24 / 30
冷えきった右手
しおりを挟むそう言えば、何時から兄は過保護になったのだろうか。
昔の兄は心配性ではあるものの、そんなに激しいものではなかった気がする。
どうして?
何時からといえば、私は何時から男の顔を忘れているのだろうか。
いつから、いつから、いつから…。
いくら考えても答えは真っ暗な闇の中。
まるでそこだけが、その時だけがぽっかりと抜け落ちてしまったような。
ねぇ、私は約束通り貴方にピアノの演奏を聞かせて上げられたの?
信じられないでしょうけど、上手になったのよ。
ピアノの先生のお墨付きぐらいに。
本当よ。
貴方に聴かせるため、ただそれだけ、あの時の貴方のように諦めずに頑張ったの。
ねぇ、
貴方にそう伝えたい。
そして、貴方の声音に乗せてその言葉を聞きたい。
きっと私は昔からたった一言、貴方から聞きたかったんだ。
***
眩しいくらいにライトに照らされたピエロの出番が終わってから、私は心ここにあらず。
文字どうり、今の私は空っぽだ。
心躍るような空中ブランコも、緊張感が走るナイフ投げも、どれもこれもどこかボンヤリとした気持ち、現実味が無いのだ。
まるで、あの時、時が止まった時に何か大切なものを置いてきてしまったような…。
今の私はただ、目の前に広がるサーカスを景色と捉え、ガラス玉の瞳で写しているだけだ。
そこには何の感情もない。
感情を置いてきてしまった私のことなんてお構いなしに時は進んでいく。
これが、当たり前だ。
なのに何故腑に落ちないのだろう。
どうして。
私は流れゆく景色をただただガラス玉に写した。
「薔薇の香り…。」
ぼそりとそう呟く兄の声が聞こえた。
私は反射的に兄の瞳を見たことを後悔した。
「どういうことかな、チェルシー。」
穏やかな微笑を浮かべる兄に嫌な汗が背筋に流れた。
目が、目だけが笑っていない。
そのアンバランスさが更に恐怖を煽る。
「入った時から怪しいなとは思っていたよ。確かめるため前席に座ってみれば…思った通りさ。」
兄は私の右手を手に取り、自身の鼻筋が通った形の良い鼻へと運んだ。
はたから見れば、その姿は恋人に愛を囁く紳士そのものだ。
「同じ香り、だね。チェルシー、君は私に黙ってここに来たのかな?お目当ては…言わなくてもわかるよ。兄だからね。」
そう言って兄は一瞬、サーカスの舞台の方へ視線を送った。
固まっている私にはその視線を辿ることは出来ない。
だが、兄が誰を見て、誰に笑みを送ったのは予想がつく。
「記憶が無くても彼の元へ行くのは身体が覚えているからなのか、それとも…」
何を言っているのかが、わからない。理解ができない。おいつけない。
ただ一つ理解できることと言えば、その先を言わないでほしい。
いや、言ってはダメだ。
「これが愛、というものなのか。」
脳内に泣いている少年がチラつく。
兄に掴まれた右手は完全に冷えきってしまった。
0
お気に入りに追加
129
あなたにおすすめの小説

この度、皆さんの予想通り婚約者候補から外れることになりました。ですが、すぐに結婚することになりました。
鶯埜 餡
恋愛
ある事件のせいでいろいろ言われながらも国王夫妻の働きかけで王太子の婚約者候補となったシャルロッテ。
しかし当の王太子ルドウィックはアリアナという男爵令嬢にべったり。噂好きな貴族たちはシャルロッテに婚約者候補から外れるのではないかと言っていたが

まだ20歳の未亡人なので、この後は好きに生きてもいいですか?
せいめ
恋愛
政略結婚で愛することもなかった旦那様が魔物討伐中の事故で亡くなったのが1年前。
喪が明け、子供がいない私はこの家を出て行くことに決めました。
そんな時でした。高額報酬の良い仕事があると声を掛けて頂いたのです。
その仕事内容とは高貴な身分の方の閨指導のようでした。非常に悩みましたが、家を出るのにお金が必要な私は、その仕事を受けることに決めたのです。
閨指導って、そんなに何度も会う必要ないですよね?しかも、指導が必要には見えませんでしたが…。
でも、高額な報酬なので文句は言いませんわ。
家を出る資金を得た私は、今度こそ自由に好きなことをして生きていきたいと考えて旅立つことに決めました。
その後、新しい生活を楽しんでいる私の所に現れたのは……。
まずは亡くなったはずの旦那様との話から。
ご都合主義です。
設定は緩いです。
誤字脱字申し訳ありません。
主人公の名前を途中から間違えていました。
アメリアです。すみません。
私のドレスを奪った異母妹に、もう大事なものは奪わせない
文野多咲
恋愛
優月(ゆづき)が自宅屋敷に帰ると、異母妹が優月のウェディングドレスを試着していた。その日縫い上がったばかりで、優月もまだ袖を通していなかった。
使用人たちが「まるで、異母妹のためにあつらえたドレスのよう」と褒め称えており、優月の婚約者まで「異母妹の方が似合う」と褒めている。
優月が異母妹に「どうして勝手に着たの?」と訊けば「ちょっと着てみただけよ」と言う。
婚約者は「異母妹なんだから、ちょっとくらいいじゃないか」と言う。
「ちょっとじゃないわ。私はドレスを盗られたも同じよ!」と言えば、父の後妻は「悪気があったわけじゃないのに、心が狭い」と優月の頬をぶった。
優月は父親に婚約解消を願い出た。婚約者は父親が決めた相手で、優月にはもう彼を信頼できない。
父親に事情を説明すると、「大げさだなあ」と取り合わず、「優月は異母妹に嫉妬しているだけだ、婚約者には異母妹を褒めないように言っておく」と言われる。
嫉妬じゃないのに、どうしてわかってくれないの?
優月は父親をも信頼できなくなる。
婚約者は優月を手に入れるために、優月を襲おうとした。絶体絶命の優月の前に現れたのは、叔父だった。
愛すべきマリア
志波 連
恋愛
幼い頃に婚約し、定期的な交流は続けていたものの、互いにこの結婚の意味をよく理解していたため、つかず離れずの穏やかな関係を築いていた。
学園を卒業し、第一王子妃教育も終えたマリアが留学から戻った兄と一緒に参加した夜会で、令嬢たちに囲まれた。
家柄も美貌も優秀さも全て揃っているマリアに嫉妬したレイラに指示された女たちは、彼女に嫌味の礫を投げつける。
早めに帰ろうという兄が呼んでいると知らせを受けたマリアが発見されたのは、王族の居住区に近い階段の下だった。
頭から血を流し、意識を失っている状態のマリアはすぐさま医務室に運ばれるが、意識が戻ることは無かった。
その日から十日、やっと目を覚ましたマリアは精神年齢が大幅に退行し、言葉遣いも仕草も全て三歳児と同レベルになっていたのだ。
体は16歳で心は3歳となってしまったマリアのためにと、兄が婚約の辞退を申し出た。
しかし、初めから結婚に重きを置いていなかった皇太子が「面倒だからこのまま結婚する」と言いだし、予定通りマリアは婚姻式に臨むことになった。
他サイトでも掲載しています。
表紙は写真ACより転載しました。

婚約者が他の女性に興味がある様なので旅に出たら彼が豹変しました
Karamimi
恋愛
9歳の時お互いの両親が仲良しという理由から、幼馴染で同じ年の侯爵令息、オスカーと婚約した伯爵令嬢のアメリア。容姿端麗、強くて優しいオスカーが大好きなアメリアは、この婚約を心から喜んだ。
順風満帆に見えた2人だったが、婚約から5年後、貴族学院に入学してから状況は少しずつ変化する。元々容姿端麗、騎士団でも一目置かれ勉学にも優れたオスカーを他の令嬢たちが放っておく訳もなく、毎日たくさんの令嬢に囲まれるオスカー。
特に最近は、侯爵令嬢のミアと一緒に居る事も多くなった。自分より身分が高く美しいミアと幸せそうに微笑むオスカーの姿を見たアメリアは、ある決意をする。
そんなアメリアに対し、オスカーは…
とても残念なヒーローと、行動派だが周りに流されやすいヒロインのお話です。
里帰りをしていたら離婚届が送られてきたので今から様子を見に行ってきます
結城芙由奈@コミカライズ発売中
恋愛
<離婚届?納得いかないので今から内密に帰ります>
政略結婚で2年もの間「白い結婚」を続ける最中、妹の出産祝いで里帰りしていると突然届いた離婚届。あまりに理不尽で到底受け入れられないので内緒で帰ってみた結果・・・?
※「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています

人生を共にしてほしい、そう言った最愛の人は不倫をしました。
松茸
恋愛
どうか僕と人生を共にしてほしい。
そう言われてのぼせ上った私は、侯爵令息の彼との結婚に踏み切る。
しかし結婚して一年、彼は私を愛さず、別の女性と不倫をした。

【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。
だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。
その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる