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1巻
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コトンと誰かが物を置く音で目が覚めた。だけど、瞼は開かない。まだ眠くて仕方ない。もぞっと動いたからか、頭の上の方から声がかけられる。
「リゼット、起きたのか?」
私を抱きかかえている旦那様の低い声。起きている確信がないのか、小声でそっと聞いてくる。起きているわと答えたいのに、また眠りの中に引きずり込まれそうだ。
「旦那様、奥様はまだ寝ているのではないですか?」
「奥様は頑張りすぎですからね。冬ごもりに入って、日頃の疲れが出たのでしょう」
少し離れたところから使用人たちの声もする。優しく、私をいたわってくれる声。それに応じるように、旦那様はくすりと笑う。
「そうだな。リゼットがゆっくり休むのは冬ごもりの間だけだ。本当に冬ごもりがあって良かったよ。じゃなかったら、リゼットは一年中ずっと頑張り続けてしまうだろう。冬ごもりが終わったら、無理させないように見張らないとなぁ」
そんなことないのに。私は無理なんてしていない。ただ、自分のやりたいことをしているだけ。
「奥様を寝台にお運びしなくていいのですか?」
「この部屋の奥にも寝台が置いてありますよね」
ううん、そんなことしなくていい。寝台があるのはわかっているけど、ここがいいの。
「いや、リゼットを寝台に連れていったら、起きたときにさびしがるだろう」
「それもそうですね。旦那様の腕の中が一番ですもの」
「ふふふ。お邪魔しました」
使用人たちの声が遠くなっていく。残るのは私たちだけ。
「ゆっくり眠ればいい。起きたら、また話そう」
どこまでも優しい旦那様の声。広い腕の中に抱きかかえられて、とても安心する。あぁ、ここが私の居場所だって、ようやくたどり着いたんだって昔の私に教えてあげたい。
あの頃は、これほどまでに幸せになるなんて、思いもしなかったから。
1
しまったと思ったときには遅かった。
使用人たちと朝食をとった後、家令のジェイが忙しそうにしていたから勉強を教えてもらうのは待とうと、少しだけ中庭を散歩して戻ってくるつもりだった。いつもなら昼まで寝ているはずのお母様が、こんな時間に中庭にいるなんて。
見つかる前に逃げればいいのに、立ちすくんでしまう。近くに咲いている薔薇を楽しそうに見ていたお母様が、こちらを向いて動きを止める。さっきまでの優しそうなお母様はどこにもいなかった。視線が合うと、すっと無表情に変わる。
「……その色はっ。リゼット!? どうしてあなたがこんなところにいるの!」
「……ご、ごめんなさい」
甲高い声で叫ばれて、身体を小さくして謝る。
どうしよう。お母様の前に出てはいけないって、あんなに言われていたのに。
逃げようと思っても怖くて身体が動かない。お母様が通り過ぎてくれるのを待っていたけれど、強い力で腕を掴まれ、そのまま引きずっていかれる。お母様の赤く色をつけた長い爪が腕に食い込んで痛いけれど、怖くて声が出せない。
助けてほしくても、忙しい時間だから誰も通りかからない。連れていかれたのはお母様の部屋のようだ。お母様と同じ香水の匂い。お母様は私を部屋の中央に立たせると、奥の机から何かを持ってくる。きらりと光ったそれは、大きな裁ちばさみだった。
ジャキン、ジャキンとすぐ近くで音がする。目を閉じることもできず、私の桃色の髪が一房ずつ床に散らばっていくのをただ見ている。
「あぁ、もう! 短くなっても目障りなんだから!」
「奥様!? 裁ちばさみなど持ち出されて、何をしているのですか!」
ようやく異変に気がついたのか、お母様付きの侍女が止めに入る。もうほとんどの髪が切られている。今さら止めたところでどうにもならないとわかっているけれど、これ以上切られたら耳まで切り落とされそうで怖かった。
「だって、見なさい! このはしたない色の髪! あぁ、もう嫌だ。二度と見たくないわ! 短く刈り込んでしまえば少しは見なくて済むでしょう?」
「お嬢様の髪を切るなんて、なんてことを! 旦那様が知ったらどうなるか!」
「嫌なものは嫌なのよ! だったら、見ないで済むようにこの子を閉じ込めてちょうだい!」
美しい顔をゆがめたお母様が、侍女に止められてもまだ握りしめていた裁ちばさみを振り回す。
それほどまでに私の髪を見たくなかったのか。
床には大量の桃色の髪。七歳になる今まで一度も整えられることなく、伸ばしっぱなしだったからかなり多い。さっきまで私の髪だったものが、あちこちでふわふわ揺れ動いている。
私の髪を切った理由は、聞かなくてもわかる。お母様は私の桃色の髪と赤い目が嫌いだから。いつも見る度に顔をしかめて、はしたない色、みっともない髪、そう叱る。髪を引っ張られたり、目が合った瞬間に頬を叩かれたりしたことはこれまでもあった。
……私がこの色を選んだわけじゃないし、こんな色に産んだのはお母様なのに。お母様のように紺色の髪に青い目だったら怒られなかった。どうして同じ色にならなかったんだろう。
「あぁ、こんなに短く切ってしまわれるなんて」
「桃色の髪だなんて見たくないわ! 火属性なんかいらないのに。どうしてこんな子を産んでしまったの……」
「奥様、大丈夫です、見た目は変えられます」
「それなら早くそうしてちょうだい! あぁ、もうその目も見たくないの! そんな目で私を見ないで!」
これから何をされるのだろうと怯えながらお母様を見ていただけなのに、持っていた裁ちばさみを投げつけられる。あまりのことに身体が動かなくて避けられなかったけれど、裁ちばさみは私にはぶつからず床に刺さった。
それが気に入らなかったのか、今度は近くの机の上にあった文箱を投げつけられた。木で作られた固い箱の角が左腕に当たって、じんじん痛む。でも泣いたらよけいに怒られるし、声を出すだけでも殴られるかもしれない。唇を噛んで痛みから気をそらす。箱がぶつかった腕から血が流れ、指を伝ってぽたぽたと床に落ちた。それでも、ここから逃げ出せない。
「誰か、奥様を他の場所へお連れして!」
「もうその子を私に近づけないで!!」
泣き叫ぶお母様に侍女だけでなく、騒ぎに気がついた家令もつきそって違う場所へと連れていった。
みんなが出ていった後、部屋には私一人が残される。乳母のエリンが助けに来てくれるまでそこに立っているしかなかった。勝手に動いたら、また怒られると知っているからだ。
「あぁ、髪を切るとは。こんなに短く……なんてことを。大丈夫ですか? リゼット様は何も悪くありませんのに」
ほとんどの髪が短く切られてしまった。所々、切られなかった部分が残っているけれど、よけいにみっともない。綺麗に切りそろえてくれるようにお願いすると、エリンは悲しそうな顔をする。
「エリン。私の髪っておかしいの?」
「いいえ、リゼット様は風の属性が強く出ているだけで、火と合わせて二属性もお持ちなんて、素晴らしい才能です!」
「じゃあ、どうしてお母様はあんなに私の髪と目を嫌うの? 火属性は嫌って言っていたわ」
「……それは」
答えられないのか、答えてはいけないのかはわからないけれど、エリンは口をつぐんだ。
お母様は水属性、お父様は土と風属性。私の風属性はお父様から受け継がれたのだと思うけれど、じゃあ火属性は誰から?
私が桃色の髪と赤い目で生まれなければ嫌われなかった。それだけはわかっている。
誰のせいでこんなことになっているか、その答えがわかったのは、もっとずっと後のことだった。
窓の外から声が聞こえる。小さな女の子がはしゃいでいる声。
カーテンに隠れるようにして覗いてみたら、女の子が二人、追いかけっこをしていた。きっとあれが妹のカミーユとセリーヌ。二歳下と三歳下だったから、今は五歳と四歳のはず。一度も会ったことはないけど、血がつながった妹たち。二人とも茶色の髪に茶色の目。お父様に似て土属性に違いない。
不思議な感じがして見ていると、カーテンが揺れたのか、こちらに気がついたようだ。
二人が可愛らしい丸い目をこちらに向けた途端、どこからか大人の女性の声がした。
「二人とも、そちらを見るんじゃありません」
「お母様、どうして?」
「そちらの部屋にはダメな子がいるの。二人は関わらなくていいのよ」
「ダメな子? ふーん」
カミーユはその言葉を聞いて、興味を失ったように向こうに行ってしまう。セリーヌはカミーユを追いかけて走っていく。
お母様もいたんだ。あんな優しそうな声、初めて聞いたから気がつくのが遅れた。
窓から見ていたことが知られたら怒られるかもしれない。カーテンをしっかり閉めると、部屋は薄暗くなる。本を読むにはこのくらいがちょうどいい。
日が陰り、本を読むのが難しくなった頃、ドアがノックされた。入ってきたのは侍女のアンナだった。アンナは私を見ると泣きそうな顔になる。先日お母様に切られた髪はそのままだ。こんな短期間に伸びるわけがない。みんなが悲しそうな顔をするから、私室から出るのはやめた。
「リゼット様、ようやくカツラが届きました」
「ありがとう」
「子ども用のカツラはめずらしいようで、王都でもこの色しか売っていなかったそうです。黒髪ですが、どういたしますか?」
箱に入っていたのは、黒いカツラだった。アルシェ伯爵領地にはカツラを売っている店がないため、王都にいる者に頼んで取り寄せた。そもそも髪の色を隠す人は少ない。髪と目の色で属性がわかるのだから、隠すのは何かやましいことがある者くらいだ。もしくは、なんらかの理由で髪を失ったとき。大人用のカツラでさえ少ないのだから、子ども用のカツラなんてなおさらめずらしいだろう。
「黒だと何かいけないの?」
「黒は闇属性の色ですから。王都ではあまり好ましく思われていません」
「でも、きっとお母様は黒よりも赤が嫌いだよね?」
「……はい。そうだと思います」
「じゃあ、これでいい。カツラをつけるの手伝ってくれる?」
「はい」
アンナに手伝ってもらって黒のカツラをつける。髪が短くなっているからか、あまり違和感がない。鏡の中の私は黒髪の少女になっていた。だけど、まだ目は赤い。このままではお母様の前には出られない。
「目の色はどうするの?」
「カツラの色に合わせて、かけると黒い目に見える眼鏡も入っていました。魔術具だそうです。かけてみますか?」
「うん」
魔術具の眼鏡をかけると鏡の中の少女は真っ黒い目に変わる。魔術具だからか、重さはそれほど感じない。これなら大丈夫に違いない。
アンナは申し訳なさそうに謝っていたけれど、私は何色でも良かった。静かに暮らせるのなら、黒髪が闇属性の色だとしても問題はない。闇属性が嫌われていたとしても、命の危険があるわけじゃない。顔をしかめられるくらいなら、どうってことなかった。
その日から、私室の外に出るときは必ず黒いカツラと眼鏡をつけて過ごすことにした。使用人たちは、最初は痛ましいものを見る目をしていたが、それもこの姿を見慣れてくると普段通りに戻った。
初めてカツラと眼鏡をつけた状態でお母様の前に出たときはさすがに怖かった。これでも怒られたらどうしようと思い、手が震えていた。お母様は私のことを数秒見ただけで、何も言わずに立ち去った。それ以降は、会ったとしても無視されている。
幸い、屋敷の使用人たちは私に優しかった。女主人であるお母様の意向に逆らえなくても、不自由のないように生活を整えてくれたし、勉強を教えてくれたり、仕事が終わった後で庭遊びにつきあってくれたりした。
黒いカツラと眼鏡をつけたことで、私の行動範囲は大きく変わった。今までのように私室と使用人用の食堂だけではなく、図書室などにも行けるようになった。ジェイから勉強を教わる時間も長くなり、私室以外にいることが増えた。そのこと自体はうれしかったけれど、困ったことに妹たちに会う機会も増えていた。
「誰、この子」
「誰、ねぇ、誰なの?」
二人の第一声はそれだった。どうやらお母様は私の存在を二人に伝えていないらしい。
「カミーユとセリーヌね。あなたたちの姉よ」
「姉? そんなのはいないわ」
「私の姉は一人だけよ?」
言われても納得できないのか、カミーユは嫌そうに顔をゆがめた。セリーヌは本当に自分の姉は一人しかいないと思っている様子で、きょとんとしていた。どう説明したらわかってもらえるのかと考えていたら、ジェイが代わりに説明してくれる。
「カミーユ様、セリーヌ様、この方はリゼット様です。お二人のお姉様で間違いないですよ」
「ジェイまでそんなことを言うの?」
「ええ、本当のことですから」
「本当……? お母様に聞いてくる!」
ジェイの言葉を半分だけ信じたのか、二人は走ってお母様のところへ行った。その後ろ姿を見ながら、大丈夫なのか不安になる。お母様は私を娘だと言うだろうか。
それからしばらくして戻ってきた二人は、私をにらみつけた。
「あなたを姉だなんて認めないから! 出来損ないなんでしょ!」
「お母様が、あれは無視していいって! だから、無視するから!」
そう叫ぶと、また二人は部屋から出ていく。青ざめた顔のジェイに向かって、気にしなくていいと笑いかける。ジェイのせいじゃないのだから。
「一応は姉だと説明されたのね。二人に無視されるくらいなら問題ないわ。こちらも気にしなければいいのだもの」
「……リゼット様。それでもリゼット様が長女だということに変わりはありません。いつか、あの方たちもリゼット様のことを認める日が来るでしょう」
「本当に認めてもらえるのかしら」
「ええ、その年でここまで領主の仕事を理解できている令嬢はいないでしょう。旦那様にも報告はしています。このアルシェ伯爵家を継ぐのはリゼット様と将来の旦那様になると思います。だから、その日のためにも頑張りましょう?」
「……うん、わかったわ。ありがとう」
本当は、領主になれるかどうかもわからないのに、勉強して役に立つのだろうかと思っていた。だけど、勉強している間はジェイが面倒を見てくれるし、計算ができたご褒美に飴をもらえるときもある。だから、勉強していただけ。
めったに領地に来ないお父様の顔は覚えていない。最後に会ったのはセリーヌが生まれる前だから、もう四年以上も前。お父様も私の顔なんて覚えていないんじゃないかと思う。
私がこの家の令嬢じゃなくて、ジェイやエリンの子どもだったら良かったのに。そう思いながらも、期待されるとやらないわけにはいかない。カミーユとセリーヌが楽しそうにお母様と遊びに行く日も、私は屋敷の中にこもって勉強だけをしていた。
十歳になる頃、七、八年ぶりにお父様が領地に帰ってきた。玄関で出迎えるとき、久しぶりに会うお父様を見て、こんな顔をしていたなと思い出す。
風と土属性を持つお父様は薄い栗色の髪と茶色の目をしている。長身でひょろりとした姿を見て、私の体形はお父様に似たのかと思った。
夕方になり、家族そろっての夕食に呼ばれることになった。さすがにお父様がいるときに私を呼ばないわけにはいかないらしい。家族用の食事室に入ったのは初めてで戸惑ったが、そんなそぶりを見せたらどんな目に遭わされるかわからない。
ジェイからどこまで報告がされているのかわからないけれど、お母様は私と顔を合わせていないとお父様に知られたくないようだ。「何か言ったら、家から追い出すわよ」と言われていたため、いつもどおりの食事だという顔をして席に着いた。
私が同席していることが面白くないのか、カミーユがにらんでくる。それでも何も言わないのは、カミーユたちもお母様から言われているんだろう。お父様が王都に戻るまでは私が何をしても黙っているように、とか。
使用人に椅子を引かれて座ると、着ているワンピースのみすぼらしさが気になる。お母様と妹たちは晩餐用の綺麗なドレスを着ているが、私は着古して生地が薄くなってしまったワンピース。穴が開いたのを裏側から布をあて、その上に刺繍をして誤魔化したものだ。お父様に似て背が伸びるのが早いせいで丈も短くなり、足首が見えそうなのを少しだけひざを屈めて隠している。
お父様は服の違いがわからないのか、見ようともしていないのか、お母様たちと私の差に気がついていないようだ。王宮の法務室に勤めているせいで領地に帰ってこられないほど忙しいとは聞いていたが、この様子だと家族のことに興味を持っていないのかもしれない。
全員が席に着くと、ようやく食事が始まる。誰一人話すことなく静かに食事は進み、終盤にさしかかったところで、突然お父様に話しかけられた。
「リゼット、食事が終わったら執務室に来なさい。話がある」
「……わかりました」
私と話している間もお父様は料理から目を離さずにいた。急に名前を呼ばれたことに驚いてフォークを落としそうになったが、なんとか返事をする。
今ここで話せば良いのに、後から話すというのはどういうつもりだろう。私だけ呼び出されたせいか、妹たちににらまれているのがわかる。お母様は私のことはいないものとして扱っているけれど、気配から怒っているのが伝わってきた。
用があるのはお父様なのだから、私を責めても仕方ないのに。この分ではきっとお父様が王都に戻った後で、何かされることになる。食事を抜かれるか、私室に閉じ込められるか、他の嫌がらせをされるのか。想像しただけでため息をつきたくなるが、ぐっとこらえる。
この屋敷で私の味方になれる使用人はいない。皆、お母様の命令に従うしかないとわかっているので、助けてと言う気はない。私を助けてしまえばその使用人は解雇されるに違いないから。
初めてのちゃんとした量の食事にお腹が痛くなりそうだけど無理やり食べきる。明日は食事を抜かれるかもしれない。食べられるときに食べておかなければ。
食事の後、私室に戻らずに執務室へと向かう。ドアを開けるとお父様は煙草を吸いながら私が来るのを待っていた。座っている椅子をくるりとこちらに回し私と目を合わせたとき、少しだけ眉をひそめた。
「リゼット、久しぶりだな。……そんな髪色だったか?」
「お久しぶりです、お父様」
仕事が忙しいせいで領地に帰ってこないのは仕方ないとしても、娘の髪色を覚えていないというのはどういうことだろう。
カツラをつけて眼鏡をし始めたのは三年前だから、この姿でお父様に会うのは初めてだった。多分、家令から報告されていると思うけど、報告書を読んでいないのか忘れたのか。あのお母様を放置しているくらいだから、私にも興味がないのだろう。
「お前もわかっているだろうが、この家には女しかいない」
「はい」
「あれももういい年だ。これから男が生まれることはないだろう」
この家には三姉妹しかいない。次女のカミーユと三女のセリーヌはどちらも茶色の髪と目の土属性で、長身の私と違ってお母様に似た小柄な体形。綺麗なものや可愛いもの、おしゃれが好きらしい。同じ屋敷に住んでいても、二人と関わることはめったにない。顔を合わせるのは私が一人でいるのを笑いに来るときや、何か嫌なことがあって八つ当たりしに来るときくらいで、たいていの場合はすれ違っても無視されている。
お母様はカミーユとセリーヌを娘として可愛がっているようで、近隣の貴族が集まるお茶会にも連れていっている。そのため、二人には同世代の友人も多い。一度も外出したことのない私は、もしかしたらいないものとされているのかもしれない。アルシェ伯爵家には二人の姉妹しかいないと。
ここまで私がお母様に嫌われている理由は不明だけれど、だからといって妹たちに見下されるのは納得できない。ただ、言い返せばひどい目に遭うとわかっているから、黙って聞いている。
嫌ではあるが、何年もこんな生活を続けているうちにあきらめてしまっていた。きっとお父様に訴えても、何も変わらない。うんざりした気持ちでいたら、お父様は意外な話をし始めた。
「お前には婿を取ってもらい、その婿とアルシェ伯爵家を継いでもらうことになる」
「私がですか?」
「家令の話ではお前が一番出来がいいと。今後はさらに領主になる勉強も必要になる。そのために王都の屋敷に住みなさい」
「王都の屋敷? すぐにですか?」
「ああ。明日の朝に出発するから準備をしなさい。十五歳になったら学園の寮に入ることになるが、それまでは王都の屋敷で領主になるための勉強をさせる。いいな?」
「わかりました」
本当にジェイの言ったとおりになった。私がアルシェ伯爵家を継ぐことになると。三姉妹しかいないのだから、長女が婿を取ることになるのが普通だ。お母様が嫌がるのではと思っていたが、お父様は気にしていないらしい。
私が領主の勉強をする理由は、優秀な婿を取れるとは限らないから。婿入りできる二男や三男は領主になるための勉強なんてしていない。どんな婿が来ても、私が仕事をできるようにしておけばいいということだろう。
この屋敷から、領地から出られる。お母様と妹たちと離れられる。いずれ結婚して領地に戻ればお母様とは顔を合わせることになるが、代替わりしたらお母様は王都に住むようになるかもしれない。
ようやく光が見えてきた気がして、自分の部屋に準備をしに戻る。
出発は明日の朝だ。ぐずぐずしている時間はない。服をトランクに詰めていると、ノックもなしにドアが開けられた。飛び込むように入ってきたのがカミーユだとわかると、途端に気分が暗くなる。
晩餐用のドレスから着替えたのか、水色の可愛らしいワンピースを着ている。また新しい服を買ったのだろうか。裾にレースがついたワンピースはいかにも高そうだ。おそろいのレースのリボンで結ばれた茶色い髪はくるんとカールされている。どこから見ても可愛らしいのに、目を吊り上げている表情だけはいただけない。
「ちょっと、お父様の話ってなんだったのよ」
「私が王都の屋敷に行くという話よ。明日の朝に出発するわ」
「はぁ? なんであんたが王都に呼ばれるのよ!」
この屋敷ではいらないもの扱いの私がお父様に呼ばれた上に、私だけ王都の屋敷に行くというのだから騒ぎ出すのも無理はない。その上、この家を継ぐとか婿を取る予定だとか言い出したら何をされるかわからないと思い、黙っておくことにした。必要ならばお父様が話すだろう。
「理由はわからないわ。でも、どっちにしても学園に入るときは王都に行くのだから。そのうちカミーユも王都に行くことになるわよ」
「ふんっ。出来損ないのくせに王都に行くとか生意気なのよ! お母様に止めてもらうから!」
そう言ってカミーユは出ていったが、お母様に止められるようなことなんだろうか。お父様がお母様の言うことを聞き入れるとは思えない。どちらかといえばお母様はお父様に逆らえない気がする。カミーユが何を言っても変わらないだろうと準備を進めることにした。
三姉妹で一番出来がいいのが私だから継がせるという話だったが、それはそうだろうと思う。カミーユもセリーヌも勉強が嫌いだ。貴族として必要な礼儀作法すら真面目に学ばない。お茶とお菓子、新しい服のことばかり話している。買い物が好きで、いくらでも服を欲しがるけれど、そのお金がどこから出ているのかは興味がないらしい。あの二人が領主になった日には、伯爵家はつぶれてしまうに違いない。
カミーユが出ていって少しだけほっとしたのもつかの間、今度はセリーヌが部屋に入ってきた。
こちらも新しい服を着ている。カミーユが着ていたものと同じデザインだった。同じように小柄だが、カミーユがふっくらしているのに対し、セリーヌはほっそりしている。既製品でおそろいの服など売っているはずがない。二人の体形に合わせてわざわざ仕立てたのだと思うが、いくらかかったのだろう。見るからに質の良い布地で、かなりの値段になるはずだ。
「出ていくって本当なのね? 良かった。その醜い姿を見なくなるのならうれしいわ」
にやりと笑いながら告げられた内容に唖然とする。
王都に行くなんて生意気だから止めると言ったカミーユと、醜い姿を見たくないから私がいなくなるのがうれしいと言ったセリーヌ。二人とは一度も姉妹らしい会話をしたことがない。もしこれが義理の妹だとか、異母妹だとかならまだ救われるのに。実母から厭われ、実妹たちから見下される。こんな日々と別れられるのなら、喜んで王都に行こう。
次の日、見送りにはお母様とカミーヌ、セリーヌはいなかった。ジェイとエリン、侍女たちに見送られて、お父様と一緒に馬車に乗る。
「……リゼット様。リゼット様が領地に戻ってこられるときには、私もエリンもいないでしょう」
「どうして?」
「もう高齢だからです。あと二年もすると契約が切れます。そうすれば次の家令がここに来るでしょう。でも、リゼット様なら大丈夫です。領主になるためにどれだけ頑張ってきたのか、私たちは知っています。王都に行っても、そのままのリゼット様でいてくださいね」
「ありがとう、ジェイ、エリン。私、頑張るからね」
小さくなるみんなの姿が見えなくなるまで手を振り続けた。もう会えなくなると思うとさびしい。領地での生活を乗り切れたのはみんながいてくれたから。なのに、お礼もできないまま王都に行くことになる。
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