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ピエロと伯爵令嬢
しおりを挟む兄と話した後、私は自室に戻るため薄暗い廊下を歩いていた。
(あぁ、どうすれば…。)
私には時間がない。明日になってしまえば彼はこの街から居なくなってしまう。再び会えるのは1年後…。そんなに待てるはずがない。今、今伝えなければならないのだ。
グルグルと考えていたら、いつの間にか自室前にいた。
(…もう、いっそのこと…。)
銀色のドアノブに手を掛ければ、少しひんやりとした。
(ここから抜け出してしまおうかしら。 )
戸を開ければ、薄いカーテンを透かして光が窓から差し込んでいた。青白い月明かりのおかげで部屋全体がぼうっと明るくなっている。私はその光景見た瞬間、気が削がれた。先程まで、逃げ出そうとしていた気持ちは何処へやら、私はぼんやりとカーテンを眺める。
…昔、私は暗闇よりも月明かりを怖がっていた。物心がつく前に亡くなった両親は青白い光に連れ去られたのだ!と、思い込み気味悪がっていた。
…成長とは不思議なものだ。怖がっていた月明かりは今ではこんなにも美しい。
風が吹いた。白いカーテンはふわりと波打ち、月明かりに反射してキラキラと輝く。綺麗だが、流石に今の季節の風は寒い。体がぶるりと震えた。扉を静かに閉め、窓の方へ足をすすめる。
(誰かが閉め忘れたのかしら?)
窓を閉めればカーテンは静かに動きを止めた。キラキラと波打つカーテンが見れなくなるは少し寂しい。小さくため息をついた。
ギィ…
何かが軋む音が聞こえた。空耳だろうか。部屋全体を見回す。すると、私の視線は一点に落ち着いた。
(えっと…。)
ベッドの上には何故か白いシーツが盛り上がっていた。その一点だけが異様である。恐る恐るベッドに近づく。
「あ…、ベスね。」
ベスとは屋敷で飼っている愛犬の名前だ。全身つやつやとしたハチミツ色の毛並みに覆われている大型犬である。人懐っこいて良く私や使用人達のベッドへと潜り込んでいるのだ。
「こら、ベス。勝手に入ってきては駄目っていつも言っているでしょう?」
…。
いつもなら直ぐに鼻を鳴らしてベッドから降りるはずだが、今日は降りるどころか全く微動だしない。寝ているのだろうか。私はシーツを掴む。
「ベス、起きて。」
そう言って私はシーツを捲った。
***
「ダンテ、屋敷の警備はどうだい?」
「今の所、何事も騒ぎは起こっておりません。」
「そうか…。」
執事から目線を満月へと向ける。すると、ハチミツ色の犬が足元に擦り寄ってきた。
「どうした?ベス。」
愛犬の頭を撫でれば、ベスは気持ち良さそうに目を細めた。
「ダンテ、気を抜かずに警備を続けてと、皆に伝えてきてくれるかい?」
「かしこまりました。」
執事は腰を折り音を立てずに姿を消した。
***
「―っ!?」
私は目を見開き、大声を出そうとした。が、私の口元は温かい何かに覆われ篭った声しか出ない。
混乱した私は無我夢中で手を振り回す。しかし、口元を覆っているものは外れない。
どうしようどうしようどうしようどうしよう。
更に激しく抵抗すると、ふと懐かしい香りが鼻先をかすめた。ふわり、芳醇な香り。脳内には小さな部屋が過ぎった。小さな机、椅子、ベッド、ハト、赤い花、赤い…
抵抗を止めれば口元を覆っていたものは呆気なく離れた。良く見ればそれは人の手だ。月明かりに照らされているので青白く見える。細くて長い指は持ち主の元へ帰っていった。
視線を手から徐々に上にあげていく。表情は見えない。何故なら悪趣味な仮面を被っているからだ。仮面から見えるものは髪、鮮やかな赤い髪。
「…何しに来たの…。」
ジロリと睨めば、困ったように頬をかく。
「…えっと…、夜這い?」
私は赤い髪の悪趣味な仮面の男を再びベッド沈めた。
***
「あの子はどうしているのだろうか…。」
寝ているのだろうか、いやあの子の事だからきっと私を説得する方法を考えているかもしれない。もしくはここから逃げ出す方法だろうか…。
「気になりますか?」
完全に独り言だったはずが、返答が帰ってきた。声がした方へ首を動かせば、部屋の隅には執事が控えていた。
「様子を見てきてはどうです?」
「様子…。」
少しぐらいなら、良いだろうか…。
重い腰をあげた。
***
「ふざけたことを言うためにここに来たの?馬鹿なの?ってか馬鹿なの?」
「あの…何故馬鹿を2回も…。」
「あなたがどうしよもなく馬鹿だからよ。このお馬鹿。」
「つ、辛い…!」
ふざけた仮面の男は再び顔をベッドへ沈める。…いつまでベッドの上に居るのだろうか。異性が自分のベッドに居るのはかなり抵抗がある。そして、さり気なく匂いを嗅ぐのはやめて欲しい。
「お馬鹿さん、さっさとベッドから降りて頂戴。」
「もう少しこのままで…。」
枕に顔を埋める男を全力でベッドから引き下ろし、向かい合う。…改めて見ると月明かりに照らされた男は気味が悪い。仮面をしているから余計恐ろしく見えるのだろう。
…何故、仮面を外さないのだろうか。
「…どうして仮面を外さないの?」
「…。」
男は急に黙り込み、頭を下げる。言葉を探しているのだろうか。それともこの件については黙っているつもりなのか。
私はそっと男に両手を伸ばす。すると、男は怯えたように後ずさりをした。
「…どうして?」
「…僕の顔を見ては駄目。あの時はたった一瞬の出来事だったから大丈夫だっただけなんだ。」
「どういうこと?」
「…。」
また黙り込む。
「話して。」
「駄目だ。」
「…自分の顔に自信が持てない…とか?」
「失礼な。なかなかの男前だと思うけど?」
「そうね、綺麗な顔立ちだと思うわ。」
「ごめんなさい、冗談です。だからそんなに真に受けないで。ここは何言ってるの?って突っ込む所だから。」
男は両手で顔を覆う。既に仮面をしているから、意味がないと思うが…。
「じゃあなんで隠すの?」
「…僕の顔を見たらきっとチェルシーは…。」
「私は?」
「嫌な事、思い出す、から…。」
男の声は弱々しい。室内は静寂に包まれた。
「…それって、私があの窓から落ちた時のこと?」
「…っ、思い出して…?」
「全部思い出しているわ。…もしかして、話さなかったことも、顔を見せなかったことも、あの時のことを思い出さないため?」
真っ直ぐ見つめれば、男は小さく頷いた。
あぁ、やっと結びついた。今までの男の行動は全て私のためだったのだ。
「馬鹿ね…。そんなことしたって貴方が辛いだけじゃない。」
命懸けで助けた子は何にも覚えていなくて、のうのうと生きているのだ。それを見て小さな男の子はどう思ったのだろうか。考えただけで胸が締めつけられる。
私は再び男の仮面へと両手を伸ばした。今度は後ずさりせず、じっとしている。ついに私の手は仮面へと触れた。無機質な感触に指先が震える。そして、ゆっくりと仮面を外す。あっという間の出来事だが、私にはゆっくりと時が流れたような気がした。
「…相変わらず泣き虫ね。」
私の目の前には深緑の瞳の青年がいた。その瞳はうっすらと涙が覆っており、月明かりが反射しキラキラとして見えた。まるで宝石のよう。涙がこぼれ落ちれば、それは深緑の宝石に違いない。
「…泣いてない。」
「泣きそうじゃない。」
「…ドライアイなだけ。」
「何それ。」
おかしな言い訳をする男がとても愛おしいものに見えてくる。
久々に見ることができた男の顔をじっくり監察していると目の下に小さな古傷が見えた。目を凝らさないと見えないぐらいの小さな傷だ。私はそっと手を伸ばし、指先で古傷を撫でる。
「…これは?」
「昔、チェルシーを助けたときに…ね。」
「痛い?」
「流石にもう痛くないよ。」
「ごめんなさい。」
「女の子違って傷の一つや二つどおってことないよ。寧ろこれはチェルシーを助けられた勲章みたいなものだからさ、誇らしいよ。」
この男は躊躇わず、さらりと恥ずかしいことを言ってのける。こういう時なんと返答して良いのやら。ただ眉間にシワを寄せ男を睨むことしかできない。それなのに男は嬉しそうに微笑む。その笑みは昔と変わらずあどけないもので、何だか落ち着かない気分になった。そして、ふと自分の目的を思い出す。そうだ、伝えなければ。彼のように、率直に。勇気を出すために深呼吸をし、自分の手を握る。私の様子に気づいた男は静かに私を見ていた。自分の気持ちを伝えるだけでこんなにも勇気がいるなんて知らなかった。
意を決して口を開く。
「…2回も私を助けてくれてありがとう、ユアン。」
ずっと待ち焦がれた小さな男の子に約10年越しのお礼だ。こんな大遅刻なかなかない。
頬を緩めれば、ユアンの瞳からひと雫こぼれ落ちた。深緑色ではなかったけれど、私にはやっぱり宝石のように見えた。
***
薄暗い廊下を歩く。妹の部屋まで後少し。今日はおかしなことにベスもついてくる。
「どうした、ベス。」
聞いても首を傾げるだけだ。まぁ、良いだろう。妹もベスが居れば少しは落ち着くかもしれない。
一人と一匹で妹の部屋へと向かうのであった。
***
「じゃ、僕帰るよ。」
「え、何しに来たの?」
「チェルシーの様子を見るためだよ。元気そうでよかった。」
少し赤い目ともを細め、優しく微笑むユアンは私の頭をひと撫でし、窓へと向かった。え、まさか窓から来たの。え、本当に帰るの。え、え?
何故こんなにも戸惑うのだろうか。私はユアンに記憶が戻ったことを伝えられた。ユアンは私の様子を見ることができた。お互いの目的は果たせたのだ。ユアンがここに留まる理由も私が引き止める理由もない。ないのだが…。
「チェルシー?」
何故私はユアンの服の袖を掴んでいるのだろう。
「どうしたの?」
私が知りたい。
「えっと…、次はいつこの街に来るの?」
「来年の今頃にまた来るよ。」
そんなこと知っている。何故聞いたのだろう。自分が自分でわからない。
グルグルと思考が回っていたら、突然ドアがノックされた。
コンコン
その無機質な音にはっとなる。まずい、と思う間もなく扉は開いてしまった。
「チェルシー、気分はどう…。」
扉を開けたのは兄だ。見事に兄は笑顔のまま固まっている。兄だけではなく私とユアンも固まった。
どうしたら良いのか、笑ってごまかせる問題ではない。いや、いけるか?兄は私を溺愛している。私が猫なで声で謝ればユアンは見逃してくれるのではないだろうか。一世一代の大勝負に出るため口を開いた。
「お兄さん、こんばんは。月夜が綺麗ですね。」
…これは私の声ではない。まず、私は兄をお兄さんなんて呼ばない。私はというと、口を開き、間抜けな顔をしている。慌てて口元を手で隠し、恐る恐る横に立つユアンを盗み見れば、憎らしいほど爽やかな笑みを浮かべていた。
…空気を読んで欲しい。
「あぁ、こんばんは。君に出会わなければ最高の満月だね。そして、君にお兄さんなんて呼ばれる筋合いはないよ。以後、気をつけなさい。」
「はい、お兄さん。」
「どうやら君は著しく学習能力が低下しているようだね。出直してきなさい。」
「お兄さんこそ、妹さんの部屋に返事を聞かずに侵入するなんて品格を疑いますよ。」
「あぁ、君は知らないようだね。私と妹との絆の深さを。赤の他人の君が勝手に踏み込むものじゃないよ。そしてお兄さんではなくセシル伯爵と呼びたまえ。」
「わかりました、お兄さん。では、僕からも。若者の事情に口出しするのもいかがなものかと…。」
「私も十分若者だ。そしてお兄さんと呼ぶのはやめなさい。」
…二人のマシンガントークに圧倒されて私は完全に話すタイミングを失った。こういう時どうすれば丸くおさまるのだろうか。誰か私に教えて欲しい…。
…現実逃避をしている場合ではない。意を決して二人の間に入り込む。
「あ、あの…」
「チェルシー、そんな野蛮なピエロから離れなさい。」
「過保護なお兄さんの所なんて行ったら息が詰まって窒息死してしまうよ。おいで、チェルシー。」
いきなり会話の流れが私に向き、戸惑う。交互に二人を見れば、穏やかな笑みを浮かべているものの目が笑っていないので、どちらも恐ろしいのだ。もう一つ選択肢、どちらも拒否する権利が切実に欲しい。
「まったく、うちの妹を惑わす真似はやめたまえ。見なさい、戸惑っているだろう。」
「いやいや、明らかお兄さんの言葉に戸惑ってますよ。ほら、よくチェルシーのお顔を見てください。兄さん何を言っているの?ユアンが野蛮なんてありえないわ!って書いてありますよ。」
「君は重症な妄想癖があるようだね。後でいい先生を紹介しよう。…さて、茶番は終わりだ。今すぐここから立ち去るなら見逃してあげるが?」
兄は腕を組みユアンを静かに見つめる。ユアンは元々帰るつもりだったのだ。それを私が…。あぁ、何故あの時ユアンを引き止めたのだろうか…。自分の軽率な行動により彼が窮地に立たされている。後悔の波が押し寄せた。
だが、ユアンは帰る。ここにいる理由はないのだから。彼が無事帰れることに安堵した。
「…帰れない理由ができました。」
ユアンの言葉に耳を疑う。
「な、なんで…!?馬鹿じゃないの!」
このままここに居たって危険な目に合うだけなのに、残る理由って何?焦っている私とは対照的にユアンはニコニコ笑っている。信じられない。何を考えているの。
「妹の言う通りだ。馬鹿だよ、君は。ここが何処だか分からないほど子供じゃないだろうに。残念だ。…さて、チェルシー。」
兄は再び私を穏やかな表情で見る。
「お馬鹿なピエロは自らここに残るわけだが…。彼が危険な目に合うのは嫌だろう?チェルシーが一言、ここから出てけ、と言ったら彼は素直に君に従うはずさ。」
兄の言葉に私の心臓は大きく脈打つ。
私が第一に考えるのはユアンの安否だ。無事ここから帰らせないといけない。ならば、答えは決まっている。
「ユアン。」
名前を呼び見上げれば、深緑の瞳は不安げに揺れた。大丈夫、心配しないで。私は貴方のことが大切だから。無事に帰してあげる。だから、また一年後に会いましょう。
「私を連れ去って。」
世界の時が止まる。そして私の思考も止まる。言葉に出たのは思っていたのと全く違うものだ。どういう思考回路をしたら連れ去るなんて言葉がでるのだろうか。ひやりと冷や汗が背筋に流れる。最悪の選択だ。視線の先にいたユアンを見れば目を見開き驚いた表情をしている。…ですよね。驚きますよね。私だって驚いている。
どう兄に言い訳をしようか。怖くて兄の方が見れない。私は脳内をフル回転したら、ふいに視界が揺れる。普段使わない脳を酷使し過ぎたのだろうか。普段どんだけ使っていないのだ。
「ふぐっ…!?」
突然の浮遊感に襲われ、全身が薔薇の香りに包まれた。
「な、何をしている…!?」
普段声を荒らげない兄の声が聞こえる。気付けば、私はユアンに担がれていた。
「何をしているの…!?」
「さすが兄妹、反応が同じなんだね。」
一人だけ呑気なユアン。そんなユアンを未確認生物を見るような眼差しで見つめれば、ふいに彼は破顔した。不意打ちにより私の心臓はキュンとないた。……キュンってなんだ、キュンって。
「チェルシー、君を連れ去るよ。」
「は?」
この男は何と言った。
「お兄さん、どうやら賭けは僕の勝ちのようです。では、また1年後にお会いしましょう。」
「いや、待ちたまえ!妹の表情を見てご覧、全く自分が言ったことを理解してないようだ。っということで、これは無効。」
「往生際が悪いですよ。」
「うるさい、チェルシー考え直しなさい。」
考え直す…。
まずなぜ私は連れ去ってなんて言ったのだろうか。なぜ、なぜ、なぜ…。
脳裏に懐かしい風景が過る。
遠い記憶、この記憶は何だろうか。
『連れ去ってしまえば良かったんだ。そう思わない?チェルシー。』
誰かにそう聞かれた。その時私が思ったことは…
「あぁ、彼女は連れ去って欲しかったんだ…。」
ぼんやりとした記憶。そうだ、これはピエロの絵本だ。絵本の内容と自分が重なった。
今なら彼女の気持ちがわかる気がする。
「兄さん、考え直す必要はないわ。私はユアンに連れ去って欲しい、ただそれだけよ。」
私の表情筋が動く。死んでなどいなかった。今はとっても朗らかな気分だ。
「ユアン、どうやら私は貴方のことが好きみたい。例えるならそうねぇ…二階の窓から飛び降りるくらい貴方が好きよ。」
思ったことをユアンに伝えれば、小さく唸り声をあげ、私の肩へ顔を埋めた。
「君は本当に…、どうしてそう言う事を言うのかなぁ…。」
「…嫌だった?」
勢いで言ってしまったが、ユアンの気持ちなんてこれっぽっちも考えていなかった。ただ素直になるのが精一杯。少し不安にある。
「…嫌なもんか。嬉しすぎて泣きそうだ。君はいつだって僕が喜ぶ事をするんだから、大変だよ。」
そう言うユアンは心底嬉しそうに笑ってくれた。
「お兄さん。そういう訳なんで、妹さんは貰っていきます。」
「忘れたのかい?賭けの内容のことを。」
「ひとつ、チェルシーの気持ちを確認。」
「ふたつ、ここから逃げられたら、だ。」
さっかから賭け賭け…、一体何の話をしているのだろうか。首を傾げればユアンは後でねと言う。…私達に後でね、があるか今更不安である。
ジリジリとユアンが下がる。兄と距離をとっているのだろか。そしてあっという間にユアンの背は窓へとたどり着いた。
「屋敷中には厳重な警備が張り巡らされている。逃げ場はないよ。」
ユアンの様子を盗み見れば表情に余裕がある。何か策でもあるのだろうか。
「…チェルシー、僕もね君となら窓から飛び降りても良いなって思うぐらい好きだよ。」
…いきなり何を言い出すのだろう。ここから逃げる事を諦めたのだろうか。私はギュッと首に回す力を強くする。
「私もね、貴方となら窓から飛び降りても良いなって思うぐらい好きよ?だから…」
諦めないで頑張りましょう、と言いたかったが言葉にはならなかった。
「良かった!じゃあ大丈夫だよね。」
明るく笑うユアン。
「へ」
視界が、体が後ろに倒れる。まるで糸で引っ張られるみたいに。
「―っ!?チェルシー!!」
兄の声が遠くに聞こえる。上か下かも分からない。この感覚。覚えがある。
あぁ、落ちている。
直ぐに私の体は何らかの衝撃を受けた。
恐る恐る目を開ければ、二階の窓から顔を出した兄の姿が見える。なるほど、あそこから落ちたのか。ぼんやりと兄を眺めていたら視界に鮮やかな赤毛がうつりこむ。
「気分はどう?」
気付けば私の体はユアンに包まれていた。どうりで暖かいと…。
「死ぬかと思ったわ。」
「まだ死なないよ。人生これからなんだから。」
「…そうね。」
「……あんた達、呑気ねぇ。」
声がする方へ視線を動かせばフェディさんが呆れた表情を浮かべていた。
「どうして…。」
「そこにいるピエロに頼まれだ。トランポリンを張ってくれってね。」
良く見ればわたし達はトランポリンの上にいた。
「お二人さんのんびり寝ている暇はないよ。出発だ。」
フェディさんが指を鳴らせばトランポリンはわたし達を包み込み馬車へと姿を変える。…どんな仕掛けがあるのだろう。そして馬車は勢い良く走り出した。
「え、もう?」
展開が早くて思考が追いつかない。
「早く出発しないと次の街に間に合わないからね。他の仲間も先で待ってるし。」
窓から顔を出し生まれ育った屋敷を見る。
「…っ。」
「どうしたの?チェルシー。」
私と同じようにユアンも屋敷を見れば、目を見開いた。
「君は本当に愛されているんだね。」
屋敷の前にはズラリと使用人達が立っていた。笑顔で手を振るもの、涙ぐむもの、歌を歌うもの、表現は様々だが皆心から祝福してくれているのがわかる。
「チェルシー!!嫌になったらすぐに帰ってきなさぁぁい!!!」
兄の通った声が聞こえる。視界が滲み兄がどんな顔をしているかが分からない。ふと右手が暖かいものに包まれる。そちらを見れば優しく微笑むユアンが私を見つめていた。
「まるで駆け落ちみたいだね。」
「皆から祝福される駆け落ちだなんて聞いたことがないわ。」
今だけは泣いてもいいだろうか。
私の瞳からは大粒の雫が溢れ落ち、彼の手の甲を濡らす。彼は空いている右手の指先でそっと涙を拭ってくれた。
馬車の中には無表情な伯爵令嬢も仮面を被ったピエロもいない。ただそこには幸せそうに笑い合う二人がいた…。
***
「よろしかったのですか?」
「賭けは彼が勝った。だから良いんだ。…ところで、」
私は執事に向き合う。
「彼を屋敷に招き入れたのは君かな?」
「はて、何のことでしょう。」
本当に知らないというように首を傾げる執事。君が幼い頃からピエロを好ましく思っていることは知っている。
「…まったく、まぁいいさ。君たち、もう休みなさい。」
使用人達はぞろぞろと屋敷の中へ入っていく。
後ろを振り向けば馬車の姿はもう居なかった。
(自分が幸せならそれで良かったんだけどな…。)
あの男の前で見せる妹表情が脳裏に浮かぶ。あんな顔初めて見た。
君が笑っていてくれるならそれでいい、だなんて…自分がこんなにも単純な生き物だとは思っていなかった。
屋敷へと足をすすめる。
今宵は最愛の妹の幸せを祈りながら眠りにつこう。
私の足取りは不思議と軽かった。
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