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1巻
1-3
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二属性だということだけでなく、私の魔力量は多いらしく、本気で目指せば魔術師にもなれるらしい。自分ではそれほど得意ではないと思っていた攻撃魔術が、人よりもうまく使えるとわかり、それも自信につながっていく。新しい魔術を覚えるのは大変だし、団長さんは手加減をしないので魔術で吹っ飛ばされることもよくあった。だけど、それだけ本気で私を鍛えようとしてくれているのだとわかる。
自分は真面目に勉強と仕事をするしかできない人間だと思っていたのに、リゼットには特別な才能があると言ってもらえてうれしかったから、訓練がつらくても楽しかった。
団長さんの訓練が終わると、毎回のようにニコラ先生が団長さんを少しは手加減しろと叱り、助手さんが甘いお茶を淹れてくれる。それが温かくて、ここに迎え入れられていると感じられた。
学園に入ってから毎日をただ生きていただけだったのに、最後の半年間は本当に充実したものになった。
こんなに楽しいのならずっと学生でいたいと思っても、時間は過ぎていく。あっという間に卒業の日を迎えて、もうすぐ現実に戻らなければいけない。私はアルシェ伯爵家を継ぐ者として、領地に帰りダミアン様と結婚する。
ニコラ先生も団長さんも惜しんでくれたけれど、伯爵家を継ぐことは決められたことだ。それを自分勝手に放棄するなんて考えられなかった。
首席で卒業した後、一度寮の部屋に戻る。夕方からは講堂で卒業パーティーが開かれる予定だ。卒業生とその婚約者が招待されるもので、学生に人気の行事だった。これも公式の行事なので出席しなければ卒業を取り消されてしまうため、出席したくなくても顔だけは出さなければいけない。
だけど、パーティーに着ていくようなドレスはなく、ダミアン様から贈られてくることもなかった。さすがに卒業したら結婚するわけだし、パートナーとして誘われるだろうと思っていたが、今までどおり私はダミアン様に避けられていた。いい加減、卒業後はどうするのかダミアン様と話し合わなければいけないのに、話しかけることすら難しい。
結局、なんの進展もないまま今日を迎えてしまった。こうなったら制服で出席してもいいだろうか。平民のようだと笑われるかもしれないけれど、もとから笑われている身だ。ニコラ先生に挨拶したら会場からすぐ出よう。
そう思って入った卒業パーティーの会場で、思わぬ人と会うことになった。
「……どうして、ここに?」
「あら。お姉様。ようやくいらしたのね?」
二つ下の妹カミーユが青いドレスを着てダミアン様にエスコートされていた。小柄だがふくよかなカミーユは豊満な胸を見せつけるドレスを着て、ダミアン様の腕に寄りかかるように抱き着いている。
「どうしてここにカミーユが?」
そして、どうしてダミアン様にエスコートされているの?
疑問に答えるように、ダミアン様がカミーユの腰を抱いて髪に軽く口づけた。ダミアン様に触れられて、カミーユがうれしそうに微笑んでいる。まるで絵画の恋人たちのように。
「やっと気がついたのか? 俺はカミーユと結婚する」
「え?」
「三姉妹なんだから、誰と結婚してもいいだろう。俺はお前だけはごめんだ。アルシェ伯爵にも確認したが、誰を選んでもかまわないと言われた。俺はカミーユと結婚してアルシェ伯爵家を継ぐことにした」
いつ、ダミアン様はカミーユと出会ったの? 学園でカミーユと一緒にいるところを見たことはない。もしかして夜会? 一度もダミアン様に誘われなかったから、出席したことはなかった。いつの間に、二人はそんなことになっていたの……
「カミーユと結婚って……だって、領主としての仕事はどうするの?」
「やだぁ。お姉様ができるくらいの簡単な仕事、ダミアン様と私でもできるわよ。ぷっ。おっかしぃ。お姉様にしかできないとでも思っているの?」
「そんな……」
私が長女なのに、カミーユと結婚して伯爵家を継ぐ? そんなことできるはずはないと思いたいけれど、二人の自信満々な態度に言い返せない。まさか……本当に? お父様も許可を出したと? ありえないと言いたいけれど、お父様の無関心さを思い出す。
……ダミアン様が婿入りするのなら、継ぐのは誰でもいいのかも。そう考えたら、もう何も言えない。ダミアン様と結婚するのが私でなくてはいけない理由なんて一つもなかった。
「リゼットはどこにも行き場がないだろうから、卒業後も家には置いてやろう。俺の仕事を手伝うなら養ってやる」
「やだぁ。ダミアン様は優しいのね。こんな出来損ないのお姉様を養ってあげるなんて」
「仕方ないだろう。家から追い出して死なせたとなれば、いくらどうでもいい女でも外聞が悪くなる。カミーユがひどく言われるのは嫌だからな」
「ふふ。私のためだったのね。うれしいわ。お姉様、ごめんなさいね。ダミアン様は可愛らしい令嬢が好みなのですって。お姉様と比べたら私を選ぶのは当然でしょう? だから、恨まないでくださいね? あぁ、もう用事は済んだので、帰ってくださってけっこうよ?」
言いたいことは言い終えたのか、二人は去っていった。遠くで始まったダンスの音楽を背に、静かに会場から外に出る。
悔しくて苦しくて、走り出したいけれど、どこにも行き場がない。気がついたらニコラ先生の研究室に来ていた。
3
時は遡って一年前。リゼットが最終学年はダミアンとは違う教室がいいと祈っていた頃。学園に入学するカミーユが乗った馬車が王都の屋敷に着いた。一緒に馬車から降りたのは来年度入学する予定のセリーヌ。カミーユが王都の屋敷に住むと聞いて、自分もとついてきていた。
「ふうん。意外と大きい屋敷なのね」
領地の屋敷よりも一回り以上大きい屋敷を見て、セリーヌが不満そうにつぶやく。王都の屋敷のほうが豪華な造りなのも気に入らないのだろう。
「そうね。領地の屋敷のほうが大きいんだと思ってたわ。お母様はずっと領地から出ないし。おしゃれが大好きなお母様が王都に来ないくらいだから、つまらない場所なんだと思ってたのに」
「お母様が王都の屋敷に来ないのは、きっとリゼットお姉様がここにいるからじゃない?」
「そういえばそうだったわ。あの、みっともないお姉様がいるんだったわね」
とにかく外で話していても仕方がないと私たちは屋敷の中に入る。出迎えた高齢の男は侍女たちに部屋を用意するようにと指示を出した。
「カミーユ様とセリーヌ様ですね。家令のクレムと申します。今、部屋を用意していますので、こちらでお待ちください」
薄くなりかけた茶色の髪を一つに結んだクレムが応接室へと案内する。ソファに座りお茶を飲みながら屋敷の説明を受けると、意外なことがわかった。
「え? リゼットお姉様はこの屋敷にいないの?」
「はい。リゼット様は馬車代がもったいないとおっしゃって寮に入っています。ですので、カミーユ様も寮に入ることになります」
ここ数年間は会っていない、ぼさぼさの黒髪に気味の悪い眼鏡のお姉様。いつも猫背でうつむいたまま歩いている姿を思い出す。あの姿を見ると、どうしてあんなのが姉なのかと苛ついてしまう。だけど、この屋敷にいないのなら快適に過ごせそうだわ。
「嫌よ。寮だなんて、狭くて汚いって聞いたわ。普通の令嬢は寮に入らないのでしょう? ここから通うから馬車を用意して」
「ですが、馬車で学園に通うとなりますと、馬車だけではなく、御者と専属の侍女を雇わなくてはなりません。かなりの出費となります」
「いいから私の言うとおりにしなさい。どうせ来年はセリーヌも通うのよ? 馬車一台くらい買えばいいじゃない」
「はぁ……わかりました。リゼット様に確認いたします」
渋々といった感じだったが家令がうなずいたので満足していたら、お姉様に確認するという。
「どうして私の行動をお姉様に確認するの?」
「どうしてと言われましても、この伯爵家の次期当主はリゼット様ですから」
「はぁぁ? 聞いてないわよ、そんな話」
リゼットお姉様がこの伯爵家の次期当主? あのいつもおどおどしてみっともないお姉様が? 冗談でしょう? この家は私が継ぐんだってお母様が言っていたのに。
「リゼット様が王都の屋敷に来られたのは当主としての教育を受けるためでした。もう五年ほど前から領主の仕事はすべてリゼット様がされています。この屋敷の采配は私がとっておりますが、許可を出すのはリゼット様です」
「……どういうこと?」
たしかにお姉様は先に王都に呼ばれていた。あのとき、十歳になったばかりだったはず。それからもう七年。五年前から領主としての仕事をしている……? 嘘でしょう?
だったら、私はどうなるのよ。学園に入ったら婿を探して、卒業したらこの伯爵家を継ぐつもりだったのに。
何かの間違いだわ。お母様に手紙で聞いてみればわかる。そう思って何度か手紙を出した。お母様の返事はいつも同じだった。伯爵家を継ぐのはあなた、カミーユよ、と。
ほら、とその手紙を家令に見せたのに、家令は首をかしげるばかりだった。家令だけじゃない。この屋敷の使用人はお姉様が当主代理だと思っている。そのため、私とセリーヌの要望は通らないことが度々あった。
「カミーユ様、もうドレスは仕立てないでください。宝石の購入もお控えください」
「どうしてよ?」
「予算がありません。これ以上は請求書が来ても払えません」
「そんなのなんとかしなさいよ、家令なんでしょう?」
「はぁぁ。この件はリゼット様に報告いたします。払えなくなったら、つけでの買い物はできなくなります。それはご理解ください」
ため息をついて家令は部屋から出ていく。使えない家令。領地の屋敷の家令はそんなこと言わなかったのに。
「……お姉様、家令は何を言いに?」
「あぁ、セリーヌ」
気がついたら部屋にセリーヌが来ていた。
学園に通うのは来年度からだから、本当ならセリーヌはまだ領地にいるはずだった。なのに一人で領地に残るのもつまらないと言ってついてきている。私が学園に通っている間はどうするつもりなのかと思っていたが、お茶会で知り合った友人と遊びに行っていると聞いた。
休日に一緒に買い物へ行くことは多いが、平日に一緒に行動することは少なくなっている。それがさびしいのか、こうしてたまに私の部屋に遊びに来る。
「家令がね、これ以上買い物するなって。おっかしいのよ。リゼット様に報告します、って。報告してどうするんだか。お姉様がお金を出してくれるわけでもないのに」
「ねぇ、リゼットお姉様が次期当主って本当?」
「そんなわけないじゃない」
「でも、婿も決まっているって。あのお姉様に婚約者がいるって使用人たちが言うのよ?」
「は? 婚約者? 何それ、聞いてないわよ?」
本当にそんなのがいるのならまずい。さすがに婿が来るとなればお姉様がこの家を継ぐことが決定する。その前になんとかして邪魔をしなくては。
「なんでも、お父様の上司の息子さんなんですって。ダミアン・バルビゼ、伯爵家の二男だって。……ねぇ、名前まで出ているんじゃ本当かもしれないわよ?」
心配そうに聞いてくるセリーヌに何も返せなかった。
それから使用人たちに聞いて情報を集めた結果、婚約は本当のようだった。ダミアン・バルビゼがどんな人物なのか気になって、以前お茶会で話したことのある令嬢たちに手紙を送ってみた。
お父様の上司の息子さんが素敵な方らしい。ダミアン様について知っていたら教えていただけませんか? と。もし、お姉様との婚約を知っている令嬢だったとしても、妹が心配して調べているのだと思うだろう。
返ってきた手紙を見て、興奮を抑えられなかった。ダミアン様は婚約を公表していない。おそらく、ダミアン様もあのお姉様を受け入れたくないのだ。
高級な便箋を用意し、丁寧な言葉遣いでバルビゼ伯爵家に先触れを送る。婚約者のリゼットの妹です。王都に出てきたのでダミアン様にご挨拶させてください、と。
結婚後は親戚になるのだから、挨拶するのは当然だ。普通なら、一緒に住む前に何度か食事を共にして交流する。むしろ、婿入りするダミアン様がこちらに挨拶に来ないとおかしい。
バルビゼ家に到着すると、申し訳なさそうに伯爵夫人に迎え入れられた。どうやら伯爵夫人はもうすでにダミアン様が挨拶をしたと思っていたらしい。多分、お姉様と交流していないのも家には内緒にしているのだろうと思い、たまたま挨拶に来られたときにいなくて会えなかったのだと言っておいた。
「……待たせてすまない」
少し待たされた後、応接室のドアが開いて令息が入ってくる。謝りながらも不機嫌そうな顔をしていた令息は、私の姿を見て動きを止めた。
ふふ。きっとお姉様の妹だから、不細工だと思っていたんでしょう。私と目が合ったら、みるみるうちに顔が真っ赤になっていく。紺色の髪と青色の目。高めの身長にそれなりに整った顔立ち。こんな令息がお姉様と結婚するなんてもったいないわ。遊んでいると聞いていたけれど、思ったよりも純情そう。これならいけるかしら。
「カミーユ・アルシェですわ。お会いできてうれしいです」
「あ、ダミアン・バルビゼだ……本当にリゼットの妹?」
「ええ、本当の姉妹ですけど似ていませんよね? そのせいでお姉様には嫌われてしまっていて。あぁ、私がお姉様に嫌われるのは仕方ないんです。私はお母様に似たのですが、お姉様は誰に似たのかもわからなくて」
「あぁ、あの闇属性。両親のどちらにも似ていないとは聞いている」
「そのせいでお姉様が私と妹を虐めるので、見かねたお父様がお姉様を王都の屋敷に隔離することにしたのです」
「は? 虐めた? 君のような可愛い子を?」
「この色がうらやましいと……髪を引っ張られたり、泥水をかけられたり……一緒に暮らしていたときは本当に苦労しました」
なーんてね。お姉様とはほとんど話したこともないけど。いつも陰気臭い顔をして、お母様に叱られてばかり。あんなに優しいお母様を怒らせるなんて、どれだけひどいことをしたのか。それなのに何も反省しないでまた叱られている。お姉様がわざとやっているとしか思えない。
「なんてやつだ……婚約は解消できないけれど、できる限り君を虐めないように言うから」
「ダミアン様は本当にそれでよろしいのですか? 結婚するのはお姉様でなくてもいいのですよ?」
「それは本当か!?」
信じられないと言わんばかりの顔で、それでも期待している。もしそれが本当ならうれしい、という気持ちを隠せていない。でも、わかるわ。私だって、あんなお姉様と結婚しろって言われたら嫌だもの。
「ええ。お母様からは私が継ぐようにと言われています。ほら、これが証拠の手紙です。お父様はお姉様に継がせたいようですが、ダミアン様がお姉様では嫌なのであれば、お父様も私が継ぐことに反対できなくなるでしょう」
「俺は……君さえよければ、カミーユと結婚したい。リゼットとは結婚してもうまくいくとは思えない。ただ、領主としての仕事だけ心配だ。俺は領主としての教育を受けていない。今からでも間に合うだろうか」
ダミアン様が卒業するまであと一年もない。心配になるのはわかる。私も学園に通わなければいけないから、領主の仕事を手伝うというわけにもいかない。
「ふふ。そうだわ。お姉様に手伝わせましょう」
「リゼットに?」
「ええ。結婚しなくても、お姉様は家には戻ることになるでしょう? 伯爵家に置いておく代わりに仕事を手伝えと言えばいいのです。お姉様に仕事をさせている間にダミアン様が覚えていけばいいと思いますわ」
「そうだな。婚約解消しても家に帰るしかないもんな。じゃあ、万が一のことを考えて、卒業するまで言わないでおこう。そうすれば確実にどこにも行けず家に帰るしかなくなるから。あぁ、婚約の手続きとかは大丈夫だ。実は俺が全部預かっているんだ。王宮にも学園にも提出していない。婚約は口約束の状態なんだ」
「あら。じゃあ、簡単に変更できますね。お母様には私が伝えておきますわ」
「わかった。うちの親にはカミーユと婚約してから伝えるよ。どっちにしても婿入りするのなら、文句はないだろうから」
「ふふふ。これからよろしくお願いしますね?」
「あ、ああ!」
可愛らしく笑いかけて首をかしげてみたら、ダミアン様は笑っちゃいそうになるくらい上ずった声を出した。ごめんなさいね、お姉様。ダミアン様は私のほうが好みだったみたい。まぁ、当然なんだけど。
「ねぇねぇ、セリーヌ。私、ダミアン様と婚約することになったわ」
「え? ダミアン様って、リゼットお姉様の婚約者よね?」
「ええ、そうよ? でも、ダミアン様は私のほうが良いんですって。ふふ」
本当は卒業するまで内緒なんだけど、うれしくてセリーヌには屋敷に戻ってすぐに報告した。
「……領主の仕事はダミアン様が?」
「将来的にはそうなるわね。とりあえずはお姉様にやってもらって、ダミアン様が覚えたらもうお姉様はいらなくなるけど。そうなったら出ていってもらおうかしら」
「そう……大丈夫?」
「ダミアン様がいれば大丈夫よ。ふふふ。卒業するのが待ち遠しいわ」
そうして迎えたお姉様とダミアン様の卒業の日。用意した青いドレスを着て、ダミアン様と会場の手前で待ち合わせる。私を見たダミアン様がたまらないって顔になるのがわかる。
ダミアン様の周りにいた令嬢たちを押しのけ、腕を組んで微笑む。悔しがっていた令嬢たちも、私たちが婚約したことを聞くとあきらめて去っていった。
卒業パーティーが始まって少したった頃、会場に制服姿で入ってくる黒髪が見えた。リゼットお姉様、やっと来たのね。待っていたわ。何年かぶりに会ったお姉様だけど、相変わらずみっともなかった。少しは自分を磨こうとか思わないのかしら。平民でもないのに卒業パーティーに制服って。一応は婚約者だったダミアン様に恥をかかせる気なの?
今までダミアン様の婚約者として夢を見られただけ良いわよね。お姉様と婚約したい男性なんて、この先だって現れるわけないのだから。お姉様はお姉様らしく、私たちのために働いて地味に暮らしていけばいい。
言いたいことを言ってすっきりした後は、ダミアン様の婚約者としていろんな人に挨拶をして回る。みんな驚いていたけれど、私が伯爵家を継ぐことがわかると祝福してくれた。やっと伯爵家の次期当主の座を奪い返せた。だけど、喜びに浸っていられたのは、それから一週間だけだった。
ダミアン様が引っ越してくる日、一週間ぶりに会うダミアン様に抱き着いて挨拶した後、応接室で一息つこうとお茶をお願いする。頼んだのは侍女なのに、部屋に来たのは家令だった。
「あら? お茶を頼んだのだけど?」
「あぁ、そのうち来ると思います。ただ、私はこれを渡しに」
「何これ?」
「領主の仕事と、未払いの請求書です。どちらもお二人が処理しなければいけないものです」
テーブルに置かれた書類はふた山あった。一枚めくってみたけれど、細かい数字がたくさん並んでいて、何が書いてあるのかわからない。ダミアン様に渡してみたら、それを読んだダミアン様が渋い顔になる。
「仕事ならリゼットお姉様にやらせておいて?」
「リゼット様はいません」
「え?」
「ですから、リゼット様はこちらの屋敷には戻ってきていません。伯爵家の籍から抜けたそうですので、今後もこちらに帰ってくることはありません。仕事はダミアン様とカミーユ様がすると聞きましたが? リゼット様は伯爵家の印章と金庫の鍵もすべて返されています」
「はぁ?」
お姉様が伯爵家から抜けた? 嘘でしょう? 令嬢が一人で家を出てどこに行けるって言うのよ? まさか死のうとしている?
「リゼット様は王宮にお勤めになるそうです。首席での卒業ですから。伯爵家を継がなくても、就職先に困ることはありません」
「王宮に!? 困るわ! 今すぐ戻ってくるように言って!」
「無理です。リゼット様の配属先は内宮です。アルシェ伯爵様が勤めている法務室がある外宮とは違います。内宮は王族のお住まいでもありますから。許可がない者は貴族だろうと中に入ることはできません。手紙のやり取りも禁じられています」
「……嘘でしょう」
お姉様が帰ってこない……じゃあ、目の前に置かれた大量の仕事は? ダミアン様を見ると首を横に振っている。急にできるわけがないとその目が言っている。
お姉様にやらせて、そのうちダミアン様に仕事を覚えてもらう予定だったのに。だったら、どうすれば。はっとして、目の前にいる家令に命令した。
「あなたがすればいいじゃない! 家令なんでしょう?」
家令って金銭の管理も仕事なはず。だったら、領主の仕事もできるでしょう!
「申し訳ありませんが、私の契約は今日で切れることになっています」
「は? 契約?」
「ええ、リゼット様が戻られたら、家令を置く必要はなくなります。私ももう高齢です。そういう契約になっていました。リゼット様は戻られた後、家令ではなく執事を新しく雇う予定だったようです。家令を雇うのは大変ですからね」
「も、もう一度契約を!」
「この屋敷にはそんなお金は残っていませんよ。家令を雇うには執事の倍はかかります。カミーユ様とセリーヌ様が散財したせいです。ですから、必要以上の買い物をしないようにと忠告したのですが……この家の使用人たちには紹介状を渡してあります。給金が払われなくなったら他家に行けるようにとリゼット様が書かれたものです。早急にその書類をなんとかしないと、今月の給金を払えません。では、私は契約完了となりましたので、これで失礼いたします」
最後までにこりともしないで家令は部屋から出ていった。
部屋に二人残されて、ダミアン様と私は目の前の書類を一枚ずつ確認する。何一つわからない。請求書の金額がどれほど高いのかもわからない。だって、今までお金を気にしたことなんてなかったから、これがどのくらい大変なのかすらわからない。
「ダミアン様……どうしましょう?」
「お、俺、やっぱり家に戻る」
「は?」
「ほら、カミーユはまだ学園の二年だろう? 結婚するのは二年後になる。それまで一緒に暮らすのはやめておいたほうが良いよな」
「ダミアン様!?」
「ま、また連絡するっ」
青い顔のダミアン様が逃げるように部屋から出ていく。呆然としていると、セリーヌが部屋に入ってきた。
「やっぱりこうなったわよね」
「やっぱりって、何よ!」
「お友達にね、伯爵家の跡継ぎの令嬢がいるの。お茶するといつも愚痴を言うのよ。領主の仕事を覚えるのが大変だって。十歳から始めているのに、五年たっても少しも覚えられない。どうしたらいいのって。その令嬢、馬鹿じゃないのに苦労している様子だったから。きっとカミーユお姉様たちでは無理だろうなって思っていたのよ」
「……なんでそれを言わなかったのよ!」
「大丈夫? って聞いたじゃない。でも、何度聞いてもカミーユお姉様が継ぐんだって言い張ってて」
「何を呑気なこと言っているのよ! あなただってこれからどうやって生活していくの!」
どこか他人事のようなセリーヌに腹が立って怒鳴りつける。姉妹でケンカなんてほとんどしたことがないけれど、何を考えているかわからないセリーヌが腹立たしくなる。
「私は寮に入るから」
「は?」
「こうなると思っていたから、生活できなくなるんじゃないかって心配で。三年分の寮費と学費を全部お父様に先払いしてもらったの。そうしておいて本当に良かったわ。学園を卒業さえすれば、あとはどこかに嫁げば良いもの。あ、私もここには戻ってこないから、カミーユお姉様は頑張ってね?」
「………は?」
私と似たような顔で、可愛らしく微笑んだセリーヌは楽しそうに出ていった。あとに残されたのは私一人。頼んだはずのお茶も出てこない。さっきの侍女はどこに行ってしまった? 冷え切った部屋で大量の書類を抱え、動けずにいた。
4
「頼まれていた書類、これで合っていますか?」
「ええ、そうよ。ありがとう、リゼット。仕事には慣れたかしら?」
「はい!」
王宮の女官になって三か月が過ぎた。卒業してすぐ、学園の寮からそのまま王宮の寮へと引っ越した。荷物が少ないから、あっという間の引っ越しだった。
あの日、ボロボロ涙をこぼしながら研究室の前に立ちすくんでいる私を救ってくれたのは、ニコラ先生と団長さんだった。助手さんが出してくれた温かいミルクをちびちび飲みつつ、どうして泣いているのかを説明し終えたときには二人とも激怒していた。
「ありえん! アルシェ伯爵家はいったいどういう考えをしているんだ! 今までリゼットを嫡子として教育してきたんだろう!」
「領主の仕事が簡単にできるだと! ふざけるな! ダミアンなんぞにできるわけないだろう!」
団長さんとニコラ先生がそう叫んだときには、少しだけ笑ってしまった。
実の父親と妹が私のことなんてどうでもいいと思っているのに、まだ親しくなって半年の二人がこんなにも親身になってくれる。うれしくて、落ち着き始めたら恥ずかしくなった。
「すみません、卒業式の日に、こんな話を聞かせてしまって」
「いや、悪いのはリゼットじゃない」
「そうだ、リゼットを王宮女官に推薦していたな。王宮に行けばいい」
自分は真面目に勉強と仕事をするしかできない人間だと思っていたのに、リゼットには特別な才能があると言ってもらえてうれしかったから、訓練がつらくても楽しかった。
団長さんの訓練が終わると、毎回のようにニコラ先生が団長さんを少しは手加減しろと叱り、助手さんが甘いお茶を淹れてくれる。それが温かくて、ここに迎え入れられていると感じられた。
学園に入ってから毎日をただ生きていただけだったのに、最後の半年間は本当に充実したものになった。
こんなに楽しいのならずっと学生でいたいと思っても、時間は過ぎていく。あっという間に卒業の日を迎えて、もうすぐ現実に戻らなければいけない。私はアルシェ伯爵家を継ぐ者として、領地に帰りダミアン様と結婚する。
ニコラ先生も団長さんも惜しんでくれたけれど、伯爵家を継ぐことは決められたことだ。それを自分勝手に放棄するなんて考えられなかった。
首席で卒業した後、一度寮の部屋に戻る。夕方からは講堂で卒業パーティーが開かれる予定だ。卒業生とその婚約者が招待されるもので、学生に人気の行事だった。これも公式の行事なので出席しなければ卒業を取り消されてしまうため、出席したくなくても顔だけは出さなければいけない。
だけど、パーティーに着ていくようなドレスはなく、ダミアン様から贈られてくることもなかった。さすがに卒業したら結婚するわけだし、パートナーとして誘われるだろうと思っていたが、今までどおり私はダミアン様に避けられていた。いい加減、卒業後はどうするのかダミアン様と話し合わなければいけないのに、話しかけることすら難しい。
結局、なんの進展もないまま今日を迎えてしまった。こうなったら制服で出席してもいいだろうか。平民のようだと笑われるかもしれないけれど、もとから笑われている身だ。ニコラ先生に挨拶したら会場からすぐ出よう。
そう思って入った卒業パーティーの会場で、思わぬ人と会うことになった。
「……どうして、ここに?」
「あら。お姉様。ようやくいらしたのね?」
二つ下の妹カミーユが青いドレスを着てダミアン様にエスコートされていた。小柄だがふくよかなカミーユは豊満な胸を見せつけるドレスを着て、ダミアン様の腕に寄りかかるように抱き着いている。
「どうしてここにカミーユが?」
そして、どうしてダミアン様にエスコートされているの?
疑問に答えるように、ダミアン様がカミーユの腰を抱いて髪に軽く口づけた。ダミアン様に触れられて、カミーユがうれしそうに微笑んでいる。まるで絵画の恋人たちのように。
「やっと気がついたのか? 俺はカミーユと結婚する」
「え?」
「三姉妹なんだから、誰と結婚してもいいだろう。俺はお前だけはごめんだ。アルシェ伯爵にも確認したが、誰を選んでもかまわないと言われた。俺はカミーユと結婚してアルシェ伯爵家を継ぐことにした」
いつ、ダミアン様はカミーユと出会ったの? 学園でカミーユと一緒にいるところを見たことはない。もしかして夜会? 一度もダミアン様に誘われなかったから、出席したことはなかった。いつの間に、二人はそんなことになっていたの……
「カミーユと結婚って……だって、領主としての仕事はどうするの?」
「やだぁ。お姉様ができるくらいの簡単な仕事、ダミアン様と私でもできるわよ。ぷっ。おっかしぃ。お姉様にしかできないとでも思っているの?」
「そんな……」
私が長女なのに、カミーユと結婚して伯爵家を継ぐ? そんなことできるはずはないと思いたいけれど、二人の自信満々な態度に言い返せない。まさか……本当に? お父様も許可を出したと? ありえないと言いたいけれど、お父様の無関心さを思い出す。
……ダミアン様が婿入りするのなら、継ぐのは誰でもいいのかも。そう考えたら、もう何も言えない。ダミアン様と結婚するのが私でなくてはいけない理由なんて一つもなかった。
「リゼットはどこにも行き場がないだろうから、卒業後も家には置いてやろう。俺の仕事を手伝うなら養ってやる」
「やだぁ。ダミアン様は優しいのね。こんな出来損ないのお姉様を養ってあげるなんて」
「仕方ないだろう。家から追い出して死なせたとなれば、いくらどうでもいい女でも外聞が悪くなる。カミーユがひどく言われるのは嫌だからな」
「ふふ。私のためだったのね。うれしいわ。お姉様、ごめんなさいね。ダミアン様は可愛らしい令嬢が好みなのですって。お姉様と比べたら私を選ぶのは当然でしょう? だから、恨まないでくださいね? あぁ、もう用事は済んだので、帰ってくださってけっこうよ?」
言いたいことは言い終えたのか、二人は去っていった。遠くで始まったダンスの音楽を背に、静かに会場から外に出る。
悔しくて苦しくて、走り出したいけれど、どこにも行き場がない。気がついたらニコラ先生の研究室に来ていた。
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時は遡って一年前。リゼットが最終学年はダミアンとは違う教室がいいと祈っていた頃。学園に入学するカミーユが乗った馬車が王都の屋敷に着いた。一緒に馬車から降りたのは来年度入学する予定のセリーヌ。カミーユが王都の屋敷に住むと聞いて、自分もとついてきていた。
「ふうん。意外と大きい屋敷なのね」
領地の屋敷よりも一回り以上大きい屋敷を見て、セリーヌが不満そうにつぶやく。王都の屋敷のほうが豪華な造りなのも気に入らないのだろう。
「そうね。領地の屋敷のほうが大きいんだと思ってたわ。お母様はずっと領地から出ないし。おしゃれが大好きなお母様が王都に来ないくらいだから、つまらない場所なんだと思ってたのに」
「お母様が王都の屋敷に来ないのは、きっとリゼットお姉様がここにいるからじゃない?」
「そういえばそうだったわ。あの、みっともないお姉様がいるんだったわね」
とにかく外で話していても仕方がないと私たちは屋敷の中に入る。出迎えた高齢の男は侍女たちに部屋を用意するようにと指示を出した。
「カミーユ様とセリーヌ様ですね。家令のクレムと申します。今、部屋を用意していますので、こちらでお待ちください」
薄くなりかけた茶色の髪を一つに結んだクレムが応接室へと案内する。ソファに座りお茶を飲みながら屋敷の説明を受けると、意外なことがわかった。
「え? リゼットお姉様はこの屋敷にいないの?」
「はい。リゼット様は馬車代がもったいないとおっしゃって寮に入っています。ですので、カミーユ様も寮に入ることになります」
ここ数年間は会っていない、ぼさぼさの黒髪に気味の悪い眼鏡のお姉様。いつも猫背でうつむいたまま歩いている姿を思い出す。あの姿を見ると、どうしてあんなのが姉なのかと苛ついてしまう。だけど、この屋敷にいないのなら快適に過ごせそうだわ。
「嫌よ。寮だなんて、狭くて汚いって聞いたわ。普通の令嬢は寮に入らないのでしょう? ここから通うから馬車を用意して」
「ですが、馬車で学園に通うとなりますと、馬車だけではなく、御者と専属の侍女を雇わなくてはなりません。かなりの出費となります」
「いいから私の言うとおりにしなさい。どうせ来年はセリーヌも通うのよ? 馬車一台くらい買えばいいじゃない」
「はぁ……わかりました。リゼット様に確認いたします」
渋々といった感じだったが家令がうなずいたので満足していたら、お姉様に確認するという。
「どうして私の行動をお姉様に確認するの?」
「どうしてと言われましても、この伯爵家の次期当主はリゼット様ですから」
「はぁぁ? 聞いてないわよ、そんな話」
リゼットお姉様がこの伯爵家の次期当主? あのいつもおどおどしてみっともないお姉様が? 冗談でしょう? この家は私が継ぐんだってお母様が言っていたのに。
「リゼット様が王都の屋敷に来られたのは当主としての教育を受けるためでした。もう五年ほど前から領主の仕事はすべてリゼット様がされています。この屋敷の采配は私がとっておりますが、許可を出すのはリゼット様です」
「……どういうこと?」
たしかにお姉様は先に王都に呼ばれていた。あのとき、十歳になったばかりだったはず。それからもう七年。五年前から領主としての仕事をしている……? 嘘でしょう?
だったら、私はどうなるのよ。学園に入ったら婿を探して、卒業したらこの伯爵家を継ぐつもりだったのに。
何かの間違いだわ。お母様に手紙で聞いてみればわかる。そう思って何度か手紙を出した。お母様の返事はいつも同じだった。伯爵家を継ぐのはあなた、カミーユよ、と。
ほら、とその手紙を家令に見せたのに、家令は首をかしげるばかりだった。家令だけじゃない。この屋敷の使用人はお姉様が当主代理だと思っている。そのため、私とセリーヌの要望は通らないことが度々あった。
「カミーユ様、もうドレスは仕立てないでください。宝石の購入もお控えください」
「どうしてよ?」
「予算がありません。これ以上は請求書が来ても払えません」
「そんなのなんとかしなさいよ、家令なんでしょう?」
「はぁぁ。この件はリゼット様に報告いたします。払えなくなったら、つけでの買い物はできなくなります。それはご理解ください」
ため息をついて家令は部屋から出ていく。使えない家令。領地の屋敷の家令はそんなこと言わなかったのに。
「……お姉様、家令は何を言いに?」
「あぁ、セリーヌ」
気がついたら部屋にセリーヌが来ていた。
学園に通うのは来年度からだから、本当ならセリーヌはまだ領地にいるはずだった。なのに一人で領地に残るのもつまらないと言ってついてきている。私が学園に通っている間はどうするつもりなのかと思っていたが、お茶会で知り合った友人と遊びに行っていると聞いた。
休日に一緒に買い物へ行くことは多いが、平日に一緒に行動することは少なくなっている。それがさびしいのか、こうしてたまに私の部屋に遊びに来る。
「家令がね、これ以上買い物するなって。おっかしいのよ。リゼット様に報告します、って。報告してどうするんだか。お姉様がお金を出してくれるわけでもないのに」
「ねぇ、リゼットお姉様が次期当主って本当?」
「そんなわけないじゃない」
「でも、婿も決まっているって。あのお姉様に婚約者がいるって使用人たちが言うのよ?」
「は? 婚約者? 何それ、聞いてないわよ?」
本当にそんなのがいるのならまずい。さすがに婿が来るとなればお姉様がこの家を継ぐことが決定する。その前になんとかして邪魔をしなくては。
「なんでも、お父様の上司の息子さんなんですって。ダミアン・バルビゼ、伯爵家の二男だって。……ねぇ、名前まで出ているんじゃ本当かもしれないわよ?」
心配そうに聞いてくるセリーヌに何も返せなかった。
それから使用人たちに聞いて情報を集めた結果、婚約は本当のようだった。ダミアン・バルビゼがどんな人物なのか気になって、以前お茶会で話したことのある令嬢たちに手紙を送ってみた。
お父様の上司の息子さんが素敵な方らしい。ダミアン様について知っていたら教えていただけませんか? と。もし、お姉様との婚約を知っている令嬢だったとしても、妹が心配して調べているのだと思うだろう。
返ってきた手紙を見て、興奮を抑えられなかった。ダミアン様は婚約を公表していない。おそらく、ダミアン様もあのお姉様を受け入れたくないのだ。
高級な便箋を用意し、丁寧な言葉遣いでバルビゼ伯爵家に先触れを送る。婚約者のリゼットの妹です。王都に出てきたのでダミアン様にご挨拶させてください、と。
結婚後は親戚になるのだから、挨拶するのは当然だ。普通なら、一緒に住む前に何度か食事を共にして交流する。むしろ、婿入りするダミアン様がこちらに挨拶に来ないとおかしい。
バルビゼ家に到着すると、申し訳なさそうに伯爵夫人に迎え入れられた。どうやら伯爵夫人はもうすでにダミアン様が挨拶をしたと思っていたらしい。多分、お姉様と交流していないのも家には内緒にしているのだろうと思い、たまたま挨拶に来られたときにいなくて会えなかったのだと言っておいた。
「……待たせてすまない」
少し待たされた後、応接室のドアが開いて令息が入ってくる。謝りながらも不機嫌そうな顔をしていた令息は、私の姿を見て動きを止めた。
ふふ。きっとお姉様の妹だから、不細工だと思っていたんでしょう。私と目が合ったら、みるみるうちに顔が真っ赤になっていく。紺色の髪と青色の目。高めの身長にそれなりに整った顔立ち。こんな令息がお姉様と結婚するなんてもったいないわ。遊んでいると聞いていたけれど、思ったよりも純情そう。これならいけるかしら。
「カミーユ・アルシェですわ。お会いできてうれしいです」
「あ、ダミアン・バルビゼだ……本当にリゼットの妹?」
「ええ、本当の姉妹ですけど似ていませんよね? そのせいでお姉様には嫌われてしまっていて。あぁ、私がお姉様に嫌われるのは仕方ないんです。私はお母様に似たのですが、お姉様は誰に似たのかもわからなくて」
「あぁ、あの闇属性。両親のどちらにも似ていないとは聞いている」
「そのせいでお姉様が私と妹を虐めるので、見かねたお父様がお姉様を王都の屋敷に隔離することにしたのです」
「は? 虐めた? 君のような可愛い子を?」
「この色がうらやましいと……髪を引っ張られたり、泥水をかけられたり……一緒に暮らしていたときは本当に苦労しました」
なーんてね。お姉様とはほとんど話したこともないけど。いつも陰気臭い顔をして、お母様に叱られてばかり。あんなに優しいお母様を怒らせるなんて、どれだけひどいことをしたのか。それなのに何も反省しないでまた叱られている。お姉様がわざとやっているとしか思えない。
「なんてやつだ……婚約は解消できないけれど、できる限り君を虐めないように言うから」
「ダミアン様は本当にそれでよろしいのですか? 結婚するのはお姉様でなくてもいいのですよ?」
「それは本当か!?」
信じられないと言わんばかりの顔で、それでも期待している。もしそれが本当ならうれしい、という気持ちを隠せていない。でも、わかるわ。私だって、あんなお姉様と結婚しろって言われたら嫌だもの。
「ええ。お母様からは私が継ぐようにと言われています。ほら、これが証拠の手紙です。お父様はお姉様に継がせたいようですが、ダミアン様がお姉様では嫌なのであれば、お父様も私が継ぐことに反対できなくなるでしょう」
「俺は……君さえよければ、カミーユと結婚したい。リゼットとは結婚してもうまくいくとは思えない。ただ、領主としての仕事だけ心配だ。俺は領主としての教育を受けていない。今からでも間に合うだろうか」
ダミアン様が卒業するまであと一年もない。心配になるのはわかる。私も学園に通わなければいけないから、領主の仕事を手伝うというわけにもいかない。
「ふふ。そうだわ。お姉様に手伝わせましょう」
「リゼットに?」
「ええ。結婚しなくても、お姉様は家には戻ることになるでしょう? 伯爵家に置いておく代わりに仕事を手伝えと言えばいいのです。お姉様に仕事をさせている間にダミアン様が覚えていけばいいと思いますわ」
「そうだな。婚約解消しても家に帰るしかないもんな。じゃあ、万が一のことを考えて、卒業するまで言わないでおこう。そうすれば確実にどこにも行けず家に帰るしかなくなるから。あぁ、婚約の手続きとかは大丈夫だ。実は俺が全部預かっているんだ。王宮にも学園にも提出していない。婚約は口約束の状態なんだ」
「あら。じゃあ、簡単に変更できますね。お母様には私が伝えておきますわ」
「わかった。うちの親にはカミーユと婚約してから伝えるよ。どっちにしても婿入りするのなら、文句はないだろうから」
「ふふふ。これからよろしくお願いしますね?」
「あ、ああ!」
可愛らしく笑いかけて首をかしげてみたら、ダミアン様は笑っちゃいそうになるくらい上ずった声を出した。ごめんなさいね、お姉様。ダミアン様は私のほうが好みだったみたい。まぁ、当然なんだけど。
「ねぇねぇ、セリーヌ。私、ダミアン様と婚約することになったわ」
「え? ダミアン様って、リゼットお姉様の婚約者よね?」
「ええ、そうよ? でも、ダミアン様は私のほうが良いんですって。ふふ」
本当は卒業するまで内緒なんだけど、うれしくてセリーヌには屋敷に戻ってすぐに報告した。
「……領主の仕事はダミアン様が?」
「将来的にはそうなるわね。とりあえずはお姉様にやってもらって、ダミアン様が覚えたらもうお姉様はいらなくなるけど。そうなったら出ていってもらおうかしら」
「そう……大丈夫?」
「ダミアン様がいれば大丈夫よ。ふふふ。卒業するのが待ち遠しいわ」
そうして迎えたお姉様とダミアン様の卒業の日。用意した青いドレスを着て、ダミアン様と会場の手前で待ち合わせる。私を見たダミアン様がたまらないって顔になるのがわかる。
ダミアン様の周りにいた令嬢たちを押しのけ、腕を組んで微笑む。悔しがっていた令嬢たちも、私たちが婚約したことを聞くとあきらめて去っていった。
卒業パーティーが始まって少したった頃、会場に制服姿で入ってくる黒髪が見えた。リゼットお姉様、やっと来たのね。待っていたわ。何年かぶりに会ったお姉様だけど、相変わらずみっともなかった。少しは自分を磨こうとか思わないのかしら。平民でもないのに卒業パーティーに制服って。一応は婚約者だったダミアン様に恥をかかせる気なの?
今までダミアン様の婚約者として夢を見られただけ良いわよね。お姉様と婚約したい男性なんて、この先だって現れるわけないのだから。お姉様はお姉様らしく、私たちのために働いて地味に暮らしていけばいい。
言いたいことを言ってすっきりした後は、ダミアン様の婚約者としていろんな人に挨拶をして回る。みんな驚いていたけれど、私が伯爵家を継ぐことがわかると祝福してくれた。やっと伯爵家の次期当主の座を奪い返せた。だけど、喜びに浸っていられたのは、それから一週間だけだった。
ダミアン様が引っ越してくる日、一週間ぶりに会うダミアン様に抱き着いて挨拶した後、応接室で一息つこうとお茶をお願いする。頼んだのは侍女なのに、部屋に来たのは家令だった。
「あら? お茶を頼んだのだけど?」
「あぁ、そのうち来ると思います。ただ、私はこれを渡しに」
「何これ?」
「領主の仕事と、未払いの請求書です。どちらもお二人が処理しなければいけないものです」
テーブルに置かれた書類はふた山あった。一枚めくってみたけれど、細かい数字がたくさん並んでいて、何が書いてあるのかわからない。ダミアン様に渡してみたら、それを読んだダミアン様が渋い顔になる。
「仕事ならリゼットお姉様にやらせておいて?」
「リゼット様はいません」
「え?」
「ですから、リゼット様はこちらの屋敷には戻ってきていません。伯爵家の籍から抜けたそうですので、今後もこちらに帰ってくることはありません。仕事はダミアン様とカミーユ様がすると聞きましたが? リゼット様は伯爵家の印章と金庫の鍵もすべて返されています」
「はぁ?」
お姉様が伯爵家から抜けた? 嘘でしょう? 令嬢が一人で家を出てどこに行けるって言うのよ? まさか死のうとしている?
「リゼット様は王宮にお勤めになるそうです。首席での卒業ですから。伯爵家を継がなくても、就職先に困ることはありません」
「王宮に!? 困るわ! 今すぐ戻ってくるように言って!」
「無理です。リゼット様の配属先は内宮です。アルシェ伯爵様が勤めている法務室がある外宮とは違います。内宮は王族のお住まいでもありますから。許可がない者は貴族だろうと中に入ることはできません。手紙のやり取りも禁じられています」
「……嘘でしょう」
お姉様が帰ってこない……じゃあ、目の前に置かれた大量の仕事は? ダミアン様を見ると首を横に振っている。急にできるわけがないとその目が言っている。
お姉様にやらせて、そのうちダミアン様に仕事を覚えてもらう予定だったのに。だったら、どうすれば。はっとして、目の前にいる家令に命令した。
「あなたがすればいいじゃない! 家令なんでしょう?」
家令って金銭の管理も仕事なはず。だったら、領主の仕事もできるでしょう!
「申し訳ありませんが、私の契約は今日で切れることになっています」
「は? 契約?」
「ええ、リゼット様が戻られたら、家令を置く必要はなくなります。私ももう高齢です。そういう契約になっていました。リゼット様は戻られた後、家令ではなく執事を新しく雇う予定だったようです。家令を雇うのは大変ですからね」
「も、もう一度契約を!」
「この屋敷にはそんなお金は残っていませんよ。家令を雇うには執事の倍はかかります。カミーユ様とセリーヌ様が散財したせいです。ですから、必要以上の買い物をしないようにと忠告したのですが……この家の使用人たちには紹介状を渡してあります。給金が払われなくなったら他家に行けるようにとリゼット様が書かれたものです。早急にその書類をなんとかしないと、今月の給金を払えません。では、私は契約完了となりましたので、これで失礼いたします」
最後までにこりともしないで家令は部屋から出ていった。
部屋に二人残されて、ダミアン様と私は目の前の書類を一枚ずつ確認する。何一つわからない。請求書の金額がどれほど高いのかもわからない。だって、今までお金を気にしたことなんてなかったから、これがどのくらい大変なのかすらわからない。
「ダミアン様……どうしましょう?」
「お、俺、やっぱり家に戻る」
「は?」
「ほら、カミーユはまだ学園の二年だろう? 結婚するのは二年後になる。それまで一緒に暮らすのはやめておいたほうが良いよな」
「ダミアン様!?」
「ま、また連絡するっ」
青い顔のダミアン様が逃げるように部屋から出ていく。呆然としていると、セリーヌが部屋に入ってきた。
「やっぱりこうなったわよね」
「やっぱりって、何よ!」
「お友達にね、伯爵家の跡継ぎの令嬢がいるの。お茶するといつも愚痴を言うのよ。領主の仕事を覚えるのが大変だって。十歳から始めているのに、五年たっても少しも覚えられない。どうしたらいいのって。その令嬢、馬鹿じゃないのに苦労している様子だったから。きっとカミーユお姉様たちでは無理だろうなって思っていたのよ」
「……なんでそれを言わなかったのよ!」
「大丈夫? って聞いたじゃない。でも、何度聞いてもカミーユお姉様が継ぐんだって言い張ってて」
「何を呑気なこと言っているのよ! あなただってこれからどうやって生活していくの!」
どこか他人事のようなセリーヌに腹が立って怒鳴りつける。姉妹でケンカなんてほとんどしたことがないけれど、何を考えているかわからないセリーヌが腹立たしくなる。
「私は寮に入るから」
「は?」
「こうなると思っていたから、生活できなくなるんじゃないかって心配で。三年分の寮費と学費を全部お父様に先払いしてもらったの。そうしておいて本当に良かったわ。学園を卒業さえすれば、あとはどこかに嫁げば良いもの。あ、私もここには戻ってこないから、カミーユお姉様は頑張ってね?」
「………は?」
私と似たような顔で、可愛らしく微笑んだセリーヌは楽しそうに出ていった。あとに残されたのは私一人。頼んだはずのお茶も出てこない。さっきの侍女はどこに行ってしまった? 冷え切った部屋で大量の書類を抱え、動けずにいた。
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「頼まれていた書類、これで合っていますか?」
「ええ、そうよ。ありがとう、リゼット。仕事には慣れたかしら?」
「はい!」
王宮の女官になって三か月が過ぎた。卒業してすぐ、学園の寮からそのまま王宮の寮へと引っ越した。荷物が少ないから、あっという間の引っ越しだった。
あの日、ボロボロ涙をこぼしながら研究室の前に立ちすくんでいる私を救ってくれたのは、ニコラ先生と団長さんだった。助手さんが出してくれた温かいミルクをちびちび飲みつつ、どうして泣いているのかを説明し終えたときには二人とも激怒していた。
「ありえん! アルシェ伯爵家はいったいどういう考えをしているんだ! 今までリゼットを嫡子として教育してきたんだろう!」
「領主の仕事が簡単にできるだと! ふざけるな! ダミアンなんぞにできるわけないだろう!」
団長さんとニコラ先生がそう叫んだときには、少しだけ笑ってしまった。
実の父親と妹が私のことなんてどうでもいいと思っているのに、まだ親しくなって半年の二人がこんなにも親身になってくれる。うれしくて、落ち着き始めたら恥ずかしくなった。
「すみません、卒業式の日に、こんな話を聞かせてしまって」
「いや、悪いのはリゼットじゃない」
「そうだ、リゼットを王宮女官に推薦していたな。王宮に行けばいい」
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