいいと実感してしまったことも影響しているんだろう。
それに今までよりも、なんだかノエが気を許してくれているような気がする。しゃきっとしていないのは前からだけど、それとは違ってこんなふうに気を抜いてくれる姿がとても――。
「……おおう」
「どうした急に」
「い、いや別に……!」
とても愛おしい――数秒前の自分の思考に顔がカッと熱くなる。なんだそれどういうことだ。もしかしてそういうことか。
これは流石にお父さんに向けるような感情じゃないと嫌でも気付いてしまって、心臓がバクバクと大きな音を立て始めた。ちょっと待ってこれノエに聞こえてない? 自分の身体の中の音だから聞こえるのか、それとも吸血鬼の耳だから聞こえるのか。後者だったら絶対ノエにも聞こえるじゃないか――慌てて顔は手で隠したけれど、それだけじゃあ心臓の音までは誤魔化せない。
どうにかノエの気を逸らさねばと、私は慌てて「きゅ、吸血鬼ってさ」と上ずった声を上げた。
「吸血鬼って、やめられないの?」
「それができたらとっくにやめてます」
思いがけない答えに、あんなにもうるさかった心臓がすっと静かになった。
だってそれができたらやめているということは、ノエはやめたいと思っているってことなんじゃないか。ノエは吸血鬼になったことを、後悔しているってことなんじゃないか。
「……ノエは人間に戻りたいの?」
聞きながら、さっき感じたものが頭の中に蘇る。
『役割を果たせない奴は、アイリスにとって価値がないんだよ』
ノエのこの言葉は、自分に価値がないことを望んでいるように聞こえてしまって。価値がなくなれば殺されてしまうかもしれないと自分で言っていたのに、それを望むということは、ノエが本当に望んでいるのは――。
恐る恐る視線をずらせば、ノエが顔を天井に向けてどこか遠くを見ているような目をしているのが見えた。
「人間か……どうだかな。別に今とやってることは変わらないし、人間の頃は幸せだったとかっていうのは思ってないけど。――でも、ちょっと疲れたかもしれないな」
さっき浮かんだ考えを裏付けるような言葉に、胸がぎゅっと掴まれた気がした。
「そんなこと言わないで……!」
気付けば私は身を乗り出して、仰向けに寝転ぶノエの胸にしがみついていた。いつもよりも温かく感じるのは、私の体温も彼と近くなったからだろうか。
「ノエが……ノエがたくさん辛かったんだろうなっていうのは分かる。だけど私はノエがいたから今生きてるんだよ。少なくともあの時ノエがスヴァインから私を守ってくれたから、私はこうしてノエと話せてるんだよ……」
胸に近いせいで、ノエの心臓の音が聞こえる。最初は驚いたように早かったけれど、すぐにそれはゆっくりとしたリズムになっていった。
「さっき言っただろ? 俺が会いに行かなかったら、ほたるはまだ人間として母さんと暮らせていたかもしれないって。そんな俺に恩なんて感じちゃいけないよ」
「……でもそれは、本当の私じゃない。ノエだって言ってたじゃん、スヴァインの洗脳が解けて私が少し変わったって。それも否定しなきゃいけないの……?」
私の言葉に、ノエの呼吸が一瞬止まった。彼の胸に顔を伏せたままだからどんな顔をしているのかは見えないけれど、きっと眉間に力が入っているんだろうなと思う。時々私が聞き分けない時に見せる、少し困ったような顔。静かに吐き出された息は、ノエが言葉を見つけた時の合図。
「自覚がなかったんなら、苦しい想いなんてせずに生きていけた方が――」
「本気で言ってる?」
思わず顔を上げてノエの顔を睨むように覗き込む。驚いたように見開かれた青い瞳に映った私は、怒っているはずなのに泣きそうな顔をしていた。
「確かに苦しいよ。お母さんが殺されて、本当のお父さんだって多分ずっと前に殺されてた。苦しいし悲しいし凄く腹が立つ。こういうのが憎しみって言うんだって思ったくらい、スヴァインのことは許せない。だけど何も知らないままだったら、私は今もスヴァインをお父さんだと疑いもしなかったと思う。他でもないスヴァインを、お父さんとして慕い続けてたんだと思う。ねえ、そんなのが本当に苦しい気持ちになるよりマシなことなの?」
「それは……」
「それにね、やっぱり私、吸血鬼になってよかったって思ってる。人間のままだったら、いつ死ぬかただ怖がりながら待つだけだった。自分には守る価値なんてないって思いながら、良くしてくれる人達に申し訳なさしか感じなかったと思う。私が吸血鬼になったことでノエを悲しませたのはごめんって思うし自分でもちょっと後悔したけど、でも今はどうやったらノエと生きられるか考えてる。自分なんて死んでもいいと思ってたけど、今はノエともっと一緒にいるにはどうしたらいいだろうって考えてるの! そういうことを、考えられるようになったの!!」
そこまで言って、ノエを睨みつける。ノエは相変わらず驚いたような顔をしていたけれど、視線が絡むと逃げるように顔ごと目を逸らした。
それを見て、咄嗟に私の両手が伸びる。その手でノエの頬を掴んで、顔を自分の方へと向けた。
「ちゃんと聞け馬鹿!」
「ばッ……!?」
「私はノエと一緒に生きていたいの! それなのにそう思わせてくれたノエが、生きることに疲れただなんて言わないで……! 私にできることならなんでもするから、どうやったら楽しく生きていけるか一緒に考えてよ……!」
怒りすぎたのか目元が熱くなる。だけど絶対に泣きたくはなくて、私は目にうんと力を込めた。
睨みつけたノエは、私が言い切った後から険しい顔をしている。やっぱり私なんかの言葉じゃノエの気持ちは変わらないのだろうか。もう疲れたという彼の心は動かせないのだろうか。
沈黙が、酷く長く感じる。
十秒、二十秒――いや、それ以上の感覚。けれど実際はほんの数秒。ノエの深い呼吸、二回分。
「馬鹿はないでしょ」
そう言って、ノエは破顔した。いつもどおり力の入っていない感じなのに、ちょっと違う。困ったように、けれどどこか嬉しそうに。
「っていうかこんな食い気味で愛の告白されたの、四百年も生きてて初めてなんだけど」
「愛……!? ち、ちがッ……そういうのじゃなくて……!」
「違うの? ほたるが楽しませてくれるなら、俺ももうひと頑張りしようかなって思ったとこなのに」
「えっ……いや、でもっ……それは、嬉しいけど……」
どうしよう。折角頑張ってくれる気になったのに、これを応援すると私はノエに告白したことになってしまうのだろうか。
そんなつもりはなかったはずなのに、ノエがにやにやとこちらを見ている。ああうん、そういうね。私の反応で遊んでいるんだとは分かるんだけどね。ちょっと今は本気でやめて欲しい。大事な話をしていたところだし、何よりさっき自分の気持ちに気付いたばかりでそんな余裕ないんだってば!
「何、俺弄ばれたの? えー、じゃあやっぱ頑張るのやめようかな」
「……ずるいよ」
「ずるいのはほたるだよ。こんなしっかり顔掴まれてたら真面目に聞くしかないじゃない。痛いとこ突かれて俺結構聞くのしんどかったんだけど」
「ッ……ご、ごめん離すの忘れてた!」
「離さなくていいよ」
慌てて離れようとした私に、ノエが手を伸ばす。
私がしたのと同じように、両頬を少し温かくなった手で包んで、自分の方に引き寄せて。
額に、頬に、優しい感触。最後に唇同士をうんと近付けて、けれど触れる直前で動きを止めた。
「――続きは愛の告白って認めてくれたらね」
近すぎてなんとか見える目元もぼやけているのに、意地の悪い笑みを浮かべているのが分かって。
「ッ……認めません!」
私が大声を張り上げて顔を引き離せば、ノエはおかしそうに笑った。
その言葉に含まれた想いから耳を塞ぐように、私は咄嗟に「でも……!」と声を上げた。
「あんな状況じゃ、クラトス達に何もできなくてもしょうがないじゃん……!」
クラトス達、というのが誰のことまでを指すのか分からないけれど。
でも私がスヴァインに操られたせいでノエが身動きを取れなくなったのは事実だ。それなのにノエは表情一つ変えず、それに何の意味もないと言わんばかりに小さく首を振った。
「ほたるを助けることは命令されてないし、そもそもアイリスにとって今のところほたるは割とどうでもいいと思う。序列が高いから俺の手伝いにすることには納得はしてくれても、他を差し置いてまで必要だとは考えてくれないよ。だからほたると逃げることを優先した俺の行動を命令違反と取られる可能性もある」
あの状況では私を捨て置くべきだった、というのがアイリスの考え方なのだろう。それなのにノエが私を優先してしまったから、彼の立場が危うくなっている――ノエの言っていることは理解できたけれど、それを受け入れるわけにはいかない。
何かないのだろうか。ノエの言葉を否定する何かは。
そう思って必死に思考を巡らせれば、一つあることに気が付いた。
「命令違反って言うけど、ノエはアイリスの命令には逆らえないでしょ? なら私を逃せたってことは命令違反じゃないってことじゃないの……!?」
吸血鬼は上位の吸血鬼の洗脳には抗えない。全ての吸血鬼の親であるアイリスの命令にノエが逆らえるはずがない。そう期待して問いかけたけれど、ノエの表情は変わらなかった。
「俺は人間の頃の同胞殺しを買われてさっき言った役割を命じられたんだよ。敵に媚売って騙して、味方ごとってやり方のね。それをやるためには、誰かを騙すために命令に背いているように見える行動も取らなきゃならないことがある――だから違反できる。俺を殺すのはアイリスの命令じゃない、アイリス自身だよ」
「命令は口約束みたいなものってこと……?」
「そういうこと」
つまり最終的にノエが命令に背いたかどうか判断するのはアイリスということなのだろう。だからノエはいくらでも命令以外の行動ができる。クラトスの処分を後回しにして私と逃げることができたのも、命令に背いてはいけないと催眠をかけられているわけじゃないからだ。
「これからどうするの……?」
アイリスがノエを裏切り者と判断すれば、ノエは殺されてしまうかもしれない。
そうならないためには、アイリスに命令違反をしたわけではないと納得してもらわなければならない。だからきっと、ノエは改めてクラトス達に手を下す必要がある――そこまで考えると、自然と眉間に力が入った。
ノエには誰も殺して欲しくないけれど、そうしないとノエが殺されてしまうかもしれないと分かったから。
「正直、クラトス達はどうしようか迷ってる。やり方はともかく、提起している問題自体は真っ当だしな。もうスヴァインを信じてないならこれからの行動が変わるかもしれないし」
「でも、それじゃあノエが……!」
「そうねー……。アイリスも許すとは思えないけどさ、なんか今更殺してもっていう気がしちゃうっていうか。今もクラトスがほたるにしたことは許せないとは思うけど、それとこれとは別だし。なんていうか、勢いが削がれた感じ?」
いつの間にか普段の調子に戻っていたノエは笑って言ったけれど、私は同じようにする気にはなれなかった。
確かにクラトス達に何もしないというノエの考えは歓迎できる。だけどそれを選んでしまえば、ノエが――。
「そんな理由で……」
「勢いは大事だよ。どんな理由であれ、人の命を奪うのは凄く……疲れる」
そう言って、ノエは大きな溜息を吐いた。
「ま、クラトス達はともかくスヴァインに関しては何もしないっていうのは無理なんだけど。こっちは仮に逃げたところでどうせいつかは絶対に見つかるから、嫌でも何かしないとな。何せ向こうから見れば俺は相当な子供だろうし、ほたるもいる」
「……私?」
まだクラトス達のことを考えたかったけれど、急に自分の名前を出されれば思考を中断するしかない。
私が顔を上げると、ノエは難しそうな顔をしながら口を開いた。
「スヴァインに近付きすぎたら、多分ほたるはまたスヴァインに操られると思うんだよな。それらしいきっかけもなしにいきなり操れるとか正直意味分かんないけど、まァ事前に仕込まれてたならどうにかなるんだろうって納得できなくもない。つーかだとしても完全に乗っ取れるだなんて聞いたことねーわ。これだからアイリスに近い年寄り連中は怖いんだよ、他にも何か隠してんじゃねーの?」
そう気だるそうに声を上げながらノエは後ろに倒れ込んだ。そこには私の脚があって急な重さにびっくりしたけれど、加減はしてくれていたようで痛みはない。
膝枕のような形でだらんと仰向けになったノエに少し緊張して、私はそれを隠すために急いで質問を探した。
「で、でもそれを言ったら……ノエだってアイリスに操られちゃうかもってことじゃない?」
「そうそれ。どうしよう」
顰めっ面のノエが顔を横に向けて私を見上げる。久々にゆっくりとしながらこんな近い距離に来られたせいで、場違いにも胸がきゅうとなった。
話していることは命のかかった大事なことのはずなのに、この時間がもっと続いて欲しいとも思ってしまう。少し前までノエのことが信じられなかったのに、聞きたかったことを話してくれたという事実がそれを解きほぐしていく。クラトスの元でノエの近くがいいと実感してしまったことも影響しているんだろう。
それに今までよりも、なんだかノエが気を許してくれているような気がする。しゃきっとしていないのは前からだけど、それとは違ってこんなふうに気を抜いてくれる姿がとても――。
「……おおう」
「どうした急に」
「い、いや別に……!」
とても愛おしい――数秒前の自分の思考に顔がカッと熱くなる。なんだそれどういうことだ。もしかしてそういうことか。
これは流石にお父さんに向けるような感情じゃないと嫌でも気付いてしまって、心臓がバクバクと大きな音を立て始めた。ちょっと待ってこれノエに聞こえてない? 自分の身体の中の音だから聞こえるのか、それとも吸血鬼の耳だから聞こえるのか。後者だったら絶対ノエにも聞こえるじゃないか――慌てて顔は手で隠したけれど、それだけじゃあ心臓の音までは誤魔化せない。
どうにかノエの気を逸らさねばと、私は慌てて「きゅ、吸血鬼ってさ」と上ずった声を上げた。
「吸血鬼って、やめられないの?」
「それができたらとっくにやめてます」
思いがけない答えに、あんなにもうるさかった心臓がすっと静かになった。
だってそれができたらやめているということは、ノエはやめたいと思っているってことなんじゃないか。ノエは吸血鬼になったことを、後悔しているってことなんじゃないか。
「……ノエは人間に戻りたいの?」
聞きながら、さっき感じたものが頭の中に蘇る。
『役割を果たせない奴は、アイリスにとって価値がないんだよ』
ノエのこの言葉は、自分に価値がないことを望んでいるように聞こえてしまって。価値がなくなれば殺されてしまうかもしれないと自分で言っていたのに、それを望むということは、ノエが本当に望んでいるのは――。
恐る恐る視線をずらせば、ノエが顔を天井に向けてどこか遠くを見ているような目をしているのが見えた。
「人間か……どうだかな。別に今とやってることは変わらないし、人間の頃は幸せだったとかっていうのは思ってないけど。――でも、ちょっと疲れたかもしれないな」
さっき浮かんだ考えを裏付けるような言葉に、胸がぎゅっと掴まれた気がした。
「そんなこと言わないで……!」
気付けば私は身を乗り出して、仰向けに寝転ぶノエの胸にしがみついていた。いつもよりも温かく感じるのは、私の体温も彼と近くなったからだろうか。
「ノエが……ノエがたくさん辛かったんだろうなっていうのは分かる。だけど私はノエがいたから今生きてるんだよ。少なくともあの時ノエがスヴァインから私を守ってくれたから、私はこうしてノエと話せてるんだよ……」
胸に近いせいで、ノエの心臓の音が聞こえる。最初は驚いたように早かったけれど、すぐにそれはゆっくりとしたリズムになっていった。
「さっき言っただろ? 俺が会いに行かなかったら、ほたるはまだ人間として母さんと暮らせていたかもしれないって。そんな俺に恩なんて感じちゃいけないよ」
「……でもそれは、本当の私じゃない。ノエだって言ってたじゃん、スヴァインの洗脳が解けて私が少し変わったって。それも否定しなきゃいけないの……?」
私の言葉に、ノエの呼吸が一瞬止まった。彼の胸に顔を伏せたままだからどんな顔をしているのかは見えないけれど、きっと眉間に力が入っているんだろうなと思う。時々私が聞き分けない時に見せる、少し困ったような顔。静かに吐き出された息は、ノエが言葉を見つけた時の合図。
「自覚がなかったんなら、苦しい想いなんてせずに生きていけた方が――」
「本気で言ってる?」
思わず顔を上げてノエの顔を睨むように覗き込む。驚いたように見開かれた青い瞳に映った私は、怒っているはずなのに泣きそうな顔をしていた。
「確かに苦しいよ。お母さんが殺されて、本当のお父さんだって多分ずっと前に殺されてた。苦しいし悲しいし凄く腹が立つ。こういうのが憎しみって言うんだって思ったくらい、スヴァインのことは許せない。だけど何も知らないままだったら、私は今もスヴァインをお父さんだと疑いもしなかったと思う。他でもないスヴァインを、お父さんとして慕い続けてたんだと思う。ねえ、そんなのが本当に苦しい気持ちになるよりマシなことなの?」
「それは……」
「それにね、やっぱり私、吸血鬼になってよかったって思ってる。人間のままだったら、いつ死ぬかただ怖がりながら待つだけだった。自分には守る価値なんてないって思いながら、良くしてくれる人達に申し訳なさしか感じなかったと思う。私が吸血鬼になったことでノエを悲しませたのはごめんって思うし自分でもちょっと後悔したけど、でも今はどうやったらノエと生きられるか考えてる。自分なんて死んでもいいと思ってたけど、今はノエともっと一緒にいるにはどうしたらいいだろうって考えてるの! そういうことを、考えられるようになったの!!」
そこまで言って、ノエを睨みつける。ノエは相変わらず驚いたような顔をしていたけれど、視線が絡むと逃げるように顔ごと目を逸らした。
それを見て、咄嗟に私の両手が伸びる。その手でノエの頬を掴んで、顔を自分の方へと向けた。
「ちゃんと聞け馬鹿!」
「ばッ……!?」
「私はノエと一緒に生きていたいの! それなのにそう思わせてくれたノエが、生きることに疲れただなんて言わないで……! 私にできることならなんでもするから、どうやったら楽しく生きていけるか一緒に考えてよ……!」
怒りすぎたのか目元が熱くなる。だけど絶対に泣きたくはなくて、私は目にうんと力を込めた。
睨みつけたノエは、私が言い切った後から険しい顔をしている。やっぱり私なんかの言葉じゃノエの気持ちは変わらないのだろうか。もう疲れたという彼の心は動かせないのだろうか。
沈黙が、酷く長く感じる。
十秒、二十秒――いや、それ以上の感覚。けれど実際はほんの数秒。ノエの深い呼吸、二回分。
「馬鹿はないでしょ」
そう言って、ノエは破顔した。いつもどおり力の入っていない感じなのに、ちょっと違う。困ったように、けれどどこか嬉しそうに。
「っていうかこんな食い気味で愛の告白されたの、四百年も生きてて初めてなんだけど」
「愛……!? ち、ちがッ……そういうのじゃなくて……!」
「違うの? ほたるが楽しませてくれるなら、俺ももうひと頑張りしようかなって思ったとこなのに」
「えっ……いや、でもっ……それは、嬉しいけど……」
どうしよう。折角頑張ってくれる気になったのに、これを応援すると私はノエに告白したことになってしまうのだろうか。
そんなつもりはなかったはずなのに、ノエがにやにやとこちらを見ている。ああうん、そういうね。私の反応で遊んでいるんだとは分かるんだけどね。ちょっと今は本気でやめて欲しい。大事な話をしていたところだし、何よりさっき自分の気持ちに気付いたばかりでそんな余裕ないんだってば!
「何、俺弄ばれたの? えー、じゃあやっぱ頑張るのやめようかな」
「……ずるいよ」
「ずるいのはほたるだよ。こんなしっかり顔掴まれてたら真面目に聞くしかないじゃない。痛いとこ突かれて俺結構聞くのしんどかったんだけど」
「ッ……ご、ごめん離すの忘れてた!」
「離さなくていいよ」
慌てて離れようとした私に、ノエが手を伸ばす。
私がしたのと同じように、両頬を少し温かくなった手で包んで、自分の方に引き寄せて。
額に、頬に、優しい感触。最後に唇同士をうんと近付けて、けれど触れる直前で動きを止めた。
「――続きは愛の告白って認めてくれたらね」
近すぎてなんとか見える目元もぼやけているのに、意地の悪い笑みを浮かべているのが分かって。
「ッ……認めません!」
私が大声を張り上げて顔を引き離せば、ノエはおかしそうに笑った。
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