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第5章「正義の履き違え」
87話
しおりを挟む視界が揺れる、世界が揺れる。
この慣れ親しんだ感覚に「あぁ、転移魔法だ。」と思ったのと同時に世界が反転して、私の身体は宙に投げ出されてた。
嫌な浮遊感と内蔵が迫り上がるような感覚に目を見開くと、雪の結晶が舞い落ちる曇天の空が、視界いっぱいに広がっていた。
無意識に何かに掴まろうと空に手を伸ばすも、私の指は虚しく宙を切っただけ。
それから妙にゆっくりと頭が下にさがり、私の身体は激しい風を受けながら、真っ逆さまに下に向かって落ちて行った。
訳も分からず今まで発したことのないような悲鳴をあげ、ぐんぐんと近づいてくる雪面の気配にと共に、自分が死に向かっていく恐怖にギュッ目を瞑った。
自分の身体が地上に打ち付ける瞬前、身体が不思議な浮遊感に包まれる。
それは、たぶん〇・一秒にも満たない短い時間だったかもしれない。だが、その刹那に、白い花が脳裏に浮かんだ。それは…
―カモミール?
その直後、私の身体は妙に弾力のある雪面に叩きつけられた。
「―っっ、」
あまりにも強い衝撃に一瞬息が止まる。だが、想像していたよりも痛みはない。
―…助かったの?
恐る恐る目を開ければ、自分が突っ伏しているのは雪面ではないことに気付いた。雪はこんなにも温かくはない。
―――この温かさは人間のものだ。
「う、」
自分の身体の下から男性の呻き声が聞こえてきた。その声にはっとした私は顔面蒼白になりながら慌てて上体を起こす。
「す、すみません…!お怪我は…」
「―ありませんか?」と言おうとして、そのまま固まった。
自分の身体の下に居る秀麗な顔を見た瞬間、心臓が止まる。
呼吸が止まる。
時間が止まる。
世界が、止まる。
―――そこに居たのは、義弟だった。
「どうして貴女が空から…、」
雪面に仰向けになり、驚愕に目を見開いている義弟は、惚けたように口を開いて私を見上げていた。
―どうして貴女が空から…ですって?
ふいに、彼はそのしなやかな指をこちらに伸ばしてきた。
「…上手く受け止められなくて、すみません。お怪我はありませんか?」
ひんやりとした彼の指が頬に触れた瞬間、我に返った私は彼の手を叩き落とした。
「―っ、触らないで…!」
唸るように拒絶の言葉を吐けば、彼は傷付いたようにシトリンの瞳を揺らす。
まるで、自分は被害者ですと言わんばかりの彼の態度に、心が苛立つのを感じた。
「ご自分で私を転移したくせに、白々しい演技をしないで下さい。」
「…転移?僕が?」
なんのことだか、さっぱり分からないというように首を傾げる彼に、かっと憤怒が込み上げた。
「しらばっくれないで!私、知っているのですよ。貴方が私に血を飲ませていたことを…!その血を使って私に転移魔法をかけたのでしょう!?」
殿下は言っていた。〝青の魔力〟を使えば、私の意志を遠くから操ることも、殺すことも可能だと。ならば、こうして私を呼びつけることも可能だ。
彼は何やら考え込んだ後、すっと双眸を眇めた。
「姉上、それは不可能です。」
感情をなくした冷たいシトリンの瞳に、背筋にゾクリとしたものが駆け抜けた。
その瞳にいち早く危険を察知した脳が、彼から逃げろと命令を下す。私はその命令に従い、彼の上から立ち退こうと足に力を入れようとするが、それよりも先に彼の腕が私の腰を固定してしまった。
「は、離して…!」
身体を捻り、なんとか彼の腕の中から逃れようと藻掻く。それを冷めた目で見ていた彼は、無情にも上体を起こし身体を密着させてきた。腰だけでなく、身体までも捕らえられてしまったら、男である義弟を前に女である私は身動きなんて取れない。
吐息が絡まりそうな距離で顔を覗き込まれ、くらりと目眩がした。
「あの騎士気取りの雑草から聞いていると思いますが、皇宮には如何なる魔法も通用しない強固な結界が張られています。僕の魔法も例に漏れず通用しません。」
…騎士気取りの雑草とは、一体誰のことを言っているのだろう。まさか、殿下のこと?皇太子に向かって、なんて辛烈な…。それを咎めようとしたが、彼の鋭利な瞳に貫かれ、蛇に睨まれた蛙のように竦み上がってしまった。
300年前、私はこの人に殺されているのだ。魂に刻み込まれた彼に対する恐怖心は想像を遥かに超えるものだった。彼の存在は、こんなにも私の心を掻き乱す。
つい先程まで皇宮に居た冷静な自分が、まるで嘘のよう。
彼に対する恐怖心なのか、それとも怒りなのか、足が微かに震え出す。だが彼だけには、それを悟られてはならない。一瞬でも隙を見せれば喰い殺されてしまう。
ギリッと奥歯を噛み締め、体の震えを押さえ込み、再び彼を睨みつけた。
そうでもして自分を奮い立たせていなければ、みっともない悲鳴をあげてしまいそうだったから。
「その結界の中にいる私が現に、こうしてアルベルト様の元に転移されています。どう考えても貴方の仕業でしょう。何らかの方法で私を転移したに違いありません…!」
彼はかつては、このノルデン帝国の皇帝陛下だった男だ。きっと、結界を無効にさせる方法ぐらい心得ているはず。
だが、私の想像とはうらはらに彼は呆れたように溜息をついた。
「そんな方法があるのでしたら、とっくの昔に貴女を僕の元へ連れ戻していますよ。」
ふいに彼の唇が皮肉な形に歪んだ。その見慣れない表情に思わず息を呑む。
義弟が私に対してこんな表情をするのは初めてだ。…いや、これが彼の本性なのだろう。アルベルト様である彼が、今まで被っていた優しい義弟の仮面を被る必要はもうない。文字通り、化けの皮が剥がれたのだ。
私が愛した義弟はもう、どこにも居ない。
「まぁ…、何故貴女が僕の元に転移されたのか。だいたいの予想はつきますけどね。」
独り言のようにポツリと呟いた言葉は、残念ながら私の耳に入ってこなかった。
「…それよりも、」
突然、彼の声音が低くなる。その声にふるりと肩が震えた。
「なんですか、この下品なドレスは。」
「…は?」
彼の口から飛び出した失礼極まりない言葉に、ピシリと固まる。だが、そんな私なんてお構い無しに彼は話し続けた。
「こんな男に媚を売るようなドレスを着て、どうするつもりだったのです?」
「…なっ、」
今、私が着ているドレスは皇宮の侍女達が選んでくれたドレスだ。決して下品なものではない。
デコルテを綺麗に見せてくれるオフショルダーに、羽織物のせいで残念ながら見えないが背中が編上げになっているAラインの上品なデザインのドレスだ。侍女達言わく、今貴族の娘の中で今流行っているらしい。
しかも、くるっと回れば淡い青のグラデーションのスカートの裾がオーロラのように広がるのだ。それが楽しくて、1人でクルクルと回っていたのは、誰にも秘密。
これのどこが、下品なのだ!!
私だけでなく、このドレスを選んでくれた侍女達をも侮辱されたのだと解釈した私の目尻に、憤怒の朱が走る。それを見た彼は皮肉げに笑った。
「如何にも、あの雑草が好みそうなドレスですね。…あぁ、なるほど。彼の好みに合わせたのか。なんて健気な姉上。身体だけでなく、心も許してしまったのですか?」
「何を言って…、」
くつくつと笑う彼は、私の鎖骨を撫でるようにして、肩にかかっていた栗色の髪を背中に流した。それによって、左側の首筋が露わになる。突然外気に晒された首筋には、ひやりと鳥肌が立った。
「その上、こんなものを付けたまま僕に会いに来るのですから…。」
じっと彼の視線が私の首筋に注がれる。何かできものでも出来ているのだろうか。今朝、鏡で見た時には何も無かったはずなのだが…。
気になって首筋に手を伸ばす。
が、左手が首筋に触れる前に、ガシッと手首を掴まれてしまった。それに驚いた私は目を見開くと、ギラつくシトリンの瞳と目がった。その獲物を狙う猛禽類のような瞳に睨み据えられ、頭の中にけたたましい警報が鳴り響く。
―ハヤク、ニゲナイト、コロサレル
「残酷な人。」
切なげに呟いた彼は躊躇なく、私の首筋に噛み付いてきた。
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