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第五章

第33話 本当は、私がいるよって言いたいのに

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 誰もいない廊下を歩く。静かに、静かに、物音を立てないように。
 自分の家なのにそうしなければならないのは、お母さんの秘密があるから。

『っ……』

 息の詰まるような音。廊下の先の、お母さんの寝室から聞こえてくる。
 閉まりきっていなかった扉からこっそり中を覗けば、ベッドに腰掛ける華奢な身体が小さく震えていた。

 お母さんは、時々こうして泣いている。

 お父さんがあまり家に帰ってこないから。普段は笑っているけれど、たまに寂しさに耐えきれなくなってしまうのだ。
 私が声をかけて気を紛らわしてあげたい。だけどいつも声をかけられない。お父さんを想って泣くお母さんの姿は凄く儚くて、近寄りがたい。まるで声をかけたら消えてしまうんじゃないか――そう思って、いつも私はこっそりとその場を後にする。

 本当は、私がいるよって言いたいのに。


 § § §


 目が覚めると、さっきまで見ていた夢を鮮明に覚えていた。
 お父さんがいなくて寂しいと泣くお母さん。お母さんは寂しがり屋なのに、私までずっといなくて平気だろうか。

 起きて身支度を整えている間も、夢で見た光景が頭から離れなかった。

「……ゆるくなってる」

 腰のコルセット。まだベルトの穴が変わるほどではないけれど、昨日よりも明らかに余裕がある。

「ッ……」

 また、寿命が縮んだ。突きつけられる現実に、焦燥感が勢いよく押し寄せてくる。
 それは昨日の出来事のせいでもあるかもしれない。自分があの人を殺してしまったという感覚はだいぶ薄れたものの、人は案外簡単に死んでしまうと身を以て体験したからか死が今までよりも随分と近いものに感じる。
 人はいつ死んでしまうか分からない――今まで遠く感じていたその言葉が、妙に現実味を帯びた気がした。

「――ノエ!」

 ドアを開けてソファで眠っているはずのノエを呼ぶ。すると既に起きてくつろいでいたらしいノエは、びっくりとした様子で私の方に顔を向けた。

「どうしたの、そんなに慌てて――」
「家に帰りたい!」

 詰め寄りながらノエに言う。ノエはまた驚いたように目を丸めたけれど、すぐに怪訝な表情に変わった。ああ、やっぱり怒られるのかな。まだ無理って知ってるだろ、とか。何馬鹿なこと言ってるんだ、とか。
 けれどノエは怒らずに、「何があったの?」と静かに問いかけてきた。

「……怒らないの?」
「怒らないよ、そんな血相変えて言われればさ」

 そう言われて、そんなに酷い顔をしていたのかと顔を触る。でも触ったところで分からないから、私はノエの問いに答えることにした。

「また、痩せてて……」
「うん」
「お母さんが、寂しがってるんじゃないかって……」
「うん?」

 ああ待って、話の順番間違えた。これじゃあノエが不思議そうな顔をしても無理はない。
 何度も深呼吸して、頭の中を整理する。帰りたいという気持ちは変わらないから、ちゃんとノエに伝わるように。

「私のお母さん、一人ぼっちなの。お父さんがいなくて時々泣いてるの。それなのに私はもう一ヶ月近く家を空けてるから、いくら催眠にかかってても寂しくないはずがないの」
「うん、そうかもね。俺はほたるがいなくても不審に思わないようにしかしてないから」
「私、また痩せてた。もうすぐ死んじゃうんだと思う」
「まだ大丈夫だよ、そんなすぐには――」
「また怪我したら違うでしょ!?」

 私が大声を上げると、ノエはびっくりしたように固まった。

「もう、いつ死んじゃうか分からない。お母さんに二度と会えないまま死んじゃうかもしれない。そんなことになったらお母さんは……私だって、お母さんに会いたい……!」

 気付けばぼろぼろと涙が出ていた。昨日散々泣いた気がするのに、まだこんなに出るんだ。
 なんて、どうでもいいことを考えてみてもこの気持ちは変わらない。最初はこんなにすぐ死んでしまうかもだなんて思わなかった。だから受け入れられたけれど、どんどん近づいてくる死の影にそれを覆される。
 それは自分が死んでしまうという恐怖じゃない。もうお母さんに会えないかもしれない――その方が、私にはよっぽど怖かった。

「一度戻ったら、もうスヴァインを探すの諦めちゃわない?」

 ノエが静かに問いかける。そうだよね、ノエ達はスヴァインを見つけなければならないから、私が非協力的になるのは困るはずだ。でも。

「多分、逆。お母さんを一人にさせられないもん……」

 あんなに儚い人を、放ってはおけない。
 そう考えるとお母さんをほっぽりだしているお父さんはとんでもない男だと今更ながらに思うけれど、今はそんなことどうでもいい。もし次に会ったら思い切り罵ってやる。お母さんを寂しがらせるんじゃないって、場合によっては殴る。お父さんだとか関係ない。

 それよりも私だ。今まで私しかお母さんの傍にいなかったのに、その私が何も言わずにどこかに行って、そのまま帰ってこないなんてことあっちゃいけない。

 お願い、分かって――そんな気持ちを込めてノエを見つめると、優しい笑顔が返ってきた。

「いいよ」

 ノエの言葉に今度は私が固まる。
 聞き間違いじゃない? 本当にいいよって言った?

「いいの……?」
「一日だけだけどな。どっちにしろほたるの母さんの催眠もそろそろかけ直さないと、ほたるが元の生活に戻った時に支障が出るだろうし」
「本当に……? でもノエがよくても、許可なしで行っちゃ駄目ってルールなかったっけ……?」
「執行官様は事後承認でいいのよ。仕事で急に行かなきゃいけないってこともあるからな」
「じゃ、じゃあ今から……!」
「それは無理。向こうの日が暮れてからじゃないと俺が行けない」

 確かにそうか。どうやって外界に戻るかは分からないけれど、ノエが来るなら昼間は無理だ。
 ならいつなら行けるんだろう。そう思ってノエを見ていると、ノエはごそごそとポケットを漁って何かを取り出した。手のひらより少し小さめの丸い金属に、そこから伸びる細い鎖。丸い部分をパカッと開いて、ノエはその中をじっと見つめた。
 これは懐中時計っていうんだったかな。随分レトロな物を持っているなと思ったけれど、ノエの年齢を考えればこちらの方が使いやすいのかもしれない。

「そうねー……あと一、二時間てとこか。ちょうどいいじゃん、その間に包帯とか取替えとこ」
「……そんなすぐなの? まだ朝だけど」
「日本基準で考えない。大体イギリスとか、あっちの方と時間が近いんだよ」
「……おおう?」

 イギリスと近いだなんて言われても分からない。イギリスと言ったら本初子午線っていうのがあった気がするけれど、日本との時差がどれくらいかとか覚えてないし。何せ私は勉強が残念で部活を続けられなかった女だからね。……自慢できないけども。

 でもノエが私を外界に連れて行ってくれるというのは凄く嬉しいし、安心した。だから「今から抜糸ね」だなんて言われても怖くない……。


 § § §


 昨日の腕の傷は、包帯を取ったらもうほどんど治っていた。ノエ曰く、背中の傷よりよっぽど浅いし、治療を始めた時には既に治りかけていたのだから当然とのこと。うん、自分の身体が怖い。

「だからあんまりちゃんと縫えなくてさ。傷跡、結構残っちゃったらごめんな?」

 そこそこ治りかけていたものだから、刺激で開かないようにする程度にしか縫えなかったのだそう。丁寧に縫えれば傷跡もそれだけ目立たなくなるらしいのだけれど、それができなかったと言ってノエが謝ることではないんだけどな。

 なんて会話をしながら抜糸を終えた後、ノエは懐中時計をいじり始めた。覗いてみたらたくさんの文字盤の中で針がくるくると回っていたので、時差でも合わせているのだろうか。っていうかこれどうやって見るんだろう。レトロな時計は見方が特殊なのかな。

「これで座標指定すんの」
「……ざひょう?」
「うわ、その顔馬鹿みたい」
「ちょっと!」

 本当、いちいち失礼な男だ。座標の意味くらい私にだって分かる。
 でも時計で座標を指定するって意味が分からないし、なんだったらなんの座標かも分からない。だから私が馬鹿ということにはならないはずだ。多分。

「ま、鍵みたいな物かな? この時計で座標指定して鍵を開けると、外界の指定された場所に行けるんだよ」
「……なんか魔法みたい」
「まあそういう理解でいいよ」

 あれ、今ノエが説明を放棄した気がする。じとっとした目で見てみると涼しい顔。もしかしてこれノエもよく分かってないんじゃないかな。もしやノエの方こそちょっとお馬鹿なんじゃない? 年の功で色々知っているかもしれないけれど、実は勉強は苦手だったりして。

「じゃ、行こうか」

 声と同時に腰に手が回される。突然のことにびっくりして固まっていると、何の前置きもなく時計から紫色の光が放たれた。
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