私は貴方を許さない

白湯子

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第10章

179話

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夢から覚めると、そこは暗い闇の中。 

私はベルベット張りの肘掛け椅子に座っていた。 

…ここは何処なのだろうか。 

どくんどくんと不安を訴え始める心臓を抑えながら「確か私は…」と、妙にぼんやりとする頭で記憶を辿ろうとする。 
が、頭には白い靄のようなものがかかており、記憶をうまく引き出すことができない。 

自分の身にいったい何が起きたのか、全く把握出来ていない今の現状に、不安と焦りばかりが募る。 

何とか記憶を絞り出そうとして無意識にこめかみに指を当てると、すぐ耳元からジャラリと無機質な冷たい音が聞こえてきた。 

どうして今まで気付かなかったのだろう。やけに右手首が重い。 

恐る恐る右手に視線をやる。 

徐々に暗闇に慣れてきた目に映るのは、自身の右手首を戒めて鈍く光る鉄の輪っかと、じゃらりとぶら下がった中途半端な長さの鎖。 

その鋭利なもので切断されたような鎖の断面を見た瞬間、脳を覆っていた靄が一気に晴れた。 そして、坂道を転げ落ちるかのように、今までの出来事を思い出す。 

あぁ、そうだ…私は…。 

気を失う前に見た、あのゾッとするような笑みを浮かべていた辻馬車の先客ーーートミー=キッシンジャーの顔を思い出した私の背筋に、冷たい戦慄が駆け上がる。 
そこで私はようやく確信した。自分が明確な意図の下で拉致されたことに。 

早くここから逃げなければ。 

いち早く身の危険を察した本能が、まずは椅子から降りろと命令を下す。 
しかし、そんな私の行動を制するかのように、再びパイプオルガンの音が鳴り響いた。 
心臓を撃ち抜かんとするその衝撃に、一瞬呼吸が止まる。 
そしてそのまま暗闇の中で突然始まった演奏に、私は目を瞠った。 

なんて滅茶苦茶な演奏なのだろう。 

デタラメに、いくつものコードをいっぺんに弾いている和音は酷く不快で耳障りだ。 
本来ならば、神聖なオルガンをぞんざいに扱われ怒りを覚えるほどであるが、今の特殊な状況下においては、圧倒的に未知の存在に対する恐怖の方が勝る。 

終わりの見えない奇妙な演奏は、余韻もなく唐突に曲調を変えた。 
先程までのが前奏だったのだろう。そして今弾いているのは、余計な音が多いが、おそらく讃美歌。それも結婚式など祝いの席で賛美されるもの。 
何故、どうして、こんな真っ暗な場所で讃美歌なんか…と意味が分からず、困惑と恐怖が増すばかり。そんな私の気持ちを煽るかように、今度は奥の方から明かりが点々と灯り始めた。 

それは風のような速さで瞬く間に広がる。あっと思ったときには明かりの波は頭上にまで辿り着き、そこで鎮座していたシャンデリアが最後の仕上げだと言わんばかりに、煌々と輝きだした。今まで眼前を支配していた暗闇は跡形もなく消え去り、辺りは眩い光に包まれる。その神々しささえ感じる光のもと、照らし出された光景に、私は思わず息を吞んだ。 

  

  

  

  

  

  

  

  

  

  

  

  

  

  

  

  

  

  

  

  

  

  

  

  

人だ。 

人の群れだ。 

  

天井が高い空間に、雪のように白いローブを頭からすっぽりと被った、数えきれないほどの大勢の人間が、一列ずつ私の眼前に並んでいた。 

その異様な光景に圧倒された私は、恐怖のあまり肘掛けに爪を立てる。 
今の今まで、人の気配なんて、全く感じられなかった。 
視界が明るくなっても、彼らからは衣擦れの音一つすら聞こえない。まるで置物のように。…いや、私が勘違いしているだけで、彼らは石膏像か何かなのかもしれない。 

そんな私の現実逃避を嘲笑うかのように、突然彼らは讃美歌を歌い始めた。 
そのネジが外れたような歌声に、背筋がどんどん冷たくなる。 

私の身に一体何が起きているのだろうか。 

神聖な光の下で執り行われる終わりの見えない悪夢に、肘掛けを掴む手はじっとりと汗ばみ、タカタと震え始める。 

ここは危険だ。普通じゃない。早く逃げなけらば、殺される。 

理性が警告を鳴らすが、まるで魔法でもかけられたかのように、私はその場から動くことができない。 

ただ黙って彼らの讃美歌を聞いていることしかできない私の耳は、その歌に交じる笑い声を拾った。錆びついた人形のようにぎこちなく首を回し、恐る恐る笑い声を辿った私は、ぎくりと身を強張らせる。 

  

カトリナだ。 

  

久しく姿を見ていなかったあのカトリナ=クライネルトが、狂ったような笑い声を上げながら、壁を覆わんばかりの巨大なパイプオルガンの鍵盤を激しく叩きつけていた。一体いつから弾き続けていたのか、深紅の髪を振り乱す彼女の白い指先と鍵盤は真っ赤に染まっている。 

気がふれてしまったような知人の姿を目の当たりして、目の前の光景にじわじわと現実味が帯び始めた。 

カトリナが弾いている巨大なパイプオルガン。 

白を基調とした壁に施された美しい金色のスタッコと色鮮やかなスタンドグラス。 

そして特徴的なドーム状の高い天井。その天井の中心部から月明かりが差し込み始めると、クーポラの内部に描かれた「世界誕生の日」の豪華なモザイク画が姿を現した。 

そこで私はようやく理解する。ここが何処であるのかを。 
ここは、帝都の中心部に聳え立つ大聖堂。”ノルデン大聖堂”だ。 

はるか昔。領土を拡大したノルデンに相応しい聖堂を建立しようと、当時の皇帝エリザベータの意向により人口・経済ともに大きく成長した帝都の規模に合わせて建てられたものだ。その大きさは世界最大級を誇り、荘厳さ、内部装飾の豪華さと華麗さを含め、聖堂の中の聖堂と呼ぶにふさわしい威容を轟かせている。 

カトリナが弾いているのは、ピアノを嗜んだ者なら誰しもが憧れる7000本以上のパイプでつくられた芸術品だ。その雄大な存在感を放つ姿は溜息が出るほど美しく、何処までも伸びる音色は重厚で、ピアノでは表現しきれない低音の深さは耳ではなく身体の芯で聞いているかのよう。だが今はカトリナの手によって、不気味な空間を作り上げる道具に成り下がってしまっている。

そして、私が座っている場所は、この大聖堂の中で最も神聖な場所、祭壇の前だった。 
繊細な装飾が施された祭壇と、その後ろの壁に描かれた聖女と天使たちのステンドグラスは、ずっと見つめ続けていたいと思わせるほど素晴らしいものなのだが、今の状況下では振り向いて拝む気には到底なれない。 

何故私は、ここに連れてこられたのだろうか。 

白いローブを被った大勢の人間、音の外れた讃美歌、厳かな祭壇前に置かれた赤いベルベット地の肘掛け椅子と、それに座らせられ所々ほつれているドレスを着たままの私。 

  

これではまるでーーー 

  

思考の迷路に出口が見えそうになったその時。 
衣擦れひとつ立てずに歌い続けていた彼らが、突然動き始めた。 
私は思わず声にならない悲鳴を上げ、恐怖に身体を縮こまらせる。 
この状況から考えうる最も最悪な未来を連想してしまったからだ。 
が、憶測に反して、彼らは私に近づいて来ようとはしなかった。だからといって警戒心がなくなるわけではない。息を潜めて、彼らの行動を注意深く観察する。 

彼らは讃美歌を歌うのをやめ、波が引くかのように、私の前に一本の道を作った。
意味不明な彼らの行動。
けれど、いやな予感だけは明確に感じ取った。そしてその予感はすぐさま的中する。 


「エリザベータ様!」 


弾むような声とともに、作られた道の先から小走りで駆け寄ってくる可憐な少女。 
まわりの彼らと同じように白いローブを身にまとった少女は、私と目が合うと愛らしく顔を綻ばせた。 

その聖堂に相応しい聖女の微笑みを見て、私は思った。 

最も最悪な未来はこれから始まるのかもしれない、と。 

  

  

  

  

 

 
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