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――…………
――……
また、別の日、今日は、鈴に顔を上に向けられる。
顎を掴まれ、キスでもされるのかと思ったが、違った。
鈴のしなやかな指が俺の目に伸びて、瞼を上下にこじ開けられた。
「ふふ、綺麗な目ぇ……
父さんと同じ、瞳の色だ。潰したくなる」
「鈴……」
「抉って、眼球を取り出して、そのままグチャってしちゃいたいよ。
僕の右目はもう見えないのに、兄さんだけずるいよ」
鈴の右目は、父による虐待で失明していた。
父が鈴に灰皿を投げつけて、それが運悪く目に当たってしまったんだ。
その時の光景と鈴の絶叫は、今でも鮮明に覚えている。
血がたくさん出て、とても怖かった。
「ん、ふっ……」
「ひっ……!?」
開かされた俺の目に、鈴が舌を這わせる。
視界が鈴の舌で覆われ、真っ黒になる。
反射的に目を閉じてしまいそうになるが、
鈴が指で上下に強く俺の瞼を開いているのでそれは出来なかった。
「い、痛い……痛いよ……っ」
鈴が舌を、ゆっくりと動かす。
れろ、れろ……とゆっくり、ねっとり、眼球や瞼の裏側の粘膜を舐められる。
眼球を傷つけないように、
あくまで丁寧に丹念に舐め上げられて、背筋がゾクゾクした。
唾液と目の粘膜がねちょ、くちゅ、と絡み合う音が脳にダイレクトに伝わる。
「はっ、あん……」
舌が黒目に当たる度、ピリっとした痛みが走る。
我慢できなくなって、目を瞑り、鈴から顔を逸らす。
「鈴……っ」
「あは、痛かった? でも僕はもっと痛かったんだよ?
それなのに兄さんは何もしてくれなかった」
「…………」
「ねえ、兄さん?
幼い頃の僕は誰にも助けを求められなかった。
だってまだ、無力な幼子だったんだもの。
どんなに理不尽な命令でも……
親の言うことならば、絶対に聞かなければならないと思っていた。
逆らってはいけないと思っていた。
小さい僕の中には、通報するだとか相談するだとかの選択肢はなかった。
そんなこと、考えもしなかった。
だけど本心ではやっぱり誰かに助けて貰いたかったよ。
特に…… 兄さんには…………
だって、兄さんだけが頼りだったんだ。
家庭という狭すぎる世界の中で、兄さんだけが希望だった。
僕を助けてくれるとしたら、兄さんしか居ないって……
そう、思っていたのに……
だけど兄さんは一度だって僕を助けてくれやしなかった。
でもそれで当然だ。それは仕方ないことだ。
だって兄さんだってまだ幼かった。
兄さんだって父さんの子なんだから……
子が親に逆らえるわけないんだから……
だから仕方ないって頭では理解してるんだ。
それなのに、心が追い付かないんだよッ!
どうしても、兄さんを怨んでしまう……
ムカつくよ、憎いよッ! どうして助けてくれなかったの!?」
「……ッ」
俺は我が身可愛さに、鈴を見捨て続けた。
何度も繰り返し、鈴を見捨てた。
鈴が父親から虐待されている時……。
鈴が泣いて『助けて!』と叫んだ時……。
鈴の鳴き声も父親の怒鳴り声も、
何もかもを聞きたくなくて、見たくなくって、
俺はいつも自分の部屋で布団に包まって耳を塞いでいた。
布団で目を覆って、何も見ないようにした。
そうやっていつも逃げていた。
俺は『お兄ちゃん』なのに。
兄らしいことなんて、鈴に何もしてやれなかった。
でも…… それでも…………。
俺だって怖かったんだ。父親に逆らえなかった。
鈴と同じで、俺だって父さんの事を神様みたいに思っていた。
この人に逆らってはいけないと、そう、本能的に思っていたんだ。
幼い頃から父親が絶対的に正しいと、そう信じ込まされていた。
それはある種の洗脳のようなものだった。
「もう…… いいだろ……!?
もう許してくれよッ! 俺ばっかり責めるなよ!
いつになったら解放してくれるんだよ!!
もううんざりだよ、いい加減にしてくれよ!!」
「…………っ」
俺が怒鳴ると、鈴は肩をビクつかせた。
目を丸くして驚き、固まっている。
今まで一度も、鈴にこんな風に怒鳴ったりしたことはなかった。
それは俺が罪の意識を感じていたからだけれど、
そうだとしても、もう我慢の限界で、つい怒鳴ってしまった。
実の弟と、こんな関係で居るのはもう本当に限界なんだ。嫌なんだ。
「うっ……」
「鈴……?」
鈴が蹲り、真っ青な顔で口を押えた。
俺はすぐに鈴に駆け寄って、丸まった背中を撫でる。
「大丈夫か? 気持ち悪い?」
「はー……っ、はあッ、あ、あ、あっ、うッ、う、おえッ、げえ……っ」
「鈴っ……」
鈴が嘔吐する。
口からごぼごぼと食べ物だったものが逆流して、
ビチャビチャと床にまき散らされる。
嘔吐物特有の臭いが、俺の鼻を突く。
「はーっ、はー……ッ」
「鈴……」
「あっ…… ご………… ごめんなさいっ……」
「…………」
「ごめんなさい、ごめんなさいっ、す、すぐ綺麗にしますから……
すぐ片付けます掃除します綺麗にしますごめんなさい許してください!
汚くてごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
「す、鈴……」
鈴は自分の服の袖と裾で、嘔吐物を拭き始めた。
袖で嘔吐物を吸い取り、床をごしごしと擦る。
吐瀉物は伸ばされるだけで、掃除としての意味はあまりなかった。
「鈴、今日の分、薬、飲んでないのか?」
「う、う、あ、あ、ごめんなさい、ごめ、なさっ……」
「そんなのいいから。俺が片付けるから。怒鳴ってごめん。薬、飲んで来いよ」
虐待で心を壊された鈴は、毎日抗うつ剤と抗不安薬を服用していた。
精神科に連れて行ったら、PTSDだとか不安障害だとか言われた。
鈴はたくさんの薬を飲んで、なんとか命を繋いでいる。
薬を飲まないと、虐待されていた時の記憶がフラッシュバックして、こういう風に取り乱す。
「あああああああごめんなさいお父さんッ!!!
ごめんなさいごめんなさい、あ、ああああ、あああああああああ!
もう嫌です許してください産まれて来てごめんなさい!
お母さんを殺してごめんなさい、悪い子でごめんなさいごめんなさい!!」
「…………っ、薬、取って来る、から……」
「うっ、ううう、うああああああ……
うわあぁああぁん、あああぁあぁんっ!
怖いよおおぉ、痛いよ、痛いよっ、ああああぁん」
幼い子供のように泣き喚く鈴から目を逸らして、薬を取って来るために鈴の部屋へ向かった。
――……
また、別の日、今日は、鈴に顔を上に向けられる。
顎を掴まれ、キスでもされるのかと思ったが、違った。
鈴のしなやかな指が俺の目に伸びて、瞼を上下にこじ開けられた。
「ふふ、綺麗な目ぇ……
父さんと同じ、瞳の色だ。潰したくなる」
「鈴……」
「抉って、眼球を取り出して、そのままグチャってしちゃいたいよ。
僕の右目はもう見えないのに、兄さんだけずるいよ」
鈴の右目は、父による虐待で失明していた。
父が鈴に灰皿を投げつけて、それが運悪く目に当たってしまったんだ。
その時の光景と鈴の絶叫は、今でも鮮明に覚えている。
血がたくさん出て、とても怖かった。
「ん、ふっ……」
「ひっ……!?」
開かされた俺の目に、鈴が舌を這わせる。
視界が鈴の舌で覆われ、真っ黒になる。
反射的に目を閉じてしまいそうになるが、
鈴が指で上下に強く俺の瞼を開いているのでそれは出来なかった。
「い、痛い……痛いよ……っ」
鈴が舌を、ゆっくりと動かす。
れろ、れろ……とゆっくり、ねっとり、眼球や瞼の裏側の粘膜を舐められる。
眼球を傷つけないように、
あくまで丁寧に丹念に舐め上げられて、背筋がゾクゾクした。
唾液と目の粘膜がねちょ、くちゅ、と絡み合う音が脳にダイレクトに伝わる。
「はっ、あん……」
舌が黒目に当たる度、ピリっとした痛みが走る。
我慢できなくなって、目を瞑り、鈴から顔を逸らす。
「鈴……っ」
「あは、痛かった? でも僕はもっと痛かったんだよ?
それなのに兄さんは何もしてくれなかった」
「…………」
「ねえ、兄さん?
幼い頃の僕は誰にも助けを求められなかった。
だってまだ、無力な幼子だったんだもの。
どんなに理不尽な命令でも……
親の言うことならば、絶対に聞かなければならないと思っていた。
逆らってはいけないと思っていた。
小さい僕の中には、通報するだとか相談するだとかの選択肢はなかった。
そんなこと、考えもしなかった。
だけど本心ではやっぱり誰かに助けて貰いたかったよ。
特に…… 兄さんには…………
だって、兄さんだけが頼りだったんだ。
家庭という狭すぎる世界の中で、兄さんだけが希望だった。
僕を助けてくれるとしたら、兄さんしか居ないって……
そう、思っていたのに……
だけど兄さんは一度だって僕を助けてくれやしなかった。
でもそれで当然だ。それは仕方ないことだ。
だって兄さんだってまだ幼かった。
兄さんだって父さんの子なんだから……
子が親に逆らえるわけないんだから……
だから仕方ないって頭では理解してるんだ。
それなのに、心が追い付かないんだよッ!
どうしても、兄さんを怨んでしまう……
ムカつくよ、憎いよッ! どうして助けてくれなかったの!?」
「……ッ」
俺は我が身可愛さに、鈴を見捨て続けた。
何度も繰り返し、鈴を見捨てた。
鈴が父親から虐待されている時……。
鈴が泣いて『助けて!』と叫んだ時……。
鈴の鳴き声も父親の怒鳴り声も、
何もかもを聞きたくなくて、見たくなくって、
俺はいつも自分の部屋で布団に包まって耳を塞いでいた。
布団で目を覆って、何も見ないようにした。
そうやっていつも逃げていた。
俺は『お兄ちゃん』なのに。
兄らしいことなんて、鈴に何もしてやれなかった。
でも…… それでも…………。
俺だって怖かったんだ。父親に逆らえなかった。
鈴と同じで、俺だって父さんの事を神様みたいに思っていた。
この人に逆らってはいけないと、そう、本能的に思っていたんだ。
幼い頃から父親が絶対的に正しいと、そう信じ込まされていた。
それはある種の洗脳のようなものだった。
「もう…… いいだろ……!?
もう許してくれよッ! 俺ばっかり責めるなよ!
いつになったら解放してくれるんだよ!!
もううんざりだよ、いい加減にしてくれよ!!」
「…………っ」
俺が怒鳴ると、鈴は肩をビクつかせた。
目を丸くして驚き、固まっている。
今まで一度も、鈴にこんな風に怒鳴ったりしたことはなかった。
それは俺が罪の意識を感じていたからだけれど、
そうだとしても、もう我慢の限界で、つい怒鳴ってしまった。
実の弟と、こんな関係で居るのはもう本当に限界なんだ。嫌なんだ。
「うっ……」
「鈴……?」
鈴が蹲り、真っ青な顔で口を押えた。
俺はすぐに鈴に駆け寄って、丸まった背中を撫でる。
「大丈夫か? 気持ち悪い?」
「はー……っ、はあッ、あ、あ、あっ、うッ、う、おえッ、げえ……っ」
「鈴っ……」
鈴が嘔吐する。
口からごぼごぼと食べ物だったものが逆流して、
ビチャビチャと床にまき散らされる。
嘔吐物特有の臭いが、俺の鼻を突く。
「はーっ、はー……ッ」
「鈴……」
「あっ…… ご………… ごめんなさいっ……」
「…………」
「ごめんなさい、ごめんなさいっ、す、すぐ綺麗にしますから……
すぐ片付けます掃除します綺麗にしますごめんなさい許してください!
汚くてごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
「す、鈴……」
鈴は自分の服の袖と裾で、嘔吐物を拭き始めた。
袖で嘔吐物を吸い取り、床をごしごしと擦る。
吐瀉物は伸ばされるだけで、掃除としての意味はあまりなかった。
「鈴、今日の分、薬、飲んでないのか?」
「う、う、あ、あ、ごめんなさい、ごめ、なさっ……」
「そんなのいいから。俺が片付けるから。怒鳴ってごめん。薬、飲んで来いよ」
虐待で心を壊された鈴は、毎日抗うつ剤と抗不安薬を服用していた。
精神科に連れて行ったら、PTSDだとか不安障害だとか言われた。
鈴はたくさんの薬を飲んで、なんとか命を繋いでいる。
薬を飲まないと、虐待されていた時の記憶がフラッシュバックして、こういう風に取り乱す。
「あああああああごめんなさいお父さんッ!!!
ごめんなさいごめんなさい、あ、ああああ、あああああああああ!
もう嫌です許してください産まれて来てごめんなさい!
お母さんを殺してごめんなさい、悪い子でごめんなさいごめんなさい!!」
「…………っ、薬、取って来る、から……」
「うっ、ううう、うああああああ……
うわあぁああぁん、あああぁあぁんっ!
怖いよおおぉ、痛いよ、痛いよっ、ああああぁん」
幼い子供のように泣き喚く鈴から目を逸らして、薬を取って来るために鈴の部屋へ向かった。
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