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第9章「愚者の記憶」
173話
しおりを挟むアルベルトside
コーエン邸を後にした僕は、其の足で噴水広場へと向かった。
2週間ほど前にコーエン一族を処刑した広場には、断頭台が置かれたまま、どす黒く染まる石畳もそのままに、がらんと静まり返っている。
夕日に照らされギラつく断頭台の刃は、今も尚、次の獲物を待っているようだった。
「…いない。」
ここに居るはずの、あの子が、いない。
こんなにも匂いを残して、あの子は一体どこに行ってしまったのだろう。
その場に片膝を着いた僕は、黒く染まった石畳を指先でそっと撫でる。
…もしや、誰かに連れ去られた?
「…余計なことを。」
忌々しく舌打ちをしながら立ち上がった僕は、瞼を閉じて、神経を集中させた。
大気中に存在する無数の匂いを嗅ぎ分け、あの子を探す。視力に異常をきたした時から、僕の嗅覚は鋭さを増していた。そして、わずか3秒ほどで、僕はあの子を香りを見つけ出すことができた。
少し前までは、あんなにも嫌がっていた香りなのに、今ではこんなにも引き寄せられる。
「早く、行かなくちゃ。」
傾きゆく夕日を背負い、僕は鬱蒼と生い茂る森の方角へと、歩みを進めた。
◈◈◈◈◈
歩く度に湿った匂いが鼻をつき、あの子の匂いを隠そうとする。
小癪な真似を。
相変わらず僕の邪魔をする世界に悪態をつきながら、人の侵入を拒むかのように長く横に伸びた木々の間をぬって、道とは呼べぬ獣道を突き進む。
いっその事、森ごと燃やし尽くしてやろうかと思い始めた頃、ようやくひらけた所に辿り着いた。
いつの間にか、辺りは夜闇に侵食されており、分厚い雲の隙間から差し込む月の光が、ポツンとたてられた木の十字架を淡く照らしている。
ーーーここだ。
僕は駆け出した。
そして十字架の前で崩れ落ちるように膝をつき、両手で地面を掘り始めた。
魔法を使った方が早いことはわかっている。けれど、自分の手で掘らなければならない。何故かそんな妙な使命感に掻き立てられた。
自分が汚れることに構うことなく、何かに取り憑かれたように一心不乱に掘り進めていると、終わりは唐突にやってきた。
手を止め息を止め、瞬きさえもせず、僕は一点を見つめた。
「やっと見つけた…」
思わず声が震える。
視線の先、冷たい地面の下には、青黒く腐乱した、ヒトの顔が埋まっていた。
黒ずんだ皮膚の一部が、ボロ雑巾のように捲り上がり、そこから漂う強烈な腐敗臭が鼻腔に突き刺さる。
けれど、死臭に微かに混じる甘い香りが、月明かりに照らされて煌めく真珠色の髪が、僕にまごうことなき真実を教えてくれた。
彼女が、彼女こそが、ずっと探していたエリザベータ=コーエンであるということを。
「迎えに来るのが遅くなってごめんね。」
身体の芯から込み上げてくる熱におかされ、目頭が熱くなり、手が震える。
あんなにも美しかったエリザの姿が変わり果ててしまったことより、会えたことの喜びのほうが上回っていた。
「こんな所に埋められて可哀想に…。今、そこから出してあげるね。」
身体の方も掘り起こそうと思った瞬間、エリザの瞼がピクリと動いた。
僕は思わず息を呑む。
まさか…と抱いた淡い期待は、瞬く間に凍りついた。
まるで布団の隙間から這い出る猫のように、うごうごと瞼の下から現れたのはーーー
ーーーまん丸く太った白い蛆虫だった。
その一匹を皮切りに、一体何処に隠れていたのか、次から次へと蛆が湧き、あっという間にエリザの顔を白く覆い隠してしまった。
我が物顔で彼女の上を這いずりまわる蛆は、僕のとこなどお構い無しに、貪欲に死肉を貪り続ける。
その光景を唖然と眺めていた僕の中に、沸々と怒りが湧き始めた。
まるで、大切に守ってきた足跡ひとつない雪原を、土足で踏み荒らせれたような。
血が逆上して頭が燃え滾り、意識が飛ぶ。
気付けば、僕は蛆虫を食べていた。
蠢く無数の蛆を両手で鷲掴み、食べていた。
けれど、この身体は飲み込むことを拒み、吐き気を訴える。
どうして僕の意思に反して、エリザを拒むのだろう。
奪われたものは奪い返す。
もう誰にも奪わせない。
蛆にも、世界にも、そして彼女自身にも。
この子は、僕のものだ。
長い長い時間をかけながら、僕は蛆に奪われた彼女を食べ続けた。
◈◈◈◈◈
エリザの身体を掘り起こし、湧いていた蛆を平らげた頃には、月が遥か遠く高くに昇っていた。
四つん這いになり荒い呼吸を整えていた僕は、額に浮かぶ汗を拭い、上体を起こす。
月明かりに照らせれ静かに眠るエリザを見て、少し気分が和らいだ。
この寒空の下、このままエリザを寝かせておくわけにはいかない。
一緒に横になってしまいたい気持ちを奮い立たせ、エリザの身体を抱き起こすが、頭は付いてこなかった。
「あぁ、そうか。そうだったね。うん、大丈夫だよ。実はね、僕は君の人形を作ったことがあるんだ。今は壊してしまっ
てもう無いんだけど…。だからね、繋げることは得意なんだ。」
「君にも見せてあげたかったな…」と呟きながら、抱き起こしたエリザの身体に右手をかざし、意識を集中させる。するとエリザの身体と頭は淡い光を帯び始めた。
僕は頭の中で数式を組み立てる。それに従い、独立していた頭が吸い寄せられるように、エリザの首と繋がった。
人差し指で首筋を撫でるように、つなぎ目なく綺麗に繋がったのを確認した僕は、口元に満足げな笑みを浮かべた。
「…血も土も虫も、どれも君には似合わない。」
エリザの頬についた土なのか血なのかよくわからない汚れを親指で拭った僕は、再度エリザに魔法をかけた。
今度は浄化と再生の魔法だ。
再び淡い光に包まれるエリザの身体から、こびり付いた汚れが浮かび上がり、そしてそのまま空気に溶けてゆく。
失われた肉や筋肉、皮膚は、まだ残っている所から細胞を分裂させることによって再生ができるが……
「ごめんね。瞳の細胞だけは再生することができないんだ。でも安心して。すぐに取り戻してあげるから。」
エリザの身体は徐々に失われた部分を取り戻していくが、思っていたよりも時間がかかっている。この速度だと確実に朝を迎えてしまう。
もしかしたらエリザは、魔法が効きにくい体質なのかもしれない。
さて、どうしたものかと首を捻る。
正直、僕はこの手の魔法があまり得意ではない。青の魔力を宿すこの身体は、自然治癒力が優れている為、回復系の魔法を使う機会が滅多にないからだ。
皮膚が垂れ下がったままのエリザの顔を眺めながら思案していると、ふと妙案が浮かんだ。
自然治癒力の高い自身の血を与えれば、細胞分裂が活発になるのではないか、と。
思い立ったが吉日。
僕は自身の人差し指の腹を噛みちぎり、エリザの口に捩じ込んだ。けれど意識のないエリザは飲み込めず、口の端から零してしまった。そんなエリザを見て、僕はくすくすと笑う。
「零しちゃダメだよ、エリザ。」
垂れた血液を指先で掬い、再度エリザの口の中へ運ぶが、結果は同じだった。
以前の僕なら自分の言うことを聞かないエリザに酷く腹を立てていただろう。
だが今は、エリザの世話をするのが楽しくて仕方がない。
今のエリザは、1人では何もできない赤子のようなもの。
赤子といえばーーー鳥の子供、つまり雛が、親鳥の口移しで餌を与えられることを思い出した。
僕も親鳥のように、口移しで血を与えればいいのでは?
僕は自身の舌の一部を噛みちぎり、溢れ出る血液を、直接口移しでエリザに流し込んだ。
僕の口が栓になっているので、先ほどのように血液が口の端からこぼれることはない。
流し込んだ液体が、全てエリザの身体に染み込んだのを見計らい、僕は唇を離した。
濡れた唇を手の甲で拭い、僕は再度、エリザに再生の魔法をかける。すると、エリザの身体は淡い光を帯び、再生の速度が早まった。
思惑通りにことが進み、満足げに全体を見渡していると、僕の目はエリザの白い手に止まった。
僕はエリザの片手をそっととり、裏と表、全体を眺める。
幼い頃の記憶通りに、いや、それ以上に、エリザの手は貴族の娘とは思えぬほどに傷だらけだった。
「…別に気にしないのに。」
エリザが常に手袋をしているのは、僕に触れたくないからだと思っていた。だがエリザの日記を読んで、それが僕の思い込みであったことを知った。
この手は、成長して姿が変わっても、エリザがエリザであることの証だ。僕からみれば、この傷ひとつひとつが、とても尊い。
だがそれは同時に、エリザが世界に傷付けられた証でもある。
「……。」
僕は掴んでいた手を、そっとエリザのお腹の上に置いた。
最後に欠損している両足を再生しようとして―――やめた。
脳裏に、気ままな蝶のようにフラフラと夜会を飛び回るエリザの姿が過ぎったからだ。
時間をかけてエリザは剥きたての卵のように綺麗になった。
だが服装がボロボロなので、どうもイマイチである。
僕はエリザの首元に巻かれていた安っぽいスカーフをペリッと剥がし、頭の中で新たな数式を組み立て始めた。
型はなく、いちから組み立てる魔法なので、手探りではあるが、この世に僕ができないことなんてない。
特に躓くことなく、頭の中で溜息が出るほど美しい数式が並んでゆく。そして、数式に最後のピースがはまった瞬間、目を開けられないほどの強い光がエリザを包み込んだ。
光が落ち着いたのを見計らい、瞼を開いた僕は、思わず「あぁ…」と歓喜の溜息をもらした。
「思った通り、君は白が似合うね。」
僕の腕の中で、月明かりを帯びながら静かに眠るエリザは、純白のドレスを身に纏っていた。
このドレスはエリザと婚約した際に、彼女の元へ贈ったドレスと同じものだ。
だがそのドレスは、彼女の元に届いていなかったことを、先程の叔父の発言で知ったのだが。
「…うん、綺麗だ。」
まるで、朝露を纏う摘みたての白薔薇のように。
「綺麗だなぁ…」
噛み締めるように呟いた僕は、エリザの額に己の額を合わせた。
額にひんやりとした感触が伝わる。
どんなに魔法で姿かたちを綺麗に戻しても、体温までは取り戻せない。
エリザの魂は、世界に奪われたままだ。
無機質な冷たさに自分のやるべきことを思い出した僕は、エリザの膝の下に腕を差し込み横抱きにして、立ち上がった。
エリザの身体は驚くほどに軽い。しっかり抱いていないと、何処かに飛ばされてしまいそうなほど。魂がない分、余計にそう感じるのかもしれない。
「そろそろ行こうか。」
夜空に浮かぶ星を目印に、僕は世界の中心に向けて歩き始めた。
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