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1章 ヴァーゲ交易港
6話 〈砂漠の薔薇〉
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魔界の本の翻訳――その仕事を請け負った翌日、僕はなぜか両手を塞がれていた。
右手をディアナ、左手をカーンに握られて、まるで親子のように並んで街中を歩いていた。
ディアナに言わせれば、ヴァーゲ交易港は栄える一方で、治安はそれほどよくないのだという。
国から派遣された憲兵や、自警団はいるものの、経済の発展のために黙認されている商売もある。それに女性や子供が巻き込まれる事件が、ここのところ多く発生しているらしい。
信用はできない。そう彼女は、しっかりと僕の手を握って離さなかった。
だからって、この形はないでしょう。僕はただ、露店を見て回りたいだけなのだ。
何度も不満を洩らしたけど、ディアナが僕の手を解放することはなかったし、終いには、唯一の頼りだったカーンも抵抗を諦めてしまった。
もう少し頑張って欲しかった。僕はそっと息を吐いた。
「大丈夫、リオ君。疲れた?」
僕のため息を疲労から来るものと勘違いしたのだろう。ディアナが僕のフードの中を覗き込んでくる。
彼女の視線は、昨晩のものとは大きく異なっていた。先の夕食の席では師を仰ぐような目だったのに、今ではすっかり幼い子供を見るような視線に変わっている。
大丈夫だよ、と僕が応じるとディアナは、
「体調を悪くしちゃったらお父さんも心配するだろうから、何かあったらきちんと言うのよ?」
お父さんと聞いて、一瞬頭が固まる。相棒を見上げると、彼は申し訳なさそうに肩を竦めた。
多分、僕とカーンの関係を訊かれて、咄嗟に応じた結果だろう。
確かに若い青年が、それなりに育った子供を連れていたら不思議に思う。兄弟にしては年が離れているように見えるだろうし、かと言って、親子としての認識も得難い。そんな微妙な外見年齢を、僕たちは持っていた。
説得するのも大変だったろう。労いの意も兼ねて、僕は口角を持ち上げた。
「さあ、さっさと買い物を済ませましょう。お土産屋さんも、後でちゃーんと覗くから、もう少しだけ付き合ってね、リオ君」
微笑むディアナの足取りは軽い。
流石は地元民と言うべきか、ディアナは手際よく食材を買い集めていった。
魚やパンを僕達を含めた人数分、余りないよう紙袋に入れ、量をごまかそうとする店主には一切引け取らず、それどころかオマケまで付けさせる。
彼女の話術、あるいは脅しには、舌を巻くものがある。よくも手を出さずに、渡した金以上の商品を得られるものだ。
ディアナに感心する一方で、僕には一つ気掛かりなことがあった。それは、僕達の見え方である。
傍《はた》からすれば、ディアナは夫と子供を連れているようにも見えるはずだ。
ディアナはまだ若い。彼女は以前、自らを「未亡人」と称していたが、彼女にはまだ出会いの可能性もある。それなのに、変な誤解をされてしまわないだろうか。
そんな時、僕の視界に見覚えのある姿が映った。薄汚れた幕の下に座り込む男、ディアナの兄ベンノ――僕たちに老婆を紹介してくれた人物だ。
布の上で胡坐をかいた彼は、誰かと話していた。ベンノの前にしゃがみ込む男性は、これまでに目にしてきた地元民と比べると、小綺麗な格好をしていた。
服はさほど汚れておらず、地元の民が揃って頭に巻いている布も、枝状の装飾や色のついた帯で彩られている。唯一同じ箇所は、肌の色くらいだろうか。ベンノやディアナ、老婆プランダと同じく、皮膚を小麦色に焦がしていた。
ふらりと立ち寄った客にしては随分と親しげだ。常連客だろうか。身振りを交え、焼けた肌に皺を作って会話を楽しんでいる。
ふとベンノの目がこちらを向く。どうやら僕達に気が付いたらしい。彼は、ニッと歯を見せて手を挙げた。
「おーい、ディアナ。三人揃ってお出掛けか?」
「……げえ」
ディアナが呻く。彼女の視線の先には、ベンノと話していた男の姿があった。
店先から持ち上がる男の面。顔つきに幼さを残す若い男はこちらを見ると、陽炎のようにゆらりと立ち上がる。震える指が僕たちを示した。
「ディ、ディアナ……その人たちは?」
「夫と子供」
「えっ、な、何で生きて――え、別人? どういうこと?」
男は戸惑っていた。僕も同じだった。何の躊躇もなく夫や子供だと紹介されたら、驚きもする。少しばかり男性が可哀想だった。
「て、ワケだから、じゃあね。毎度ありがとうございました~」
ひらひらと、非常に鮮やかな笑顔で、僕の手ともども左手を振るディアナ。一方の男は、ベンノと僕、カーン、そしてディアナを見、狼狽えていた。
ディアナが男や子供を連れていることが、余程衝撃だったのだろう。あまりにも大仰な戸惑い具合は、まるで劇か何かを見せられているかのようだ。
依然として穏やかな笑みを浮かべたディアナは、手を振り続ける。何を言うことなく、ただただ別れの仕草を繰り返す。
可哀想な人は混乱の表情を浮かべたまま、盗みが明るみになった泥棒のごとく背を丸めて、人混みの中へと消えていった。
それを確認するや否や、ディアナはふと息を吐いて、肩を竦めた。
「ごめんなさい、あんな嘘を吐いて。あの人、本当にしつこかったの。これでしばらく大人しくしているでしょう」
愉快そうにディアナは笑う。その様子からは、養母である老婆の気配が窺えた。
「まあ、あれはどうでもいいとして……お兄ちゃん、お弁当ね」
彼女は、腕から下げていた袋――買った物を入れておく袋とは異なるそれの中から、包みを取り出す。そしてそれを兄に手渡した。
買い物を終えた彼女が道端に広がる店を歩いて回っているのは、僕達の観光案内の他に、兄に弁当を届ける目的も兼ねているらしい。
朝早く出掛けなければならず、また店から離れられないベンノには、昼食を確保する暇がないのだろう。露天の経営は大変そうだ。
ベンノは「おう」と応じて小さな包みを受け取ると、先の男が去った方向を見遣る。黒い目には、微かな哀れみが映っていた。
「酷いやつだな、ディアナ。そろそろあいつの気も汲んでやれよ」
「しつこい男は嫌いなの。全く。こんな年まで女を作らずに、何をやっているんだか。……ああ、お兄ちゃんも同じか」
「酷いなぁ」
けらけらとベンノは笑う。ディアナの言葉をそれほど気にしていないのか、随分と呑気だった。だが代わりに彼は、
「さ、用がないなら帰った帰った。商売の邪魔だ」
「お兄ちゃん、酷い!」
「ああ、お前らは残っていいぞ。坊やに兄ちゃん、何か欲しいもの、あるか?」
ようやく商品をじっくりと見ることができる。心を踊らせた僕は、手を放してもらおうと僕の両側に立つ二人を見上げた。
流石にもう解放してくれるだろう。そう期待していたが、ディアナは全くそんな素振りを見せなかった。ぎゅっと僕の手を握り締めたまま、兄ベンノに対して軽い憤慨を示している。
「あのー、ディアナ?」
呼びかけてもディアナはやはり手を放さない。代わりにベンノが茶々を入れてきた。
「こんなオバサンの手、握っていたくないだろ。なあ、坊や。唾でもかけてやれ」
「ちょっと、お兄ちゃん!」
抗議するディアナだったが、ようやく彼女は手を放してくれた。次いでカーンも僕の手を解放する。掌を撫でる空気が心地よい。
ヴェルトラオム島と大陸の品とが多く集まる港と称するだけあって、ベンノの前に並べられた物の中は多くの様式を見せていた。
曲線を大事にするもの、先端に趣向を凝らすもの、細やかな彫金を施したもの、宝石を取り付けた派手なもの――あれこれとベンノからの説明を受ける中で、僕の目にある物が止まった。
「ねえ、これ何?」
渦を巻いた砂の塊。見ようによっては花のようにも取れる。
感心する僕の一方、ベンノは、口元を歪て苦い笑みを作った。
「あれ、あいつ、置いて行ったのか……。後で返さないと。これは〈砂漠の薔薇〉っつってな、ここの名産品なんだ」
「〈砂漠の薔薇〉……」
名前だけなら聞いたことがある。僕はもっとよく見ようと、被っていたフードを持ち上げる。
ベンノが店先に置かれた〈砂漠の薔薇〉を恭しく取り上げる。持ち上がった塊からは、薄茶の塵がこぼれた。乱暴に扱ったら、すぐにでも壊れてしまいそうだ。
本来は他人のものだ。僕が触って崩しでもしたら、申し訳ない。彼は躊躇う僕の手を掴むと、そっとその上に置いた。
ざらりとした、砂のような感覚が僕の肌に触れる。多少灰色っぽい線が入ってはいるものの、砂の塊に相違ない。だがそれは、形を崩すことなく僕の手に乗っている。
一体どのような原理で形を保っているのか。とても不思議で、新鮮だった。
「ばあさんが世話になった礼だ。銀貨七十枚でどうだ?」
「これは……いいかな。というか、人の持ち物でしょ。勝手に売っていいの?」
「おっと、そうだった。危ない危ない」
そう言って、ベンノは優しく〈砂漠の薔薇〉を取り上げると、自分の足元に降ろした。
「ま、買わなくても手に入るし……ちょっと遠出すりゃァ、そこら辺に落ちてるしな。金を出して買う価値はないか」
「これって落ちているものなの? 掘り出すんじゃなくて?」
「気になるか、坊や。でもな、悪い事は言わないからやめておけ」
商品を買わせるための文句――かと思いきや、よくよく考えてみれば、ベンノが持つ〈砂漠の薔薇〉が商品でないと明らかになった今、売り文句を口にする必要はない。そして、傍らに立っているディアナの反応を見ても、同意を示しているように見えた。
どうしてだろう。そんな疑問が、僕の中に湧き上がった。湧き上がりはしたものの、どうしても〈砂漠の薔薇〉を手に入れたいわけではない。だったら、素直に従うのが得策だ。
「分かった」
そう応じて僕は立ち上がる。すると退屈していたのか、余所に視線をやっていたディアナが反応した。
「終わった?」
「うん」
「じゃあ、帰りましょうか」
ディアナの右手が僕の左手を取る。僕は空いた右手でカーンの大きな手を掴んだ。目を丸くした相棒が見る。僕は笑って言ってやった。
「手を繋がないと危ないよ、お父さん」
右手をディアナ、左手をカーンに握られて、まるで親子のように並んで街中を歩いていた。
ディアナに言わせれば、ヴァーゲ交易港は栄える一方で、治安はそれほどよくないのだという。
国から派遣された憲兵や、自警団はいるものの、経済の発展のために黙認されている商売もある。それに女性や子供が巻き込まれる事件が、ここのところ多く発生しているらしい。
信用はできない。そう彼女は、しっかりと僕の手を握って離さなかった。
だからって、この形はないでしょう。僕はただ、露店を見て回りたいだけなのだ。
何度も不満を洩らしたけど、ディアナが僕の手を解放することはなかったし、終いには、唯一の頼りだったカーンも抵抗を諦めてしまった。
もう少し頑張って欲しかった。僕はそっと息を吐いた。
「大丈夫、リオ君。疲れた?」
僕のため息を疲労から来るものと勘違いしたのだろう。ディアナが僕のフードの中を覗き込んでくる。
彼女の視線は、昨晩のものとは大きく異なっていた。先の夕食の席では師を仰ぐような目だったのに、今ではすっかり幼い子供を見るような視線に変わっている。
大丈夫だよ、と僕が応じるとディアナは、
「体調を悪くしちゃったらお父さんも心配するだろうから、何かあったらきちんと言うのよ?」
お父さんと聞いて、一瞬頭が固まる。相棒を見上げると、彼は申し訳なさそうに肩を竦めた。
多分、僕とカーンの関係を訊かれて、咄嗟に応じた結果だろう。
確かに若い青年が、それなりに育った子供を連れていたら不思議に思う。兄弟にしては年が離れているように見えるだろうし、かと言って、親子としての認識も得難い。そんな微妙な外見年齢を、僕たちは持っていた。
説得するのも大変だったろう。労いの意も兼ねて、僕は口角を持ち上げた。
「さあ、さっさと買い物を済ませましょう。お土産屋さんも、後でちゃーんと覗くから、もう少しだけ付き合ってね、リオ君」
微笑むディアナの足取りは軽い。
流石は地元民と言うべきか、ディアナは手際よく食材を買い集めていった。
魚やパンを僕達を含めた人数分、余りないよう紙袋に入れ、量をごまかそうとする店主には一切引け取らず、それどころかオマケまで付けさせる。
彼女の話術、あるいは脅しには、舌を巻くものがある。よくも手を出さずに、渡した金以上の商品を得られるものだ。
ディアナに感心する一方で、僕には一つ気掛かりなことがあった。それは、僕達の見え方である。
傍《はた》からすれば、ディアナは夫と子供を連れているようにも見えるはずだ。
ディアナはまだ若い。彼女は以前、自らを「未亡人」と称していたが、彼女にはまだ出会いの可能性もある。それなのに、変な誤解をされてしまわないだろうか。
そんな時、僕の視界に見覚えのある姿が映った。薄汚れた幕の下に座り込む男、ディアナの兄ベンノ――僕たちに老婆を紹介してくれた人物だ。
布の上で胡坐をかいた彼は、誰かと話していた。ベンノの前にしゃがみ込む男性は、これまでに目にしてきた地元民と比べると、小綺麗な格好をしていた。
服はさほど汚れておらず、地元の民が揃って頭に巻いている布も、枝状の装飾や色のついた帯で彩られている。唯一同じ箇所は、肌の色くらいだろうか。ベンノやディアナ、老婆プランダと同じく、皮膚を小麦色に焦がしていた。
ふらりと立ち寄った客にしては随分と親しげだ。常連客だろうか。身振りを交え、焼けた肌に皺を作って会話を楽しんでいる。
ふとベンノの目がこちらを向く。どうやら僕達に気が付いたらしい。彼は、ニッと歯を見せて手を挙げた。
「おーい、ディアナ。三人揃ってお出掛けか?」
「……げえ」
ディアナが呻く。彼女の視線の先には、ベンノと話していた男の姿があった。
店先から持ち上がる男の面。顔つきに幼さを残す若い男はこちらを見ると、陽炎のようにゆらりと立ち上がる。震える指が僕たちを示した。
「ディ、ディアナ……その人たちは?」
「夫と子供」
「えっ、な、何で生きて――え、別人? どういうこと?」
男は戸惑っていた。僕も同じだった。何の躊躇もなく夫や子供だと紹介されたら、驚きもする。少しばかり男性が可哀想だった。
「て、ワケだから、じゃあね。毎度ありがとうございました~」
ひらひらと、非常に鮮やかな笑顔で、僕の手ともども左手を振るディアナ。一方の男は、ベンノと僕、カーン、そしてディアナを見、狼狽えていた。
ディアナが男や子供を連れていることが、余程衝撃だったのだろう。あまりにも大仰な戸惑い具合は、まるで劇か何かを見せられているかのようだ。
依然として穏やかな笑みを浮かべたディアナは、手を振り続ける。何を言うことなく、ただただ別れの仕草を繰り返す。
可哀想な人は混乱の表情を浮かべたまま、盗みが明るみになった泥棒のごとく背を丸めて、人混みの中へと消えていった。
それを確認するや否や、ディアナはふと息を吐いて、肩を竦めた。
「ごめんなさい、あんな嘘を吐いて。あの人、本当にしつこかったの。これでしばらく大人しくしているでしょう」
愉快そうにディアナは笑う。その様子からは、養母である老婆の気配が窺えた。
「まあ、あれはどうでもいいとして……お兄ちゃん、お弁当ね」
彼女は、腕から下げていた袋――買った物を入れておく袋とは異なるそれの中から、包みを取り出す。そしてそれを兄に手渡した。
買い物を終えた彼女が道端に広がる店を歩いて回っているのは、僕達の観光案内の他に、兄に弁当を届ける目的も兼ねているらしい。
朝早く出掛けなければならず、また店から離れられないベンノには、昼食を確保する暇がないのだろう。露天の経営は大変そうだ。
ベンノは「おう」と応じて小さな包みを受け取ると、先の男が去った方向を見遣る。黒い目には、微かな哀れみが映っていた。
「酷いやつだな、ディアナ。そろそろあいつの気も汲んでやれよ」
「しつこい男は嫌いなの。全く。こんな年まで女を作らずに、何をやっているんだか。……ああ、お兄ちゃんも同じか」
「酷いなぁ」
けらけらとベンノは笑う。ディアナの言葉をそれほど気にしていないのか、随分と呑気だった。だが代わりに彼は、
「さ、用がないなら帰った帰った。商売の邪魔だ」
「お兄ちゃん、酷い!」
「ああ、お前らは残っていいぞ。坊やに兄ちゃん、何か欲しいもの、あるか?」
ようやく商品をじっくりと見ることができる。心を踊らせた僕は、手を放してもらおうと僕の両側に立つ二人を見上げた。
流石にもう解放してくれるだろう。そう期待していたが、ディアナは全くそんな素振りを見せなかった。ぎゅっと僕の手を握り締めたまま、兄ベンノに対して軽い憤慨を示している。
「あのー、ディアナ?」
呼びかけてもディアナはやはり手を放さない。代わりにベンノが茶々を入れてきた。
「こんなオバサンの手、握っていたくないだろ。なあ、坊や。唾でもかけてやれ」
「ちょっと、お兄ちゃん!」
抗議するディアナだったが、ようやく彼女は手を放してくれた。次いでカーンも僕の手を解放する。掌を撫でる空気が心地よい。
ヴェルトラオム島と大陸の品とが多く集まる港と称するだけあって、ベンノの前に並べられた物の中は多くの様式を見せていた。
曲線を大事にするもの、先端に趣向を凝らすもの、細やかな彫金を施したもの、宝石を取り付けた派手なもの――あれこれとベンノからの説明を受ける中で、僕の目にある物が止まった。
「ねえ、これ何?」
渦を巻いた砂の塊。見ようによっては花のようにも取れる。
感心する僕の一方、ベンノは、口元を歪て苦い笑みを作った。
「あれ、あいつ、置いて行ったのか……。後で返さないと。これは〈砂漠の薔薇〉っつってな、ここの名産品なんだ」
「〈砂漠の薔薇〉……」
名前だけなら聞いたことがある。僕はもっとよく見ようと、被っていたフードを持ち上げる。
ベンノが店先に置かれた〈砂漠の薔薇〉を恭しく取り上げる。持ち上がった塊からは、薄茶の塵がこぼれた。乱暴に扱ったら、すぐにでも壊れてしまいそうだ。
本来は他人のものだ。僕が触って崩しでもしたら、申し訳ない。彼は躊躇う僕の手を掴むと、そっとその上に置いた。
ざらりとした、砂のような感覚が僕の肌に触れる。多少灰色っぽい線が入ってはいるものの、砂の塊に相違ない。だがそれは、形を崩すことなく僕の手に乗っている。
一体どのような原理で形を保っているのか。とても不思議で、新鮮だった。
「ばあさんが世話になった礼だ。銀貨七十枚でどうだ?」
「これは……いいかな。というか、人の持ち物でしょ。勝手に売っていいの?」
「おっと、そうだった。危ない危ない」
そう言って、ベンノは優しく〈砂漠の薔薇〉を取り上げると、自分の足元に降ろした。
「ま、買わなくても手に入るし……ちょっと遠出すりゃァ、そこら辺に落ちてるしな。金を出して買う価値はないか」
「これって落ちているものなの? 掘り出すんじゃなくて?」
「気になるか、坊や。でもな、悪い事は言わないからやめておけ」
商品を買わせるための文句――かと思いきや、よくよく考えてみれば、ベンノが持つ〈砂漠の薔薇〉が商品でないと明らかになった今、売り文句を口にする必要はない。そして、傍らに立っているディアナの反応を見ても、同意を示しているように見えた。
どうしてだろう。そんな疑問が、僕の中に湧き上がった。湧き上がりはしたものの、どうしても〈砂漠の薔薇〉を手に入れたいわけではない。だったら、素直に従うのが得策だ。
「分かった」
そう応じて僕は立ち上がる。すると退屈していたのか、余所に視線をやっていたディアナが反応した。
「終わった?」
「うん」
「じゃあ、帰りましょうか」
ディアナの右手が僕の左手を取る。僕は空いた右手でカーンの大きな手を掴んだ。目を丸くした相棒が見る。僕は笑って言ってやった。
「手を繋がないと危ないよ、お父さん」
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