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第6章「不完全な羽化」
94話
しおりを挟むここは、俗世を離れた深い海の底。私は二枚貝となり、閉ざされた世界で静かに眠っている。
「―――ベータ」
誰かが私の名を呼んだ気がした。
貝の隙間から、ブクッと気泡が零れる。
「エリザベータ。」
今度ははっきりと聞こえた。
その声に引っ張られるかのように、私の身体は上に登っていく。
そして、バサッと勢いよく水面から顔を出したのと同時に、私の意識は緩やかな微睡みから覚めた。
「おはよう、エリザベータ。」
寝惚け眼のぼんやりとした視界に、薄く笑っているエメラルドの瞳の少女が映り込む。彼女の後ろには雲一つない満天の星空が広がっていた。
むくりと上体を起こすと甘い林檎のような香りが、ふんわりと鼻腔を掠める。その香りに誘われるかのように顔を上げれば、真っ白な花々が辺り一面に咲き乱れていた。
―――そう、カモミールだ。
月夜に照らされたカモミールは雪原のごとく、白く、蒼く、淡い光を放っている。そのカモミール畑に終わりは見えない。果てしなく、何処までも続いているように思えた。
この光景を見た私は直ぐに、自分が夢の中にいることに気付く。
目が覚めると忘れてしまう不思議な夢。
全体をぐるりと見渡した私は視線を少女に移し、ギクリと身体を強ばらせた。何故なら、少女は赤い鎖で繋がれていたから。
腰まで伸びている真っ直ぐなプラチナブロンドの髪に、真っ白なドレスを身に纏っている少女には、陰鬱な赤色が不気味に映える。
首には真っ赤な首輪を、両足首には真っ赤な足枷を。その鎖は地面に繋がっていた。
だが、少女は鎖を気にする素振りもなく、私の傍らでカモミールを摘み取り、その茎を器用に編み込みながら、鼻歌交じりで花冠を作っていた。その姿は、まるで無邪気に花遊び興じる幼い子供のよう。
それがより一層、彼女の異質さを際立たせていた。
「いつもみたいに、何をしているのって聞かないの?」
少女は手元を見ながら、突然私に話しかけてきた。
「聞かないわ。だって、見ればわかるもの。花冠を作っているのでしょう?」
少女の手にある、長く連なったカモミールを輪っかにすれば、立派な花冠の完成だ。それは誰の目から見ても明らかである。
だが、少女は鼻で笑った。
「貴女は、またそうやって…。思い込みで決めつけるのは良くないわ。」
人を小馬鹿にするような態度に、少しムッとした私は、ついついむっつりとした声を出してしまう。
「じゃあ、何を作っているの?」
「花冠よ。」
「…やっぱりそうじゃない。」
私はからかわれているのだろうか。それが顔に出てしまったのだろう。私の顔を見て可笑しそうにクスクスと笑う少女に、怒る気力は失せてしまった。
「えぇ、そうね。結果は同じだけど、その答えを知る過程が大切なのよ。」
「過程?」
「えぇ。思い込みだけじゃ、大切なものは見えてこないわ。」
手元から顔を上げ、私をじっと見つめてくる少女。少女の視線に、何故か居心地の悪さを覚えた私は思わず視線を逸らす。それを見た少女は「そうやって貴女は目を背けるのね。」と言って、心底失望したように息を吐いた。
少女は私に対して、基本辛烈だ。それは、少女がこの場所に囚われていることと何か関係があるのだろうか。
「…そんな貴女の気持ちなんてお構い無しに、それぞれの歯車が回り始めているのよ。」
この少女は突然何を言い出すのだと、首を傾げる。そんな私に構うことなく、少女は語り続けた。
「でもね、1人で回っていても空回りするだけで、なんの意味も無いわ。歯車同士の歯と歯が噛み合って、初めて世界が動き出すの。」
正直、少女が何を言っているのか理解できなかった。世界を動かすだなんて、いくらなんでも規模が大きすぎる。
頭にハテナマークを浮かべて首を捻っていると、少女の鋭い視線が突き刺さった。
「よく聞いて、エリザベータ。貴女は、周りの歯車と比べると小さくて、今にも壊れてしまいそうなほどに脆いわ。そんな歯車なんて、世界にあっても無くても構わない、ちっぽけな存在だとは思わない?そうとは知らずに貴女は、誰とも噛み合おうとはせずに1人でクルクルと回っているの。その姿が、あまりにも滑稽すぎて見ているこっちがイライラするのよ。」
早口で一気に捲し立てた少女は、募る苛立ちを落ち着かせようと深く息を吐く。
わかりやすく苛立っている人間に対して、どう口を挟めば良いのだろう。私の陳腐の脳みそでは火に油を注ぐような言葉しか浮かばない。結局、私は口を噤むことしかできなかった。
少女は何度か鼻で呼吸した後、ゆっくりと口を開いた。
「…どうしようもない貴女だけど、それぞれの歯車と噛み合うことが出来るのは、貴女しか居ないのよ。」
真っ直ぐに私を見つめるその瞳から、今度は目を背けることが出来なかった。
私を責めるような、縋るような、貶すような…そんな様々な感情が入り交じった瞳。その瞳は私の呼吸を抑制した。
しばらく見つめ合っていると、ふいに少女は目線を下に落とす。釣られて私も視線を落とすと、少女の手には完成した花冠が握られていた。それを見た私は思わず息を呑む。何故なら、真っ白なたカモミールがいつの間にか、陰鬱な赤色に染まっていたから。
「世界が前進するか、それとも後退してしまうのかは、貴女次第。」
そう言いながら少女は赤い花冠を何の躊躇もなく、私の頭の上に乗せてきた。それと同時に後頭部に、ずっしりとした重みを感じる。まるで生暖かい水を含んで、ぐっしょりと濡れた雑巾を頭に乗せられたような感覚。その不快な感触に全身に鳥肌が立った。
「重い?それは世界の重さよ。貴女が殺した世界の重さ。」
花冠から滴る生暖かい液体は私の頭を濡らし、頬を伝う。ポタリ、ポタリと手の甲に落ちてきた雫は、やはり赤かった。
「この世界は愛を知って、初めて産声を上げたの。」
少女は私に手を伸ばし、頬を伝う液体を自身の親指で拭う。
「愛って不思議よね。奇跡を産む愛もあれば、憎しみを産む愛もある。まるで魔法…というよりも呪いと言った方がいいかしら。」
拭ったことにより親指に付着した液体を、少女は流れるように私の唇に何度か往復させるようにして塗り込む。すると、私の唇は紅をさしたかのように赤く染った。
唇の隙間から液体が入り込み、口腔内にじんわりと鉄の味が広がる。その鉄の中から、微かに甘い香りを感じ取れた。
「その愛が歪んでいればいるほど、奇跡のような呪いが産まれるのよ。」
そう言って少女は花のように笑った。
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