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落ちて、堕ちて…
しおりを挟む兄と見つめ合ってどのぐらい時間が経つのだろう。
実際には数秒足らずの時間が長い時が音を立てて流れ続いているように感じられた。
私が兄から目を逸らすことも、手を振り払うことも出来ず、ただただ固まっていると突然目に強い光が襲った。
あまりの眩しさに目を閉じると、私の右手は兄の元から別の何者かに捕らわれた。
恐る恐る目を開けば、私の右手を握った男がいた。
「今年のラッキーガールが決まりましたっ!!前列に座っているお嬢さん、前へどうぞ!」
男の存在に驚きに目を見開いていると、進行者であろうサーカスのスタッフの声が高らかに響きわたった。
ラッキーガール、もしくはラッキーボーイとは1年の締めに催されるサーカスでたった1人だけ選ばれる方のことだ。
選ばれたその人は、来年は良き年になる、といったジンクスが長年言い伝えられている。
客席から盛大な拍手が沸き上がる。
ここで初めて、私にスポットライトが真上から降り注いでいたことに気づいた。
大勢の人の目が自分に集中することに慣れていない私は視線をあっちこっち泳がしていると、突然男は私の右手の甲に仮面越しの口付けをしてきた。
「―っ!」
冷え切った右手は再び熱を取り戻していく。
「妹から手を離してくれないか?これから帰る所なんだ。」
右から穏やかな兄の声がする。
チラリとそちらを見れば微笑んでいるのに目が笑っていない兄が男を見ていた。
得体のしれない恐怖が私に襲いかかり、無意識に身体が強ばる。
男はそんな兄の言葉なんて、そ知らぬ素振りで私を強引に席から立たせた。
驚く暇もなく男は二階の舞台へと続く階段をズンズン上っていく。
男の手はがっしりと私の腰に手を添えているため逃げることが出来ない。まぁ、この場から逃げるほどの勇気はあいにく持ち合わせていないが…。
一段、一段と階段を上がる度に私の腰から金属同士が擦れたような音が聞こえる。
これが何なのか、考える間もなく分かってしまった。
手錠だ。
男は自身の左手に冷たい手錠を嵌めている。
そして、鎖で繋がれたもう一つの輪は寂しげに役目を持て余していた。
(…なんで、外さないの…。)
愛の言葉も手錠の意味も、男の声も顔も分からない。
私は何も分かってないのだ。
気付けば私は柵囲まれた、だだっぴろい空間にいた。
柵は転落防止のためだろうか。私の身長ぐらいの高さの柵は丈夫そうだ。
そして、空間の真ん中には一人用の小さな赤い椅子がポツンと置かれていた。
その姿が寂しげに見えるのは何故だろう。
上を見ればあんなに遠かった天井は驚くほど近く、下を除き込めば、目眩がするくらい高かった。
男はたった一席の客席に私を座らせた。
ゆっくりと身体が椅子に沈んでいく様を男は見守る。
実際の所それが見守っているのかどうかは分からないが、私にはそう感じられた。
私も男を見上げた。
…たったそれだけのことなのに酷く悲しい気持になる。
…悲しさに顔を歪ませれば、男はどんな反応をするのだろう。
心配してくれるくらいの情はあるだろうか。
表情筋が死んでいる私では確かめることは出来ない。
そんなことを思いながら男を見上げていると、男は傅き手袋をしている私の右手首をそっと撫でた。
丁度その場所にはまだ手錠の跡が赤く刻まれている。
不思議なことにこの跡に不快感は感じていない。
ただただそのには、得体の知れない熱が存在するだけだ。
この正体が何なのか、今の私には分からない。
男は立ち上がり、柵に近づいた。そして、あろうことか男はその柵を乗り越え、重力に従い真っ逆さまに落ちたのだ!
「―っ!?」
信じられない光景に目眩がする。
何故、どうして、貴方が落ちるの。
あの時落ちたのは私なのに!
貴方が居なくなったら私は…
私は椅子から転げ落ちながら縋るように両手で柵を掴み、下をのぞき込む。
そこには呑気にトランポリンに乗って飛び跳ねている男がいた。
その光景に一気に脱力する。
ホッとしたのは確かだ。
しかし、怒りが湧いているのも確かだ。
(私の心配を返しなさいよ…。)
いや、そもそもあの男を心配すること自体が間違っているのだ。
私は再び赤い椅子に腰をおろし、下を眺める。
今気付いたが、ここはサーカスの舞台から客席まで全てが見渡せた。
確かにこんな素晴らしいものが見れるなら選ばれたのは幸運だ。
この運に感謝しなければ。
視界に兄を入れないように、サーカスを楽しむことにした。
春を呼ぶ舞を披露する可愛らしい踊り子達に癒されていると、再びあの男が舞台に立った。
客席に向け恭しく頭を下げれば、観客は歓声を男に浴びせる。
歓声の中で、子ども達の声が目立っていたということはお調子者で、笑い者のピエロが子ども達に人気であることを物語っていた。
幼い頃は、ピエロなんて馬鹿にされるたげの可哀想な役と思っていた。
しかし、いつからだろう。
そんな考えが変わったのは…。
私は椅子から立ち上がり、柵に両手を添え下をのぞき込む。
舞台にはボールに乗りながら器用に色とりどりの玉をジャグリングする男がいる。
そんな男の姿を見ていると、頭の隅にある記憶の断片が疼き始めた。
何かを思い出せそうなのに、思い出せない。
これが兄が先ほど言っていた私が忘れている記憶なのだろうか。
男のショーをのめり込むように見つめる。
そういえば、昔もこんな風に柵越しから男の子を眺めていた。
今の男とあの時の男の子が重なり合うが、肝心な所で溶けてしまう。
あと少し、あと少しなの…。
そう、記憶は奥底に隠れているだけ。
ほら、出ておいで。
もう怖くないから。
もう、大丈夫だから。
心配かけてごめんなさい。
今度はちゃんと受け止めるから。
だから、貴方のことを思い出させて。
「え?」
突然、私の身体は支えを失い前へと傾く。
空気が私の頬を撫で、深く被っていた帽子は風に奪われ、癖のついた長い髪は後ろに流れる。
それによって視界は先程よりも広くなった。
目の前に広がる華やかなサーカスの舞台はどんどん私に近づいてくる。
いや、私が近づいているのだ。
今私は舞台へ落ちている。
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