私は貴方を許さない

白湯子

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第7章「温室栽培」

115話

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「僕、言いましたよね?着替えが終わったらベルで呼んでください、と。」


ユリウスは、もたれかけていた壁から背中を離し、ツカツカと私の方へ歩み寄ってきた。
口調こそ穏やかだが、彼から鬼気迫るものを感じた私は後退る。その反応が気に食わなかったのか、ユリウスは双眸を眇め、一気に距離を詰めてきた。
彼の手が私に触れる寸前、考えるより先に身体が動いた。身を翻し、ユリウスとは反対方向へと走り出す。

――が、背後から伸びてきた手に腕をつかまれてしまった。
強い力で引っ張られ、そのま壁に叩きつけられる。


「―ッ、」


背中に強い衝撃が走り、一瞬呼吸が止まる。自分の身に何が起きたのか理解している暇もなく、ユリウスは間髪入れずに、ドンッ!と私の顔の横で両手をついてきた。すぐ耳元で聞こえてきた鈍い打撃音に、私はビクリと身を竦ませた。


「それなのに、そんな薄着でフラフラと…」


気付けば、吐息が絡むほど近くの距離にユリウスの顔があった。そのあまりの近さに、思わず息を呑む。


「男漁りにでも行くつもりですか?」
「なっ…」


淑女である私が、そんなことをするはずがないだろう…!!
あからさまな侮辱の言葉に、カッと目尻に朱が走る。そんな私に、ユリウスは薄ら笑いを浮かべた。


「今更、貞淑ぶらなくてもいいんですよ。…あぁ、そうか。殿下に会いに行くつもりだったのですね。」
「…は、」
「僕としたことが、完全に浮かれていました。貴女が僕に会いに来るはずがない。いつだって貴女は僕ではなく殿下に会いに来ていた。」


殿下?
何故ここに殿下が出てくるのだろうか。
目を見開いたまま黙り込む私に、ユリウスはくつくつと笑う。その笑いには僅かに自嘲が含まれていた。


「あんな口先だけの雑草の何処がいいのですか?理解に苦しみますよ。」


その言葉に、私は血液が逆流するような激しい憤りを感じた。
脳裏には、子供のように私に縋りついてきた殿下が過ぎる。
殿下は私やユリウス、300年前の人間のせいで心に深い傷を負ってしまった。モニカの記憶を持っているだけで、300年前とは何も関係のない優しい彼が。
それなのに、加害者の1人である彼が殿下を侮辱することが許せなかった。

腹の底から沸き上がる怒りに身を任せ、私は彼の脇腹めがけて足を蹴り上げる。
バシッ!と肉と肉がぶつかる音が廊下に響いた。


「お行儀の悪い足ですね。」


蹴り上げた足は、ユリウスの手に包まれていた。


「高潔な貴女が弟を足蹴りしているだなんて、学校の皆さんが知ったらどう思われますかね。」
「その手を離しなさい…!」
「お断りします。生憎、僕は蹴られて喜ぶような趣味は持ち合わせていませんので。ですが、まぁ…貴女になら蹴られてもいいと思う輩はそこそこ居るかもしれませんね。」


せせら笑うような口調に、私はかっと逆上した。


「人を馬鹿にするのは、そんなにも楽しい…!?」


これ以上の侮辱は許さない、という思いを込めて睨みつける。すると、ユリウスは何故か破顔した。


「えぇ、楽しいですよ。貴女の色んな顔が見られて、とても楽しいです。」


天使のような可愛らしい笑みを浮かべて、加虐的な言葉を言ってのける彼に、私は思わず絶句する。


「雨に打たれた仔猫のように震えている姉上も可愛らしかったですが、今のように気高い血統書付きの猫のように僕を睨みつけてくる貴女も大変魅力的です。――ですが、あの雑草の為にという所が少々面白くないですね。」


まるで口説き文句を囁くような甘い声音が、一気に低くなった。彼から漂うひりつく空気に、一気に全身が粟立つ。咄嗟に逃げ出そうとしたが、数秒遅かった。
ユリウスは、私の足の間に膝を割入れ、ぐっと奥に押し込んできた。


「…っ…ちょ、…」


淑女の密やかな部分に男性の太腿があるという、ありえない状況に失神しそうになった。

咄嗟にユリウスの肩を押すが、彼の身体は石のようにビクリとも動かない。力では敵わないと分かっているが、ここで諦める訳にはいかない。諦めた先に何があるのか、想像するだけで恐ろしい。私は壁とユリウスの間から抜け出そうと必死にもがく。
だが、もがけばもがくほど、夜着の裾がずり上がり、腿があらわになっていることに、無我夢中の私は気付かない。

そんな私を小さく嘲笑ったユリウスは突然、私の首筋に顔を埋め、息を吸い込んできた。
紳士とは思えぬ彼の行動に驚愕した私は、反射的に自由の効く両手で彼を引っぱ叩こうとした。しかし、


「―ひぃっ!?」


あろうことか、ユリウスは私の首筋を舌で這わせ始めたのだ。
ぬるりとした熱い舌の感触に、肌が粟立つ。
得体の知れない感覚から逃れようと身をよじるが、ユリウスは逃がさないと言わんばかりに、ぐっと壁際に押さえ込んできた。彼の身体に胸を押され、とても息苦しい。


「…その夜着、とても似合っていますね。姉上には少し幼過ぎるかなと思っていたのですが……貴女は何でも着こなしてしまうから、本当に困る。」


舐めながらだというのに、よく動く口だなと他人事のように思うのは、一種の現実逃避なのかもしれない。


「もしバスローブを着て出てきたら、この場でひん剥いているところでしたよ。ちゃんと姉上に危機感が備わっていたようで、僕は安心しました。」


人畜無害な好青年のような声で、恐ろしいことを言ってくる彼に、肝が冷える。
知らず知らずのうちに、何かを試されていたようだ。だが、その意味を考える余裕は、今の私にはない。


「ちゃんと匂いは落ちていますが、少々やり過ぎですね。肌が赤くなっている。」


そう言うと、ユリウスは首筋をなぞるかのように、ねっとりと舐め上げてきた。その時、肌にピリッとした痛みを感じた。彼の言う通り、擦りすぎてしまったのだろう。


「乱暴に洗っては駄目ですよ。せっかくここまで育てたのに…綺麗な肌に傷が残ったらどうするのです?」
「育てた…?」


ユリウスの言葉に妙な違和感を感じた私は、思わず口に出して呟いていた。すると、ユリウスは私の首筋から顔を上げ、にこりと微笑んだ。


「えぇ。貴女はね、僕が育ててきた植物の中で、一番綺麗に育ってくれた花なんです。」


花。

ふと、邸のサンルームで育てられている植物たちが頭をよぎった。
一年中枯れることなく、綺麗に咲き誇っている花々たち。

まるで走馬灯のように、これまでの記憶が頭の中を駆け巡る。
ユリウスの正体がわかるまで、彼は底なしに優しかった。そして、この上なく過保護だった。こんなにも姉想いな弟は世界中どこを探してもユリウスだけだろうと、思っていた。

だが、違っていた。
彼の優しさは家族としてではなく、自分が育てている植物に対するものと同じもの。初めから、私を人間扱いしていなかったのだ。

一瞬でも、彼にも家族の情があるのではと思った私が馬鹿だった。彼に対して、希望などもってはいけない。

先程まで煮えくり返っていた心が、どんどん冷えていく。まるで、心に氷水を流し込まれたかのように。

私は抵抗をやめた。それを不思議に思ったのか、ユリウスは私の顔を覗き込んできた。
彼のシトリンの瞳と目が合う。その瞳には、まるで人形のように冷たい私の顔が映っていた。


「姉う…」


言い終わる前に、私は彼の頬に烈しい平手打ちを放った。乾いた音が静かな廊下にこだまする。


「…ッ、」


ユリウスは叩かれた頬に手を添え、ぎこちない動きで首を元の位置に戻した。彼の瞳は、信じられないものを見るかのように、大きく見開かれている。


「…人を人と思わない貴方が、家族を名乗らないで。」


彼にとって、家族は所詮ごっこ遊び。そんな彼に姉と呼ばれるのは、虫唾が走る。

家族の愛を知らなかった私にとって、多くの愛を注いでくれた今の家族は、何よりもかけがえのない存在だった。それなのに…


「貴方は紳士の風上にも置けない、卑劣な人だわ…!」


私は、自分や自分の家族が穏やかに暮らしていければ、それでよかった。ほんのちっぽけな、 手のひらに収まる分だけの幸せだけで。
だがそれを優しい義弟の仮面を被っていたユリウスは、血も凍るような残酷さで虫を踏みつぶすように踏み躙った。

300年前だってそうだ。
権力、力、名声、美貌……。
彼はこの世の全てを持っていた。それなのに、何も持たない私から全てを摘み取ったのだ。
私のささやかな願いさえ、彼は許せないというのか…!!


「――…そういう所ですよ。」


低く、抑揚のない声でポツリと呟いたユリウスは突然、私の顎をガシッと掴んできた。そのまま握り潰すかの勢いに悲鳴すら出てこない。


「そうやって貴女は、理想論ばかり押し付けて…」


そう言うユリウスの顔からは、表情が全て抜け落ちていた。見せかけでも保っていた笑みが消え去ると、こんなにも威圧感と恐怖感が増すものだったのか。
さっきまでの威勢の良さは何処へやら、彼から漂う淀んだ空気に呑み込まれた私は硬直することしかできない。


「貴女のそういう所が、昔から大っ嫌いでした。」


大っ嫌い。
そう吐き捨てたユリウスの瞳に不穏な焔が灯る。ゆらゆらと揺らめくそれは、深い海のように青かった。


―あぁ、やっぱり綺麗…。


私は徐々に近づいてくるサファイアの瞳を見つめていた。その瞳に魅入られた私は、唇が塞がれていることに、すぐに気づかなかった。


「…っ!」


柔らかな感触が唇に伝わる。それが彼の唇だと悟った途端、全身が慄いた。
押しつけられる胸の圧迫感と、唇を塞がれた息苦しさに、奇妙な戦慄を覚えた私は、思わず口を開く。だが、それがいけなかった。


「んぐっ!?」


その瞬間、重なった口を通して、何かどろりとした液体を口腔内に流し込まれた。それは鳥肌が立つほどに生暖かく、濃密に鉄臭い。不快な異物に悪心が喉元を迫り上がる。

パニック状態に陥った私だったが、本能的に飲んではいけないものだということだけはわかった。

私は―――












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