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第5章「正義の履き違え」
81話
しおりを挟む「やめてと言っているでしょうっ!!この狼藉者っ!!!」
「ゴフォッ」
私はありったけの力をこめて殿下の股間を蹴り上げた。 殿下は低い呻き声とともに、その場でうずくまる。
痛みに悶絶している彼の下から這い出て距離をとった私は、震える手で無惨な姿となってしまった制服の袷を搔き合わせ、胸元を隠した。
「…え、エリザちゃん、そこは駄目だよ、エリザちゃん…」
蚊の鳴くような弱々しい声を出しながらうずくまっている彼に私は、まるで毛を逆立てる猫のように低い唸り声を上げながら鋭く睨みつけた。
「黙りなさいっ、痴れ者!!やめてと言ったのに、やめてくれなかった貴方のせいでしょう!!」
「男はな、1度走り出したら急には止まれない生き物なんだよ。」
「何を意味のわからないことを…!」
殿下に対する激しい憤りが頭の中で渦を巻き、身体がワナワナと震える。
「つーか、根っからお嬢様育ちのお前が、なんで男の急所なんかを知ってんだよ…。」
「昔、父から変質者の対処法だと習いました。まさか、こんな所で役に立つとは思いもしませんでしたよ。」
「あんの、たぬきジジィ…。俺の聖剣と宝玉が不能になっちまったら、どう責任とるつもりだ…。」
「責任もなにも、私のしたことは正当防衛です。こちらの意思を反して無理やり行為に及ぼうとするだなんて…一体何を考えているのですか!これは立派な犯罪、婦女暴行未遂ですよ!?ご自分が如何に愚かなことをしようとしていたのか、わかっているのですかっ!?」
「…。」
吠えるように声を荒らげ、彼に全ての感情をぶちまけた。こんなにも大声を出したのは、いつぶりだろう。
荒い呼吸をを繰り返し、奥歯をギリッと噛み締めた。だって、
「これ以上、私を失望させないでください。」
だって、そうしないと涙が溢れてしまいそうだったから。
私と殿下の間に重い沈黙が訪れる。
その沈黙に、殿下がポツリと呟きを落とした。
「…んで…」
「…え?」
「なんでだよ。クソベルトに襲われている時も、そうやって蹴ってやればよかったじゃん。」
「…。」
「なんで。」
何でと言われても、あの人の時も今回も無我夢中だったのだ。頭で考えてから行動していたわけではない。だから、何でと言われても返答に困る。そこには、答えなんて存在しない、はずだ。
「本当、ムカつく。」
「…。」
黙り込んでしまっていると、殿下はうつむいた体勢のまま、こちらに手を伸ばしてきた。だが、その手はあと一歩で届かない。彼は、何かを探すように上下左右に右手を動かしていたが、諦めたかのように手を止めた。
「お前、何処にいんの?」
「目の前に居ますよ。…距離はとっていますけど。」
「ふぅん、こっち来い。」
「嫌ですっ!!」
自身の身体を抱き締め、悲鳴にも似た声を上げた。
先程まで、私を手篭めにしようとしていた男の所なんかに行くわけがないだろう!!
「即答かよ。…安心しろ。今の俺にはお前を襲う元気も力もねーから。」
「信じられません。」
「頼むよ。寂しくて、死にそうなんだ。」
「…。」
一体どのような顔をして言っているのだろうか。彼はうずくまっているままなので、その表情を確認することはできない。
だが、今にも泣き出してしまいそうな、震えた声だった。
「寂しくて死ぬだなんて…兎ですか、貴方は。」
「兎?俺が兎だったら、お前はこっちに来てくれるのか?」
「何を言って…」
私が言い終わる前に、突然、殿下の身体が青い光に包まれる。あっと驚く間にも、彼の身体がみるみる小さくなり、ものの数秒で彼は雪のように真っ白な兎へと姿を変えた。その兎は先程の殿下と同様に顔を伏せ、うずくまっている。
…何と、可愛らしい姿なのだろうか。
目の前で起こった光景に、はしたなくポカンと口を開け、唖然とする。
「ほら、兎になったぞ。」
「…。」
口を開けば、殿下の声だった。この可愛らしい姿に殿下の声なのは、違和感を否めない。だが、ふわふわの毛並みが私を誘惑する。
「…ずるいわ。」
呆気なく誘惑に負けた私は、膝立ちでその兎に近付き、ふわふわの頭に手を伸ばす。柔らかく、優しい温もりが手のひらに伝わってきた、その瞬間―――
―――殿下は元の姿に戻ってしまった。
殿下は私の膝に倒れ込み、私はその重みでペタンとベッドの上に座り込んだ。
「―っ!騙したのですね!?」
私の膝に顔を埋めている殿下を引き剥がそうと肩を掴むが、どれだけ力を入れてもびくともしない。
「騙してねーよ。単純に魔力切れだ。」
「…魔力切れ?」
聞き慣れない言葉に、思わずオウム返しをする。彼は顔を伏せたまま話し始めた。
「そ、魔力切れ。魔力は血、血は魔力。俺たち魔力保持者の血液には魔力の粒子が流れている。だが、魔力ってのは無限じゃない。使えば使うほど、その粒子がどんどん減っちまうんだ。そんで、使い過ぎれば貧血症状が出る。ま、寝ればある程度は回復するけどな。」
「…知りませんでした。」
「そりゃあ、そうだ。これは魔力保持者の弱点だ。わざわざ、弱点を晒すわけないだろ?」
では、なぜ私にその弱点を教えてしまったのですか?なんて、無粋なことを聞くのはやめた。
「今の俺は、魔力切れな上に、お前に虐げられてたおかげで下半身に大打撃を受けている。よって、誰よりも人畜無害。だから安心しろ。」
「…。」
私は殿下の肩から、手を下ろす。確かに、私を再び襲ってくるような不埒な気配は彼から感じられなかった。
「…酷い事をして、悪かった。」
「許しません。」
「そう言うなよ。俺を挑発したお前も悪いんだぜ?あんな風に相手を逆上させる言い方じゃあ、いつか痛い目を見るぞ。」
「もう、みてます。」
つい先程、と付け加えると、彼はくつくつと笑った。
「確かにな。」
そう言うと殿下は、あろうことか、私のお腹に顔を埋めてきた。
「―っ!?お、おやめ下さい!」
咄嗟に引き剥がそうとするが、彼の両腕が私の腰にまわっており、がっちりと固定されてしまっていた。私の力だけでは、どうすることもできない。
誰かの顔がお腹にあるだなんて、今まで経験したことの無い状況に、嫌な汗をかく。
私のあからさまな拒否反応に、殿下は不貞腐れた声を出した。
「んだよ、アイツにはさせてたじゃん。」
「それは、」
アイツ…義弟のことを言っているのだろう。義弟は家族だ。家族として当たり前の触れ合いだが、相手が殿下となると話しは大きく変わってくる。
そして、彼がアルベルト様だとわかった今、今までの行動を振り返って、自身の息の根をとめたくなった。
そんな私の心情を知ってか知らずか、殿下は私のお腹に擦り付き、息を吐いた。
「お前は、あったかいな。」
「…?普通だと思いますけど。」
「そうなのか?俺、そういうのよくわかんねーから、お前が特別温かいのかと思った。」
「…よく、わからない?」
一体、どういう意味なのだろうか。
「前に、物心つく前からモニカの記憶があるって、言ったことがあったよな?」
「え?えぇ、覚えています。」
「その頃の俺は、本当に酷くてさ。モニカの記憶と現実がごっちゃごちゃになって、毎日癇癪を起こしてた。」
「…っ」
思わず、息を呑む。
彼はそのまま語り続けた。
「混乱して暴れて、支離滅裂なことばかり話す俺を、周りの奴らは腫れ物扱い。実の親も気味悪がってよ、こんな風に誰かに抱きついた記憶もない。…今思えば、確かに不気味なガキだったな。」
自傷気味に笑う彼に、かける言葉が見つからない。
「けどな、俺は俺で毎日必死だった。その意味わかんねー記憶の中のお前を、絵本に出てくるヒーローみたいに助けたいと、本気で思ってたんだ。…まぁ、本当はお前を見つけ出して、周りの奴らに俺を肯定させるつもりだったんだけどな。…お前が居れば、俺が今まで言ってきたことは嘘じゃなくなるだろ?」
無垢で幼い子供の中に、別の誰かの記憶があるだなんて普通は思わないだろう。所詮は子供の言うことだと言って相手にしない大人が大半だ。
私の場合。前世の記憶が蘇った時は、確かに混乱したが、その記憶は私の記憶だという認識はちゃんとあった。それにあの時は義弟も居た。例えあの慰めの言葉が嘘だったとしても、私を支えてくれたのは間違いなく義弟だった。
だが、殿下の時は?
彼は300年前と何も関係が無いのだ。
その上、夢か現実なのかも区別がつかなような幼い頃の彼の中に、モニカの記憶があっただなんて……恐怖以外の何物でもない。
彼は、その恐怖の記憶を、たった1人で耐えていたのだ。
「俺に自我が出てきた頃、やっとモニカっていう人間の記憶だということがわかった。それからは、すっげー楽になったよ。突然モニカの記憶がフラッシュバックしても、昔のことだ、って割り切れたから。それに、アルベルトを憎むようになってから、自我が安定してきたんだ。自ずと精神状態も安定してきて、普通の生活を送れるようになった。」
「…。」
「だけど、最近、よくわからなくなっている。アイツに向けた憎悪の感情がまるで俺の感情じゃないみたいなんだよ。俺を無視して、感情だけが、どんどん先に行っちまう。確かに、俺はアルベルトが憎い。お前を、モニカを傷つけたアルベルトが。だが、この感情は本当に俺のものなのか?本当は、俺という存在は最初からいなかったんじゃないか?こうして話しているのは、実はモニカで、俺は…」
私の腰に回っている彼の腕にぐっと力が入る。その姿は、まるで母親に庇護を求める幼い子供のよう。
その、小刻みに震える手を、私は拒めない。
「なぁ、エリザ。俺は、誰だ?」
「…殿下…」
「お前も、俺を否定するのか?」
「…、」
彼は割り切っていると言っているが、そんなことはない。割り切れるはずがないのだ。彼の心の傷はそんな簡単に拭えるものではない。
彼もまた、300年前に囚われている。
誰かが耳元で囁く。『逃げないで、目を逸らさないで。世界が歪んでしまった原因は、貴女にもあるのよ。』と。
あぁ、貴女の言う通りだ。
喉が酷く乾く。それを誤魔化すように、唾液を飲み込んだ。
「…貴方には、モニカに通じるものを感じていました。」
「…。」
「それは、モニカの記憶が貴方の成長に大きく影響したからだと思います。」
正直、何を言えばよいのか、何を言えば正解なのか、よく分かっていない。だが、このまま黙っていたら、彼から逃げていることとなる。
私たち人間は、気持ちを相手に伝えられる生き物だ。逆に、言わなければ、相手に伝わらない不器用な生き物。彼がそう、教えてくれた。
「私が今まで接してきたのは、テオドール様、貴方です。モニカではありません。だって、モニカは貴方のようにセクハラや私の額に攻撃なんて、しませんもの。」
「…はは、何だそれ。独特な根拠だな。」
力なく笑う殿下に、ほっと息を吐く。
なんだか酷く泣きそうになった。
「貴方は優しい人だから。私のために、モニカのために、とその憎悪の気持ちが強くなっていったのでしょう、きっと。」
「…。」
「私たちのために、こんなにも憤ってくれて本当に有難いです。…ですが、その憤りで人を殺そうとすることは、道理に反しています。」
これだけは譲れない。
案の定、彼は忌々しく舌打ちをした。
「偽善者め。優しいだけじゃ、大切なものは守れないだろ。」
「…確かに、貴方の言う通りかもしれません。」
殿下の言い分も、もちろん理解している。
この世界は冷たく、残酷なのだ。そんな甘いことを言っているようでは、いつか本当に大切なものを掬い損ねてしまうかもしれない。わかっているのだが…
「それでも私は、貴方の手を汚したくないのです。」
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