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私、兵を預かる
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『江東の虎』こと孫堅文台が討死。
その報告を聞いたのは、一九二年の一月末。新年が明けてからしばらくしての訃報だった。
忍として諜報活動を行っている風鈴から聞いた時、私は信じられなかった。ただ、風鈴が直々に報告にやって来たということは、正確な情報なのだ。
つい、数か月前に意気衝天で戦に臨もうとしていた孫堅さんが、あっさり亡くなるわけがないと思っていた。再会を約束した時の笑顔が頭の中で、鮮明に浮かぶ。夕日に照らされた凛々しい笑みがいつまでも映像として消えなかった。
そして、その息子、孫策くんのことが頭をよぎった。確か、初陣で一緒に戦をしているはずだ。
「……伯符は? 孫策はどうした!」
私、周瑜の普段聞かない大声に、風鈴は戸惑いながら口を開いた。
「孫堅軍は総大将を失い、そのまま長沙に退却したようですが、どんな様子かは、まだ分かりません」
風鈴の少し小さな声に、私は冷静さを取り戻していた。もし、風鈴の言葉通りなら、追い込まれているだろう。ただでさえリスクの大きな撤退戦を、偉大な大将を失ったばかりの軍が行なうのだ。かなりの損害――下手をすると全滅する可能性だってある。
私は至急、万葉たちを呼んだ。呼ばれた万葉たちも事情が分かっているのか、私がこれから言わんとしていることを察していた。
「美周郎には酷だが、今からわたしたちが出張っても、できる策は限られている」
いつもの澄ました顔で事実を告げる万葉に、少し怒りが込み上げてきた。が、頭の中でそれが現実だと判断している自分がいる。そんな自分への怒りが形を変えているのかもしれない。
「周公瑾様のお気持ちはお察ししますが、今から荊州まで兵を進める兵糧がありません」
沈痛な面持ちで燐玉さんが言った。
「そんな……ここには充分な蓄えがあるんすよね? せめて、俺の騎射隊だけでも……!」
「蓄えといっても、あくまでも領地内を護る分だけだ。遠征するには足りない。それに万葉殿が言われるように、千程度の手勢なら逆にこちらが危うくなる」
勢いのあまり卓から身を乗り出す飛天くんを、蘆信さんが落ち着かせるように言った。
「うちらにできることは孫堅軍がうまく逃げることを祈るぐらいかな、今のところは」
少し離れた部屋の壁に寄り掛かって座っていた沙羅さんが言う。いつもの話し合いではお酒を飲む彼女も、今の私の前では飲むのを控えているようだ。
「……伯符には、この蘆江は援助することを伝えよう。それなら、いいでしょう?」
私の言葉に反対の声はなかった。それから、随時、孫堅軍や孫策くんの状況が分かるように情報収集に努めることを告げる。そして、散会となった。
万葉と燐玉さんは何か話しながら部屋から出て行った。万葉はいつも手にしている羽扇で口元を隠すようにしながら喋っている。最近、彼女が考えていることを話すときの癖のひとつになっている。燐玉さんも頬に手を当て、暗い表情で言葉を交わしている。
飛天くんは居ても立ってもいられないような感じで部屋から出て行った。おそらく、いつでも私が出陣を命令してもいいように、自分の兵を整えるかもしれない。
そんな三人を見送る私を含めて、この部屋に沙羅さんと蘆信さんが残った。
沙羅さんが卓にやって来た。手には二つの碗とお酒の入った革袋がある。その碗を私と蘆信さんに手渡すと、そこにお酒を注いだ。
「……こういうときは飲むに限るよ」
沙羅さんは天に掲げるように革袋を持ち上げた。
「そうですね。偉大な将に献杯しましょう……」
蘆信さんも沙羅さんにならって、手に持った碗を高く掲げた。
私は黙ってうなずいて、手にある碗を天に向かって揚げた。そして、三人、無言で飲んだ。
碗の酒を飲み干してから、この世界に来て、初めてお酒を飲んだことに気がついた。この世界のお酒は前世の私にとってはアルコール度の低いものだったけれど、頭からお腹の部分にまで染み込むような熱さがあった。でも、酔いはこなかった。そのかわり、涙が溢れて止まらなかった。
私が人の死で泣いたことは今まで一度もなかった。前世でも祖父母の葬式、友人の死に、悲しさや喪失感はあっても涙が出たことは一度もなかった。この世界にやって来て、多くの死を目の当たりにしても泣くことはなかった。生まれて初めて、私は泣いた。目から涙が止まらなかった。
お酒に塩が混じった味がしたけれど、私は構わず飲み続けた。
そんな私に、沙羅さんと蘆信さんの二人は黙って付き合ってくれた。この日だけは、時間の感覚がなくなったように流れ、いつの間にか過ぎていった。
私は領内を襲撃にきた賊との戦いを終え、自分の本陣に戻っていた。
寒さが和らいできたとはいえ、まだ吐く息は白いし、戦場を駆け回った騎馬からは蒸気がたちこめている。
本陣には万葉と蘆信さんがメインで戦後の状況を確認していた。
負傷者が十数名でたものの、死者や重傷者はいなかった。そして、打ち破った賊から分捕って集めた武具や食料などの報告もさせている。私の兵たちには略奪などは禁じているけれど、戦場に残った武器や鎧、馬や食料などは獲っても良いことにしている。武器や鎧は保管することもできるし、結構いい値段で売れたりする。馬も戦や農耕、荷馬など活用する場面が多い。
孫堅さんが亡くなってから、揚州一帯と南荊州の治安は悪くなっていた。その影響で野盗集団などの賊徒と呼ばれる人たちが大量に出没している。
良くも悪くも、孫堅さんの絶大な武力で押さえつけられた揚州や南荊州だったのだろう。孫堅さんがいなくなってからは、今まで大人しくしていた豪族や元黄巾の人、水賊達が一斉に噴出していた。ホントにどこに隠れていたのかと疑いたくなるくらい、その数は多かった。
私の領地も多分に漏れず、標的にされた。特に蘆江の中では人が定住して増えているので、収穫や収入も多い。そして、そんな噂は略奪者界隈では、あっという間に広まるらしい。略奪や侵略以外の目的でやって来るのはウェルカムなんだけれど、襲撃された場合は自衛のため撃退するしかない。
そんな中、飛天くんと沙羅さんが、とある一軍を連れて帰ってきた。孫堅軍の一部だったと言う。
軍を率いている将は姓名を孫静、字を幼台と名乗った。孫堅さんの弟らしい。確かに、孫堅さんから荒々しさと筋肉を引っこ抜いたら、こんな感じという印象。彼は千人ぐらいの兵と孫策くんのお母さんや弟妹達を連れていた。
今までの道中の困難さを物語るように、みんな具足も衣服もボロボロで身体中が泥や砂埃で汚れている。疲労困憊の様子を隠すこともできないほどだ。
私たちは自分の兵と一緒に孫静さんの率いてきた兵たちを領内の城街へ連れて帰る。
まず、孫静さんが率いてきた兵は普段使っている兵舎の方に向かわせた。あらかじめ準備してあったのか、すぐに兵たちには水と食事、休息ができる場所が与えられた。おそらく、以前に万葉と燐玉さんが話し合っていたことなんだろう。あの時から万葉は、このようなことが起こることを予想していたのだ。
孫策くんのお母さんと弟妹たちには、以前、蘆江にいたときに使われていた屋敷で休んでもらうことにした。
そして、孫静さんは着替えと食事を終えると、休息もそこそこに私と話したいと申し出てきた。私も孫堅さんが亡くなった状況やその後の孫策くんのこと、なぜ、孫静さんが私のところにやって来たのか尋ねたいことはたくさんあった。
私は孫静さんを自分の居室に招き入れた。孫静さんは側近だと思われる兵士を三人ほど連れてきている。私の方は万葉と燐玉さん、蘆信さんが立ち会うことになった。
孫静さんは用意されたお茶の香りと温かさが、疲れた果てた身体に染み込むような感じで目を閉じ、一息入れた。それから、孫堅さんの劉表軍攻めのことを語り始める。
孫堅さんは船を使うという私の助言を採り入れたことで、予想の三日以上の速さで兵を進めることができた。この速さで孫堅さんは劉表軍の先手を取り続けることができた。
戦の準備が整っていない劉表軍を、孫堅軍は思いのままに打ち破った。その勢いで、あっという間に劉表が籠る襄陽の城を完全に包囲した。
元来、劉表がいる襄陽の城は政庁の役割が強く、戦などには不向きな城だった。兵士は国境付近の城に多く配置され、金銀、武具、兵糧などの軍需物資は襄陽城から少し離れた江陵の城街に集中して蓄えられていた。北の荊州は固めた外を破られると、簡単に崩れる脆い面がある。
じっと守りに徹した襄陽城に三万ほどの兵が取り囲んだ。外部と連絡が取られないように巡回を厳密にし、さらに江陵、江夏、樊城からの援軍を蹴散らせるように遊軍の配置も怠らなかった。しばらく待てば劉表が音を上げ、降伏を願い出る。孫堅さんの中では必勝の構えで陣中にいたんだろう。
お互いに城と陣の中でにらみ合いを続けていた時に、ある出来事が起きた。
完全な包囲網を無理やり突破しようと、劉表軍が城内から飛び出した。五千も満たない兵たちだった。しかし、無意識なのか長期の遠征と包囲の影響だろうか、孫堅軍全体が戦闘の刺激を欲していた。孫堅さん自身が、その欲求にもっとも餓えていたのかもしれない、と孫静さんはぽつりと呟いた。
包囲をこじ開けて駆け抜けた劉表軍を、孫堅さんが自ら兵を率いて追いかけた。包囲を突破した軍を殲滅するつもりでいたんだろうと思う。戦略上は間違っていない。ここで一兵でも逃せば、周囲から援軍を招いてしまう。その前に、劉表自身を倒したかったのだ。けれど、戦術面ではミスをした。総大将自身が打って出てしまった。たかが、五千程度と思ったのか、孫堅さんを止める将がいなかったからかもしれない。いや、孫堅さんが死ななければ、それは正しい戦術だったのかもしれない。
包囲を突破した劉表軍に、孫堅さん率いる軍は猛追した。あと一歩で背後から攻撃できる、そんな時だった。
偶然なのか、それとも元々そういう策だったのか……と言い、孫静さんは一回息を入れるように冷たくなったお茶を飲んだ。
追撃されている劉表軍が、いきなり孫堅軍に向かって矢を放ってきたのだ。前を駆けながら、身体を後ろに向け、ひたすらに撃てるだけの矢を放ち出したのだ。
まるで空がすべて矢で埋め尽くされたように見えた、と生き残った兵が語るほどの矢が孫堅軍に降り注いだ。そして、これもたまたまなのか、劉表軍の中に飛天くん級の弓の達人がいたのかわからない。
一本の矢が孫堅さんの喉首を射抜いたのだ。
そして、その身体は乗っていた馬から崩れ落ち、大地に叩きつけられた。その後、動かなくなった孫堅さんに無数の矢が突き立っていた。それが『江東の虎』と畏怖された猛将、孫堅さん三十七歳の最期。あの長沙で見た勇姿からは想像もできないほどの、あっけない死だった。
包囲を突破した劉表軍は、すぐに潰滅した。さすがに多勢に無勢であったようだ。兵を率いていた黄祖という将軍はあっさり捕まった。
しかし、孫堅さんという総大将を失った孫堅軍は包囲戦どころではなかった。少しづつだが、自軍から逃亡者や戦意を喪失する兵が増え始めたのだ。
それを見た武将達で緊急の軍議が行なわれた。結果、黄祖の解放と北荊州からの即時撤退を条件に劉表との停戦を申し出た。
劉表側は黄祖はともかく、孫堅軍の即時撤退は喜んで受け入れた。あとで分かったことだけれど、襄陽城はあと数日で陥落するほど兵糧、兵が枯渇していた。
綺麗に整えられた孫堅さんの遺体と共に、孫堅軍は襄陽城の包囲を解き、南荊州へと引き上げた。その時の指揮は孫静さんと孫策くんの従兄にあたる孫賁さんという人が行なったようだ。
どうやら、私が想像していたような悲惨な撤退戦にはならなかった。そのことには、ホッと胸をなでおろす。ただ、そこからが孫策くんの受難の始まりだった。
拠点の長沙に帰還した途端、今度は劉表軍が南荊州に侵攻してきたのだ。
孫策くんは父の残した領内を護るために出陣を主張した。が、ここで手痛い仕打ちを受けることになった。
南荊州にいるほとんどの豪族たちが手のひらを返したように劉表側になびいた。劉表軍の侵攻に呼応するかのように、各地で叛乱や独立が起こった。十八歳になったばかりの孫策くんはもちろんのこと、偉大な先代を失った孫家には、これを押し返す力は残っていなかった。ジリジリと追い詰められる戦を強いられるばかり繰り返す。
そこで孫静さんと孫堅さんの宿将たちで話し合いが行われ、孫家の全権を孫賁さんに委ね、孫策くんと共に汝南にいる袁術の下に身を寄せるようにした。同盟関係にあったうえに、袁術には反董卓連合軍での貸しがある。そう判断した孫静さんは孫策くんたちに「長沙や劉表軍にはこだわるな」と言い残し、汝南へと向かう軍勢から離れた。
おそらく、孫策くんが無茶さえしなければ、無事に汝南にはたどり着けるだろう。今、孫家を束ねている孫賁さんは孫堅さんや孫策くんほどの武勇はないけれど、血気盛んな二人に比べれば、それなりに融通がきくタイプということを孫静さんは語った。
そして、今度は目の前の孫静さんが孫策くんから離れ、なぜ、私の領内に来たのか。その話に移った。孫静さんにとって、これから話すことが本題のようだ。
孫静さんは孫策くんの家族を袁術の下ではなく、違う場所に連れて行くつもりだった。それは私にもすぐに理解できた。孫策くんが袁術の客将となっても、いつまでも袁術の下にいるつもりはないだろう。けれど、家族を人質にされれば、袁術の言うことを聞き続けなければならない。孫家としては、なんとしても避けたいところだろう。
さいわい、孫策くんのお母さんの実家は揚州呉郡にある曲阿という城街だという。曲阿は呉景というお母さんの弟さんが太守をしている。そこに孫策くんのお母さんと弟妹を預けられれば、ひとまずは大丈夫だろうと孫静さんは考えた。孫家の権威が落ちた揚州といっても、親類縁者を無下にはしないだろう。
私は長江を渡り、揚州の北部に位置する曲阿に行くあてはあるのか訊いてみた。孫静さんは力なく首を振り、ここまでたどり着いたように行く先々で考えるしかないと答えた。
「ならば、私が孫静さん達を無事に長江を渡らせ、曲阿までお送りするお手伝いをしましょう」
と申し出た。孫静さんが連れてきた兵士たちを一気に連れてゆくのは難しいけれど、孫静さんと孫策くん一家だけくらいなら、紅さんの力で何とかなるだろう。長江の水路整備に尽力した私と紅さんなら、商船に乗せて曲阿まで行くのは大したことはないだろう。
「それは助かる。なるべくなら、早く出立したいのだが……」
その申し出を孫静さんは喜んでくれた。準備は紅さんとの話し合い次第なので、至急準備をするよう約束をした。さっそく、明日には紅さんの商会に行かないと。
「それともう一つ、周瑜殿に頼みたいことがある」
孫静さんが居住まいを正した。その表情から、自然と私も姿勢をピンと伸ばして、孫静さんの言葉を待った。
「私が率いてきた兵たちを預かってはもらえぬか?」
「……兵を、ですか?」
私はここにやってきたときの孫静さんが率いていた兵を思い出していた。千人くらいはいただろう。兵舎で休んでいる彼らは飢えと疲労で弱っていたけれど、戦力としては十分使えると飛天くんや沙羅さんからは報告を受けている。
「なぜ、私に兵を預けるのですか?」
普通に考えれば、自分と孫策くんのお母さんたちが無事に曲阿まで行ける目処がたったならば、兵はそのまま孫家の兵として汝南に送るんじゃないんだろか?
「……今は袁術に拠ることになるが、いずれ、孫策は兄上の遺志を継いで立ち上がられる。その時のために兵は少しでも多く残しておきたい」
なるほど。将来に向けて戦力を温存したい。それが孫静さんの考えのようだった。でも、なんで、私なんだろう?
「周瑜殿は私が知る限り、兄上から頭巾を賜った唯一の人物。私もこの城街と周瑜殿の兵を見て、兄上と孫策が一目置く男と思えたのだ」
あの長沙での一件以来、孫家の中ではかなり株が上がっているようだ。まぁ、これも万葉たちの協力があってこそで、私個人の力など取るに足らないだろう。
私は少し考えた。すると、横から万葉が羽扇を仰ぎながら、
「こうなるだろうと思って、燐玉と準備はしていた。千人くらいは余裕で受け入れることはできる」
と言い、燐玉さんも「前もって用意していた流民用の土地を兵舎等に変えておきました」と報告してくれた。たぶん、万葉と二人で話してた時に決めたんだろうけど、あの時は頬に手を当て困った表情を浮かべていた燐玉さんを思い出すと、かなり苦労したんだろう。彼女たちは本当に、私にはもったいない人たちだ。
「あとは孫家の兵が、我々の軍律に従ってもらえるかどうかです」
蘆信さんが告げた。おそらく、蘆信さんも万葉から、こんな状況になることを説明されてたんだろう。ただ、言外には軍律に従えない者は受け入れないと受け取れる感じだ。
「私は孫家の兵をお預かりすることには異論はありません。ただ、どうするかは、それぞれ自身で決めてもらいましょう」
孫静さんに、そう告げると、孫静さんは安堵の表情と息を吐き、私に頭を下げた。そして、緊張の糸が切れたのか、今までの疲れがドッと出たのか、力なくその場に崩れ落ちそうになった。それを側近の兵士さんが抱えるようにして、なんとか主をその場に留めさせた。私は蘆信さんに孫静さんを部屋まで案内するように言うと、孫静さんたちは部屋から出て行った。
「さて。これから、忙しくなるな、美周郎」
明日から始まる怒涛の業務ラッシュを予想するように、部屋に残っていた万葉が言った。私は頷きながら、ちらりと万葉の隣でお茶を飲んでいる燐玉さんの顔を見て、すぐに目をそらした。その目からは「今でも忙しいのに、さらに仕事を増やす気ですか? 貴方は責任取ってくれるんですよね?」という圧を察知した。
私はおそらくこれから吐き出されるだろう、燐玉さんのぼやき地獄から逃げ出すように早足で部屋から退出した。
翌日には疲れで寝込んでいる孫静をそっとしておいて、こちら側で色々と準備を進めることにする。
まずは紅さんの商会に行き、孫静さん一行の曲阿移送をお願いしてみた。
「分かりましたわ、周郎様。みなさんを無事にお送りいたします」
紅さんは、こんなことは日常茶飯事なような感じで言った。戦や略奪が頻発する場所や重税から逃れるために人が他の土地に流れることは多い。私の領内にもそういった事情で移り住んできた人が三割くらいはいる。その仲介や移送を商人が影で行っているのかもいれない。
一日もあれば準備ができると聞いて、それをあとで孫静さんたちに伝えておこう。もしかすると、今すぐにでも曲阿に行きたいのかもしれないし。私は紅さんにお礼を言うと、「万葉を碁で負かす方法を教えていただけませんか?」と毎回聞いてくる質問が返ってきた。……まだ、万葉と賭け碁とかしてるんですか、紅さん? それとも純粋に万葉に負けるのが悔しいのかな?
こればかりは教えたところでどうしようもない。万葉との対局はその場で打ってみないことには分からないからだ。それを伝えると、紅さんは萎れた花のような感じで見送った。
そして、孫静さんが寝所から出て、食事をしているときに曲阿へ送り届ける手筈が整ったことを伝えた。えらくビックリされたけど、やっぱり紅さんも只者ではないのだろうか?
それから、私と孫静さんは蘆信さんと飛天くんを連れて、元孫堅軍の兵たちのところに向かった。
孫静さんと私で一通り事情を説明したうえで、今度は蘆信さんと飛天くんから軍律と領内の兵としての役割を教えた。それで残りたい者は残り、去りたい者は去ってもいいと私は告げた。ちなみにちゃんと去る場合でも、それなりの旅費は与えることは約束した。いきなり、素寒貧で領内から放り出すわけにはいかない。
ただ、孫静さんの「若殿」という言葉で、千人あまりの兵士全員の目と表情が変わった。若殿、つまり孫策くんのこと。彼らもいずれ孫策くんが亡父と同じように天下へ名を轟かせることを信じているのだ。その願いと熱意が伝わった。
結果、一人も去る者はおらず、全員、私の領内に残ることになった。孫策くんのため、雌伏の時だと覚悟を決めたようだ。
こうして、私の領内に元孫堅軍の兵士千名が加わった。
その報告を聞いたのは、一九二年の一月末。新年が明けてからしばらくしての訃報だった。
忍として諜報活動を行っている風鈴から聞いた時、私は信じられなかった。ただ、風鈴が直々に報告にやって来たということは、正確な情報なのだ。
つい、数か月前に意気衝天で戦に臨もうとしていた孫堅さんが、あっさり亡くなるわけがないと思っていた。再会を約束した時の笑顔が頭の中で、鮮明に浮かぶ。夕日に照らされた凛々しい笑みがいつまでも映像として消えなかった。
そして、その息子、孫策くんのことが頭をよぎった。確か、初陣で一緒に戦をしているはずだ。
「……伯符は? 孫策はどうした!」
私、周瑜の普段聞かない大声に、風鈴は戸惑いながら口を開いた。
「孫堅軍は総大将を失い、そのまま長沙に退却したようですが、どんな様子かは、まだ分かりません」
風鈴の少し小さな声に、私は冷静さを取り戻していた。もし、風鈴の言葉通りなら、追い込まれているだろう。ただでさえリスクの大きな撤退戦を、偉大な大将を失ったばかりの軍が行なうのだ。かなりの損害――下手をすると全滅する可能性だってある。
私は至急、万葉たちを呼んだ。呼ばれた万葉たちも事情が分かっているのか、私がこれから言わんとしていることを察していた。
「美周郎には酷だが、今からわたしたちが出張っても、できる策は限られている」
いつもの澄ました顔で事実を告げる万葉に、少し怒りが込み上げてきた。が、頭の中でそれが現実だと判断している自分がいる。そんな自分への怒りが形を変えているのかもしれない。
「周公瑾様のお気持ちはお察ししますが、今から荊州まで兵を進める兵糧がありません」
沈痛な面持ちで燐玉さんが言った。
「そんな……ここには充分な蓄えがあるんすよね? せめて、俺の騎射隊だけでも……!」
「蓄えといっても、あくまでも領地内を護る分だけだ。遠征するには足りない。それに万葉殿が言われるように、千程度の手勢なら逆にこちらが危うくなる」
勢いのあまり卓から身を乗り出す飛天くんを、蘆信さんが落ち着かせるように言った。
「うちらにできることは孫堅軍がうまく逃げることを祈るぐらいかな、今のところは」
少し離れた部屋の壁に寄り掛かって座っていた沙羅さんが言う。いつもの話し合いではお酒を飲む彼女も、今の私の前では飲むのを控えているようだ。
「……伯符には、この蘆江は援助することを伝えよう。それなら、いいでしょう?」
私の言葉に反対の声はなかった。それから、随時、孫堅軍や孫策くんの状況が分かるように情報収集に努めることを告げる。そして、散会となった。
万葉と燐玉さんは何か話しながら部屋から出て行った。万葉はいつも手にしている羽扇で口元を隠すようにしながら喋っている。最近、彼女が考えていることを話すときの癖のひとつになっている。燐玉さんも頬に手を当て、暗い表情で言葉を交わしている。
飛天くんは居ても立ってもいられないような感じで部屋から出て行った。おそらく、いつでも私が出陣を命令してもいいように、自分の兵を整えるかもしれない。
そんな三人を見送る私を含めて、この部屋に沙羅さんと蘆信さんが残った。
沙羅さんが卓にやって来た。手には二つの碗とお酒の入った革袋がある。その碗を私と蘆信さんに手渡すと、そこにお酒を注いだ。
「……こういうときは飲むに限るよ」
沙羅さんは天に掲げるように革袋を持ち上げた。
「そうですね。偉大な将に献杯しましょう……」
蘆信さんも沙羅さんにならって、手に持った碗を高く掲げた。
私は黙ってうなずいて、手にある碗を天に向かって揚げた。そして、三人、無言で飲んだ。
碗の酒を飲み干してから、この世界に来て、初めてお酒を飲んだことに気がついた。この世界のお酒は前世の私にとってはアルコール度の低いものだったけれど、頭からお腹の部分にまで染み込むような熱さがあった。でも、酔いはこなかった。そのかわり、涙が溢れて止まらなかった。
私が人の死で泣いたことは今まで一度もなかった。前世でも祖父母の葬式、友人の死に、悲しさや喪失感はあっても涙が出たことは一度もなかった。この世界にやって来て、多くの死を目の当たりにしても泣くことはなかった。生まれて初めて、私は泣いた。目から涙が止まらなかった。
お酒に塩が混じった味がしたけれど、私は構わず飲み続けた。
そんな私に、沙羅さんと蘆信さんの二人は黙って付き合ってくれた。この日だけは、時間の感覚がなくなったように流れ、いつの間にか過ぎていった。
私は領内を襲撃にきた賊との戦いを終え、自分の本陣に戻っていた。
寒さが和らいできたとはいえ、まだ吐く息は白いし、戦場を駆け回った騎馬からは蒸気がたちこめている。
本陣には万葉と蘆信さんがメインで戦後の状況を確認していた。
負傷者が十数名でたものの、死者や重傷者はいなかった。そして、打ち破った賊から分捕って集めた武具や食料などの報告もさせている。私の兵たちには略奪などは禁じているけれど、戦場に残った武器や鎧、馬や食料などは獲っても良いことにしている。武器や鎧は保管することもできるし、結構いい値段で売れたりする。馬も戦や農耕、荷馬など活用する場面が多い。
孫堅さんが亡くなってから、揚州一帯と南荊州の治安は悪くなっていた。その影響で野盗集団などの賊徒と呼ばれる人たちが大量に出没している。
良くも悪くも、孫堅さんの絶大な武力で押さえつけられた揚州や南荊州だったのだろう。孫堅さんがいなくなってからは、今まで大人しくしていた豪族や元黄巾の人、水賊達が一斉に噴出していた。ホントにどこに隠れていたのかと疑いたくなるくらい、その数は多かった。
私の領地も多分に漏れず、標的にされた。特に蘆江の中では人が定住して増えているので、収穫や収入も多い。そして、そんな噂は略奪者界隈では、あっという間に広まるらしい。略奪や侵略以外の目的でやって来るのはウェルカムなんだけれど、襲撃された場合は自衛のため撃退するしかない。
そんな中、飛天くんと沙羅さんが、とある一軍を連れて帰ってきた。孫堅軍の一部だったと言う。
軍を率いている将は姓名を孫静、字を幼台と名乗った。孫堅さんの弟らしい。確かに、孫堅さんから荒々しさと筋肉を引っこ抜いたら、こんな感じという印象。彼は千人ぐらいの兵と孫策くんのお母さんや弟妹達を連れていた。
今までの道中の困難さを物語るように、みんな具足も衣服もボロボロで身体中が泥や砂埃で汚れている。疲労困憊の様子を隠すこともできないほどだ。
私たちは自分の兵と一緒に孫静さんの率いてきた兵たちを領内の城街へ連れて帰る。
まず、孫静さんが率いてきた兵は普段使っている兵舎の方に向かわせた。あらかじめ準備してあったのか、すぐに兵たちには水と食事、休息ができる場所が与えられた。おそらく、以前に万葉と燐玉さんが話し合っていたことなんだろう。あの時から万葉は、このようなことが起こることを予想していたのだ。
孫策くんのお母さんと弟妹たちには、以前、蘆江にいたときに使われていた屋敷で休んでもらうことにした。
そして、孫静さんは着替えと食事を終えると、休息もそこそこに私と話したいと申し出てきた。私も孫堅さんが亡くなった状況やその後の孫策くんのこと、なぜ、孫静さんが私のところにやって来たのか尋ねたいことはたくさんあった。
私は孫静さんを自分の居室に招き入れた。孫静さんは側近だと思われる兵士を三人ほど連れてきている。私の方は万葉と燐玉さん、蘆信さんが立ち会うことになった。
孫静さんは用意されたお茶の香りと温かさが、疲れた果てた身体に染み込むような感じで目を閉じ、一息入れた。それから、孫堅さんの劉表軍攻めのことを語り始める。
孫堅さんは船を使うという私の助言を採り入れたことで、予想の三日以上の速さで兵を進めることができた。この速さで孫堅さんは劉表軍の先手を取り続けることができた。
戦の準備が整っていない劉表軍を、孫堅軍は思いのままに打ち破った。その勢いで、あっという間に劉表が籠る襄陽の城を完全に包囲した。
元来、劉表がいる襄陽の城は政庁の役割が強く、戦などには不向きな城だった。兵士は国境付近の城に多く配置され、金銀、武具、兵糧などの軍需物資は襄陽城から少し離れた江陵の城街に集中して蓄えられていた。北の荊州は固めた外を破られると、簡単に崩れる脆い面がある。
じっと守りに徹した襄陽城に三万ほどの兵が取り囲んだ。外部と連絡が取られないように巡回を厳密にし、さらに江陵、江夏、樊城からの援軍を蹴散らせるように遊軍の配置も怠らなかった。しばらく待てば劉表が音を上げ、降伏を願い出る。孫堅さんの中では必勝の構えで陣中にいたんだろう。
お互いに城と陣の中でにらみ合いを続けていた時に、ある出来事が起きた。
完全な包囲網を無理やり突破しようと、劉表軍が城内から飛び出した。五千も満たない兵たちだった。しかし、無意識なのか長期の遠征と包囲の影響だろうか、孫堅軍全体が戦闘の刺激を欲していた。孫堅さん自身が、その欲求にもっとも餓えていたのかもしれない、と孫静さんはぽつりと呟いた。
包囲をこじ開けて駆け抜けた劉表軍を、孫堅さんが自ら兵を率いて追いかけた。包囲を突破した軍を殲滅するつもりでいたんだろうと思う。戦略上は間違っていない。ここで一兵でも逃せば、周囲から援軍を招いてしまう。その前に、劉表自身を倒したかったのだ。けれど、戦術面ではミスをした。総大将自身が打って出てしまった。たかが、五千程度と思ったのか、孫堅さんを止める将がいなかったからかもしれない。いや、孫堅さんが死ななければ、それは正しい戦術だったのかもしれない。
包囲を突破した劉表軍に、孫堅さん率いる軍は猛追した。あと一歩で背後から攻撃できる、そんな時だった。
偶然なのか、それとも元々そういう策だったのか……と言い、孫静さんは一回息を入れるように冷たくなったお茶を飲んだ。
追撃されている劉表軍が、いきなり孫堅軍に向かって矢を放ってきたのだ。前を駆けながら、身体を後ろに向け、ひたすらに撃てるだけの矢を放ち出したのだ。
まるで空がすべて矢で埋め尽くされたように見えた、と生き残った兵が語るほどの矢が孫堅軍に降り注いだ。そして、これもたまたまなのか、劉表軍の中に飛天くん級の弓の達人がいたのかわからない。
一本の矢が孫堅さんの喉首を射抜いたのだ。
そして、その身体は乗っていた馬から崩れ落ち、大地に叩きつけられた。その後、動かなくなった孫堅さんに無数の矢が突き立っていた。それが『江東の虎』と畏怖された猛将、孫堅さん三十七歳の最期。あの長沙で見た勇姿からは想像もできないほどの、あっけない死だった。
包囲を突破した劉表軍は、すぐに潰滅した。さすがに多勢に無勢であったようだ。兵を率いていた黄祖という将軍はあっさり捕まった。
しかし、孫堅さんという総大将を失った孫堅軍は包囲戦どころではなかった。少しづつだが、自軍から逃亡者や戦意を喪失する兵が増え始めたのだ。
それを見た武将達で緊急の軍議が行なわれた。結果、黄祖の解放と北荊州からの即時撤退を条件に劉表との停戦を申し出た。
劉表側は黄祖はともかく、孫堅軍の即時撤退は喜んで受け入れた。あとで分かったことだけれど、襄陽城はあと数日で陥落するほど兵糧、兵が枯渇していた。
綺麗に整えられた孫堅さんの遺体と共に、孫堅軍は襄陽城の包囲を解き、南荊州へと引き上げた。その時の指揮は孫静さんと孫策くんの従兄にあたる孫賁さんという人が行なったようだ。
どうやら、私が想像していたような悲惨な撤退戦にはならなかった。そのことには、ホッと胸をなでおろす。ただ、そこからが孫策くんの受難の始まりだった。
拠点の長沙に帰還した途端、今度は劉表軍が南荊州に侵攻してきたのだ。
孫策くんは父の残した領内を護るために出陣を主張した。が、ここで手痛い仕打ちを受けることになった。
南荊州にいるほとんどの豪族たちが手のひらを返したように劉表側になびいた。劉表軍の侵攻に呼応するかのように、各地で叛乱や独立が起こった。十八歳になったばかりの孫策くんはもちろんのこと、偉大な先代を失った孫家には、これを押し返す力は残っていなかった。ジリジリと追い詰められる戦を強いられるばかり繰り返す。
そこで孫静さんと孫堅さんの宿将たちで話し合いが行われ、孫家の全権を孫賁さんに委ね、孫策くんと共に汝南にいる袁術の下に身を寄せるようにした。同盟関係にあったうえに、袁術には反董卓連合軍での貸しがある。そう判断した孫静さんは孫策くんたちに「長沙や劉表軍にはこだわるな」と言い残し、汝南へと向かう軍勢から離れた。
おそらく、孫策くんが無茶さえしなければ、無事に汝南にはたどり着けるだろう。今、孫家を束ねている孫賁さんは孫堅さんや孫策くんほどの武勇はないけれど、血気盛んな二人に比べれば、それなりに融通がきくタイプということを孫静さんは語った。
そして、今度は目の前の孫静さんが孫策くんから離れ、なぜ、私の領内に来たのか。その話に移った。孫静さんにとって、これから話すことが本題のようだ。
孫静さんは孫策くんの家族を袁術の下ではなく、違う場所に連れて行くつもりだった。それは私にもすぐに理解できた。孫策くんが袁術の客将となっても、いつまでも袁術の下にいるつもりはないだろう。けれど、家族を人質にされれば、袁術の言うことを聞き続けなければならない。孫家としては、なんとしても避けたいところだろう。
さいわい、孫策くんのお母さんの実家は揚州呉郡にある曲阿という城街だという。曲阿は呉景というお母さんの弟さんが太守をしている。そこに孫策くんのお母さんと弟妹を預けられれば、ひとまずは大丈夫だろうと孫静さんは考えた。孫家の権威が落ちた揚州といっても、親類縁者を無下にはしないだろう。
私は長江を渡り、揚州の北部に位置する曲阿に行くあてはあるのか訊いてみた。孫静さんは力なく首を振り、ここまでたどり着いたように行く先々で考えるしかないと答えた。
「ならば、私が孫静さん達を無事に長江を渡らせ、曲阿までお送りするお手伝いをしましょう」
と申し出た。孫静さんが連れてきた兵士たちを一気に連れてゆくのは難しいけれど、孫静さんと孫策くん一家だけくらいなら、紅さんの力で何とかなるだろう。長江の水路整備に尽力した私と紅さんなら、商船に乗せて曲阿まで行くのは大したことはないだろう。
「それは助かる。なるべくなら、早く出立したいのだが……」
その申し出を孫静さんは喜んでくれた。準備は紅さんとの話し合い次第なので、至急準備をするよう約束をした。さっそく、明日には紅さんの商会に行かないと。
「それともう一つ、周瑜殿に頼みたいことがある」
孫静さんが居住まいを正した。その表情から、自然と私も姿勢をピンと伸ばして、孫静さんの言葉を待った。
「私が率いてきた兵たちを預かってはもらえぬか?」
「……兵を、ですか?」
私はここにやってきたときの孫静さんが率いていた兵を思い出していた。千人くらいはいただろう。兵舎で休んでいる彼らは飢えと疲労で弱っていたけれど、戦力としては十分使えると飛天くんや沙羅さんからは報告を受けている。
「なぜ、私に兵を預けるのですか?」
普通に考えれば、自分と孫策くんのお母さんたちが無事に曲阿まで行ける目処がたったならば、兵はそのまま孫家の兵として汝南に送るんじゃないんだろか?
「……今は袁術に拠ることになるが、いずれ、孫策は兄上の遺志を継いで立ち上がられる。その時のために兵は少しでも多く残しておきたい」
なるほど。将来に向けて戦力を温存したい。それが孫静さんの考えのようだった。でも、なんで、私なんだろう?
「周瑜殿は私が知る限り、兄上から頭巾を賜った唯一の人物。私もこの城街と周瑜殿の兵を見て、兄上と孫策が一目置く男と思えたのだ」
あの長沙での一件以来、孫家の中ではかなり株が上がっているようだ。まぁ、これも万葉たちの協力があってこそで、私個人の力など取るに足らないだろう。
私は少し考えた。すると、横から万葉が羽扇を仰ぎながら、
「こうなるだろうと思って、燐玉と準備はしていた。千人くらいは余裕で受け入れることはできる」
と言い、燐玉さんも「前もって用意していた流民用の土地を兵舎等に変えておきました」と報告してくれた。たぶん、万葉と二人で話してた時に決めたんだろうけど、あの時は頬に手を当て困った表情を浮かべていた燐玉さんを思い出すと、かなり苦労したんだろう。彼女たちは本当に、私にはもったいない人たちだ。
「あとは孫家の兵が、我々の軍律に従ってもらえるかどうかです」
蘆信さんが告げた。おそらく、蘆信さんも万葉から、こんな状況になることを説明されてたんだろう。ただ、言外には軍律に従えない者は受け入れないと受け取れる感じだ。
「私は孫家の兵をお預かりすることには異論はありません。ただ、どうするかは、それぞれ自身で決めてもらいましょう」
孫静さんに、そう告げると、孫静さんは安堵の表情と息を吐き、私に頭を下げた。そして、緊張の糸が切れたのか、今までの疲れがドッと出たのか、力なくその場に崩れ落ちそうになった。それを側近の兵士さんが抱えるようにして、なんとか主をその場に留めさせた。私は蘆信さんに孫静さんを部屋まで案内するように言うと、孫静さんたちは部屋から出て行った。
「さて。これから、忙しくなるな、美周郎」
明日から始まる怒涛の業務ラッシュを予想するように、部屋に残っていた万葉が言った。私は頷きながら、ちらりと万葉の隣でお茶を飲んでいる燐玉さんの顔を見て、すぐに目をそらした。その目からは「今でも忙しいのに、さらに仕事を増やす気ですか? 貴方は責任取ってくれるんですよね?」という圧を察知した。
私はおそらくこれから吐き出されるだろう、燐玉さんのぼやき地獄から逃げ出すように早足で部屋から退出した。
翌日には疲れで寝込んでいる孫静をそっとしておいて、こちら側で色々と準備を進めることにする。
まずは紅さんの商会に行き、孫静さん一行の曲阿移送をお願いしてみた。
「分かりましたわ、周郎様。みなさんを無事にお送りいたします」
紅さんは、こんなことは日常茶飯事なような感じで言った。戦や略奪が頻発する場所や重税から逃れるために人が他の土地に流れることは多い。私の領内にもそういった事情で移り住んできた人が三割くらいはいる。その仲介や移送を商人が影で行っているのかもいれない。
一日もあれば準備ができると聞いて、それをあとで孫静さんたちに伝えておこう。もしかすると、今すぐにでも曲阿に行きたいのかもしれないし。私は紅さんにお礼を言うと、「万葉を碁で負かす方法を教えていただけませんか?」と毎回聞いてくる質問が返ってきた。……まだ、万葉と賭け碁とかしてるんですか、紅さん? それとも純粋に万葉に負けるのが悔しいのかな?
こればかりは教えたところでどうしようもない。万葉との対局はその場で打ってみないことには分からないからだ。それを伝えると、紅さんは萎れた花のような感じで見送った。
そして、孫静さんが寝所から出て、食事をしているときに曲阿へ送り届ける手筈が整ったことを伝えた。えらくビックリされたけど、やっぱり紅さんも只者ではないのだろうか?
それから、私と孫静さんは蘆信さんと飛天くんを連れて、元孫堅軍の兵たちのところに向かった。
孫静さんと私で一通り事情を説明したうえで、今度は蘆信さんと飛天くんから軍律と領内の兵としての役割を教えた。それで残りたい者は残り、去りたい者は去ってもいいと私は告げた。ちなみにちゃんと去る場合でも、それなりの旅費は与えることは約束した。いきなり、素寒貧で領内から放り出すわけにはいかない。
ただ、孫静さんの「若殿」という言葉で、千人あまりの兵士全員の目と表情が変わった。若殿、つまり孫策くんのこと。彼らもいずれ孫策くんが亡父と同じように天下へ名を轟かせることを信じているのだ。その願いと熱意が伝わった。
結果、一人も去る者はおらず、全員、私の領内に残ることになった。孫策くんのため、雌伏の時だと覚悟を決めたようだ。
こうして、私の領内に元孫堅軍の兵士千名が加わった。
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