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第9章「愚者の記憶」
142話
しおりを挟むアルベルトside
物心がつく前から、僕はこの身に宿る膨大な魔力を思いのままに操ることが出来た。
周りからは早熟な天才・神童などと謳われ、羨望された。
だが、どれだけ褒め称えられようとも僕にとっては至極どうでもよかった。
生き物は意識せずに呼吸をする。それをわざわざ褒める人は居ない。
つまり、僕にとってはどんな言葉も「呼吸ができて凄いね。」と言われていることと同じことなのだ。
寧ろ何故みんなは僕と同じようにできないのか心底不思議だった。
しかし、この世界に生まれ落ちて3年経ったある時、僕は気が付いた。
僕がこの世界の誰よりも特別な存在であることに。
僕の中には〝青の魔力〟が誰よりも濃く流れている。青の魔力、すなわちそれは神の血。神の血が誰よりも濃い僕は、神に一番近い存在なのだ。
それに気が付いた瞬間、脳天に衝撃が走った。全ての辻褄が合わさったのだ。それと同時に先程まで見ていた世界の景色がガラリと変わった。
僕以外の人間が酷く醜く見えたのだ。
人間は完璧には程遠い存在だ。
だからこそ足りないものを補おうと必死に藻掻く。その卑しい姿はとても見れたものでは無い。
人間という生き物は吐き気を催すほど、欲深い生き物なのだ。
何故、神は人間という不完全な生き物をお創りになったのだろうか。
1人では繁殖することが出来ず、ふとしたことで死んでしまう。こんなにも弱くて醜い生き物に一体なんの価値があるのだろう。
その答えを知るには天寿を全うし、神の元に帰るしか方法はない。全てを持っている僕に指南できるのは全知全能の神だけなのだから。
「駄目しょ、アルベルト。」
…あぁ、そうだった。
この世界で僕に物申すのは神だけではなかった。
「生き物を玩具にしてはいけません。」
よく晴れた昼下がりのこと。
僕は母から注意を受けていた。
「…玩具になんかしていません。僕は解剖して観察をしていただけです。」
そう。僕はそこら辺の子供のように遊んでいたわけではない。
中庭に迷い込んできた白兎を解剖して、身体の仕組みを学んでいただけだ。
「理由はどうであれ、尊き命をいたずらに奪ってはいけません。兎さんも私達と同じように限りある命の中で一生懸命生きているの。前にも言ったでしょう?」
母の言う通り、この事で注意を受けたのは初めてではない。だが、僕はどうしても納得ができなかった。
兎なんて所詮は僕達の血肉になるか、世界の肥料になるかのどちらかなのだ。どうせ死にゆく運命ならば、僕がどうしたって構わないじゃないか。寧ろ、僕の知の糧となったのだ。食肉か肥料にしかならない兎が大いに人類に貢献したといえるだろう。
しかめっ面で不満をあらわにする僕をみた母は長い睫毛を伏せた。
「…アルベルト。貴方は兎さんを痛めつけた分、自分の心も痛めつけているのよ。」
そう言って母は自身の胸に手を当てた。
「母上は勘違いをしています。僕の身体は何処も痛くありません。それにこの前、解剖生理学を読みましたが心なんていう臓器はありませんでした。」
母が言っている場所には心臓という臓器があるだけだ。先程白兎を解剖した時も、それらしい臓器はなかったと思う。
「心は目に見えないものなの。それでも確かにここにあるわ。私の心は今、ズキンズキンって泣いている。」
「それは病気ですよ。一度、皇宮医に診てもらった方が―」
「これはお医者さんには治せない痛みなの。」
皇宮医が治せないだなんて、余程重症な病ではないか。こんな所で呑気に話し込んでいる場合ではない。
「…ではどうすれば治るのですか?」
「兎さんにごめんなさいをするのよ。」
「…ごめんなさい?」
「そう。痛いことをしてごめんなさいって。アルベルトも痛いのは嫌でしょう?」
確かに痛いのは嫌だけど…。
このまま母に言いくるめられそうになった時、頭の中に父の姿が過った。
「…ですが、父上の方がもっと酷く扱っていました。」
動物嫌いの父が、視界に入った動物を魔法で切り刻んでいたことは記憶に新しい。
「それは…」
母は気まずそうに僕から視線を逸らす。そんな母に僕は畳み掛けた。
「僕は駄目なのにどうして父上はいいのですか?」
「……。」
僕と同じサファイアの瞳をじっと見つめれば、母は困ったように小さな笑みを浮かべた。
「…お父様はね、怖がりなの。」
「…怖がり?あの父上が?」
僕が知っている父は冷酷で残忍。怖がりだなんて最もかけ離れている存在だ。僕に対してもいつも厳しく高圧的な態度で接してくる。
そんな父が怯えている姿など、どう頑張ってみても想像することができない。
僕は目をぱちくりされると、母は遠くを見つめた。
「そうよ。誰よりも臆病で怖がりさんだから自分が傷付く前に、先に攻撃してしまうの。守るものが増えてからは余計に酷くなてしまったわ。」
「…。」
威厳に満ちた父が兎1匹に恐れをなしたとは到底思えない。
思わず俯いた僕の頭を、母は優しく撫でる。
「アルベルトにはまだ難しかったかしら。」
「子供扱いしないで下さい。」
「あら、ふふふっ。これはこれは失礼致しました。皇太子殿下。」
芝居掛かった口調で謝罪を述べた母は、僕の髪をわしゃわしゃと掻き回した。
「わっ、は、母上!やめてください!」
「アルベルトとお話していると時折貴方がまだ3歳であることを忘れてしまうわ。」
「もうっ!僕は子供じゃ―」
「よく聞いて、アルベルト。」
「!」
母の声が改まったものに変わり、思わず僕は口を閉じる。
僕を真っ直ぐに見つめる母の真剣な眼差しには、知的な光があった。
「お母様はね、アルベルトにお父様のようになって欲しくないの。」
「……。」
「貴方は誰よりも凄い力を持っているわ。きっとそれは奪う為ではなく、守る為に神様が貴方に授けてくださった力なの。大切にして頂戴。」
「…はい。」
時折、母の言葉がどんな数式よりも、複雑だと思う時がある。今がまさにその時で。一生かけても解くことのできない問題用紙を、目の前に置かれているような感覚。
しかめっ面のまま俯く僕に苦笑いをした母は、そっと僕を抱き締めた。
「アルベルト。ゆっくりでいいの。焦らずゆっくり。急いで大人になろうとしないでね。」
その優しい声音のお願いには、僕に縋り付くような必死さが微かに滲んでいた。
母の言葉を完璧に理解した訳では無い。だがこれ以上、僕や父が殺めた兎を見て母が心臓発作でも起こしたら大変だ。
この日から僕は庭に迷い込んできた動物を解剖せずに、外に逃がすようになったのだ。
◈◈◈◈◈
結局母の言葉を理解することは出来ず、魚の小骨が喉に刺さったまま時は流れ、ようやく雪の下に隠れていた種が芽を出し始めた10年目の春。
僕は、何も持っていない少女と出会った。
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