私は貴方を許さない

白湯子

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第5章「正義の履き違え」

88話

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突然、私の首筋に激痛が走った。


「―っ!?」


首筋の薄い皮膚に、彼の歯が深く食い込む。
彼に噛まれていると遅れて気付いた私は、驚愕に見開いた。


「い、痛い…!…いや、離して…っ、」


人に噛まれるだなんて、人生で初めてだ。
引き離そうと空いている右手で彼の肩を押すも、ビクともしない。それどころか、彼は更に噛み付く力を強くしていった。


「…っっ、離し…うぅっ…、痛い…!痛いよ…」


食い千切られてしまいそうな痛みに、涙が零れた。痛みと噛み殺される恐怖に、無力な私はただただ震えることしかできない。


「…離し……た、たす……たすけて……っ…」


誰に言うわけでもなく、早くこの痛みから逃れたい私は必死に助けを求める。すると、彼が醸し出す雰囲気が明らかに変わった。

彼は痛みを刻み込むようにして、首筋からゆっくりと歯を離す。


「…あ…、」


痛みを緩和させようと、本能的に深い呼吸を繰り返す。じくり、じくりと疼痛を訴える首筋には、彼の歯型と血が滲んでいるに違いない。

涙の膜のせいでボヤけた視界に彼の顔が映り込んだ。


「誰です?」
「…え?」
「誰に、助けを求めたのです?」


―誰にって……。


別に特定の誰かに助けを求めたつもりはない。だが、目の前にいる彼に求めていないのは確かだ。

深い呼吸を繰り返すだけで、何も話さない私に、彼の唇が忌々しげに歪む。


「…貴女は昔からそうだ。」


どろりとしたものが不穏げに渦巻いているシトリンの瞳に、ぞくりと背筋に悪寒が走った。


「いつだって貴女は、僕の気持ちを逆撫でする。」


そう吐き捨てるように言った彼は、再び私の首元に顔を寄せ、今度は喉仏に歯を立てた。


「ひっ…」


また噛み付かれると思った私は、情けない悲鳴を上げた。恐怖に支配されてしまった私の心は、もう虚勢を張ることすらできない。

だが、先程のような激痛は襲ってこなかった。彼は軽く喉仏を甘噛みし、掠れた吐息を吐く。その吐息が私の首にかかり、得体の知れない感覚に身体が震えた。


「…貴女の肌は林檎のように甘いですね。まるで禁断の果実のようだ。1度知ってしまえば、どんどん欲しくなる。……こうして人間は浅ましくなっていくのでしょうね。」


彼はゆっくりと顔を上げ、その瞳に私を映した。お互いの視線が絡み合う。言葉を発することなく、じっと見つめ合っていると、彼はふいに自虐的な笑みを浮かべた。


「さ。彼の元へ行きたいのでしたら、どうぞ自由に。」
「え、」


今まで私の身体を拘束していた腕を、彼は下に下ろした。圧迫感が消えた身体は軽くなる。
あれほど離してと訴えても、離してくれなかったというのに…。一体どういう心境の変化なのだろう。
その不可解な言動に戸惑っていると、彼は小さく笑った。


「何を戸惑っているのです?元々、僕ではなく彼に会いに来たのでしょう?僕から見ればただの雑草ですが、一応青の魔力を持つ男です。今は彼の傍に居た方が安全でしょう。」
「何を…」
「あぁ、彼が今何処にいるのか分からないのですね。そうですねぇ…、きっと今の時間帯でしたら、貴女とよく過ごしていた魔力保持者棟の二階にある執務室に居るでしょう。ここは中庭ですから、そこにある渡り廊下を使えば直ぐに会えますよ。」
「…。」


少し待って欲しい。彼の言葉が理解できない。
彼は何を言っている?この人が言う彼とは…?もしかして、殿下のことを言っているの?もし殿下のことを言っているとして、どうして私を殿下の所へ向かわせようとしているの?

私が、邪魔なの?

私の存在が、煩わしいの?

だから、そうやって私を追いやるの?

まって、私が会いたかったのは…


「……。」


私の心に、どろりとした黒い液体が広がる。


―あぁ、そうだ。彼はいつだって私に素っ気なかった。


冷たくて、口もろくにきいてくれないで、会う度に不愉快そうに顔を歪めて、暴力もふるって、拒絶して……

そんなにも、私のことが…


「ほら、そんな格好でここに居たら風邪を引きますよ。自分で行けないのでしたら、僕の魔法で――っ、」


正直、彼の言葉なんか耳に入っていない。
私は、彼の肩を掴み思いっきりその場に押し倒した。その勢いで雪の結晶がふわっと舞い上がり、私たちを冷たく包み込む。

自分の身に何が起きたのか理解できない様子の彼は、目を見開いたまま呆然と私を見上げている。その表情がとても間抜けに見えた。


「…あね、…うえ?」


彼の瞳に、無表情な私の顔が映り込む。300年前、彼はその瞳に私を映してはくれなかった。目が合ったことなんて、ほとんどない。私を視界に入れたくなかったのだろう。
彼は、1度も私を見てはくれなかった。彼が見ていたのは聖女マリー、ただ1人。そして、今も彼が追い求めているのは聖女の存在だ。

そんな貴方が、私は――


「大っ嫌い。」


ハッキリと毒を吐いた私は、躊躇なく彼の首筋に噛み付いた。


「―っ、あぁ…っ…」


妙に艶っぽい声を上げた彼に構うことなく、私は顎に力を込めた。今はただただ彼を傷付けたい。


「あ、姉上、こんなところで…駄目です。…離して…ください…」


そう言って貴方は離してくれなかったくせに、自分のことになると離して欲しいと言う。なんて、身勝手な男なのだろう!そんな男の言うことなんて聞くつもりは無い。

私は貴方を許さない。
絶対に、許さない。

口の中に鉄の味が滲んできた頃、私の顎が限界を迎えた。これ以上噛み続けるのは難しいことを悟った私は、彼の首筋からゆっくりと口を離す。そこには、くっきりと赤く残った私の歯型に血が滲んでいた。私はそれをじっと見つめる。ただ搾取され続けていた私が、彼に初めてつけた傷だ。その痛々しい歯型に仄暗い愉悦を覚えた。


「…姉上。」
「姉上だなんて、呼ばないで。」
「…。」


首筋から彼の瞳に視線を向ける。彼の瞳は涙に潤んでおり、少し目尻が朱色に染まっていた。余程、痛かったのだろう。いい気味だ。

私は彼の上から立ち退き、雪面に倒れたままの彼を冷たい目で見下ろした。


「何でもご自分の思い通りになると思わないで下さい。」
「…。」


惚けたままの彼に構わず、私は歩き出した。

辺りを見渡せば、雪を被っていて気付けなかったが、学校の中庭で間違いないようだ。

制服を着ていない私が学校を彷徨いているのは、非常によろしくない。早く殿下に会って、皇宮に帰らなければ。

幸いにも、周りに人の姿は見られない。まぁ、こんな雪の日に中庭に居るような酔狂な人は居ないだろう。…いや、1人居たか。彼が中庭で何をしていたのか、そんなことはどうでもいい。

私は殿下居るであろう、執務室へと足を進めた。







先を急ぐ私には、彼とのやり取りを二階の窓から見つめていたカトリナと視線に気付くことはなかった。
























《おまけ》

『暇を持て余したテオ様と聖女の会話』

テオ様「おい、クソ聖女(耳ほじりながら)」

聖女様「はい、なんでしょう(聖女スマイル)」

テオ様「知ってっか?女のバストの大きさには隠語があるんだぜ。BはBeautiful、CはCute、DはDelicious、EはExcellent、FはFantastic、GはGreatみたいにな」

聖女様「へぇ。では、Aカップは?」

テオ様「Accident」

聖女様「…え?」

テオ様「アクシデント」

聖女様「…。」

次の日、テオ様は何故かお腹を下しました。


《次の日》

聖女様「エリザベータ様!!こんにちは!!」

エリザ「こんにちは」

聖女様「あ、エリザベータ様は知っていますか?女性のお胸には隠語があるんですって」

エリザ「へぇ。知らなかったです」

聖女様「私も昨日まで知らなくて…。じゃあ、エリザベータ様にクイズです。Aカップの隠語はなんでしょーか」

エリザ「そうですね…。A、A…。あ、Angelでしょうか」

聖女様「…え?」

エリザ「エンジェルです。あ、違いましたか?…すみません。私、昔からクイズが苦手でして…」

聖女様「一生ついていきます。」

エリザ「???」


みんな違って、みんないい。


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