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第五章

第32話 頼むから、もう傍から離れないで

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 ゆらゆら揺れる。ひんやりとした感触は、知っている。

「……ノエ?」

 がさがさの声で問いかければ、ノエが困ったように私に視線を落とした。

「落ち着いた?」

 一体なんのことだろう。周りを見ると、ノエに抱っこされて宿の廊下を歩いているのは分かったけれど。
 なんでここにいるんだっけ――記憶を辿って、身体が強張る。そうだ、私は。

「ッ……!」
「大丈夫、大丈夫だから」
「けどっ……私、人を……殺し……!」

 私の言葉にノエは目を見開くと、静かに「……そうか」と呟いた。

「でも自分でそうしようとしたわけじゃないんだろ? ならそれは種子がやらせたことだよ」
「だけど……!」

 私が言い返そうとした時、ノエの足が止まった。そこには見慣れた扉があって、ノエは鍵を開けると中に入っていく。
 私が怖がるからとつけっぱなしになっている明かりが、私達を出迎えた。

「どうせ襲ってきたのは相手の方だろ?」
「でも……覚えてるの……私が、あの人を殺そうとしたって……!」
「間違えるな、ほたる。それは種子の意思であってほたるの意思じゃない」

 ノエは私をソファに下ろすと、血まみれの左腕を持って顔を顰めた。けれどすぐに荷物から布を取り出して、傷口の周りの血を拭っていく。……駄目だ。

「やめて!」

 私が思い切り腕を引くと、ノエが「ほたる……?」と怪訝な表情を浮かべた。

「触っちゃ駄目……!」
「なんで?」
「だって……あの人、多分吸血鬼だった……従属種じゃないのに、私の血で……」

 私の血を飲んで死んでしまうのは従属種だけだと思っていたのに。
 ああ、でも――。

『本当は血でも飲んでやろうかと思ったけど、ここでそれはルール違反だからな。ていうか最悪俺死ぬし』

 記憶が蘇る。そうだ、裁判所でノエと初めてちゃんと会話した時、ノエ自身がこう言っていたじゃないか。なんで私はこんな大事なことを忘れていたんだろう。

 だから吸血鬼であろうあの人は私の血を舐めて死んでしまったんだ。私は忘れていたけれど、私の中の種子はきっとそれを知っていた。私の血で、吸血鬼を殺せることを。
 そんなものにノエが触れてしまったら、きっと彼まで――そう思うと、これ以上ノエに触れて欲しくない。

「今更。背中の手当てしたの誰だと思ってんの?」
「だけど……ノエまで死んじゃったら……!」
「死なない、死なない。そりゃ確かに吸血鬼にとっても種子持ちの血は毒になるけどな、種子の序列が近ければ死にはしないし、死ぬような差があったとしてもちょっと触ったくらいじゃ問題ないの。むしろその状態でうろうろされた方が俺にとっては危ない。どこにほたるの血がついてるか分からないんだから」
「……本当?」
「本当。だから大人しく手を出しなさい。ほたるが暴れたら俺死ぬかもよ」

 なんという脅しだろう。そんなことを言われてしまえば素直に治療を受けるしかなくなる。
 私が仕方なく手を出すと、ノエは満足そうににんまりと笑った。

「それよりほたるは自分の心配しなさいな。種子が頑張ったってことは、また寿命縮んじゃってるんじゃないの?」
「……ごめん」
「謝ってるのは、はぐれちゃったこと?」
「うっ……」

 私が顔を顰めると、ノエは「俺もごめんな」と声を落とした。

「通りで俺が会った奴、あいつにほたるを見られるわけにはいかなくて」
「……匂いで誤魔化せないの?」
「裁判にいたんだよ。今はノストノクスがほたるを処刑するために勾留してるってことになってるけど、もし顔をちゃんと覚えてなかったとしても、同じ年頃の女が俺と一緒にいたら絶対怪しまれるだろ?」

 確かに裁判を見ていたなら、私がノエに保護されているのも知っているはず。今はもう保護されていないということになっているかもしれないけれど、一緒にいたら疑われてもおかしくはない。
 なら悪いのははぐれてしまった私じゃないか。そう思ってノエの方を見れば、ノエはいつの間に取り出したのか、針と糸を使って私の傷口を縫おうとしていた。……え?

「待って待って待って!」
「何、急に元気になって」
「いや元気って……そうじゃなくて、その、今縫うの!?」
「ならいつ縫うの?」
「……あ、はい」

 今ですよね、分かります。
 衝撃的な光景に頭が真っ白になったお陰か、さっきまでの暗い気分が少し和らいだ。けれどそれは目の前で傷口を縫われることに耐えられる理由かと聞かれればそうでもなくて。

「怖いの?」
「……はい」
「そっぽ向いときなさい。ちくっとはするけど」
「痛いの!?」
「針刺すんだから当然」

 そうですよね、分かります。
 私は言われたとおりに全然違う方を向いて、歯を食いしばる。ノエは「いくよー」と言いながら、恐らく何の躊躇いもなく針を私のお肌にぶっ刺した。

「いっ……!」
「んで、俺としては背中に隠しただけのほたるが急に消えてかなりびっくりしたわけだけれども」
「話続けるの!?」
「無言でちくちくされたい?」
「……話す」
「よろしい」

 これはノエなりの気遣いなんだろう。多分。自信ないけど。
 でも私も気を紛らわしたいとは思っているから、頑張って話に集中する。

「消えちゃったのは……本当ごめん。人混みに流されちゃって」
「それであんな遠くまで行く?」
「怖くて……。しかも途中でなんか物凄い罵声浴びせられたり……」
「何したの?」
「分かんないよ! ずっと走ってて、止まってしばらくしたら急に……」

 思い出すとまた気持ちが暗くなってくる。だってこの先の記憶は思い出したくない。
 そうでなくたって、いきなり理由も分からず人に怒鳴られるなんてこと、ノクステルナに来るまで経験したことがなかったんだから怖いと思って当然だろう。
 私が俯きかけた時、ノエが「あーなるほど」だなんて能天気な声で言うのが聞こえた。

「走ってたからだと思うよ」
「それだけ……?」
「そう。多分必死で走ってたんだろ? その時点で吸血鬼じゃないっていうのは丸分かりだから、多分従属種だと思われて色々言われたんだと思う。あの辺ってそういう奴ら多いのよ」

 その言葉に、だからノエは脇道にあまり入ろうとしなかったんだと分かった。そんな人達がいる場所なら、ノエが一緒でも嫌なことをされていたかもしれない。

「でもさ、そもそもノエだって最初に声かけてきた人を無視すればよかったんじゃないの?」
「それは思ったんだけど、無視して変に探られたらその方が困るじゃん? だから誤魔化すしかなくてさ」
「催眠は?」
「あいつにはできるけど、街に同じ系譜の連中がいそうだったからな。しかも奴らはノストノクス大っ嫌いな上に結構過激派だから、あんな人前でやって向こうの親にバレたらそれこそ面倒じゃん」
「……それは確かに面倒臭そう」

 初めてノエの面倒臭いに同意できた気がする。
 あの時はノエなりに色々考えて最善の方法を取っていたのだ。もしかしたら私がはぐれなければかなり平和に済んでいたのかもしれない。それに……。

「……あの、死んじゃった人」
「うん?」
「どうしよう……いくら種子がやったって言っても……私、とんでもないことを……。それにその……平気なの? 問題にもなるよね……?」
「それはほたるが気にすることじゃないよ。最終的にノストノクスに報告がいくから、その時ちゃんと説明すればいい。第一ほたるは今ここにはいないことになってるしね」
「……なんかずるいよ」

 自分がやってしまった自覚があるのに、ノエの口ぶりではまるで罪にはならないと言っているように聞こえてしまう。
 でもノエは「ずるいのは相手だよ」と言いながら私の手を握った。いつの間にか治療は終わっていたようで、傷はすっかり包帯に覆われている。

「向こうがほたるを従属種だと思っていたにしろ、正体に気付いていたにしろ、自分より弱いと分かった上で襲ったことは間違いない。従属種だと思ってたんなら、多分親なしだと勘違いしたんだろうな。他人の従属種を勝手に殺すのは罪が重いけど、親なしは罪に問われないから。ほら、向こうの方がずるいだろ?」

 ノエの言いたいことは分かるのに、素直に首を縦に振ることはできなかった。だってそれは人を殺していい理由にはならない。
 いつかノエと話したことが、頭の中をぐるぐると廻る。あの時も答えは出なかった。そして手を汚してしまった今も、答えは出そうにない。

「……まだ、分かんないよ」

 なんとかそれだけ絞り出して言えば、ノエは満足そうに微笑った。

「どういう表情、それ」
「いや、いい子だなぁと思って」
「……嫌味?」
「素直に受け取りなさいって」

 そう笑ったノエにわしゃわしゃと頭を撫でくり回される。言っていることといい、やっていることといい、完全に子供扱いされているのが悔しい。それでもなんだか心地良くて大人しくしていたら、不意にノエは私の髪をかき混ぜる手を止めた。

「とりあえず、一つだけお願いしていい?」
「何?」

 珍しいノエの言葉に首を傾げる。

「今回は助かって運が良かった。いくらスヴァインの種子があるっていっても、上位の吸血鬼の場合それで大人しく殺されてくれるとは限らない」
「……殺したくないよ?」
「うん、それはそうなんだけど。それにこんなこと繰り返してたら、どんどんほたるの寿命が縮む」
「……うん」

 種子の影響が強く出るたびに命を一気に食われてしまうなら、それはそういうことなのだろう。まだ変化は感じていないけれど、明日起きたらまた一気に痩せていることだってあるかもしれない。
 私が視線を落とすと、ノエは「そこでお願いです」と私の目を覗き込んだ。

「頼むから、もう傍から離れないで」

 それはきっと、スヴァインを見つける前に私に死なれちゃ困るということなのだろうけれど。
 まるで心から心配してくれているかのような言葉に喜びを感じながら、私は小さく頷いた。
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