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第9章「愚者の記憶」
150話
しおりを挟むアルベルトside
長らく積もっていた雪が川に流れ、頬を撫でる夜風に初夏の気配を感じられるようになってきた今日この頃。
蒼い月の下。
皇宮のダンスホールには、白いドレスとグローブ、そしてティアラを身につけた若き令嬢達がソワソワと落ち着かない様子で集まっていた。
「…今年も蛆が湧いている。」
今年21歳となる僕は階段の上から蛆娘達を見下ろしながら、ポツリと呟く。すると、背後に控えていた叔父が「聞こえてしまいますよ。」と、そっと窘めてきた。
「どうせ聞こえやしないよ。」
「では、その蔑んだ目で民を見下ろすのはおやめなさい。」
「おっと、それは無意識だった。」
「……。」
チラチラとこちらを見上げてくる蛆娘達にニコリと微笑みかければ、あちらこちらから悲鳴があがった。その品のない悲鳴に内心げんなりとする。
「気を付けてください。ここには貴方に夢みる令嬢が多いのですから。」
「夢?あはは。――くだらない。」
「…。」
今日は、上流階級の子女達が社交界デビューを果す年に一度の「デビュタント・ボール」の日だ。
「そんなことよりもエリザは?まだ来ていないの?」
僕が成人を迎えてからというもの、父の仕事を請け負うことが多くなり、エリザと会う機会が一気に減ってしまった。
この醜い世界で、彼女の成長こそが僕の唯一の楽しみであり生きる意味。叔父から逐一報告を受けてはいたが、彼女に会えない日々は僕にとって苦行でしかなかった。
そして今日、ようやく彼女に会える。この舞踏会には、今年16歳になるエリザも招待されているのだ。
実に995日ぶりの再会を、僕はずっと楽しみしていた。
けれどそれと同時に、不安も抱えていた。
社交界とは紳士淑女の交流の場。
一見すると華やかな世界のように見えるが、その実際は醜い陰謀が渦巻いている。そんな穢らわしい世界に無垢な天使を放り出すだなんて、正気の沙汰とは思えない。
本当はエリザを社交界デビューなんてさせたくはなかった。だが、古いしきたりに固執するこの世界は、それを許さない。
これから僕のリトルレディが、不特定多数の好奇の視線に晒されるかと思うと、気が狂いそうになる。
エリザが傷付く前に保護してあげなければ。そう思い先程から探しているのだが、彼女の姿は何処にも見当たらない。
「どうやら遅れているようですね。」
「まさか事故?」
「そういった情報は入っていません。」
「いや、誘拐かもしれない。」
「そういった情報も入っていませ――」
「あぁ、そうだ、そうに違いない。あの子の美しさに気付いてしまった害虫が攫ってしまったんだ。今日のエリザは全身純白の衣装に身を包んでいるんだ。まさに天使そのものじゃないか…!あぁ、忌々しい不届き者め。見つけ次第、あの子を映した目を抉り出し、あの子に触った腕を腐り落として…」
「若き令嬢の晴れ舞台の日に、そんな物騒なことを言うのはおやめなさい。」
背後から叔父の呆れた声が、割って入る。そんな叔父に恨めしい視線を送れば、叔父は涼しい顔のまま眼鏡を押し上げた。
「そろそろ時間です。ホールに降りましょう。」
「けれどエリザが…」
「情報が入り次第お伝えしますので、今は式に集中してください。」
「…。」
「殿下。」
「…わかったよ。」
叔父に窘められた僕は、渋々階段を降り、式に参列することになった。
母の前で蛆娘達が初々しくお辞儀をする中、僕の頭の中はエリザの事でいっぱいだった。式が始まったにもかかわらず、エリザは一向に姿を表さない。
エリザの母親である毒虫が、この日の為に金と時間と労力を娘に注ぎ込んだ、という話は僕の耳にも入っている。その毒虫が娘を遅刻させるなど考えられない。
…もしや、エリザの身に何か起きたのだろうか?
不安で不安で落ち着かない気分を掻き立てられる。それなのに時間は待ってはくれず、無情にも淡々と過ぎ去ってゆく。
そして父の仰々しい挨拶(毎年同じの定型文)すらも終わり、ダンスの時間となった。
「…あら、エリザベータはまだ来ていないのね。」
そう呟いた母は頬に手をあてながらホールを見渡し、父は至極どうでもよさそうにふんっと鼻を鳴らす。
すると、畏まっていた蛆娘達がクスクスと笑い出した。
「こんな大切な日にいらっしゃらないなんて……レディとしての自覚が足りないのでは?」
「きっと怖気付いてしまったのよ。」
「あの人のことだから、ただ単に忘れているだけじゃないかしら。」
「相変わらずの方でございますわね。」
「お変わりなくて安心しましたわ。」
クスクス
クスクス
クスクス…。
その囁き合うような嘲笑に、カッと臓腑が熱くなる。
―お辞儀すらろくに出来ない蛆娘どもが、あの子を侮辱するな…!
我慢できず口を開こうとした―――
次の瞬間、ホールの扉が開け放たれた。
何事かと皆一様に視線を後方に向ければ、純白のドレスを纏った少女が1人。凛とした佇まいでそこに立っていた。
少女は頭を垂れる扉に控えていた2人の騎士にお辞儀をし、戸惑いにザワつくホールに臆することなく足を踏み入れた。その優雅な足取りに、人々は息を呑む。
すらりとした白い腕に、細い腰。
芸術品のように美しく結い上げられた真珠色の髪は、まるで星屑を散りばめたかのようにキラキラと煌めき、肩から胸にかけて大きく開いた胸元には、丸く豊かな曲線を描いていた。
その神々しささえ感じる少女の美しさに圧倒された人々は、波が引くように道をあけた。少女を見守る人々の中からは、どよめきとも溜息ともつかない声が漏れる。
両陛下の前まで来た少女は、洗練された動きでドレスのスカートをつまみ、美しく膝を曲げた。
「せっかくこのような素敵な会にお招き頂いたにも関わらず、遅れてしまい大変申し訳御座いません。そして、ここにお集まり頂いた皆様方には、ご迷惑をおかけしてしまったことを心より深くお詫び申し上げます。」
長い睫毛に隠れていたエメラルドの瞳が現れた瞬間、淡々と回っていたはずの世界がピタリと止まり、灰色に塗りつぶされた。
「エリザベータ=コーエン。ただいま参りました。」
頭を殴られたかのような衝撃が全身を貫く。
プラチナブロンドの髪に、エメラルドの瞳。同じはずなのに、同じじゃない。
そこに居たのは僕の知っているエリザではなかった。
―――彼女は、誰だ?
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