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1巻

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 ここは周辺を他国に囲まれたハイドニア王国。
 自然豊かなハイドニア王国は平地が多く、温順な気候で過ごしやすいため多くの人が暮らしている。
 神の加護を授かったとされる初代国王が国をおこしてから数百年が過ぎたが、その長い歴史は戦争史とも言えるものだった。
 豊かな土地を狙われ常に侵略される危険があったが、先代国王が結んだ周辺国との同盟のおかげでここ四十年ほど戦争は起きていない。
 現国王になってからも同盟は維持され、王族と貴族による領地支配にも平民の不満は少なかった。
 戦争になれば犠牲ぎせいになるのは平民だ。貴族の横暴が多少あったにしても、戦争が起きないのであればそれでいい。たとえ国王よりも王妃の力が上らしいとうわさされていても、平民には関係のないことだった。
 王族の下に貴族がいて、平民とは交わらない。それが絶対だった。
 ハイドニア王国の貴族は公爵家と侯爵家が高位貴族とされ、伯爵家までは夜会に出席し国王に謁見えっけんすることができる。伯爵家以上の貴族に仕える、下位貴族とされる子爵家と男爵家は、夜会に出席することもできず、貴族と言っても高位貴族と同じ扱いをされることはない。
 お茶会などの社交でも高位貴族と下位貴族が交わることはないが、例外が一つだけあった。
 ハイドニア王国の貴族は、十三歳から十八歳までの令息令嬢を王都にある学園に通わせることが義務付けられている。これは教育を受けさせるためだけではなく、身分制を理解させるためにも重要なことであった。
 だが、今の学園ではそれが崩れようとしていた。


   ◆ ◆ ◆


 ガラゴロと音がうるさい普通の馬車とは違い、真っ白な馬車は静かに走り出した。学園の校舎の前で一人、それが走り去るまで頭を下げたまま見送る。
 見慣れた大きな白い馬車には王家の紋章。その中に乗っているのはフレディ・ハイドニア。この国の第三王子だ。
 フレディ様が学園から王宮に帰る際にはいつもこのようにして見送っている。それは私、リーファがフレディ様の婚約者であり、フレディ様の母親である王妃様に毎回きちんと見送るように申し付けられているからだ。
 王家特有の金髪を耳のあたりで切りそろえ、はっきりとした緑目のフレディ様は整った顔立ちをしているが、男性にしては小柄で身体が弱く、学園を休みがちなため、いつ来るかわからない。
 入学当初はお見送りだけでなくお出迎えもするようにと言われていたが、学園が始まって三日後にフレディ様が休みだと知らずに馬車着き場で待たされ、私が授業に出られなかったことで学園長から苦情がいったらしい。それ以降は帰りのお見送りだけでよいとされている。
 フレディ様が学園にいる間、一緒にいても会話することはない。幼い頃から婚約者として会う機会はあったものの、仲がいいわけではなかった。
 フレディ様はもともと無口なほうだし、何か必要なことがあればいつも一緒にいる侍従のアベルが代わりに伝えてくる。おそらく私と話したくないのだろう。
 学園や公式行事以外でお会いすることはなく、婚約者としての贈り物どころか手紙すらもらったことがない。
 最初の頃は期待もあったし、フレディ様の態度に傷ついたこともあったが、こんな関係で大丈夫かと悩む時期はもう過ぎている。学園も五年目、最終学年になり三か月が過ぎた。関係の改善は何一つできないまま、あと一年もしないうちに卒業して結婚することになる。
 不満があったとしても王家からの申し出を受けた婚約。だから、私が何を言うこともできない。
 それなのに、そう思わない人も多いようだ。

「毎日しつこいですわよね、リーファ様。あんなことをしてもフレディ様からは声もかからないのに不憫ふびんですわね」
「本当ですわね。みっともないですこと。でもあんな風にフレディ様におすがりしなければ、すぐにでも捨てられてしまいますもの」
「ふふふ。事実だからといって声が大きいですわよ?」
「聞こえたってかまいませんわ。学園内でフレディ様と話しているのを見たことありませんもの。結婚したからといって相手にされないのはわかりきっています。幼い頃に決められたとはいえ、本当におかわいそうに」
「本当に、ねぇ? 魔力も加護もないのに、家柄だけで選ばれた婚約者ですもの。おかわいそうですわ」

 おかわいそうにと言うわりには楽しそうな笑顔でこちらを見ている。
 少し離れた場所から悪口を言い続けているのは、フレディ様にむらがる令嬢たちだ。先ほどまでフレディ様の後を追いかけるように一緒にいた。
 馬車に乗る際は侍従たちが付き添うので、学園の中では傍若無人ぼうじゃくぶじんな令嬢たちもさすがに近寄ることはできない。こうして近くでお見送りする許可が出ているのは婚約者である私だけ。そのため、彼女たちは少し離れたところから見送っていた。
 その令嬢たちの中に、リンデルバーグ公爵家の令嬢フェミリア様も交じっているのを見て複雑な気持ちになる。
 リンデルバーグ公爵家は隣国の王家の血も引いている、この国でも有数の貴族家。きちんとした令嬢教育を受けているフェミリア様が私に何か言ってくることはない。かといって、こうして他の令嬢が私の悪口を言っているのを止めることもない。
 たまに私のほうを見て何か言いたそうにしていることがあるため、不満があるというのはわかる。おそらくフェミリア様はフレディ様と婚約したかったのだろう。身分を考えたら公爵令嬢のフェミリア様のほうが婚約者としてふさわしいのだし。
 正直に言えば、侯爵家とはいえ大した家柄でもないのに私が選ばれたのは、私が一人娘でフレディ様の婿むこ入り先にちょうどよかったからだろう。
 先代国王の第二王子が王弟として王族に残っているため、これ以上王族を増やすと領地が必要になる。だが、王家を守るためにも簡単に王子に王領を渡すわけにはいかない。
 一人娘の私と結婚すれば、侯爵領はフレディ様が継いで王領と同じ扱いになる。つまり領地目的で選ばれた婚約だった。
 領地目的の婚約だと思うのには他にも理由がある。貴族として当然あるはずの魔力が私にはなかった。ましてや神からの祝福と言われている特別な能力、加護だなんてもちろんあるわけがない。私が評価されて婚約したのではないことは、はっきりしていた。
 かわいそうだと令嬢たちに指摘されるまでもなく、そのことは私自身が一番わかっている。
 フレディ様に望まれていない婚約、相手にもされていない私。みじめとしか言いようがないが、だからといって何ができるというのだろう。
 悪口を聞いても何一つ言い返すことはなく、聞かなかったふりをして校舎に戻る。楽しそうに話しながら帰る学生たちに逆らうように廊下を奥へと歩いていく。


 教員の研究室が並ぶ中、一番奥にある魔術演習研究室のドアを開ける。
 魔力がないのに特例で入学した私は、魔術演習の講師を手伝うことで単位をもらえることになっている。他の授業と違い、魔術演習だけは魔力がない私では受けることができない。そのため授業中は見学し、講師の助手として準備や後片付けを手伝う。
 研究室での仕事の手伝いは義務ではないが、魔力なしなのに学園に通う後ろめたさもあり、授業後もこうして自主的に通っていた。

「リーファです、失礼します」

 ノックをした後、返事を待たずに入室する。これは研究中のラーシュ先生はノックの音が聞こえないことも多いため、返事を待たずに入室していいと先生から許可されているからだ。中に入ると今日は私に気がついたらしく、本を読むのをやめて顔を上げた。
 この学園の魔術演習の講師、ラーシュ・ユーミア先生。
 まだ若い二十代の男性教師だ。地方男爵家の三男だと聞いている。ボサボサの長い黒髪を雑に一つにまとめて結び、前髪も鬱陶うっとうしいほどに長くて顔が見にくい上に、分厚い黒縁くろぶち眼鏡をかけているせいで瞳の色もわからない。背は高いが少し猫背なのか、実際より小柄に見える。
 服の上から白衣を着ていて、体格もよくわからない先生だった。
 若い男性の教師は令嬢たちに騒がれることが多いが、ラーシュ先生は態度が冷たいため、敬遠されているように思う。話せば優しい気遣いのできる先生なのだが、先生自身は騒がれるのが嫌でわざとそうしているそうで、令嬢たちに嫌われても気にならないらしい。
 でも、本当の先生を知ったら、みんなが好きになると思う。今も難しい顔で本を読んでいたのに、私が来たのに気がつくと途端に雰囲気が柔らかくなった。微笑みと言うほどではないけれど、ちょっとだけ口の端が上がったのがわかる。

「おう。来たか。今日も王子を見送ってきたんだろう? 大変だな」
「はい。でも私がしているのはお見送りくらいですから、それほど大変でもないです」
「……リーファ。前から聞こうと思っていたんだが、フレディ王子はどうしてお前と一緒に昼食を取らないんだ? 婚約者なんだろう? 確か入学当初は一緒に行動していたよな」
「はい、そうですね。入学してしばらくは一緒に行動していたと思います」

 今まであまり個人的な話をしてこなかった先生に、こんなことを聞かれるとは思わなかった。
 授業で困ったところがあれば聞いていいと言われているし、体調が悪かったりするとすぐに気がついてくれるが、先生自身の話をすることはないし、私について聞いてくることもなかった。だから研究以外にはあまり関心がないのだとばかり思っていた。そんな先生からしても、私とフレディ様の関係はおかしく見えるのかもしれない。
 この学園に入学した四年前を思い出すと、確かにあの頃は一緒にいたと思う。フレディ様とは公式行事で顔を合わせる他、たまに王妃様主催のお茶会で一緒になる機会はあったが、ほとんど話すことはなかった。それでも私は学園に通うのなら、婚約者として一緒にいなければならないと思い込んでいた。

「フレディ王子はいつも令嬢たちに囲まれているだろう。自分の婚約者が令嬢たちと一緒に食事をしていて気にならないのか?」
「そうですね、はっきり言えば気になりません」
「……はっきり言うなぁ」

 きっぱりと答えたら先生に苦笑いされてしまったが、こんなことで嘘をついても仕方ない。私とフレディ様の仲の悪さというか、関わりのなさは学園内では有名な話だった。きっと先生だって、私に聞かなくてもわかっていると思う。

「……お前がそれでいいと言うのならいいけど、このままで本当にいいのか?」
「先生が何を心配してくれているのかわかりませんが、フレディ様が何をしていても、誰といても私は嫉妬しっとしたりしません。むしろ……今の状況は私がフレディ様を放置している状態です」
「は?」
「入学当初にフレディ様に頼まれたのです。自分につきまとってくる、ああいう令嬢を代わりに追い払ってほしいと。フレディ様は令嬢に話しかけられるのも近づかれるのも苦手ですから。それで最初は令嬢が近づいてくるたびに私が断っていたのですが……」
「あの令嬢たちの中にリンデルバーグ公爵家の令嬢がいたな。いくら婚約者とはいえ、理由なく断るのは侯爵家のお前では荷が重いのではないか?」

 さすがに授業を担当している教室の令嬢は覚えているらしい。

「その通りです。婚約者がいるとはいえ、完全に社交をしないというわけにはいきません。フレディ様とお話ししたいと公爵家の方に言われたら、私が強く断ることは難しいです。そこでフレディ様が断ることができれば問題なかったのですが……。断っていたのはすべて私の意思だという風に片付けられてしまって。それからは助ける気にならなくなりました」
「王子に頼まれて助けていたのに、全部お前のせいにされたのか……そりゃ、もう助ける気もなくなるな」
「で、今に至ります。最近は他の令嬢たちもフレディ様に声をかけるようになり、大変な状態ですね。フレディ様も見るからに嫌そうな顔はしていますが、そのくらいで令嬢たちが止めるわけがありません。フレディ様の性格だとはっきり断ることもできないのでしょう。ものすごく嫌なのか、たまにこちらを見て助けろというような顔をしますが、明確に言われていない以上は私が出しゃばることはできません。まぁ、今さら言われても無理なので断りますけど」

 フレディ様の指示なら何か言われても問題はないが、一度指示をしていないと言われた後では、私が断ろうとしても令嬢たちに聞いてもらえないだろう。
 それに指示されたとしても、また僕は何も言っていないと見捨てられる可能性が高い。だからもう何があっても令嬢たちを止める気はなかった。

「なるほど……。じゃあ、いいか。あいつの自業自得だな」
「自業自得なのでしょうか? わかりませんけど、その後は助けを求められていないので大丈夫なのではないでしょうか」
「まぁ、それもそうか。大丈夫だな」

 そんなわけはないのをわかっていて言うと、先生もあっさりと納得する。多分、フレディ様が困っていたとしても、私も先生もどうでもいいのだと思う。

「あぁ、その棚に置いてある箱を取ってくれ」
「はい。この箱ですね」

 壁際の棚には綺麗に包装された箱が置いてあった。水色の可愛らしい包装紙に包まれている。先生の研究室には似合わないけれど、これはなんだろうか。
 持ち上げると重みを感じた。言われた通り、その箱を先生の机まで運ぼうとすると途中で止められる。

「あぁ、違う。俺のところに持ってきてほしいわけじゃない。それはリーファにやるよ。知り合いからもらったものなんだが、俺はいらないから。開けてみな?」
「え? 私にですか?」

 包装を解いて箱を開けてみると、ガラスの瓶が一つ入っていた。手のひらより少し大きい瓶の中にはコロンとした丸い赤いあめがたくさん詰まっている。

あめ、ですよね?」
「ああ。もらったんだが、俺は甘いものはあまり食べない。いつも手伝ってくれているお礼だ。受け取っておけ」
「ええっ⁉ お礼だなんて。先生の手伝いをすることで単位をもらっているんですから……」
「それでも、だよ。お前の手伝いは助かっているからな。授業の手伝いだけでも十分なのに、俺の研究や仕事の手伝いまでしてもらっているんだ。お礼と言ってもただのあめで悪いな」


「いえ! ……ありがとうございます。うれしいです」

 綺麗なレースの白いリボンが結ばれた透明な瓶にたくさん入った赤いあめ。中のあめが光の反射でキラキラしていて、まるで宝物のように見える。甘いものは好きだけど、口にする機会はそれほどない。こんなに綺麗な贈り物も初めてで、うれしくて顔が緩んでしまう。

「食べてみたら?」
「はいっ」

 瓶のコルクを開けて一粒取って口に入れる。コロコロとしたあめを転がすと甘酸っぱい味が口の中に広がっていく。想像よりもずっと美味おいしくて、思わず両手で頬を押さえる。

「気に入ったようだな」
「ふふ。甘くて美味おいしいです。先生も一粒いかがですか?」

 知り合いからいただいたものだというのなら、甘いものが苦手でも一粒くらい食べておいたほうがいいのではないかと思い、先生に瓶を差し出そうとした。そうしたら先生は本とペンを離さないまま軽く口を開けた。

「そうだな。一粒くらい食べておくか。リーファ、口に入れてくれ」
「え?」

 本を離すと読んでいた場所がわからなくなるのはわかる。なら、ペンを離せばいいのにと思うけれど、それすら面倒くさいのだろう。研究中は何一つ他のことをしない先生だから、そういう行動もわかってしまう。
 仕方なく先生のそばまで近寄って、瓶からあめを一粒取り出す。小さな小さな赤いあめ。それを先生の口に入れる瞬間、色気がある薄いくちびるに少しだけふれた指が熱を持つ。
 先生の助手になって四年も過ぎたけれど、身体にふれるのはこれが初めてだった。心臓がはねるように響く。なのに、先生は何も気がつかずにあめを味わっていた。

「たまに食べるとうまいな」
「……そうですね。美味おいしいです」
「苺味か。まるでリーファの目をあめにしたみたいだな」
「……」

 何も言えずに、瓶のコルクを閉めた。大事に鞄にしまい、今日の仕事を始める。
 先生の机に出しっぱなしになっていた本をしまい、机を拭いて、ごみを捨てに行く。熱を持ってしまった顔を見られないように、ずっと下を向いたまま作業する。先生も何事もなかったように研究に没頭し始めている。
 静かな研究室の中、先生が本をめくる音と私が片付ける音だけが小さく響く。
 ……この想いには気がつかれなくていい。
 こんな気持ちを持っていても仕方ないのだから。


 先生の手伝いも終わり、待たせていた侍女のリリアを連れて屋敷へ帰ると、私室に向かう廊下でお義姉ねえ様に捕まった。
 いつもは顔を合わせないようにしているのについていない。表情にそれが出てしまいそうになるのを抑え、ただいま帰りましたと微笑んだ。
 豊かな茶色い髪をゆったりと巻いたお義姉ねえ様が、その髪をくるくると指でもてあそびながら近づいてくる。お義姉ねえ様はややふっくらした身体を魅力的に見せるように、胸元が少し開いたドレスを着ている。部屋着としてはふさわしくない高価な布地で仕立てられたドレスは、今すぐお茶会にでも行けそうなくらいだ。といっても、お義姉ねえ様が質素な格好をしているところは見たことがないけれど。
 いつになくご機嫌な様子で近づいてくるお義姉ねえ様に、何をたくらんでいるのかと後退あとずさりしたくなる。いつも不機嫌なお義姉ねえ様が、こんなにも機嫌がいいだなんて何かあるに違いない。

「リーファ、明日は予定あるの?」
「明日の予定ですか? 明日の午後は王太子妃様主催のお茶会に呼ばれています。王宮で開かれるもので、昼前には出かけます。お茶会には王妃様と第二王子妃様も出席されるそうです」
「ふぅん……そう」

 私の予定を知りたかったようだ。明日の予定を聞かれ、何を言われるだろうかと覚悟しながら答える。
 王宮に行くと言うとついてきたがるお義姉ねえ様に、王妃様方も出席する場だからと告げておく。さすがにそんな場についてこようとはしないだろうから。
 お義姉ねえ様は私が第三王子の婚約者なのが気に入らないのか、私が王宮へ行くのをよく思っていない。そのため、こんな予定を話した日には嫌味が続くのは間違いなかった。王子妃教育が終わって、しばらく王宮に行く機会はなかったのに、久しぶりに王宮に呼ばれた時に限って聞かれるとは。
 何を言われても聞き流そうと覚悟したのに、この日は嫌味を言われず、なぜか一言で終わった。考え込んでいる様子のお義姉ねえ様に理由を聞きたくなるが、すぐに思い直す。
 静かなお義姉ねえ様は不気味だけど、余計なことを言ってものを投げつけられるのも嫌だ。何も言われないのならばこのまま黙っていたほうがいい。そのまま待っていると、お義姉ねえ様は私への興味をなくしたように、無言で部屋へと戻っていった。
 今のはなんだったのかと思いながらもおとなしく私室に戻り、侍女のリリアがドアを閉めると息をついた。

「リーファ様、お茶をおれしましょうか?」
「ええ、お願い」

 お義姉ねえ様と話したせいで疲れてしまって、ソファに座ると身体が重く感じる。いつものようにリリアにお茶をれてもらって一口飲むと、ようやく身体の緊張がとけた気がした。
 今年のはじめにお母様が亡くなってすぐ、お父様は長年の愛人と再婚した。結婚していたとはいえ、お父様とお母様が一度も一緒に住んだことがない夫婦だったのは知っている。だからお父様が愛人と再婚したことには驚かなかった。
 お父様たちはずっと別邸に住んでいたし、再婚してもそのまま何も変わらないだろうと思っていた。
 私自身、一年後にはフレディ様と結婚して王宮に住むことになる。今さらお父様たちに関わっているような暇はなかった。
 それなのに、お義姉ねえ様は数人の使用人を連れてこの屋敷へと移り住んできた。この屋敷は侯爵家当主であるお父様の持ち物だし、住むというのなら文句を言うわけにもいかない。仕方なく受け入れ、お父様たちが来るのを待っていたが、一向にその気配はない。そうして、なぜかお義姉ねえ様だけがこちらの屋敷に住むようになった。
 お義姉ねえ様とその使用人たちがこの屋敷に来てからは、私室の中だけが私の居場所だった。会えば嫌味を言われるのみでなく、時には叩かれることもある。お義姉ねえ様の使用人たちも一緒になって笑っていて、助けてくれることはない。
 あまり日当たりのいい部屋とは言えない私室には質素な寝台と机、ソファが一つ。それしかないけれど、お義姉ねえ様がここに寄りつかないのであれば安心できる。

「リーファ様、今日はカミーラ様から嫌味を言われませんでしたね?」

 やはりリリアから見ても今日のお義姉ねえ様はおかしかったらしい。首をかしげているリリアに、私も少し首をかしげて答える。

「そうね……あれはなんだったのかしら。いつもと違って、ちょっと不気味だったわ。お義姉ねえ様から何も言われないなんて初めてだもの。何かたくらんでいるのでなければいいのだけど」
たくらみですか……それは困りますね。明日のお茶会は予定通りに出席でしょうか?」
「ええ。王太子妃様のお誘いだし……気は乗らないけど、行かなかったほうが面倒になるわ。リリアもついてきてくれる?」
「もちろんです」

 ただでさえ王太子妃様と顔を合わせるのは苦痛なのに……お義姉ねえ様のことまで心配していられない。まさか王宮についてはこないと思うけれど、気をつけていたほうがいいだろうか。

「それにしても。今日は鞄の中を見られなくてよかったわ」

 お義姉ねえ様に会うと思っていなかったから警戒していなかった。もし鞄の中にこれが入っていたのを見られたら、すぐに取り上げられてしまっていただろう。

「何か鞄の中にあるのですか?」
「ええ。いつも手伝っているお礼だって、先生からいただいたの!」

 綺麗な瓶に詰められた赤いあめを見せると、自分のことのようにリリアが喜んでくれる。

「まぁ、とても可愛らしいですね!」
「そうなの! 知り合いからのいただきものらしいけど、先生は甘いものがあまり好きじゃないからって。苺味のあめなの。とっても美味おいしかったわ。リリアも一つ食べない?」
「ふふふ。リーファ様の大事な、大事なものなのでしょう? 私も甘いものは得意じゃありませんから、そのお気持ちだけで十分です」
「嘘よ。リリアだって甘いものが好きでしょう? ごめんなさい。もっと裕福な貴族だったら、リリアと一緒にカフェに行ってケーキをごちそうしたりできるのに」

 普通の貴族令嬢だったらカフェでお茶を楽しみ、付き添いで来ている侍女にごちそうすることもめずらしくない。
 通常は屋敷内で一緒に飲食をすることはできない。だが、お出かけの際に令嬢が一人で飲食するのはみっともないからと、そういう時は付き添いの侍女も席につくことが許されている。
 あめ一つ食べるのも遠慮されてしまうほど、この屋敷はというより、私はお金に困っている。お父様が私の分の生活費を一切出してくれないからだ。
 幸い、侍女のリリアと執事のユラン、通いで来てくれている料理人のビリーがいるから、なんとか問題なく生活している。
 二十代半ばのリリアは薄茶色の髪を一つにまとめていて、男装も似合いそうなほど凛々りりしい顔立ちをしている。所作も綺麗なのにきびきびしていて、休んでねと言ってもすぐに仕事をし始めてしまう。他の侍女というか、下働きの使用人が一人もいないせいで、リリアには負担をかけていて申し訳ない。
 私も一緒に家のことをやろうとすると止められてしまうけれど、リリアが来るまでは一人でやってきたんだからと手伝うくらいは許してもらっている。
 まっすぐな銀色の髪を結び眼鏡をかけているユランは、三十代に見えるが本当にいろんなことを知っていて、学園の勉強でわからないところを教えてくれる。なぜこんな優秀な執事がうちなんかに雇われているのかと思うくらい、なんでもできる執事だ。
 ユランにはこの屋敷のお金関係のことをすべて任せ、領地経営の仕事も手伝ってもらっている。
 ふわふわな赤髪が目立つ料理人のビリーはまだ十代だと聞いている。私と変わらない年齢だ。王都のお店で料理人見習いをしていて、うちには午後に来て夕食と朝食を作り置きしてくれている。
 他の店で働いている隙間の時間にうちに来ているために安く雇われているらしいが、ビリーの作る料理はとても美味おいしい。いつか有名な料理人になると思っているけれど、そうしたらうちにはもう来てくれないかもしれない。畑仕事が趣味なんだと言って、うちの畑の世話もしてくれている。
 三年と少し前――お母様が病気で倒れてから一年半が過ぎた頃、お父様はやっと使用人を手配してくれた。それまではお母様と二人だけでこの屋敷に住んでいた。私とお母様には使用人を雇うお金もなく、御者ぎょしゃがいなくて馬車も乗れなかった。
 幸いにも私がフレディ様の婚約者だから王家の馬車が送り迎えしてくれるし、前侯爵のお祖父じい様の頃から付き合いのある商家が、つけで小麦などを買わせてくれるおかげでなんとか生きてこられた。
 なんでも自分たちでやり、庭をたがやして畑を作り野菜を育て、お金は王家から私に支給されるドレスを売って手に入れていた。そんな苦しかった生活も三人が来てくれたおかげで急に楽になった。
 お母様が亡くなった時の葬儀もお父様は何もしてくれず、取り仕切ったのはユランだった。泣いている私をリリアがなぐさめ、ビリーが温かい蜂蜜入りのミルクを持ってきてくれた。三人がうちにいてくれなかったら、一人きりでどうなっていたかわからない。
 恩返ししたいけれど、今の私では何一つ返せずに悔しく感じている。

「嘘ではありませんよ。このあめはただのあめではないのでしょう? 大事な先生から贈られた貴重なあめです。私がいただくわけにはいきません。ですので、お話だけ聞かせてください」
「話を?」
「ええ、そのあめを贈られた時の話を聞かせてくださいませんか? リーファ様がうれしかったことを聞くのがリリアの楽しみですから」


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