2 / 21
1巻
1-2
しおりを挟む
馬車の中でもお父様は仕事をしているので、ずっと書類を見ていた。私はいないもののように扱われていたが、そんなことは慣れている。王都へ向かう馬車の中で気持ちを切り替えた後は、これからの生活を考えてうきうきする心を抑えきれなかった。
王都の屋敷の使用人たちには初めて会ったが、特に優しくも冷たくもなかった。仕事として接しているように感じられたが、何も問題はない。
領主になるための勉強を見てくれたのは、王都の屋敷の家令クレムだった。高齢のクレムは王宮で働いていたこともある優秀な家令で、十歳の私に領主になる勉強をさせろと言ったお父様にいい顔はしなかった。まだ早いのではないかと。それもそのはず、領主になるための勉強は厳しいものだし、十歳の令嬢に教えるのは難しい。だが、基本的なことはジェイに教えてもらっていたから、理解できないものではなかった。クレムが考えを変えたのはすぐのことで、勉強は次第に実践的なものになっていった。
難しいことを少しずつ理解していくのは面白かったし、クレムの教え方もわかりやすかった。一年もすれば領主の仕事を手伝えるようになり、いつの間にか忙しいお父様に代わってほとんどの仕事を私がするようになっていた。
大変だと思うことはあっても、王都の屋敷にはお母様がいない。何かにつけて馬鹿にしてくる妹たちもいない。王宮の法務室に勤めるお父様は王宮に部屋を持っているため、三か月に一度帰ってくればいいほうだった。
家族に会わずに暮らせる日々はとても快適だ。
毎月入ってくる税収の半分は領地の屋敷に送り、残りはこの屋敷を維持するために使っていた。
そこには私の生活にかかるものも含まれていたため、新しい服や靴を買うこともできた。無駄遣いをするつもりはないが、令嬢として最低限の服と靴は必要だ。これで丈が短くなった服を着て、ひざを曲げなくてもよくなった。
この屋敷には私を嫌う人はいないし、見下されることもない。領主代理としての仕事さえ終われば好きに過ごせる。街で買い物をしてもかまわないし、談話室で本を読んでいても邪魔されることはない。王都の生活で、私は自由というものを知った。
それでもカツラと眼鏡を外すことはできなかった。王都に出てくるとき、お母様付きの侍女にお母様からの手紙を渡されていた。そこには、絶対に人前でカツラと眼鏡を外さないようにと書かれていた。言いつけを守れなければ領地に連れ戻されるかもしれないと、成長するのに合わせてカツラと眼鏡を買い直した。
カツラと眼鏡が邪魔で前が見えにくいけれど、我慢できないほどではない。領地に戻されてお母様に会うことに比べたら、なんていうこともない。
屋敷の中でもカツラを外すことなく過ごしていたが、侍女たちは私の姿について何も言わないでくれている。その上、寝ている間にカツラが綺麗に整えられているのに気がついて、この屋敷の侍女は悪くないと感じていた。
2
そうして迎えた十五歳。もうすぐ学園に入学するという時期になって、私の婚約者が決まった。
久しぶりに屋敷に戻ってきたお父様は、夕食を共にするとまた王宮に戻るという。それだけ仕事が忙しいのか、この屋敷に泊まりたくないのかはわからない。いつも用事があるときだけ戻ってきて、それが終わればいなくなる。どうでも良かったから、そうですかとだけ返事をして食事を続けた。
めずらしく、わざわざ食事のためだけに屋敷に戻ったのかと思っていたら、私に話があったらしい。食事が終わり席を立とうとしたら、お父様が口を開いた。
「お前の婚約者が決まった」
「私の、婚約者ですか?」
「ダミアン・バルビゼ。バルビゼ伯爵家の二男だ。お前と同じ十五歳。学園で一緒になるだろう」
「バルビゼ伯爵家のダミアン様……」
「詳しいことは家令に聞け」
「わかりました」
急に婚約者が決まり動揺する私を気にすることなく、それだけ告げるとお父様は王宮へと戻っていった。
婿を取ると言われていたし、婚約者ができるのは想像していなかったわけではない。ただ、決まるまでに顔を合わせたり、打診されたりするものだと思っていた。こんなにあっさり決まるとは予想していなかったために、驚いてしまった。
食後のお茶を飲みながらクレムから話を聞くと、相手はお父様の上司である法務室長の息子さんらしい。同じ伯爵家とはいえ、歴史がある向こうの家のほうが格上になる。
通常なら婚約者となった後、定期的に手紙を送り合うそうだが、それらも一切しなくていいとのことだった。学園で会うのだから、交流はそれからでいいらしい。
どんな人なのだろう。ダミアン様の容姿や性格については何もわからないままだ。将来結婚して、一緒に伯爵家を継いで領地を守っていくことになる相手。名前しかわからない相手だけど、期待する気持ちを抑えられない。きっと私にとって特別な相手になるんだ。
学園で会ったら、何を話そうか。向こうからは何を聞かれるだろうか。もし好きなことを聞かれても、思い浮かぶものがなくて困る。あぁ、アルシェ伯領地のことを話せば良いかな。……優しい人だといいな。何も知らないダミアン様のことを想像しながら入学を待ち望んだ。
入学式の後、名簿を確認したら同じ学年ではあったが、教室は一緒ではなかった。婚約者同士は同じ教室になると聞いていたが、手続きが間に合わなかったのかもしれない。休憩時間になるのを待って、隣の教室にいるダミアン様に会いに行った。
婚約者として早く挨拶をしておかなければという気持ちだった。どの方なのかわからず、近くにいた令息に声をかけて呼んでもらう。
廊下に出てきた令息に名乗ったら、目を見開くようにして驚いていた。ダミアン様は男性にしては小柄な水属性の令息だった。紺色の髪と青い目。お母様と同じ色に見つめられ、ついうつむいてしまう。ダミアン様はお母様じゃないのに、手が震えるのを止められない。何か話さなければいけない、そう思うのに顔を上げられない。少しして、大きなため息が聞こえた。
「はぁ。こんなのが俺の婚約者か。公表しないでおいて正解だったな。この婚約を断れないのはわかっているが、結婚までは関わりたくない。学園で見かけても話しかけないでくれ」
「え?」
「婚約は仕方ないから受け入れる。だが、学園にいる間くらいは自由に過ごしたいんだ」
「自由、ですか?」
「わかるだろう? 婿入りしたら自由ではなくなるんだ。せめて学生の間は好きにさせてくれよ。俺だって結婚相手に理想ってものがあったんだ。……もう少し可愛い子か、せめて身長が低かったらなぁ」
あきらかにがっかりした声を聞き、ダミアン様に失望されたのだと気がついた。何も言い返せずにいたら、納得したと思われたのかダミアン様が話を切り上げる。
「じゃあ、俺はもう行くから。いいか、絶対に関わるなよ?」
「……はい」
どうして言われるまで気がつかなかったんだろう。私は可愛くないし背が高い。妹たちとは違って、女性らしくない痩せた身体。その上、ぼさぼさの黒いカツラをつけ、大きな眼鏡をかけて顔を隠している。それが相手からどう思われるかなんて考えもしなかった。
婚約者なら、特別な相手なら仲良くできると思い込んでいた。こんな風に一目見ただけで相手に嫌われるなんて想像していなかった。お母様にも妹たちにも嫌われている私が婚約者に気に入ってもらえるなんてありえないって、少し考えればわかることだったのに。
ポロリと涙が頬を伝って落ちる。それをぬぐって自分の教室へと戻った。眼鏡で顔が隠れることがありがたいと思ったのはこのときくらいかもしれない。
それからはダミアン様には近づかないようにして過ごした。このまま卒業するまで関わらなければこれ以上嫌われることもないと思っていたのに、二年生の教室は同じになってしまった。
少し離れたところに座るダミアン様を見る。こんな風にしっかりと見るのは一年ぶりだ。ダミアン様は身長が伸びて男らしい体格になっていた。伯爵家の中でも上位になるバルビゼ家のダミアン様は、教室の中で一番身分が高く、令嬢たちに人気があった。座っているだけなのに視線を集め、令嬢たちが数名話しかけに行っている。それをダミアン様はうれしそうに迎え入れて、街へ遊びに行こうと誘っていた。
話している内容からして、どうやら婚約していること自体を秘密にしているらしい。こんな風に私が近くにいても令嬢たちと親しく話し続けているのは、誰からも咎められないからだろうか。
「ダミアン様ぁ。昼食はどこに行きます?」
「あぁ、そうだなぁ。たまには中庭で食べるのもいいな」
「じゃあ、早く行きましょう?」
数人の令嬢に囲まれるようにしてダミアン様が教室から出ていく。決まった相手はいない様子だが、お気に入りの令嬢が二人いるらしく、両腕にぶら下げるように抱き着かれたまま歩いていた。同じ教室の令息たちから見ても自慢しているように感じるのか、教室に残っていた令息が文句を言うのが聞こえた。
「いいよなぁ、ダミアンはもてて。可愛い令嬢を選び放題だよなぁ。あいつがさっさと婚約者を選んでくれたら、俺たちにもおこぼれが来るかもしれないのにさ」
「本当だよなぁ。誰を選ぶんだろうな」
「早く決めてくれないかなぁ」
もうすでに婚約していると知られたらどうなるのだろう。いや、どうにもならないかもしれない。きっとダミアン様はそれでも遊ぶだろうから。
令嬢たちはダミアン様が嫡子ではないのを知っている。だから当然婿入りしなければ貴族として残れないとわかっている。なのに、周りにいたのは嫡子でもない令嬢たちばかりだった。もちろん、王宮文官や騎士として爵位をもらうということもありえるが、ダミアン様の成績ではどちらも難しい。一緒にいた令嬢たちも同じような成績だった。学園の中でだけ楽しめればいいという考え方なのかもしれない。
そうだよね。卒業したら私と結婚するのだから。学園にいる間は自由でいたいと言っていた。
どれだけダミアン様が遊んでいても、婚約は家同士の契約である以上、そう簡単には解消されない。卒業まであと二年。それまでの我慢。結婚したらいくらなんでも関わるなとは言わないわよね。
そんな風にダミアン様が遊ぶのを見て見ぬふりをしているうちに、学園を卒業する学年になった。最終学年はダミアン様と一緒の教室にならず、少しだけほっとしている。
二年生のときは同じ教室だったために、意識したわけではないのにダミアン様を見てしまうことがあった。そんなときに視線が合うと顔をしかめられて、嫌われているのがよくわかった。別にずっと見つめていたわけではないのにとは思うが、わざと見ないようにするのも難しいし、教室にいるときくらいは穏やかに過ごしたい。
卒業したら本当にダミアン様と結婚するのだろうか。婚約したからには、もう変えられないことだけれど。悩んでも仕方ないのに、不安になってしまう。結婚したら二人でアルシェ伯領地を守っていくのだから、信頼できる関係になりたい。それが無理でも、せめてまともに話し合いくらいはできるようになってほしい。
結婚後は、おそらく領主の仕事は私任せになると思う。ダミアン様は領主になる勉強を一切していない。領主の仕事ができると知ってもらえたら、役に立つのだとわかってもらえたら、ちょっとは大事にしてくれるだろうか。たまに令嬢たちを連れてカフェテリアにいる姿を見ては、私だけ勉強していることにむなしさを感じるが、私にできることはこれしかなかった。
そして最近になってもう一つ悩みが増えていた。
二つ下の妹カミーユが学園に入学したことで、来年入学予定のセリーヌも王都に来ていた。
カミーユは寮に入らず王都の屋敷から学園に通っている。一方、私は寮に入っているため、カミーユと会う機会はほとんどない。一学年と三学年では校舎が離れているし、休み時間もずれている。卒業すれば私は領地に戻ることになるので、まともに会わないままカミーユたちはどこかに嫁ぐことになると思う。
顔を見なくて済むことは良かったが、二人は王都の屋敷の予算を使い尽くし、それでも足りないと言い出してクレムを困らせていた。
学園に入学してからは寮で領地の仕事をこなし、私の寮費を抜いた残りは王都の屋敷の管理費としてクレムに渡していた。普通に暮らしていたら足りなくなるわけがないのに、王都に来た二人は休みの度に買い物に出かけているらしい。クレムには足りない分は領地にいるお母様に請求するようにお願いし、その件はなんとかおさまったのだが……
本来なら十年に一度起こると言われている大きな水害や、冷害や日照りに備えておくためのお金を使い尽くされてしまった。このまま二人が買い物を続ける間は備えられそうにない。
お父様に相談できればいいのだが、入学してからお父様と会う機会がなかった。ここしばらく問題がなかったせいか、お父様は私に仕事を任せ、王宮での仕事に集中していると聞いている。私とクレムが手紙を送ってはみたものの返事はなく、妹二人に関しては放っておくしかない。
ため息をついている間に授業が終わり、そのまま寮に戻ろうとして、成績発表の日だと気がつき掲示板を見に行くことにした。
見るのが遅かったからか、掲示板の前にはもう人はほとんどいなかった。近づいて名前を探すとすぐに見つかる。この二年間、親しい友達もなく、寮に帰っても仕事か勉強ばかり。休み時間も持て余し、図書室に入り浸っていたら成績だけが伸びていた。気がつけば今回の試験で学年二位の実力をつけていた。
あと少しで一位になれるかもしれない。そうしたら、自分の婚約者は優秀だと誇りに思ってくれるだろうか。一位の学生とは僅差で、このまま頑張れば抜けそうな気がしている。
そんなことを考えながら掲示板を眺めていると、後ろのほうから令嬢たちの声が聞こえる。まだ見ていなかった学生がいたのか。帰ろうとしたら、私の名前が聞こえて足を止めた。
「リゼット様って、確かアルシェ伯爵家の長女よね。三姉妹だそうだけど、家を継ぐのかしら」
「そうじゃない? だからあんなに勉強しているのでしょう?」
「そうよねぇ。でも、いくら成績が良くたって、あのリゼット様と結婚したい令息なんているのかしら?」
話したこともない令嬢に否定され、あまりのことに後ろを向けない。言い返したいけれど何を言えばいいのかわからない。きっと私がここにいるのに気がついて、わざと言っている。
婚約者がいますから、ご心配なく? 私のことなんてお気遣いなく?
考えても振り向く勇気がない。……このまま気がつかなかったふりで立ち去ろう。
「ねぇ、ダミアン様もそう思うでしょう?」
え? 令嬢たちと一緒にダミアン様もいるの?
「なんで俺に聞くんだよ」
「だってぇ。リゼット様ってたまにダミアン様のこと見てるじゃない。もしかして狙われていたりして、と思って」
ダミアン様なんて狙ってない! そう言いたかったけれど、その次に続いた言葉に耳を疑う。
「やめてくれよ、気持ち悪いな。俺だって婿入りする先くらい選ぶよ」
「やだ、かわいそう。じゃあ、こんなに頑張ってるのに、婿入りしてくれる令息はいないってこと?」
「そうだな。いないんじゃないか? 俺だったらいくら家を継げるからと言われてもごめんだな」
「ふふふ。かわいそうにぃ」
最後のかわいそうに、はあきらかに私へ言っていた。背中を向けているけれど、笑いをこらえたような声がこちらに向けられていたのはわかる。ダミアン様と令嬢たちの笑い声が遠くなって、少しずつ離れていく。
それでもあまりのことに動けず、一人で呆然としていた。
令嬢の発言は私への警告だったのかもしれない。嫡子だからといって、ダミアン様に婚約を申し込んだりしないようにと。まさかすでに婚約しているとは思っていないだろうから。
じゃあ、ダミアン様の言葉は? 婚約しているのに、婿入りしたくないって、気持ち悪いって、どういうことなんだろう。
どのくらいそこに立っていたのだろうか。声をかけられるまでずっと考え込んでいた。
「リゼット・アルシェ? どうかしたのか?」
「……え?」
「もう暗くなる。寮に戻らないのか?」
その言葉に、あたりが暗くなっているのに気づいた。長く立っていたせいで身体が固まって、動こうとしたけれどぎこちなくなる。
「……あ、はい。そうですね……戻ります」
「あぁ、ちょっと待て。ついてこい」
私に声をかけてくれたのは魔術教師のニコラ先生だった。薄くなった金髪にぎょろりとした青目。少し日に焼けた顔。この国ではめずらしい光と水の二属性を持っている、とても優秀な先生なのだが、高齢で強面のため令嬢たちからは人気がない。最終学年だけ担当している授業も厳しく、できない者には補習や追試を容赦なく受けさせる。だけど、誰に対しても同じように接するニコラ先生のことを私は好ましく思っていた。
言われるまま素直についていくと、連れていかれた先はニコラ先生の研究室だった。先生方の研究室がある棟の位置は知っていたが、許可がなければ立ち入ることができない場所だ。
ニコラ先生は学園の創立からいる主のような先生だと聞いていた。陛下も教え子だそうで、学園長よりも力を持っているとも。そのためか、研究室はとても広かった。緊張しながら中に入るとニコラ先生はソファに座る。私にもソファに座るように言うと、ふっくらした女性の助手にお茶を淹れるように指示を出す。
向かい側のソファに座ると、少しして助手さんがテーブルにお茶を置いてくれた。突然来た私に驚いていたようだが、ニコラ先生を見てにこにこと笑っている。
「先生が学生をお連れになるのはめずらしいですね?」
「ちょっと気になることがあってな」
「気になることですか?」
気になることってなんだろう。ここに連れてこられた理由がわからない。授業はすべて出席しているし、レポートも出している。試験の成績も問題ないはずだけど、何か悪いことをしただろうか。ニコラ先生は私をまっすぐ見ている。まるでめずらしいものを観察するような目で。
「リゼットは火と風の二属性だったよな?」
「はい」
魔術の試験で見せたからわかるはずなのに確認された。二属性はめずらしいかもしれないが、学年に五人はいるはず。私だけ確認するようなことがあるだろうか。
「どうして闇属性の色をしているんだ? まさか三属性もあるのか?」
「あ」
そうか。髪の色と一致しないから気にされているんだ。これに関しては申告事項ではなかったから学園にも伝えていない。どう説明したらいいかわからなくて口ごもっていたら、助手さんが気づいてくれた。
「先生、多分この子には事情があるのだと思いますわ。ねぇ、その髪はカツラよね?」
「……はい」
「そうか。カツラなのか。もしかして目の色が違うのは魔術具なのか?」
「はい、そうです」
ニコラ先生からは黒髪黒目に見えているはずだ。わざわざ嫌われている闇属性の色にするなんて、おかしいと思われても仕方ない。
「それは外せないのか?」
「いいえ、外せます。寮で一人のときは外しています」
「事情があるのなら口外はせん。ここで外して見せてくれないか?」
「……わかりました」
姿を偽って学園に入学してはいけなかったのかもしれない。こういう風に属性と容姿が違うことであやしまれるとは考えもしなかった。少し考えたらわかるのに、この姿でいるのが当たり前になっていた。
ぼさぼさのカツラを外すと、一つにまとめた桃色の髪が出てくる。黒目に見える魔術具の眼鏡をとると、炎のような赤い目に変わる。まとめていた紐を外すと、少しふわふわな髪が広がる。油をつけて固めておけばいいのかもしれないが、毎日のことだ。カツラの中が油まみれで気持ち悪いのは嫌だった。
「ほう、なるほどな。風属性のほうが強いのか」
「色でわかるのですか?」
「わかる。火のほうが強ければ、赤髪で桃色の目になっていただろう。それで、どうしてわざわざそんな格好をしているんだ? 闇が悪いとは言わないが、風も火も素晴らしい属性だ。二属性もあることを誇ればいいだろうに」
先生と助手さんはこの色を嫌わないのか態度が変わらなかった。
あそこまでお母様が私を嫌う理由はわからないが、それが一般的なものではないのだと安心した。学園内に同じ色がいないこともあり、誰もが嫌うのかと思っていた。
ここまできて事情を隠しても仕方ないと、すべて正直に話す。お母様に言いつけられて隠していること、お母様にこの色を嫌われていること、カツラと眼鏡を外したら領地に連れ戻されてしまうかもしれないこと。お父様は家庭内の様子に少しも気がついていないこと。話し始めたら止まらなくて、だんだん先生と助手さんの表情が暗くなる。
「そうか、ずっと大変だったのだな。だが、そのままでいいのか? その姿を隠さなければリゼットが才能ある令嬢だとみんながわかるんだぞ? このままだと家を継ぐのに婚約者も探せまい」
「いえ……あの、もうすでに私には婚約者がいるのですが」
「は?」
ニコラ先生の驚いた様子で確信した。やっぱり学園にも私たちの婚約は知られていなかった。王宮から連絡があってもおかしくないのに。
「相手は誰なんだ? もちろん、貴族なんだろう?」
「……同じ学年のダミアン・バルビゼ様です」
打ち明けた瞬間、ニコラ先生が大きなため息をついた。助手さんまで気の毒そうな目で見てくる。
お二人もダミアン様が令嬢たちと遊び回っていることを知っているらしい。そういえば、ニコラ先生の追試をさぼって叱られているのを見たことがある。あのときも令嬢たちと街に遊びに行っていたというのが理由だった。
もう婿入りすることが決まっているからか、勉強は最低限。卒業さえできればいいと思っているのか授業態度もあまり良くない。ニコラ先生から見たら好ましくない学生だろう。
「リゼットの父もダミアンの父も、私の教え子だ。婚約相手に問題があるなら私が介入してもかまわないのだが」
「いいえ、大丈夫です!」
国王陛下も頭が上がらないと言われているニコラ先生ならなんとかできるかもしれない。だけど、命令されたからと急に優しくされるのは嫌だった。あんなことを聞いたからには無理に優しくされても信用できそうにない。できるなら、ダミアン様自身の気持ちで私に寄り添ってほしかった。
「もし……もし、何かあって家を出たくなったら言いなさい」
「え?」
私が家を出る? 突然どうしてそんな話になるのかと思ったが、ニコラ先生の目は真剣で、助手さんも大きくうなずいている。これは婚約者に嫌われている私に同情してくれたのかもしれない。
それにしても家を出るとは穏やかでない。そう思ったが、先生たちは本気で私を心配しているようだった。
「リゼットを王宮女官に推薦しておこう。この推薦は三年間有効だ。いつでも言いなさい。卒業した後でもいい、私の手が必要になったらここに来なさい」
「私が王宮女官に、ですか? まさか! 王宮女官なんて!」
「リゼット、君の成績は素晴らしい。礼儀作法の授業も完璧だ。信じられないかもしれないが、王宮女官に推薦しても問題ない。王宮には寮がある。もし家を出たくなっても、仕事と住む場所がなければどこにも行けない。だから覚えておいてほしい。困ったらここにおいで」
「あ、ありがとうございます」
卒業して、ダミアン様と結婚してもうまくいかないかもしれない。というよりも、ニコラ先生がこの話を出したということは、うまくいかないと思われている。私は嫡子だから婚約が解消されたとしても家から追い出されることはないけど、王宮女官に推薦されたことは心の支えにしよう。深く深く頭を下げ、ニコラ先生の厚意に感謝を伝える。いつの間にか、掲示板の前での出来事はそれほど気にならなくなっていた。
それからニコラ先生の研究室に度々呼ばれ、お茶をいただくようになる。そのうちニコラ先生と話すだけでなく、助手さんに仕事を教えてもらい、忙しいニコラ先生の手伝いをするようにもなった。気がつけば、私も助手の一人として認められていた。
ニコラ先生の研究室には最先端の魔術の研究報告が集まり、それを学ぶためにいろんな研究者も集まる。中でも王宮騎士団の一つである魔術師団の団長さんが顔を出すことが多く、学生の私は可愛がってもらうようになった。
最初は黒髪だったことで声をかけられた。団長さんは火と闇の二属性で、赤髪に黒目だった。言われなければわからないほどなのに、それでも黒目は嫌われるらしい。だから、黒髪黒目の私が嫌がらせをされているんじゃないかと心配してくれたのだ。
そんな風に心配されるとは思わず、慌てて風と火の二属性だと説明し、ニコラ先生たちと同様に今までのことを話した。感情的にならないように冷静に話したつもりだったが、色で虐げられていたことに変わりはないと団長さんは怒ってくれた。
それからは見下されないように強くなれと言われ、お会いする度に団長さんから訓練を受けている。歴代の魔術師団長の中でも特に優秀だと評判の団長さんは公爵家ということもあり、普通なら学生に指導したりしないそうだ。私なんかに時間を使わせて申し訳ないと思ったが、それを口にすれば叱られる。なんか、とはなんだ。リゼットには才能があると何度も言っているだろう、と。
王都の屋敷の使用人たちには初めて会ったが、特に優しくも冷たくもなかった。仕事として接しているように感じられたが、何も問題はない。
領主になるための勉強を見てくれたのは、王都の屋敷の家令クレムだった。高齢のクレムは王宮で働いていたこともある優秀な家令で、十歳の私に領主になる勉強をさせろと言ったお父様にいい顔はしなかった。まだ早いのではないかと。それもそのはず、領主になるための勉強は厳しいものだし、十歳の令嬢に教えるのは難しい。だが、基本的なことはジェイに教えてもらっていたから、理解できないものではなかった。クレムが考えを変えたのはすぐのことで、勉強は次第に実践的なものになっていった。
難しいことを少しずつ理解していくのは面白かったし、クレムの教え方もわかりやすかった。一年もすれば領主の仕事を手伝えるようになり、いつの間にか忙しいお父様に代わってほとんどの仕事を私がするようになっていた。
大変だと思うことはあっても、王都の屋敷にはお母様がいない。何かにつけて馬鹿にしてくる妹たちもいない。王宮の法務室に勤めるお父様は王宮に部屋を持っているため、三か月に一度帰ってくればいいほうだった。
家族に会わずに暮らせる日々はとても快適だ。
毎月入ってくる税収の半分は領地の屋敷に送り、残りはこの屋敷を維持するために使っていた。
そこには私の生活にかかるものも含まれていたため、新しい服や靴を買うこともできた。無駄遣いをするつもりはないが、令嬢として最低限の服と靴は必要だ。これで丈が短くなった服を着て、ひざを曲げなくてもよくなった。
この屋敷には私を嫌う人はいないし、見下されることもない。領主代理としての仕事さえ終われば好きに過ごせる。街で買い物をしてもかまわないし、談話室で本を読んでいても邪魔されることはない。王都の生活で、私は自由というものを知った。
それでもカツラと眼鏡を外すことはできなかった。王都に出てくるとき、お母様付きの侍女にお母様からの手紙を渡されていた。そこには、絶対に人前でカツラと眼鏡を外さないようにと書かれていた。言いつけを守れなければ領地に連れ戻されるかもしれないと、成長するのに合わせてカツラと眼鏡を買い直した。
カツラと眼鏡が邪魔で前が見えにくいけれど、我慢できないほどではない。領地に戻されてお母様に会うことに比べたら、なんていうこともない。
屋敷の中でもカツラを外すことなく過ごしていたが、侍女たちは私の姿について何も言わないでくれている。その上、寝ている間にカツラが綺麗に整えられているのに気がついて、この屋敷の侍女は悪くないと感じていた。
2
そうして迎えた十五歳。もうすぐ学園に入学するという時期になって、私の婚約者が決まった。
久しぶりに屋敷に戻ってきたお父様は、夕食を共にするとまた王宮に戻るという。それだけ仕事が忙しいのか、この屋敷に泊まりたくないのかはわからない。いつも用事があるときだけ戻ってきて、それが終わればいなくなる。どうでも良かったから、そうですかとだけ返事をして食事を続けた。
めずらしく、わざわざ食事のためだけに屋敷に戻ったのかと思っていたら、私に話があったらしい。食事が終わり席を立とうとしたら、お父様が口を開いた。
「お前の婚約者が決まった」
「私の、婚約者ですか?」
「ダミアン・バルビゼ。バルビゼ伯爵家の二男だ。お前と同じ十五歳。学園で一緒になるだろう」
「バルビゼ伯爵家のダミアン様……」
「詳しいことは家令に聞け」
「わかりました」
急に婚約者が決まり動揺する私を気にすることなく、それだけ告げるとお父様は王宮へと戻っていった。
婿を取ると言われていたし、婚約者ができるのは想像していなかったわけではない。ただ、決まるまでに顔を合わせたり、打診されたりするものだと思っていた。こんなにあっさり決まるとは予想していなかったために、驚いてしまった。
食後のお茶を飲みながらクレムから話を聞くと、相手はお父様の上司である法務室長の息子さんらしい。同じ伯爵家とはいえ、歴史がある向こうの家のほうが格上になる。
通常なら婚約者となった後、定期的に手紙を送り合うそうだが、それらも一切しなくていいとのことだった。学園で会うのだから、交流はそれからでいいらしい。
どんな人なのだろう。ダミアン様の容姿や性格については何もわからないままだ。将来結婚して、一緒に伯爵家を継いで領地を守っていくことになる相手。名前しかわからない相手だけど、期待する気持ちを抑えられない。きっと私にとって特別な相手になるんだ。
学園で会ったら、何を話そうか。向こうからは何を聞かれるだろうか。もし好きなことを聞かれても、思い浮かぶものがなくて困る。あぁ、アルシェ伯領地のことを話せば良いかな。……優しい人だといいな。何も知らないダミアン様のことを想像しながら入学を待ち望んだ。
入学式の後、名簿を確認したら同じ学年ではあったが、教室は一緒ではなかった。婚約者同士は同じ教室になると聞いていたが、手続きが間に合わなかったのかもしれない。休憩時間になるのを待って、隣の教室にいるダミアン様に会いに行った。
婚約者として早く挨拶をしておかなければという気持ちだった。どの方なのかわからず、近くにいた令息に声をかけて呼んでもらう。
廊下に出てきた令息に名乗ったら、目を見開くようにして驚いていた。ダミアン様は男性にしては小柄な水属性の令息だった。紺色の髪と青い目。お母様と同じ色に見つめられ、ついうつむいてしまう。ダミアン様はお母様じゃないのに、手が震えるのを止められない。何か話さなければいけない、そう思うのに顔を上げられない。少しして、大きなため息が聞こえた。
「はぁ。こんなのが俺の婚約者か。公表しないでおいて正解だったな。この婚約を断れないのはわかっているが、結婚までは関わりたくない。学園で見かけても話しかけないでくれ」
「え?」
「婚約は仕方ないから受け入れる。だが、学園にいる間くらいは自由に過ごしたいんだ」
「自由、ですか?」
「わかるだろう? 婿入りしたら自由ではなくなるんだ。せめて学生の間は好きにさせてくれよ。俺だって結婚相手に理想ってものがあったんだ。……もう少し可愛い子か、せめて身長が低かったらなぁ」
あきらかにがっかりした声を聞き、ダミアン様に失望されたのだと気がついた。何も言い返せずにいたら、納得したと思われたのかダミアン様が話を切り上げる。
「じゃあ、俺はもう行くから。いいか、絶対に関わるなよ?」
「……はい」
どうして言われるまで気がつかなかったんだろう。私は可愛くないし背が高い。妹たちとは違って、女性らしくない痩せた身体。その上、ぼさぼさの黒いカツラをつけ、大きな眼鏡をかけて顔を隠している。それが相手からどう思われるかなんて考えもしなかった。
婚約者なら、特別な相手なら仲良くできると思い込んでいた。こんな風に一目見ただけで相手に嫌われるなんて想像していなかった。お母様にも妹たちにも嫌われている私が婚約者に気に入ってもらえるなんてありえないって、少し考えればわかることだったのに。
ポロリと涙が頬を伝って落ちる。それをぬぐって自分の教室へと戻った。眼鏡で顔が隠れることがありがたいと思ったのはこのときくらいかもしれない。
それからはダミアン様には近づかないようにして過ごした。このまま卒業するまで関わらなければこれ以上嫌われることもないと思っていたのに、二年生の教室は同じになってしまった。
少し離れたところに座るダミアン様を見る。こんな風にしっかりと見るのは一年ぶりだ。ダミアン様は身長が伸びて男らしい体格になっていた。伯爵家の中でも上位になるバルビゼ家のダミアン様は、教室の中で一番身分が高く、令嬢たちに人気があった。座っているだけなのに視線を集め、令嬢たちが数名話しかけに行っている。それをダミアン様はうれしそうに迎え入れて、街へ遊びに行こうと誘っていた。
話している内容からして、どうやら婚約していること自体を秘密にしているらしい。こんな風に私が近くにいても令嬢たちと親しく話し続けているのは、誰からも咎められないからだろうか。
「ダミアン様ぁ。昼食はどこに行きます?」
「あぁ、そうだなぁ。たまには中庭で食べるのもいいな」
「じゃあ、早く行きましょう?」
数人の令嬢に囲まれるようにしてダミアン様が教室から出ていく。決まった相手はいない様子だが、お気に入りの令嬢が二人いるらしく、両腕にぶら下げるように抱き着かれたまま歩いていた。同じ教室の令息たちから見ても自慢しているように感じるのか、教室に残っていた令息が文句を言うのが聞こえた。
「いいよなぁ、ダミアンはもてて。可愛い令嬢を選び放題だよなぁ。あいつがさっさと婚約者を選んでくれたら、俺たちにもおこぼれが来るかもしれないのにさ」
「本当だよなぁ。誰を選ぶんだろうな」
「早く決めてくれないかなぁ」
もうすでに婚約していると知られたらどうなるのだろう。いや、どうにもならないかもしれない。きっとダミアン様はそれでも遊ぶだろうから。
令嬢たちはダミアン様が嫡子ではないのを知っている。だから当然婿入りしなければ貴族として残れないとわかっている。なのに、周りにいたのは嫡子でもない令嬢たちばかりだった。もちろん、王宮文官や騎士として爵位をもらうということもありえるが、ダミアン様の成績ではどちらも難しい。一緒にいた令嬢たちも同じような成績だった。学園の中でだけ楽しめればいいという考え方なのかもしれない。
そうだよね。卒業したら私と結婚するのだから。学園にいる間は自由でいたいと言っていた。
どれだけダミアン様が遊んでいても、婚約は家同士の契約である以上、そう簡単には解消されない。卒業まであと二年。それまでの我慢。結婚したらいくらなんでも関わるなとは言わないわよね。
そんな風にダミアン様が遊ぶのを見て見ぬふりをしているうちに、学園を卒業する学年になった。最終学年はダミアン様と一緒の教室にならず、少しだけほっとしている。
二年生のときは同じ教室だったために、意識したわけではないのにダミアン様を見てしまうことがあった。そんなときに視線が合うと顔をしかめられて、嫌われているのがよくわかった。別にずっと見つめていたわけではないのにとは思うが、わざと見ないようにするのも難しいし、教室にいるときくらいは穏やかに過ごしたい。
卒業したら本当にダミアン様と結婚するのだろうか。婚約したからには、もう変えられないことだけれど。悩んでも仕方ないのに、不安になってしまう。結婚したら二人でアルシェ伯領地を守っていくのだから、信頼できる関係になりたい。それが無理でも、せめてまともに話し合いくらいはできるようになってほしい。
結婚後は、おそらく領主の仕事は私任せになると思う。ダミアン様は領主になる勉強を一切していない。領主の仕事ができると知ってもらえたら、役に立つのだとわかってもらえたら、ちょっとは大事にしてくれるだろうか。たまに令嬢たちを連れてカフェテリアにいる姿を見ては、私だけ勉強していることにむなしさを感じるが、私にできることはこれしかなかった。
そして最近になってもう一つ悩みが増えていた。
二つ下の妹カミーユが学園に入学したことで、来年入学予定のセリーヌも王都に来ていた。
カミーユは寮に入らず王都の屋敷から学園に通っている。一方、私は寮に入っているため、カミーユと会う機会はほとんどない。一学年と三学年では校舎が離れているし、休み時間もずれている。卒業すれば私は領地に戻ることになるので、まともに会わないままカミーユたちはどこかに嫁ぐことになると思う。
顔を見なくて済むことは良かったが、二人は王都の屋敷の予算を使い尽くし、それでも足りないと言い出してクレムを困らせていた。
学園に入学してからは寮で領地の仕事をこなし、私の寮費を抜いた残りは王都の屋敷の管理費としてクレムに渡していた。普通に暮らしていたら足りなくなるわけがないのに、王都に来た二人は休みの度に買い物に出かけているらしい。クレムには足りない分は領地にいるお母様に請求するようにお願いし、その件はなんとかおさまったのだが……
本来なら十年に一度起こると言われている大きな水害や、冷害や日照りに備えておくためのお金を使い尽くされてしまった。このまま二人が買い物を続ける間は備えられそうにない。
お父様に相談できればいいのだが、入学してからお父様と会う機会がなかった。ここしばらく問題がなかったせいか、お父様は私に仕事を任せ、王宮での仕事に集中していると聞いている。私とクレムが手紙を送ってはみたものの返事はなく、妹二人に関しては放っておくしかない。
ため息をついている間に授業が終わり、そのまま寮に戻ろうとして、成績発表の日だと気がつき掲示板を見に行くことにした。
見るのが遅かったからか、掲示板の前にはもう人はほとんどいなかった。近づいて名前を探すとすぐに見つかる。この二年間、親しい友達もなく、寮に帰っても仕事か勉強ばかり。休み時間も持て余し、図書室に入り浸っていたら成績だけが伸びていた。気がつけば今回の試験で学年二位の実力をつけていた。
あと少しで一位になれるかもしれない。そうしたら、自分の婚約者は優秀だと誇りに思ってくれるだろうか。一位の学生とは僅差で、このまま頑張れば抜けそうな気がしている。
そんなことを考えながら掲示板を眺めていると、後ろのほうから令嬢たちの声が聞こえる。まだ見ていなかった学生がいたのか。帰ろうとしたら、私の名前が聞こえて足を止めた。
「リゼット様って、確かアルシェ伯爵家の長女よね。三姉妹だそうだけど、家を継ぐのかしら」
「そうじゃない? だからあんなに勉強しているのでしょう?」
「そうよねぇ。でも、いくら成績が良くたって、あのリゼット様と結婚したい令息なんているのかしら?」
話したこともない令嬢に否定され、あまりのことに後ろを向けない。言い返したいけれど何を言えばいいのかわからない。きっと私がここにいるのに気がついて、わざと言っている。
婚約者がいますから、ご心配なく? 私のことなんてお気遣いなく?
考えても振り向く勇気がない。……このまま気がつかなかったふりで立ち去ろう。
「ねぇ、ダミアン様もそう思うでしょう?」
え? 令嬢たちと一緒にダミアン様もいるの?
「なんで俺に聞くんだよ」
「だってぇ。リゼット様ってたまにダミアン様のこと見てるじゃない。もしかして狙われていたりして、と思って」
ダミアン様なんて狙ってない! そう言いたかったけれど、その次に続いた言葉に耳を疑う。
「やめてくれよ、気持ち悪いな。俺だって婿入りする先くらい選ぶよ」
「やだ、かわいそう。じゃあ、こんなに頑張ってるのに、婿入りしてくれる令息はいないってこと?」
「そうだな。いないんじゃないか? 俺だったらいくら家を継げるからと言われてもごめんだな」
「ふふふ。かわいそうにぃ」
最後のかわいそうに、はあきらかに私へ言っていた。背中を向けているけれど、笑いをこらえたような声がこちらに向けられていたのはわかる。ダミアン様と令嬢たちの笑い声が遠くなって、少しずつ離れていく。
それでもあまりのことに動けず、一人で呆然としていた。
令嬢の発言は私への警告だったのかもしれない。嫡子だからといって、ダミアン様に婚約を申し込んだりしないようにと。まさかすでに婚約しているとは思っていないだろうから。
じゃあ、ダミアン様の言葉は? 婚約しているのに、婿入りしたくないって、気持ち悪いって、どういうことなんだろう。
どのくらいそこに立っていたのだろうか。声をかけられるまでずっと考え込んでいた。
「リゼット・アルシェ? どうかしたのか?」
「……え?」
「もう暗くなる。寮に戻らないのか?」
その言葉に、あたりが暗くなっているのに気づいた。長く立っていたせいで身体が固まって、動こうとしたけれどぎこちなくなる。
「……あ、はい。そうですね……戻ります」
「あぁ、ちょっと待て。ついてこい」
私に声をかけてくれたのは魔術教師のニコラ先生だった。薄くなった金髪にぎょろりとした青目。少し日に焼けた顔。この国ではめずらしい光と水の二属性を持っている、とても優秀な先生なのだが、高齢で強面のため令嬢たちからは人気がない。最終学年だけ担当している授業も厳しく、できない者には補習や追試を容赦なく受けさせる。だけど、誰に対しても同じように接するニコラ先生のことを私は好ましく思っていた。
言われるまま素直についていくと、連れていかれた先はニコラ先生の研究室だった。先生方の研究室がある棟の位置は知っていたが、許可がなければ立ち入ることができない場所だ。
ニコラ先生は学園の創立からいる主のような先生だと聞いていた。陛下も教え子だそうで、学園長よりも力を持っているとも。そのためか、研究室はとても広かった。緊張しながら中に入るとニコラ先生はソファに座る。私にもソファに座るように言うと、ふっくらした女性の助手にお茶を淹れるように指示を出す。
向かい側のソファに座ると、少しして助手さんがテーブルにお茶を置いてくれた。突然来た私に驚いていたようだが、ニコラ先生を見てにこにこと笑っている。
「先生が学生をお連れになるのはめずらしいですね?」
「ちょっと気になることがあってな」
「気になることですか?」
気になることってなんだろう。ここに連れてこられた理由がわからない。授業はすべて出席しているし、レポートも出している。試験の成績も問題ないはずだけど、何か悪いことをしただろうか。ニコラ先生は私をまっすぐ見ている。まるでめずらしいものを観察するような目で。
「リゼットは火と風の二属性だったよな?」
「はい」
魔術の試験で見せたからわかるはずなのに確認された。二属性はめずらしいかもしれないが、学年に五人はいるはず。私だけ確認するようなことがあるだろうか。
「どうして闇属性の色をしているんだ? まさか三属性もあるのか?」
「あ」
そうか。髪の色と一致しないから気にされているんだ。これに関しては申告事項ではなかったから学園にも伝えていない。どう説明したらいいかわからなくて口ごもっていたら、助手さんが気づいてくれた。
「先生、多分この子には事情があるのだと思いますわ。ねぇ、その髪はカツラよね?」
「……はい」
「そうか。カツラなのか。もしかして目の色が違うのは魔術具なのか?」
「はい、そうです」
ニコラ先生からは黒髪黒目に見えているはずだ。わざわざ嫌われている闇属性の色にするなんて、おかしいと思われても仕方ない。
「それは外せないのか?」
「いいえ、外せます。寮で一人のときは外しています」
「事情があるのなら口外はせん。ここで外して見せてくれないか?」
「……わかりました」
姿を偽って学園に入学してはいけなかったのかもしれない。こういう風に属性と容姿が違うことであやしまれるとは考えもしなかった。少し考えたらわかるのに、この姿でいるのが当たり前になっていた。
ぼさぼさのカツラを外すと、一つにまとめた桃色の髪が出てくる。黒目に見える魔術具の眼鏡をとると、炎のような赤い目に変わる。まとめていた紐を外すと、少しふわふわな髪が広がる。油をつけて固めておけばいいのかもしれないが、毎日のことだ。カツラの中が油まみれで気持ち悪いのは嫌だった。
「ほう、なるほどな。風属性のほうが強いのか」
「色でわかるのですか?」
「わかる。火のほうが強ければ、赤髪で桃色の目になっていただろう。それで、どうしてわざわざそんな格好をしているんだ? 闇が悪いとは言わないが、風も火も素晴らしい属性だ。二属性もあることを誇ればいいだろうに」
先生と助手さんはこの色を嫌わないのか態度が変わらなかった。
あそこまでお母様が私を嫌う理由はわからないが、それが一般的なものではないのだと安心した。学園内に同じ色がいないこともあり、誰もが嫌うのかと思っていた。
ここまできて事情を隠しても仕方ないと、すべて正直に話す。お母様に言いつけられて隠していること、お母様にこの色を嫌われていること、カツラと眼鏡を外したら領地に連れ戻されてしまうかもしれないこと。お父様は家庭内の様子に少しも気がついていないこと。話し始めたら止まらなくて、だんだん先生と助手さんの表情が暗くなる。
「そうか、ずっと大変だったのだな。だが、そのままでいいのか? その姿を隠さなければリゼットが才能ある令嬢だとみんながわかるんだぞ? このままだと家を継ぐのに婚約者も探せまい」
「いえ……あの、もうすでに私には婚約者がいるのですが」
「は?」
ニコラ先生の驚いた様子で確信した。やっぱり学園にも私たちの婚約は知られていなかった。王宮から連絡があってもおかしくないのに。
「相手は誰なんだ? もちろん、貴族なんだろう?」
「……同じ学年のダミアン・バルビゼ様です」
打ち明けた瞬間、ニコラ先生が大きなため息をついた。助手さんまで気の毒そうな目で見てくる。
お二人もダミアン様が令嬢たちと遊び回っていることを知っているらしい。そういえば、ニコラ先生の追試をさぼって叱られているのを見たことがある。あのときも令嬢たちと街に遊びに行っていたというのが理由だった。
もう婿入りすることが決まっているからか、勉強は最低限。卒業さえできればいいと思っているのか授業態度もあまり良くない。ニコラ先生から見たら好ましくない学生だろう。
「リゼットの父もダミアンの父も、私の教え子だ。婚約相手に問題があるなら私が介入してもかまわないのだが」
「いいえ、大丈夫です!」
国王陛下も頭が上がらないと言われているニコラ先生ならなんとかできるかもしれない。だけど、命令されたからと急に優しくされるのは嫌だった。あんなことを聞いたからには無理に優しくされても信用できそうにない。できるなら、ダミアン様自身の気持ちで私に寄り添ってほしかった。
「もし……もし、何かあって家を出たくなったら言いなさい」
「え?」
私が家を出る? 突然どうしてそんな話になるのかと思ったが、ニコラ先生の目は真剣で、助手さんも大きくうなずいている。これは婚約者に嫌われている私に同情してくれたのかもしれない。
それにしても家を出るとは穏やかでない。そう思ったが、先生たちは本気で私を心配しているようだった。
「リゼットを王宮女官に推薦しておこう。この推薦は三年間有効だ。いつでも言いなさい。卒業した後でもいい、私の手が必要になったらここに来なさい」
「私が王宮女官に、ですか? まさか! 王宮女官なんて!」
「リゼット、君の成績は素晴らしい。礼儀作法の授業も完璧だ。信じられないかもしれないが、王宮女官に推薦しても問題ない。王宮には寮がある。もし家を出たくなっても、仕事と住む場所がなければどこにも行けない。だから覚えておいてほしい。困ったらここにおいで」
「あ、ありがとうございます」
卒業して、ダミアン様と結婚してもうまくいかないかもしれない。というよりも、ニコラ先生がこの話を出したということは、うまくいかないと思われている。私は嫡子だから婚約が解消されたとしても家から追い出されることはないけど、王宮女官に推薦されたことは心の支えにしよう。深く深く頭を下げ、ニコラ先生の厚意に感謝を伝える。いつの間にか、掲示板の前での出来事はそれほど気にならなくなっていた。
それからニコラ先生の研究室に度々呼ばれ、お茶をいただくようになる。そのうちニコラ先生と話すだけでなく、助手さんに仕事を教えてもらい、忙しいニコラ先生の手伝いをするようにもなった。気がつけば、私も助手の一人として認められていた。
ニコラ先生の研究室には最先端の魔術の研究報告が集まり、それを学ぶためにいろんな研究者も集まる。中でも王宮騎士団の一つである魔術師団の団長さんが顔を出すことが多く、学生の私は可愛がってもらうようになった。
最初は黒髪だったことで声をかけられた。団長さんは火と闇の二属性で、赤髪に黒目だった。言われなければわからないほどなのに、それでも黒目は嫌われるらしい。だから、黒髪黒目の私が嫌がらせをされているんじゃないかと心配してくれたのだ。
そんな風に心配されるとは思わず、慌てて風と火の二属性だと説明し、ニコラ先生たちと同様に今までのことを話した。感情的にならないように冷静に話したつもりだったが、色で虐げられていたことに変わりはないと団長さんは怒ってくれた。
それからは見下されないように強くなれと言われ、お会いする度に団長さんから訓練を受けている。歴代の魔術師団長の中でも特に優秀だと評判の団長さんは公爵家ということもあり、普通なら学生に指導したりしないそうだ。私なんかに時間を使わせて申し訳ないと思ったが、それを口にすれば叱られる。なんか、とはなんだ。リゼットには才能があると何度も言っているだろう、と。
267
お気に入りに追加
5,517
あなたにおすすめの小説
私が死んで満足ですか?
マチバリ
恋愛
王太子に婚約破棄を告げられた伯爵令嬢ロロナが死んだ。
ある者は面倒な婚約破棄の手続きをせずに済んだと安堵し、ある者はずっと欲しかった物が手に入ると喜んだ。
全てが上手くおさまると思っていた彼らだったが、ロロナの死が与えた影響はあまりに大きかった。
書籍化にともない本編を引き下げいたしました

愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
記憶を失くした彼女の手紙 消えてしまった完璧な令嬢と、王子の遅すぎた後悔の話
甘糖むい
恋愛
婚約者であるシェルニア公爵令嬢が記憶喪失となった。
王子はひっそりと喜んだ。これで愛するクロエ男爵令嬢と堂々と結婚できると。
その時、王子の元に一通の手紙が届いた。
そこに書かれていたのは3つの願いと1つの真実。
王子は絶望感に苛まれ後悔をする。
【完結】もう…我慢しなくても良いですよね?
アノマロカリス
ファンタジー
マーテルリア・フローレンス公爵令嬢は、幼い頃から自国の第一王子との婚約が決まっていて幼少の頃から厳しい教育を施されていた。
泣き言は許されず、笑みを浮かべる事も許されず、お茶会にすら参加させて貰えずに常に完璧な淑女を求められて教育をされて来た。
16歳の成人の義を過ぎてから王子との婚約発表の場で、事あろうことか王子は聖女に選ばれたという男爵令嬢を連れて来て私との婚約を破棄して、男爵令嬢と婚約する事を選んだ。
マーテルリアの幼少からの血の滲むような努力は、一瞬で崩壊してしまった。
あぁ、今迄の苦労は一体なんの為に…
もう…我慢しなくても良いですよね?
この物語は、「虐げられる生活を曽祖母の秘術でざまぁして差し上げますわ!」の続編です。
前作の登場人物達も多数登場する予定です。
マーテルリアのイラストを変更致しました。
【完結】捨ててください
仲 奈華 (nakanaka)
恋愛
ずっと貴方の側にいた。
でも、あの人と再会してから貴方は私ではなく、あの人を見つめるようになった。
分かっている。
貴方は私の事を愛していない。
私は貴方の側にいるだけで良かったのに。
貴方が、あの人の側へ行きたいと悩んでいる事が私に伝わってくる。
もういいの。
ありがとう貴方。
もう私の事は、、、
捨ててください。
続編投稿しました。
初回完結6月25日
第2回目完結7月18日
愛されない皇妃~最強の母になります!~
椿蛍
ファンタジー
愛されない皇妃『ユリアナ』
やがて、皇帝に愛される寵妃『クリスティナ』にすべてを奪われる運命にある。
夫も子どもも――そして、皇妃の地位。
最後は嫉妬に狂いクリスティナを殺そうとした罪によって処刑されてしまう。
けれど、そこからが問題だ。
皇帝一家は人々を虐げ、『悪逆皇帝一家』と呼ばれるようになる。
そして、最後は大魔女に悪い皇帝一家が討伐されて終わるのだけど……
皇帝一家を倒した大魔女。
大魔女の私が、皇妃になるなんて、どういうこと!?
※表紙は作成者様からお借りしてます。
※他サイト様に掲載しております。
だから聖女はいなくなった
澤谷弥(さわたに わたる)
ファンタジー
「聖女ラティアーナよ。君との婚約を破棄することをここに宣言する」
レオンクル王国の王太子であるキンバリーが婚約破棄を告げた相手は聖女ラティアーナである。
彼女はその婚約破棄を黙って受け入れた。さらに彼女は、新たにキンバリーと婚約したアイニスに聖女の証である首飾りを手渡すと姿を消した。
だが、ラティアーナがいなくなってから彼女のありがたみに気づいたキンバリーだが、すでにその姿はどこにもない。
キンバリーの弟であるサディアスが、兄のためにもラティアーナを探し始める。だが、彼女を探していくうちに、なぜ彼女がキンバリーとの婚約破棄を受け入れ、聖女という地位を退いたのかの理由を知る――。
※7万字程度の中編です。
政略より愛を選んだ結婚。~後悔は十年後にやってきた。~
つくも茄子
恋愛
幼い頃からの婚約者であった侯爵令嬢との婚約を解消して、学生時代からの恋人と結婚した王太子殿下。
政略よりも愛を選んだ生活は思っていたのとは違っていた。「お幸せに」と微笑んだ元婚約者。結婚によって去っていた側近達。愛する妻の妃教育がままならない中での出産。世継ぎの王子の誕生を望んだものの産まれたのは王女だった。妻に瓜二つの娘は可愛い。無邪気な娘は欲望のままに動く。断罪の時、全てが明らかになった。王太子の思い描いていた未来は元から無かったものだった。後悔は続く。どこから間違っていたのか。
他サイトにも公開中。
過去1ヶ月以内にレジーナの小説・漫画を1話以上レンタルしている
と、レジーナのすべての番外編を読むことができます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
番外編を閲覧することが出来ません。
過去1ヶ月以内にレジーナの小説・漫画を1話以上レンタルしている
と、レジーナのすべての番外編を読むことができます。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。