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第8章「優しい拷問」
122話
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―――300年前。
処刑前夜の牢獄にて。
「無礼者はお前だろうっ!エリザベータ=コーエン、往生際の悪い奴めっ!明日の処刑までここで大人しくしてろっ!!」
1人の兵士が私の顔を殴り、その衝撃で私は床に倒れ込んだ。口の中に鉄の味が広がる。
「君、大丈夫かい?さ、安全なところに行こう」
「お嬢様っ!お嬢様っ!離せっ!私に触んなっ!!」
「あぁ、可哀想に。洗脳されているよ。医者の元へ連れていこう。」
兵士達は涙で顔をぐしゃぐしゃにするモニカを抱えて去っていった。
それが私が見た最後のモニカの姿。
◈◈◈◈◈
モニカ達の遠い声もやがて消え、再び静寂があたりを包み込んだ。どこかで石畳を打つ水滴の小さな音だけが虚ろに響く。
先程の様子から、兵士達はモニカに危害を加えるようなことはしないだろう。
モニカは兵士達の濁った瞳とは違って、澄んだ瞳だった。きっと彼女は正常な人間だ。だからこそ、彼女には無事でいて欲しい。
「……うっ……」
起き上がろうとすると、頬に鋭い痛みが走る。あまりの痛さに、私は再び冷たい床へと伏せた。
気付けば、兵士に殴られた頬は真っ赤に腫れ上がり、ジンジンと熱を帯びていた。痛くて、熱くて……今だけは、この石畳の冷たさが心地よく感じた。
「……。」
霞み、ぼやけた視界には、汚れた石畳と自分の手が見えた。あんなにも血が滲むような努力をしてきたというのに、手に入れたモノはこの醜い手だけ。
昔、あの人はこの手を見て「この手は君が頑張った証だよ。」と言ってくれた。
…今にして思えば、それは愛情に飢えていた子供が作り出した幻影だったのかもしれない。良い思い出ほど美化していくものだから。
「……ふっ…。」
じわっとかなり唐突に、目頭が熱くなるのを感じた。このまま横たわっていたら涙が零れてしまいそうだ。
私は痛む身体を無理やり起こす。すると、何処かに引っ掛けてしまったのか、首にかけていたチェーンネックレスが突然切れてしまった。チェーンの先に付けていた金属製の鍵が、カンカンと高い音を立てながら牢屋の端の方へと転がっていく。あぁ、いけない。と、私は立ち上がろうとして足に力を入れた。
しかし、
「―っあ、」
跳ね方を忘れた蛙のように、私はそのまま床にベチャリと崩れ落ちた。
…忘れていた。
今の私には、足首から下が存在していなかったんだった。生まれた時から当たり前にあった足がないだなんて…未だに実感が湧かない。
立てない私は床を這いつくばって牢屋の端に向かう。牢屋はそこまで広くはない。それでも私はズルズルと時間をかけて、牢屋の端に辿り着いた。手を伸ばし、鍵を掴む。冷たくて硬い、手に馴染んだ感触。
価値のないモノだと思われたのか、ここに連れ込まれて身ぐるみを剥がされた時、この鍵だけは兵士達に奪われることはなかったのだ。
今、私が持っている唯一の私物。
傍から見ればただの古びた鍵でも、私にとってはとても大切な鍵だった。
これは、自室にある机の引き出しの鍵だ。私はその引き出しに、自分の弱さを閉じ込め、鍵をかけている。
誰にも言えない自分の弱さ。日々の記録。人はそれを日記と呼ぶ。
私は昔から鈍臭く、よく物を無くしていた。だから私は無くさないよう鍵をチェーンに付けて、肌身離さず首から掛けていた。
そう…これだけは、絶対に見つかってはいけない。私の弱さを世間に晒してはいけない。
痛む身体に鞭を打ち起き上がった私は、その小さな鍵を躊躇なく口の中に放り込んだ。
「…っうぇ…っん」
鍵が喉に引っかかり、上手く飲み込めない。身体は異物を排除しようとしてくるが、私は口元を両手で覆い、込み上げてくる胃液と一緒に無理やり鍵を胃に落とした。
「…っ…はぁ…はぁ……」
これで、あの引き出しが開かれることは永遠ない。この鍵は明日、私と共に世界から消えるのだから。
ふと上を見上げれば、小窓から青い月が顔を覗かせていた。星空に悠然と浮かぶ丸い月は、冷たい檻の中を淡く照らす。その姿はまるで物憂げな青薔薇の貴婦人のよう。どんなに手を伸ばしても届くことはなかった、私の理想。
私は胸の前で両手を握り締め、祈りを捧げた。
あぁ、神様。せめて最期ぐらいは、夜空に煌めく月のように美しく死なせて下さい、と。
だが、月は雲に隠れてしまった。
どうやら神様は、私の願いを聞き入れてはくれないようだ。
月明かりが失われ、牢屋は再び暗闇に包まれる。
これが現実。これが私の世界。
それを悟った途端、一気に絶望的な孤独感が押し寄せてきた。
あぁ、嫌だ嫌だ…!1人は嫌だ。1人は寂しい…!誰でもいいから私を抱き締めて、そして一緒に死んで欲しい…!
……あぁ、そうだ、モニカ。モニカなら一緒に死んでくれるだろうか。
「…っ…うぇ…っ」
綺麗事すら殴り捨てて善人のモニカに縋る自分浅ましさにに、思わず吐いてしまった。食事は与えられていなかったので、吐物は胃液のみ。幸運なことに飲み込んだ鍵を吐き出すことはなかったが、床に撒かれた己の吐物を見て、口から乾いた笑いが漏れた。
あぁ…自分はなんて醜く、惨めなの存在なのだろう。
絶望と嫌悪感に打ち震える身体を己の腕で抱き締める。昔からそうだ。私を抱き締めてくれる人は、私しかいなかった。
―――カツン、カツン…
遠くの方から石畳を歩く規則正しい足音が聞こえてきた。暗闇から聞こえてくるその音はどんどんこちらに近づいてくる。
―――カツン、カツン、カツン。
足音が檻の前で止まった。
すると、訪れを待っていたかのように雲に隠れていた月が姿を現し、訪問者の顔を照らした。
「こんばんわ。今宵の月は綺麗だね。」
暗闇から現れたのは口元に笑みを浮かべたアルベルト様だった。
月明かりに照らされた彼はより一層の煌めいて見える。どうやら彼は神様だけでなく、月からも愛されているらしい。
彼は慣れた手つきで牢屋の鍵を開け、中に入ってきた。そして、地面に座り込んでいる私を見て「おや?」と首を傾げて見せた。
「傷が増えているね。ここ、どうしたの?」
トントンと自分の頬を指指すアルベルト様。彼が言っている場所は、先程兵士に殴られた場所だ。どう説明すれば正解なのかと考えあぐねていると、アルベルト様はそれを黙秘と受け取ったらしく、すっと双眸を眇めた。
「へぇ。僕の問いに答えられないのか。」
「そんなことはない。」と反論しようとした瞬間、とても近い所から鈍い音がして、網膜に火花が散った。突然の衝撃に、私の身体は後方に倒れ込む。
「…くっ…は…」
口の中が切れ、血を吐き出す。一体自分の身に何が起きたのか。
遅れて頬に痛みがやってくる。先程兵士に殴られた場所と同じ。頬をアルベルト様に殴られたのだ。
唖然としている私の傍で片膝を突いたアルベルト様は、躊躇なく私の髪を掴み上げ、顔を覗き込んできた。
「最後の最期まで、貴女は自分の立場を分かろうとはしなかった。」
その濁ったサファイアの瞳に息を呑む。彼の口元は、加虐の悦楽に歪んでいた。
「罪人には罰を与えなければならない。」
ゾクリと背筋に震えが走る。
この震えは、これから始まる拷問に対する恐怖から来るものだと思った。だが、彼の瞳に映る女の顔を見た瞬間、それは勘違いだったことに気付く。
彼の瞳に映るもの、それは仄暗い愉悦に顔を歪ませる―――私の顔だった。
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全て…愛おしかった。
アルベルト様が手を振り上げる。また、長い長い拷問が始まるのだ。絶望。そしてそれに交じる歓喜。そんな浅ましい自分に吐き気がする。
あぁ、醜い。
こんなにも醜く罪深い私の願いなど、神様が聞き入れてくれるわけがなかったのだ。
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