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第9章「愚者の記憶」
152話
しおりを挟むアルベルトside
僕の元から離れた後も、エリザはその今宵の月のように浮世離れをした美しさと可憐なダンスで多くの人々を魅了した。
だが彼女の快進撃はこれだけでは終わらない。
歴史、宗教、芸術、政治…あらゆる分野に精通していた彼女の巧みな話術は、容姿だけでは靡かなかった気難しい貴族達さえも大いに喜ばせた。
更に、エリザは当代の女性では珍しくデューデン語が実に堪能であった。
各国間で行われている高度な外交や交渉事を、あたかも世間話のように微笑みながら意見を述べる典雅な姿に、誰もが舌を巻いた。
本来ならば、デビュタント・ボールに遅れてきた上に1人で参加してきたエリザを常識知らずの娘として、一生社交界に顔を出せないよう、この場で糾弾されていてもおかしくはない。
だが洗練された立ち振る舞いと、大人顔負けの高い教養を備えていた彼女は、そんな常識さえも可憐に捩じ伏せてみせたのだ。
もはや、他のデビュタント達を壁に追いやり、格の違いを見せつけたエリザベータ=コーエン嬢の存在を無視できる者は、この社交界の場に誰もいない。
たった一夜にして、彼女は自身に押されていた《出来損ないの娘》の烙印を払拭したのだ。
そんな劇的な変化を遂げた彼女は間違いなく、今宵の花であった。
◈◈◈◈◈
華やかなデビュタント・ボールが終わり、皇宮内は本来の静けさを取り戻していた。
そして、時計の針が深夜を超えて皆が寝静まった頃―――
「あれはどういう事だ、ラルフ。」
自室に叔父を呼びつけた僕は、叔父の胸ぐらを掴み、そのまま壁に押し付けていた。
「…あれ、とは。」
「惚けるな…!」
唸るように声を上げた僕は、叔父を掴む腕にグッと力を入れる。だが、相変わらず叔父の表情は涼しいまま。それが更に僕の神経を逆撫でする。
「エリザのことに決まっているだろ…!」
「…。」
「ラルフ、答えろ。彼女は一体誰だ?」
「エリザベータ=コーエン嬢です。」
「違う…!あれはエリザじゃないっ。僕の知っているエリザは、つい最近までヒールのある靴に苦戦していたはずだ…!」
「私もそのように記憶しています。」
「それだけじゃない!母国語でさえたどたどしかったあの子が、急にデューデン語なんて話せるわけがないだろ!?あの子は人見知りで、話すこと自体が苦手なんだ…!それなのに…それなのに…っ」
脳裏に先程のエリザの姿が過ぎり、叔父を掴む腕に力が入る。
「どうして、あんな楽しそうに笑っていたんだ…?」
「…。」
「大勢の男共に囲まれて…あんな…あんな、男を誘うような顔して…」
無意識に、声量が風船の空気が抜けるように萎んでゆく。
「あんな顔、僕は、知らない。」
「……。」
「あれじゃ、まるで…」
「…殿下。」
「まるで、毒虫のようじゃないかッ…!」
社交界デビューを果たしたエリザは、容姿、仕草、表情、口調、思考、雰囲気さえも。
かつて、薔薇園で出会ったエリザの母親である毒虫と、おぞましいほどにそっくりだった。
「…こう見えて、私も戸惑っているんですよ。」
「…。」
眼鏡の向こうから僕を見る、理性的なサファイアの瞳に、少しだけ僕の頭が冷える。
僕は叔父の胸ぐらから手を離し、目を伏せた。
「私がエリザベータ嬢から目を離していた期間は、1週間です。」
その数字は叔父が社交界の準備をしていた期間と重なる。
「ラルフは、そのたった1週間でエリザが変わったって言いたいの?」
「はい。」
「巫山戯るな。嘘をつくなら、もっとマシな嘘を言え。」
「嘘や誤魔化しではなく、事実です。私が目を離した1週間のうちに、エリザベータ嬢は変わりました。」
「―っ!」
奥歯をギリッと軋ませ、拳を握りしめる。
僕は認めない。
たかが1週間程度で、人が別人のように変わるなんて。そんなこと有り得ない。
それを認めてしまったら、僕は…………………
………………………僕は?
「…殿下?」
叔父の訝しげな声に、ハッと我に返る。気付けば、僕の手のひらには血が滲んでいた。
「…。」
手のひらを握り締めた僕は叔父に背を向ける。
「…今日はもう下がれ。」
「ですが、」
「下がれ。」
「…御意のままに。」
背後から叔父の気配が消え、室内は再び静寂に包まれた。
「…クソッ…」
暗闇が広がる寝室で1人、僕は片手で頭を掻き毟る。
とても気分が悪い。まるで、血管の中に異物が蠢いているような。
いつもは心地よい静寂さえも、今は酷く煩わしい。
僕はふらつく足取りで、扉に向かう。叔父が出ていった扉ではなく、もう1つ存在する扉の方へと。
手馴れた手つきで鍵を開け、ゆっくりと扉を開けた。
「…あぁ…」
思わず口から、感嘆の声が零れる。暗闇に包まれた小さな部屋。そこで僕を出迎えてくれたのは、部屋の中央に置かれた人ひとり入れそうな硝子ケースと、壁にずらりと飾られたエリザの肖像画。
額縁の中にいる彼女達は、変わらぬ笑顔を浮かべている。
この部屋は、エリザの成長過程を視覚で楽しむ為に作った空間だ。
壁には5歳から15歳までのエリザの肖像画が並んでおり、そして1番左端には16歳なるエリザの肖像画を飾る予定……だった。
グッと奥歯を噛み締めた僕は、部屋の中に足を踏み入れた。
目に映るもの全てが醜いこの世界で、僕がこれまで自害せずに生きてこられたのはエリザの存在があったからだ。会えない日々が続いていても、この部屋いる彼女達が僕を癒してくれていた。
部屋の中央に辿り着いた僕は、足元にある硝子ケースの傍で片膝をつく。
すると、雲に隠れていた月が姿を現した。カーテンの隙間から差し込む青い月明かりが、硝子ケースを淡く照らす。
「…君は、いつ見ても綺麗だね。」
この硝子ケースの中には、若草色のドレスを纏った一体のビスクドールが納められている。
癖のない真っ直ぐなプラチナブロンドの髪に、雪のように白い肌に映える桜桃色の唇。そして、瞼を閉じているため見ることは出来ないが、瞳には本物のエメラルドが嵌め込んである。
これは、庭園で初めて会った時のエリザを模して作った人形だ。
白薔薇が敷き詰められたケースの中で、手を組んで目を閉じている人形は、静かに眠っているようにしか見えない。
だが、この人形は何年経っても未完成のまま。
どれだけ最先端の技術を用いて精巧に作り上げたとしても、本来のエリザの美しさを再現することは出来なかった。
特に瞳。
高品質のエメラルドを嵌め込んでみても、彼女の瞳の美しさには到底及ばない。
けれど―――
「……。」
硝子越しに、僕は彼女の頬を撫でる。
未完成であるはずの人形は、今宵の彼女によく似ていた。
圧倒的に、絶望的に、残酷なまでに。
僕は硝子ケースにもたれ掛かるようにして、目を閉じる。
全ては月明かりが魅せた悪夢である事を信じて。
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