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第七章
第42話 あの時必要なことだったから
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ノエが渡してくれたパンは、ずっしりとした重みのある黒っぽいパンだった。
味は正直微妙。なんか酸っぱいしパサパサする。これ腐ってないかと思ったけれど、ノエがそんなものを渡すはずはないし、そういう嫌な酸っぱさでもないからちゃんと食べる。
だってノエの言うとおりお腹は物凄く空いているから。あまり物を食べたい気分ではなかったけれど、たくさん食べなきゃいけない身体だから食べられる時には食べる。さっきまで死ぬことを受け入れていたのに変だとは思うものの、今は生きているんだから仕方がない。
ただ、家主の吸血鬼が急に帰ってこないかはかなり不安だった。
ノエが私を残して浴室に行ったということは大丈夫なのだろうけれど、不法侵入している身としてはびくびくしてしまう。襲われることも勿論怖いけれど、それ以上に意図せず相手を死なせてしまう方がよっぽど怖くて。
だからテーブルと椅子があるのに、私は部屋の隅に縮こまってパンを齧っていた。家主はズボラな人なのか、床は結構埃っぽくて汚かったけれど致し方ない。
時折聞こえる水の音で自分を励ましながら、ノエが戻ってくるのを待った。
「……馬鹿みたい」
ノエに対して不安を抱いているのに、ノエが戻ってきたら安心だとも思っている。さっき考えたことはあくまで私の願望だ。ノエに裏切って欲しくないから、彼はそんなことしていないと自分に言い聞かせて。
ノエは仕事で私の傍にいてくれるんだ。だったら私も、そう思って接しなきゃ。
何度も何度も心の中で呟いて予防線を張る。これ以上不安にならなくていいように。
「――……なんでそんな隅っこにいるの?」
ノエは浴室から戻ってくるなり私を見て首を捻った。服装は似たようなものがあったのか、雰囲気はあまり変わっていない。けれど血まみれだった身体はすっかり綺麗になっていて、改めて見た顔色も檻の中にいた時よりずっといい。
安心で思わず緩んでしまいそうになる顔に力を入れて、「だっていつ帰ってくるか分からないじゃん」と私はノエに言葉を返した。
「しばらく帰ってこないと思うよ? この家だってちょっと空けてた感じあるし」
「本当に……?」
「本当。だって食べ物も黒パンだけって、どう考えても日持ちしないのは処分してから出てるでしょ」
このパンは黒パンというのか、というのは置いといて。
床が汚かったのはそういうことか。
「ほたるも着替えな。その間に服洗っといてやるから」
「お風呂入っちゃ駄目?」
「こういう家は火で沸かさないとお湯出ないんだよ。準備するのに時間かかるけど待つ?」
「……ノエは水風呂だったの?」
「そりゃそうよ」
いや、そりゃそうよはおかしいと思う。ノクステルナは太陽が上らない。だから気温はそんなに高くなくて、服をちゃんと着ていれば寒くはないけれど、流石に水風呂は絶対に寒い。
慌ててノエに近寄ってその身体に触れれば、いつもよりももっと冷たくて私は顔を顰めた。
「ちゃんとあったまらないと駄目だよ。さっきまであんな死にかけだったんだから」
「平気平気。ほたるの血ももらったし、人間だった頃だって基本水風呂だったし」
「でも……」
「それに濡れた服乾かす部屋にストーブがあんのよ。髪乾かすついでにそっちで温まれるから」
ノエが言うには、ノクステルナでは外に洗濯物を干したところであまり乾かないらしい。だから大抵どの家にも洗濯物を干す部屋があって、そこには薪ストーブがある。居住用の部屋にもストーブや暖炉があるけれど、年中それを使うのは暑いから分けられているそうだ。
「ならそっちに早く行こう。冷えちゃうよ」
「別に平気だけど――」
「いいから!」
私が背中を押すと、ノエはほんの少し笑って歩き出す。珍しく軽口を言わないノエを部屋に押し込んで、私は着替えるために浴室に向かった。
§ § §
着替えるだけで済まそうと思っていたけれど、結局私もノエと同じように水で身体を洗った。単に洗わないと気持ち悪いというのもあったけれど、ノエは寒い思いをしているのに私はそれを嫌がるってなんだかなと思ってしまって。ノエはお湯を沸かそうかと言ってくれたけれど、それこそ本末転倒になってしまうので断った。
けれどやっぱり水だけだと寒すぎる。水浴びで冷え切った身体をストーブの近くで温めながら、私はぼんやりと覗き窓から中の火を見つめていた。
洗っている服が乾くまではここで休むことになったのだけれど、やることがなくなると途端に気まずくなる。さっきまではノエと普通に話せたのに、少し黙ったらまた色々考えてしまって、今までどうやって会話をしていたか分からなくなってしまうのだ。
「宿に置きっぱなしだった荷物は諦めるしかないな」
不意にノエが口を開く。濡れていた髪は私よりもだいぶ短いからか、もう完全に乾いていた。
「俺らのこと調べるために多分漁られてるし。戻ったら残党に見つかるかも」
「……これからどうするの?」
どうせ一日で帰ってくるからと、外界に行く時に荷物は持っていかなかった。
だから荷物が駄目なのは仕方がない。折角ペイズリーさんが用意してくれた服が戻ってこないのは惜しいけれど、あの中には他に私にとって思い入れのあるものは入っていなかったから諦めも付く。
だけどラミア様にもらった地図はあそこに入っていて、それがない今はどうしたらいいか思い浮かばない。まあ手元に地図があったとしても、もう役に立つとも思えなかったけれど。
「地図に印がついてた場所は避けようか。異常に気付いた奴らが俺らを追ってくるかもしれないから」
ちゃんと覚えてるんだ、と思ったけれど、追われるという言葉に気持ちが暗くなった。
「……ノエがしたことは、やっぱり悪いこと?」
私が問うと、ノエはゆっくりと視線を落とした。
「吸血鬼だって元は人間だよ。人が人を殺していい明確な理由がないように、吸血鬼が吸血鬼を殺していい理由もないと思う」
「じゃあなんで、あんなこと……」
「あの時必要なことだったから」
そう言ってこちらを見たノエの目に後悔は感じられなかった。私はなんだかそれが無性にやるせなくて、慌てて視線を逸らす。
聞きたいのはそんな答えじゃない。そんな上辺の、感情を持たない答えじゃない。私が知りたいのは、どうしてノエは仲間を殺せたのか――彼の、その時の気持ちなのに。
「ほたるが俺のこと怖いとか、信用できないと思っても仕方がないよ。ただ俺はほたるを死なせないように動くから、俺自身が信用できなくてもそこだけは信じておいて欲しい」
「……それがノエの仕事だから?」
「ああ。それにエルシーの指示だしな。エルシーのことは信用できるだろ?」
「……うん」
ノエはやっぱり、私がどう思っているか気付いているんだ。だからこうやって私を安心させようとしてくれる。そこに自分を擁護するような発言が見当たらないのが本当にノエらしくて、それがどういうわけだか悔しかった。
「……ノエはさ」
「ん?」
「約束っていうか、私が言ったことを……守ってくれようとしたの?」
「約束?」
「ほら、前に言ったじゃん。『裏切る前に言ってね』って。血を飲むのも、ちゃんと言ってたなって思って……」
私の言葉に、ノエは考えるようにして黙り込む。盗み見た表情からは何を考えているかは分からなかったけれど、小さく「そりゃあね」と返ってきて、無意識のうちに強張っていたらしい身体から力が抜けるのが分かった。
「でもさ、これってやっぱどうなの? 俺はこう、罪悪感みたいなのが多少なりとも減るわけよ。でもほたるからしたら結局裏切られてるのと一緒じゃん。しかも俺が言ったことに気付いたからほたるは余計にあーだこーだ考えちゃってるわけでしょ? だったら何も言わない方がほたるは楽――」
「いいの」
急に言い訳するように矢継ぎ早に話しだしたノエがおかしい。自分のことは擁護しないくせに、相手のことになった途端変に気を回して。
「ノエの言う通りだと思う。正直ノエのしたことも、ノエ自身のことも怖い。昨日までと同じようには思えない。だったら怖がって、もっと距離を取るのが楽なのかもしれない」
私の声が小さくなるのは、独り言に近いからだろう。
「でも私はちゃんと考えたい。ノエには聞きたいことがたくさんあるけど、それを聞く前にもっと自分で考えてから聞きたい」
それは結論を先延ばしにしているだけなのかもしれないけれど。
ノエのことを信じ続けることも、嫌うこともできない今の私じゃあ、きっと何を聞いても悔いのない判断はできないと思うから。
「起こった出来事に流されるのは簡単だけど、それだとどんどんそこから離されちゃうじゃん。なんていうかね、それは嫌なの。うまく言葉にできないけど、何を信じるかはちゃんと自分で選びたいなって思う……わけです」
私が言い切ると、少しだけ目を見開いて話を聞いていたノエがおかしそうに表情を崩した。
「なんで最後自信ないの」
仕方ないなと言いたげな表情で笑いながら、肩を揺らして。
見慣れているはずのノエの笑顔なのに、いつもよりも少し子供っぽく笑うその顔を見ていたら、私は自分の頬に熱が集まっていくのが分かった。
味は正直微妙。なんか酸っぱいしパサパサする。これ腐ってないかと思ったけれど、ノエがそんなものを渡すはずはないし、そういう嫌な酸っぱさでもないからちゃんと食べる。
だってノエの言うとおりお腹は物凄く空いているから。あまり物を食べたい気分ではなかったけれど、たくさん食べなきゃいけない身体だから食べられる時には食べる。さっきまで死ぬことを受け入れていたのに変だとは思うものの、今は生きているんだから仕方がない。
ただ、家主の吸血鬼が急に帰ってこないかはかなり不安だった。
ノエが私を残して浴室に行ったということは大丈夫なのだろうけれど、不法侵入している身としてはびくびくしてしまう。襲われることも勿論怖いけれど、それ以上に意図せず相手を死なせてしまう方がよっぽど怖くて。
だからテーブルと椅子があるのに、私は部屋の隅に縮こまってパンを齧っていた。家主はズボラな人なのか、床は結構埃っぽくて汚かったけれど致し方ない。
時折聞こえる水の音で自分を励ましながら、ノエが戻ってくるのを待った。
「……馬鹿みたい」
ノエに対して不安を抱いているのに、ノエが戻ってきたら安心だとも思っている。さっき考えたことはあくまで私の願望だ。ノエに裏切って欲しくないから、彼はそんなことしていないと自分に言い聞かせて。
ノエは仕事で私の傍にいてくれるんだ。だったら私も、そう思って接しなきゃ。
何度も何度も心の中で呟いて予防線を張る。これ以上不安にならなくていいように。
「――……なんでそんな隅っこにいるの?」
ノエは浴室から戻ってくるなり私を見て首を捻った。服装は似たようなものがあったのか、雰囲気はあまり変わっていない。けれど血まみれだった身体はすっかり綺麗になっていて、改めて見た顔色も檻の中にいた時よりずっといい。
安心で思わず緩んでしまいそうになる顔に力を入れて、「だっていつ帰ってくるか分からないじゃん」と私はノエに言葉を返した。
「しばらく帰ってこないと思うよ? この家だってちょっと空けてた感じあるし」
「本当に……?」
「本当。だって食べ物も黒パンだけって、どう考えても日持ちしないのは処分してから出てるでしょ」
このパンは黒パンというのか、というのは置いといて。
床が汚かったのはそういうことか。
「ほたるも着替えな。その間に服洗っといてやるから」
「お風呂入っちゃ駄目?」
「こういう家は火で沸かさないとお湯出ないんだよ。準備するのに時間かかるけど待つ?」
「……ノエは水風呂だったの?」
「そりゃそうよ」
いや、そりゃそうよはおかしいと思う。ノクステルナは太陽が上らない。だから気温はそんなに高くなくて、服をちゃんと着ていれば寒くはないけれど、流石に水風呂は絶対に寒い。
慌ててノエに近寄ってその身体に触れれば、いつもよりももっと冷たくて私は顔を顰めた。
「ちゃんとあったまらないと駄目だよ。さっきまであんな死にかけだったんだから」
「平気平気。ほたるの血ももらったし、人間だった頃だって基本水風呂だったし」
「でも……」
「それに濡れた服乾かす部屋にストーブがあんのよ。髪乾かすついでにそっちで温まれるから」
ノエが言うには、ノクステルナでは外に洗濯物を干したところであまり乾かないらしい。だから大抵どの家にも洗濯物を干す部屋があって、そこには薪ストーブがある。居住用の部屋にもストーブや暖炉があるけれど、年中それを使うのは暑いから分けられているそうだ。
「ならそっちに早く行こう。冷えちゃうよ」
「別に平気だけど――」
「いいから!」
私が背中を押すと、ノエはほんの少し笑って歩き出す。珍しく軽口を言わないノエを部屋に押し込んで、私は着替えるために浴室に向かった。
§ § §
着替えるだけで済まそうと思っていたけれど、結局私もノエと同じように水で身体を洗った。単に洗わないと気持ち悪いというのもあったけれど、ノエは寒い思いをしているのに私はそれを嫌がるってなんだかなと思ってしまって。ノエはお湯を沸かそうかと言ってくれたけれど、それこそ本末転倒になってしまうので断った。
けれどやっぱり水だけだと寒すぎる。水浴びで冷え切った身体をストーブの近くで温めながら、私はぼんやりと覗き窓から中の火を見つめていた。
洗っている服が乾くまではここで休むことになったのだけれど、やることがなくなると途端に気まずくなる。さっきまではノエと普通に話せたのに、少し黙ったらまた色々考えてしまって、今までどうやって会話をしていたか分からなくなってしまうのだ。
「宿に置きっぱなしだった荷物は諦めるしかないな」
不意にノエが口を開く。濡れていた髪は私よりもだいぶ短いからか、もう完全に乾いていた。
「俺らのこと調べるために多分漁られてるし。戻ったら残党に見つかるかも」
「……これからどうするの?」
どうせ一日で帰ってくるからと、外界に行く時に荷物は持っていかなかった。
だから荷物が駄目なのは仕方がない。折角ペイズリーさんが用意してくれた服が戻ってこないのは惜しいけれど、あの中には他に私にとって思い入れのあるものは入っていなかったから諦めも付く。
だけどラミア様にもらった地図はあそこに入っていて、それがない今はどうしたらいいか思い浮かばない。まあ手元に地図があったとしても、もう役に立つとも思えなかったけれど。
「地図に印がついてた場所は避けようか。異常に気付いた奴らが俺らを追ってくるかもしれないから」
ちゃんと覚えてるんだ、と思ったけれど、追われるという言葉に気持ちが暗くなった。
「……ノエがしたことは、やっぱり悪いこと?」
私が問うと、ノエはゆっくりと視線を落とした。
「吸血鬼だって元は人間だよ。人が人を殺していい明確な理由がないように、吸血鬼が吸血鬼を殺していい理由もないと思う」
「じゃあなんで、あんなこと……」
「あの時必要なことだったから」
そう言ってこちらを見たノエの目に後悔は感じられなかった。私はなんだかそれが無性にやるせなくて、慌てて視線を逸らす。
聞きたいのはそんな答えじゃない。そんな上辺の、感情を持たない答えじゃない。私が知りたいのは、どうしてノエは仲間を殺せたのか――彼の、その時の気持ちなのに。
「ほたるが俺のこと怖いとか、信用できないと思っても仕方がないよ。ただ俺はほたるを死なせないように動くから、俺自身が信用できなくてもそこだけは信じておいて欲しい」
「……それがノエの仕事だから?」
「ああ。それにエルシーの指示だしな。エルシーのことは信用できるだろ?」
「……うん」
ノエはやっぱり、私がどう思っているか気付いているんだ。だからこうやって私を安心させようとしてくれる。そこに自分を擁護するような発言が見当たらないのが本当にノエらしくて、それがどういうわけだか悔しかった。
「……ノエはさ」
「ん?」
「約束っていうか、私が言ったことを……守ってくれようとしたの?」
「約束?」
「ほら、前に言ったじゃん。『裏切る前に言ってね』って。血を飲むのも、ちゃんと言ってたなって思って……」
私の言葉に、ノエは考えるようにして黙り込む。盗み見た表情からは何を考えているかは分からなかったけれど、小さく「そりゃあね」と返ってきて、無意識のうちに強張っていたらしい身体から力が抜けるのが分かった。
「でもさ、これってやっぱどうなの? 俺はこう、罪悪感みたいなのが多少なりとも減るわけよ。でもほたるからしたら結局裏切られてるのと一緒じゃん。しかも俺が言ったことに気付いたからほたるは余計にあーだこーだ考えちゃってるわけでしょ? だったら何も言わない方がほたるは楽――」
「いいの」
急に言い訳するように矢継ぎ早に話しだしたノエがおかしい。自分のことは擁護しないくせに、相手のことになった途端変に気を回して。
「ノエの言う通りだと思う。正直ノエのしたことも、ノエ自身のことも怖い。昨日までと同じようには思えない。だったら怖がって、もっと距離を取るのが楽なのかもしれない」
私の声が小さくなるのは、独り言に近いからだろう。
「でも私はちゃんと考えたい。ノエには聞きたいことがたくさんあるけど、それを聞く前にもっと自分で考えてから聞きたい」
それは結論を先延ばしにしているだけなのかもしれないけれど。
ノエのことを信じ続けることも、嫌うこともできない今の私じゃあ、きっと何を聞いても悔いのない判断はできないと思うから。
「起こった出来事に流されるのは簡単だけど、それだとどんどんそこから離されちゃうじゃん。なんていうかね、それは嫌なの。うまく言葉にできないけど、何を信じるかはちゃんと自分で選びたいなって思う……わけです」
私が言い切ると、少しだけ目を見開いて話を聞いていたノエがおかしそうに表情を崩した。
「なんで最後自信ないの」
仕方ないなと言いたげな表情で笑いながら、肩を揺らして。
見慣れているはずのノエの笑顔なのに、いつもよりも少し子供っぽく笑うその顔を見ていたら、私は自分の頬に熱が集まっていくのが分かった。
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