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3話 こっちだ

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 遠征に出てから、早くも二つの季節が過ぎた。

 イアンとサミュエル、若き略奪者の旅路は決して楽なものではなく、それどころか困難を極めた。

 小さな村を襲い、食物や衣服、金目のものを奪い、そうして命を繋いでいたのだが、それも長くは続かなかった。カップランドの周辺は、先立つ遠征者によって開拓され尽くし、残飯すら残っていなかった。

 動物の捕獲の方法はダージリン教会で学んだが、実践経験が伴っているかと言われると否と応じるより他ならず、二人は衰弱の一途を辿っていた。

 しかも運悪く、季節は冬。動植物が眠りにつく頃である。

 秋のうちに保存食を作ることが出来なかったことは痛手だった。故郷から持ち出した食料も底を尽きかけている。このままではすぐに衰弱してしまうだろう。

 体力が残っている今のうちに適当な村へ盗みに入った方がよいか。パチパチと心細い音を立てる焚き火に当たりながら、イアンは思考を巡らせていた。

「……ごめん」

 不意にサミュエルが呟く。視線だけを動かして相棒の方を見遣れば、彼は続けた。弓弦に油を塗る手は動き続けている。

「シカ、また獲れなかった」

「二回目のチャレンジだもん、仕方ないよ。……モンスターの影響もあってか、最近は動物自体が少ないからね」

 この世界には、魔王と呼ばれる未知の存在がいる。それは悪の根源とも言うべき巨大な存在で、勇者と呼ばれる善の権化しか打ち倒すことは不可能なのだとか。その魔王が放つ配下もとい雑兵こそがモンスターであった。

 モンスターは生き物である。それを体現するかのように、それは草木を薙ぎ、動物を食らい弄ぶ。一時はその所為で人類が飢え死にしそうになった――そんな話を聞いたことがあるが、イアンは今まさにその状態であった。

 ふと視線を持ち上げると、俯くサミュエルの顔に深い影が落ちていることに気づいた。動きに合わせて揺れる前髪は今にも眼球を擦りそうでヒヤヒヤとする。手を伸ばして、ついとばかりに前髪を持ち上げると、怪訝そうな視線が突き刺さる。

「……何?」

「伸びたね、髪」

「切ってないからね」

「切ろうか?」

「縛ればいい」

「折角だし切ろうよ。おれみたいに短く――」

 かさり。

 草葉を擦る、小さな音。風の騒めきでも木々の気まぐれでもない、何かが通った音であった。イアンは傍らの剣を、サミュエルは手入れしたばかりの弓矢を握って膝を立てる。

 聞き違いかと安堵するほど長く静寂が降りた。じりじりと焼かれる項は明らかな殺意を感じ取り、黒の帳に隠された先を覗き窺う。

 痺れを切らしたのは向こうだった。焚き火が照らす淡光。それを踏み割く獣の足。イアンの頭はあろうかというその大きさに、どちらかがヒュと息を飲む。

 ノズルの長い灰色の毛。そこから伸びる逞しい肩と強靭な足腰。爪を隠すことの忘れた手は、今まさに飛び掛からんとばかりにピクピクと痙攣し、汚れた毛先がこれまでに仕留めた獲物の数を物語る。

「ワーウルフ……」

 二足歩行のオオカミ。それがイアンの前に立ち塞がっていた。

 はと見上げる。今は夜。しかも満月。獣系のモンスターが最も力を増す日であった。

 しまった。イアンは舌を打つ。獣系のモンスターは鼻がよい。いつもならば奥深い森の風下に位置取るのだが、髪の端をくすぐる風は風上を示している。獣の鼻に、イアンとサミュエルの存在は筒抜けであった。

 いつもの自分ならば、容易に予測出来たであろうことなのに。腹が空いていたからとは言い訳が効かない状況であった。

「おれが引き付ける。数打っていい、サミューは奴の動きを止めることに専念して!」

「……分かった」

 サミュエルは後ろに飛び、イアンは剣を抜き放つ。

 大人の相手はしてきた。ワーウルフはただそれよりも少し大きいだけで、少し素早いだけだ。何の問題もない。

 草木を揺るがす咆哮を上げ、ワーウルフが突っ込んでくる。

 鋭い爪が眼前に迫る。

 剣をしっかと掴み受け止めると、腕と肩が悲鳴を上げた。

 カッと燃え盛るような痛みが通り抜け、思わず顔をしかめる。しかしすぐに風切りの音が聞こえ、サミュエルの矢がワーウルフの目に突き刺さる。

「っ、ナイス!」

 緩んだ拘束からすり抜けて、筋肉の盛り上がる太腿へ切りつける。ワーウルフの体躯が傾き、悲鳴が鼓膜を貫いた。

 獣は正直だ。痛みにも怒りにも。

 『モンスター』なんて仰々しく呼ばれてはいるが、その本質は獣と大差ない。殺せないなら、殺される意識を植え付ければよい。お前が喧嘩を売った相手は、己を殺しうる存在なのだ。そう知らしめればよい。

 深手を負ったモンスターは、残った黄金の目に怒りを宿す。もう一息――振り下ろされる腕を潜り抜け、背後を取る。山脈のごとき背骨の浮く背へ向けて、刀身を突き出した。

 切っ先から手へ、腕へ。肉を割く生温い感覚が這い上がる。狙う場所は左半身。肩甲骨を避け、肋骨の隙間を縫い、肺へ、ひいては心臓へと刃を押し付ける。

 位置としては完璧だ。完璧に、心臓を貫いた。思わず口角が吊り上がる。しかしワーウルフは一瞬身体を硬直させるだけで、すぐに背に張り付いた『虫』を剥ぎ取ろうとした。

「なん、で――ッ」

 なぜ死なない。心臓は貫いた筈なのに。剣にしがみついて、イアンは歯噛みをする。

 まさかこれが、この生命力こそが、モンスターがモンスターたる所以だとでも言うのか。

 突然、脇腹に異物が食い込む。それは爪だった。振り上げ、横薙ぎと、脅威を晒し続けた肩とその可動域は、イアンの胴を易々と掴む。そうかと思えば、全身を鈍い衝撃が走った。

 肺から空気が押し出される。機動に特化した薄手の、鎧とも呼べない鎧では、地面に叩きつけられる衝撃を殺し切れなったようである。こんなことならば、多少機動力を犠牲にしても厚手のものを選ぶべきだった。頭の片隅で、冷静な自分が肩を落とす。

 霞む視界。張り付き虫から解放されたワーウルフは、背に剣を突き立てたままグルグルと喉を鳴らす。

 涎に混ざって赤い雫が滴ることから、臓腑にダメージは与えられているのだろう。しかし足りない。決定打にはならない。首を跳ねるか風穴を開けるかをしなければ、あの獣は動きを止めないのだろう。

 まさに化け物。

「こっちだ、ワーウルフ」

 よく通る声が闇夜の中に響き渡る。

 次の標的をサミュエルに定めたワーウルフの行動は早かった。地面を蹴り、咆哮と共にサミュエルとの距離を詰める。

 対するサミュエルは冷静そのものだった。大型のモンスターを相手取るのは初めてだというのに、その姿勢は獲物を前にするかのように落ち着いていた。

 キリキリと弓を引き絞り、矢を放す。なだらかな婉曲を描く矢は一直線にワーウルフの目――残った目へと突き刺さり、両目を潰す。

 獣は怯まない。鼻を、再度弦を引き絞る音を頼りに獲物の居場所を突き止め、その生命を食らわんとする。

 一瞬の出来事であった。

 血しぶきが吹き上げ、毛房が舞う。火に飛び込んだ血肉がジュワリと断末魔の叫びを上げる。

 倒れたのはワーウルフだった。口から後頭部にかけて風穴を開けた獣は、とうとう絶命したようである。

 恨みを込めて舌を突き出すと、ふと 焚き火の光に、見慣れた足が踏み入るのが見えた。

「イアン……」

 彼を勝利に導いたのは、間違いなく位置取りであった。イアンとワーウルフは焚き火の光の中で牙を交え、サミュエルは闇からそれを狙う。いくら明暗の順応に長けた獣とはいえ、準備を怠らなかった狩人には届かなかったようである。

「サミュー……へへ、ナイス。作戦勝ち、ってね」

 血の滲む脇腹を抑えながら半身を起こす。いつものように笑いかけるが、応える声はひどく頼りなかった。

「サミュー?」

 はと、息を飲んだ。

 美しい顔の右半分が、血に濡れていたのである。

 返り血ではない。明らかに彼から流れ出ている。

 あごを伝い、胸当てに落ちる。サミュエルはへらりと――久方振りに見る、気の抜けた笑みを浮かべた。

「今日は、突っ込まなかった」

「突っ込まなかったって……!」

 接近戦用のナイフを持ってワーウルフの口に手を突っ込まなかっただけ、まだマシであろう。だがそれにしても――イアンはいつになく頭の奥が沸騰するのが分かった。

 冷静な自分が、落ち着けと囁く。怒っても仕方ない。時間は戻らないのだから。

「言いたいことは山ほどあるけどっ、とにかく、その傷を何とかしよう。目は見えるね?」

「…………」

 サミュエルは答えない。嫌な予感がした。

「……先にご飯にしよう。お腹空いた」

「バッカじゃないの!?」

「じゃあイアンのお腹、見せて」

「じゃあって何、じゃあって!」

 こんなにも、彼は自由だったろうか。くらりと気が遠くなる。制止するサミュエルの手を押しのけて、患部を確認する。

 額から右目にかけて、ぱっくりと肉が開いていた。ワーウルフとの交差際、悪あがきとばかりに振り回された爪がたまたま彼の顔に当たったらしく、その傷はひどく不格好だ。

「多分、持っていかれた。何だっけ……目には目を?」

「…………」

 この怪我では怪しいだろう、傷が完治してもなお視力が戻るかどうか。イアンは専門家ではないから確かなことは言えないが、素人目に見ても絶望的である。

「……まだ、分からない。ちょっと待ってて」

 まずは水で患部を洗い流し、それから破傷風予防の為に軟膏を塗る。療養用のシェルターの建設はその後でよい。教会で身に着けた知識を引き出して、荷物袋から水筒と医療用品の入ったポーチを取り出す。

 圧迫止血を試みているが未だに指間に血の滲む身体は怠く、今すぐにでも目蓋を閉じたてしまいたくなる。水筒の水でじゃばじゃばと患部を洗い始めるサミュエルに安堵を覚えながら、サミュエルは医療用ポーチを開いた。

「……は?」

 そこには二つの小瓶が入るだけだった。火に晒してみると、微かに紫色に色づいている。ダージリン教会でよく飲んでいたイミリンドウの煎じ茶だった。

 触れてみるまでもない、その液体はすっかり冷え切っている。

 ダージリン教会は孤児院を兼ねている。

 身寄りのない子供を集め、国の為に『教育』を施す。そして王の悲願である『プレイヤー』の確保の為、遠征へと送り出すのだ。しかし、それだけだ。彼等の役目はそこまでだ。それ以降のことなど、どうでもよいのだ。

 きっと、これでもまだ温情がある方なのだろう。慣れ親しんだ味と共に、苦しむことなくこの世から離れられるのだから。

「イアン?」

 不思議そうにサミュエルが声をかけてくる。イアンは小瓶を医療用ポーチに押し戻すと、行き場のない憤怒を地面に流す。

「薬はおれが何とかする。だから、ちゃんと清潔にして。いいね」

 なぜ自分で用意しなかったのか。なぜ『温情』を受け取ってしまったのか。それだけが悔やまれる。金を稼いで自分で医療品を用意することくらい、出来たかもしれないのに。

 詰めが甘い。

 一人歯噛みをしていると、ふとサミュエルの手が――血に汚れた手が、焚き火へと伸びる。

「止血なら自分で何とかする。しばらく寝込むかもしれないけど、ご飯はあるから大丈夫だよね」

「ご飯って……」

 まさかモンスターのことじゃないよね。そう問うや否や、サミュエルは未だ燻る薪を、自らの顔に押し当てた。
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