私は貴方を許さない

白湯子

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第7章「温室栽培」

112話

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この状況を上手く飲み込めないでいた私は、呼吸をするのも忘れ、ただ呆然と抱きしめられ続けていた。

そんな私の首筋にユリウスは顔を埋め、鼻先を肌に擦り付けてくる。その仕草は、まるで主人に甘えてくる仔猫よう。
ユリウスは息をゆっくりと吸い込んでから、口の中で小さく呟いた。


「――魚臭い。」


それは、ゾッとするほど冷たい声だった。ヒュッと息を呑んだ私の脳裏に危険信号が点滅する。


―――あぁ、そうだった。


この世界には2種類の人間がいる。 搾取する人間と、搾取される人間の2種類だ。
目の前に居るこの人は、生まれながらにして搾取する側の人間。そして私は―――


「―っ、」


その言葉の意味も分からないまま、私はユリウスの身体を両手で突き飛ばし、転がるように出口へと走り出した。ドアノブを捻り、そのまま部屋から飛び出そうとする。
が、背後から伸びてきた手が、ドアノブを掴む私の手に重なり――


「そんな穢れた身体で、一体どこに行くつもりなのですか?」


嘲笑うかのように、そっと耳元で囁かれた瞬間、目の前にあった扉が音もなく消え去った。
そして代わりに現れたのが、目を大きく見開き、顔を紙のように白くさせた私だった。
いや、正確に言えば、目の前に鏡が現れたのだ。

一瞬呆気に取られていたが、直ぐに自分が転移魔法をかけられたのだと気付く。

視界の端に映るのは、大理石の床と猫足のバスタブ。転移された先は、1日の疲れや汚れを落とす場所。…そう、シャワールームだった。
だが、ここは私が知るシャワールームでは無かった。シューンベルグ邸より一回り狭く、備品も若干違う。

……一体ここは、何処なのだろうか。
そう思った瞬間、頭上から冷水が降ってきた。


「―っ!?」
「おっと、すみません。いつもの癖で、水やりと間違ってしまいました。貴女は花ではなく人間でしたね。」


鏡に映るユリウスは、悪びれる様子もなく、可笑しそうにクスクスと嗤う。
自分の身に何が起きたのかわからなかった。冷水を頭から浴びた衝撃で頭が真っ白になり、悲鳴すら出てこない。

背後にいるユリウスが蛇口を捻る。すると、今度は温水が容赦なく頭上に降ってきた。
鏡には、シャワーヘッドを握るユリウスの姿が映っている。そのシャワーヘッドから絶えず温水が、私の頭に降り注いでいた。

そして、その時になってようやく、私は自分の身に何が起きたのかを知った。


「…っ、」


決して、暴力や怒声を浴びせられたわけではない。だが、私の頭は完全に恐怖に支配され、身体をカタカタと震わせた。
それほど、冷水を頭からかけられたことが、私にとって衝撃的だったのだ。


「あぁ、可哀想に…。震えていますね。身体を冷やして風邪を引いてしまったら大変です。しばらくお湯は出したままにしておきましょう。」


いけしゃあしゃあと言いながら、ユリウスはシャワーヘッドを壁にかけた。
私たちの身長よりも高い位置にあるシャワーヘッドから絶え間なく温水が降り注ぐ。その雫を受け続けたワンピースは、ぐっしょりと濡れ、若草色から深緑へと色を変えていった。

素敵な色だったのにとショックを受けていると、ふと鏡越しのユリウスと目が合った。呆然としている私に、彼はふっと笑ってみせる。その顔は、今まで見せたことのないような不遜な笑みで、息を呑むほどに美しく、ゾッとするとほど恐ろしかった。


「水も滴るなんとやら…。綺麗ですよ、姉上。」


鏡に映る私は、全身びしょ濡れでお世辞にも綺麗とは言えなかった。それなのに、こんな濡れ鼠となった私を見て綺麗と言うだなんて……嫌味でしかない。


「現実の貴女は残酷ですね。会いに来る度に余計なものを付けてきて……あぁ、わざとですか?」


彼は一体何を言っているのだろう。
こんな状況で、変な言いがかりはやめて欲しかった。
黙り込んでいる私の態度が気に入らなかったのか、ユリウスは不快そうに眉をひそめた。


「…まぁ、別にいいです。綺麗にすれば済む話ですから。」


背後から漂う不穏な空気に、全身ぞわりと悪寒が走る。
咄嗟に逃げようとして、身体を捩らせるが、強い力で右腕を掴まれ、正面から鏡に押し付けられた。
頬に冷たい鏡の感触があたる。


「―ふぐっ、」


前には鏡、背後にはユリウス。たった一瞬の間で、彼と鏡の間に挟まれる形となってしまった。
混乱する頭で何とか逃れようと鏡に両手をつき、覆い被さる身体を押し返そうとした。が、彼の身体はピクリとも動かない。
身長は大して変わらないはずなのに、圧倒的な力の差に愕然とした。

どう足掻いても彼から逃れられない状況に、焦りが募る。早く、早く逃げなければ…!このままでは殺されてしまう!!

恐怖に慄いている私の耳に、背中からプツプツと何かが外れる音が聞こえてきた。


「300年前と比べれば、だいぶ簡略化されましたが…どうして女性の服は、こうも複雑怪奇なんでしょうね。」
「なっ、」


背中にあるワンピースのボタンを、ユリウスは迷いない手つきで外していく。それによって緩くなった胸元を慌てて押さえた私は、堪らずに声を上げた。


「あ、アルベルト様っ!やめてください…!」
「やめて?ふふ、おかしなことを言いますね。貴女は、いつも服を着たまま身を清めているのですか?」


愉しそうにクスクスと笑うユリウスは、見当違いのことを言ってのける。分かってて言っているのだろう。そんな彼に、私は言葉を失った。

ボタンを全て外し終えたユリウスは、今度はコルセットに手をかける。そして、私の耳元でそっと囁いた。


「安心してください。弟である僕が、責任をもって綺麗に洗って差し上げますから。勿論、隅々まで。」


まるで死刑宣告を受けた罪人のように、私の心は絶望に染まった。それと同時に、この期に及んで、まだ姉弟ごっこ続けようとするユリウスの神経が信じられなかった。
私は身を捩り、必死に抵抗する。


「い、いやっ、離して…!」
「姉上、暴れないで下さい。」
「私を姉と呼ばないで…!!」
「…。」


抵抗をやめない私に嫌気がさしたのか、ユリウスは呆れたかのように溜息をつき、またもや見当違いのことを言ってきた。


「…なるほど。上から脱ぐのが嫌なんですね。では、下から脱いでいきましょうか。」
「え…ひっ、」


ユリウスは躊躇なくスカートをたくし上げてきた。視界に、白いストッキングで覆われた自身の脚が現れ、私は喉から引き攣った悲鳴を上げる。異性にスカートを捲られるだなんて、生まれて初めてだ。
昔から、足を見せることははしたないと言われてきた。それが、こうして自分以外の者の前に晒しているという現実に、くらりと目眩がした。

そんな私のことなどお構い無しに、ユリウスのしなやかな手は大腿部に伸びる。指先で、曲線をつぅーとなぞられ、ぞわりと肌が粟立った。そして、その指は大腿部の真ん中でピタリと止まった。


「抱き締めた時、違和感があるなと思っていましたが……こんなものを隠していたのですね。」
「っあ、」


ユリウスの手が、レッグホルダーに収納されているナイフの柄の部分を撫でる。情けないことに、私はこの時になってナイフの存在を思い出した。


「これで僕の寝首を搔くつもりだったのですか?ふふ、なかなか大胆なことを考えますね。……貴女らしくない。一体誰の入れ知恵でしょう。」


ユリウスの声が極端に低くなった―――次の瞬間、布を切り裂く音が耳朶を打った。

ユリウスが、レッグホルダーから抜いたナイフで、頑丈なコルセットを切り裂いたのだ。
彼の紳士とは思えぬ過激な行動は、一瞬にして私を凍りつかせた。
あと数センチ、ナイフの刃が前に来ていたら私の背中は……

胴を戒めていた下着が外れ、すっと呼吸がしやすくなる。だが、生きた心地はしなかった。


「これで脱がせやすくなりました。さ、姉上。手を退けてください。」


カタカタと震えながら自身の身体を抱き締めるようにして胸元を押さえている私は、力なく首を横に振る。この手を下ろしてしまえば、上半身があらわになってしまう。
彼は、私を辱めてから殺すつもりなのだろうか。


「…姉上。」


ビクリと肩が跳ねる。
その声は、まるで言うことを聞かない子供を窘めるような優しい声音だった。だがそれは、この場では酷く異質で、より一層身体が震え上がった。

助けを求めようとしても目の前にあるのは、鏡に映った酷く怯える自身の情けない姿だけ。


「…やめて欲しいですか?」
「―!」


真っ暗闇の絶望の世界に、一筋の光が差し込んだ。
藁にもすがる思いで、私はコクコクと頷く。すると、背後にいるユリウスが小さく笑った。


「そうですか…。」


今まで私を鏡に押し付けていた身体が、そっと離れる。
開放感からくる安堵感なのか、膝から力がかくんと抜け、今も尚濡れ続けるタイルの上にペタンとへたりこんでしまった。


「姉上。本当にやめて欲しいのでしたら、ちゃんとをお願いして下さい。昔、そう教えたでしょう?」


私の後ろにしゃがみ込んだユリウスは、鏡越しに優しく促す。言われてみれば、幼い頃に、そんなことを彼から言われたような気がする。

頭上から降り注ぐ雫を浴びる彼は、とても扇情的にみえた。


「それとも、続きをします?」


彼の指が、むき出しになっている私の肩甲骨をなぞる。その不穏な動きに、喉から引き攣った悲鳴が上がる。
私は、胸元を押さえている手にぎゅっと力を入れ、震える唇を開いた。


「…ぉ…お願い、します。…もう…許して、下さい。」


プライドを殴り捨てた私は、鏡に映るユリウスに向かって許しを乞う。すると、彼は笑った。誰もが見惚れる天使のような微笑みで。その笑みに、ふんわりと私の胸に安堵感が広がった。


「嫌です。」


その残酷な答えに、目の前が真っ暗になった。
彼は天使ではなく、私を絶望の海に突き落とす、悪魔だったのだ。







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