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第八章

第53話 ……なんでもない

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『――ノエが未熟だということだ』

 丸みを帯びた声がクラトスの背後から響く。
 近付いてくる足音。やがて暗闇の中から姿を現したのは、見たことのある人影で。

「エルシー、さん……?」

 どうして? 死んだはずなんじゃ……。
 わけが分からなくて視線をノエに戻すと、へらっとした笑顔を返される。え、何これどういうこと。ノエはその顔何にでも使いすぎだから分からない。
 私には何が起こっているか分からないのに、それでもクラトスには分かったらしい。「……なるほど、そういうことか」と言いながら、エルシーさんを睨みつけた。

「何のために死の偽装を?」

 クラトスの問いで、やっと私にも状況が分かりそう。死の偽装、ということは死んだというのは嘘だったのだ。
 だからここにいるエルシーさんは間違いなく生きていて、生きているってことはノエはエルシーさんを殺していない。ノエのへらり顔はきっとこれを知っていたということだろう。

 ……ああ、そうか。私完全にクラトスに乗せられたんだ。クラトスも騙されていたのかもしれないけれど、彼の憶測でノエがエルシーさんを殺したって話をされて、私はそれを否定しきれなかった。吸血鬼になった理由がそれだけではないとしても、一因になったのは事実だ。自分が凄く情けない。
 そんな私の気分の落ち込みを切り裂くように、「何のため、ね」と、エルシーさんの凛とした声が辺りに響く。

「ほたるを攫った奴らをあぶり出すためだ。ソロモン達の残党の仕業であればアレサ様の子である私の死で慌てるだろうし、お前が関与していれば、スヴァインに狙われているのは自分達ではないと油断するだろうと思ってな。案の定、お前はこんな辺境に人を集めた。私なんかの命でも役に立ってよかったよ」

 そこまで言うと、エルシーさんはノエの方へと視線を向けた。

「まあ、ノエは全て知っていたくせにクラトスに騙されかけたようだがな」
「騙されてないっつーの。もうエルシーが見つかったかと思っただけだって」
「そう思わされている時点で騙されたようなものだ。少しは可愛げが出てきたじゃないか」
「……クソバ――」
「何か?」
「……なんでもない」

 凄い、ノエが負けた。気まずそうに顔を引き攣らせるノエはどこか子供っぽくて珍しい。さっきクラトスはノエ達が親友だって言っていたけれど、あれは私を騙すための嘘ではなくて事実だったのだろう。
 ただ、このやり取りは今じゃなかったんじゃないかな。エルシーさんは普通に話していたから、突っかかったノエが悪いのだけど。
 全く、本当に空気が読めない男だ。あとエルシーさんみたいに綺麗なお姉さんにクソババアだなんて言っちゃ駄目だよ。言い切る前に睨まれて黙ったけれど。

 エルシーさんが生きていた安心とか、ノエの空気を読めない情けないところか、そういうのが混ざってなんだか気分が軽くなってきた。私が吸血鬼になってしまったことは覆せないし、状況をいまいち理解しきれていないというのは変わらないのだけれど、それでもここに連れてこられた時に感じていたような不安はない。
 ああ、やっぱりノエの近くがいいや――そう思うと頬が緩むのを感じた。

 けれど暢気に考えているのは私だけのようで、クラトスのぴりぴりとした空気は変わらなかった。それどころかさっきまでよりも少し不機嫌さが増した気がする。

「やはり私をノストノクスから追い出したのはお前達の企みどおりか。大方その間に私のことを調べようとしたんだろう?」
「そうだ。だが先にミスを犯したのはお前の方だろう、クラトス。あの日お前の従属種がほたるを襲って死んでいなければ、ノエがあの地区に行くことはなかった」

 エルシーさんの言葉にクラトスが自嘲気味に笑う。
 私が以前家の近くで襲われた時の話をしているのだということはどうにか分かったけれど、細かいところがよく分からないから口を出すことができない。ノエに聞こうにも、彼の視線もクラトスを捉えていた。

「よっぽど焦ってたんすよね? スヴァインと連絡が取れないから」

 スヴァインと連絡を……? 咄嗟に聞き返したくなったけれど、邪魔になるのが分かるから慌てて唇にきゅっと力を入れた。

「ほう、そこまで調べていたか」

 クラトスは感心したようにノエに言うと、「未だに同胞狩りをしているという噂は本当だったか」と見下すように笑う。

「言い方が悪いなー。裏切りの調査って言ってくださいよ」
「だが弁明の機会も与えず影で裏切り者を処分するのがお前の仕事だろう? エルシーは知っていたのか?」
「……ラミア様の決められたことなら口出しはしないさ」

 裏切り者の処分――クラトスの言葉が頭に引っかかる。ノエとエルシーさんが否定しないということは事実なのだろう。弁明の機会も与えず、ということは裁判にもかけないことを意味しているのだろうか。
 エルシーさんはノストノクスを敵と見做す人達も同胞だからなるべく傷付けたくないと言っていたけれど、ラミア様には反論しないってことはそれを受け入れているということ。そしてノエは……ノエが、裏切り者を処分している。処分というのは、やっぱり殺してしまうということだろうか。……ソロモン達のように。

 なんでノエがそんなことしなきゃいけないんだろう。なんでそんなことを、ノエにさせるんだろう。

「なんで……」
「ほたる?」

 疑問が口に出ていたみたいで、ノエが不思議そうに私の方を見る。今彼らは大事な話をしているって分かっているのに。今口にすべきことじゃないって分かるのに。

「なんでノエが仲間を殺さなきゃいけないの……?」

 私が言うと、ノエは驚いたように目を丸めた。しかしすぐに少し困ったように眉根を寄せて、「そういう仕事なんだよ」と苦笑いを浮かべる。

「そういう仕事って何。仲間を殺すのが仕事なの? 法律があるんでしょ? 死刑ならともかく裁判もしないで殺しちゃうのはおかしいよ! しかもなんでその仕事をノエがしなきゃいけないの!?」
「そう、おかしいんだ」

 私の疑問に答えたのはノエではなかった。咄嗟に声のした方を見れば、私のことをじっと見ていたクラトスと目が合った。

「今のノクステルナはおかしい。特権を持つノストノクスの意に沿わない者は弁明すら許されず影で殺されていく。ノストノクスはそれとは無関係という立場を取ってはいるが、本当に関係がないのかは怪しいところだ。何せそれを実行しているのがノストノクスに在籍するノエだし、エルシーも知った上で黙認しているような口振りだっただろう? それなのに誰も異を唱えられないのは証拠がないせいもあるが、それ以上に序列の影響が大きい」
「序列……?」
「ラーシュ様とオッド様が生きておられた頃は赤軍と青軍、そしてノストノクス、この三つの力が均衡していた。だが彼らの死によって、戦争に参加していた者達全てをノストノクスが調停の名目で自らの管理下に収めてしまった。序列の高い者達をノストノクスの中枢に招き入れる形でな」

 クラトスは本当のことを言っているのだろうか――不安に思ってノエやエルシーさんの顔を見てみれば、難しい表情をしているのが分かった。訂正しようとしないということは、まだクラトスは事実しか述べていないのだろう。

「結果としてノストノクスに権力と序列最上位の者達が集中した。恥ずかしながら私もその一人だが……だからこそ、この状況に責任があると思っている」

 クラトスの言い分は全うに思えた。ノストノクスの在り方が正しくないのであれば、彼のようにそれを正そうとする存在は必要だろうから。
 なら、そんなクラトスを調査していたノエ達は悪者なんだろうか。正しいのはクラトスで、ノエ達が間違っているんだろうか。

「だからってやり方ってもんがあるでしょうよ」

 それまで静かに聞いていたノエが口を開く。

「私が間違っていると?」
「罪人であるスヴァインを担ぐのが正しいやり方なんすか?」

 ノエの言葉に思わず自分の耳を疑った。だってスヴァインを担ぐということは、彼を味方につけようということだから。
 ああ、だからさっきスヴァインと連絡が取れないって話をしていたのか。話の内容は少しずつ分かってきたのに、だからと言って受け入れられるかは別で。

 それに、分からない。スヴァインを味方につけることを批判するような口振りのノエがどういう立場なのか。何故なら彼は……スヴァインの子かもしれないから。
 ノエが自分の口でそう言ったわけじゃない。私も、完全に信じているわけじゃない。なのに少しだけ不安になるのは、それによって過去のノエの行動の意味が変わってしまうかもしれないから。
 近くにいてくれるだけでこんなに安心するのに、それすら否定されてしまうかもしれないから。

 ああもう、駄目だ。今はそんなことを考えている場合じゃないのに。それは後でノエに直接聞くべきことだ――小さく首を振ってそれまでの思考を追い出すと、私はクラトスの方へと目を向けた。

「効果的であることは確かだ。今のノクステルナに彼を超える序列の者はいない。ノストノクスがいくら序列最上位の者を集めたところで、本物のアイリスの子であるあの方がその気になれば全て無駄になる」
「だからずっとほたるの家の近くを張ってたってわけか。アンタ、自分の配下をほたるんちの近くに送ったのは一度や二度じゃないんだろ?」
「……そうか、お前は知っているのか」

 クラトスが笑う。私はなんだか嫌な予感がして、彼の言葉を待つしかなかった。

「神納木ほたるの家はスヴァイン様の隠れ家の一つ――我らとあの方の密会場所だ。まあ、ここ数年はその会合もなかなか実現しなかったがな。しかも我々にアイリス様だと思わせていた女がただの人間で……正直失望したよ。あの方はアイリス様と穏やかな日々を送るために外界に去ったと思っていたのに、たかが人間の女にうつつを抜かしていたなんてな」
「待って、どういうこと? 私の家が密会場所って……アイリスが人間だったって……」

 だからスヴァインは私のお父さんのふりをしていたの? 頭に浮かんだ考えに声が震える。

「君が知らないのも無理はない。我々が顔を合わせていたのは深夜だ、子どもの君はいつも眠っていたし、恐らくスヴァイン様が起きてこないよう眠らせていたはずだ」
「なら人間の女っていうのは……」
「君の母親だ。実際はアイリス様とは全く関係のない人間だったがな」

 心臓がばくばく鳴っている。スヴァインが私の近くにいた理由が分かった気がしたけれど、自分がそんなに前からスヴァイン以外の吸血鬼と関係があっただなんて知らされて冷静でいられるはずがない。

「私はな、神納木ほたる。今言ったとおりスヴァイン様――いや、スヴァインには失望しているんだ。ノクステルナの現状を憂う同志だと信じていたのに、実際は入れ込んだ女と暮らしていたいだけの小物だったとな。だが君は違う、君は本気でノストノクスの在り方に疑問を持っている。君なら、我々の考えに賛同してくれると思っているんだ」
「え……」

 何を言われているか分からない。指先がどんどん冷えて、かじかむような錯覚さえ覚える。

「なるほどな、それでほたるを吸血鬼にしたのか。スヴァインの代わりにしようとして」

 ノエが言うと、クラトスは深い笑みを浮かべた。

「そうだ。スヴァインはもはやノクステルナに関与する気はないだろう。ならばこれからはその子――神納木ほたるが我らと共にあるべきだ」
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