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第5章「正義の履き違え」
76話
しおりを挟む────突然、
下から伸びた腕が私の背中にまわり、強く抱き込まれた。
その強い力に抵抗する暇もなく、私は義弟の身体に思いっきり倒れ込んむ。
私の背中にまわっている腕は、骨が軋むほど強く、あまりの苦しさに呻き声を上げるのと同時に、耳をつんざくような鋭い金属音が辺りに響き渡った。部屋の空気を震わせる程の激しい音に思わず目を見開くが、視界が何かで覆われているため、状況を把握することが出来ない。
「―っ、」
背後から聞こえてきた、はっと息を呑む音を最後に、室内には静寂が訪れた。
……一体何が起こったのだろうか。
迫りくるナイフから義弟を守るため、私は咄嗟に義弟に覆い被さったはずだ。すぐにナイフの衝撃が背中にやってくると思っていたのだが、一向にその痛みは訪れない。
今、わかることといえば、自身の乱れた呼吸音と心音。それと、右耳から聞こえてくる、激しく脈打つ誰かの心臓の音と、噎せ返るような鉄の匂い。
「…はは、」
殿下の乾いた笑い声が、静かな部屋に響く。
「エリザ、顔上げてみ?んで、眼ん玉ひん剥いてよく見てみろ。お前の可愛い弟の化けの皮が剥がれたぞ。」
殿下の言葉が理解出来ないまま、私は言われた通りにゆっくりと顔を上げる。
どうやら私は、義弟の胸に顔を埋めていたのだと、今更ながら気が付いた。
そのまま、視線を上に上にと上げていく。
記憶通りの幼さが残る顎と形の良い官能的な唇。
すんなりととおった高い鼻梁に、長い睫毛に縁どられた美しいシトリンの瞳が……
「え?」
ない。
あの甘い蜂蜜のようなシトリンの瞳が、ない。
口の中がカラカラに乾き、激しい口渇感を訴える。
そこには、まるで深い海を思わせる美しいサファイアの瞳が淡く煌めいていた。
「…あ、なんで…」
口から零れたのは、笑ってしまうほどの情けない声。
なんで、どうして、そんな言葉ばかりが私の頭の中を行き交っている。
「サファイアの瞳は〝青の魔力〟を持って生まれてくる皇族にしか与えられないもんだ。」
殿下の言う通り、サファイアの瞳は尊き血筋である皇族にしか与えられない。
だから、皇族ではない義弟がそれを持っているだなんて、有り得ないのだ。そう、有り得ない。これは、何かの間違いだ。そうだ、そうに違いない。だって、そうじゃないと…
「それを、どうしてお前が持ってるんだ?ユリウス。…いや、アルベルト。」
〝アルベルト〟
その名前に、心臓がドクリと反応する。
「……アル…ベルト…さま?」
義弟の煌めくサファイアの瞳を見つめ、か細い声であの人の名を呼ぶ。
「…。」
義弟は否定も肯定もせずに、ただ穏やかな笑みを浮べた。
「―っ!!」
行き着いた答えがあまりにも恐ろしく、私は声にならない悲鳴を上げ、義弟の身体から仰け反った。
その刹那、ゴンッ!と後頭部に鈍い衝撃が走る。背後にある壁に頭を打ちつけてしまったのだ。
「った、」
何故こんな所に壁が……と思いながら、じんじんと痛む後頭部を押さえつつ後ろを振り向いて、固まった。確かに、そこには壁があった。だが、私が思っていたのとは全くの別物の、異質で歪な壁がそこにあった。
例えるなら、ステンドグラスだろうか。透明度のやや低い暗褐色のおどろおどろしい壁が、私と義弟を覆うように背後に存在していた。
その壁の向こう側には、顔を歪ませている殿下と、彼の足元に落ちている鋭利なナイフが見えた。
先程のけたたましい金属音は、もしやこの壁のせい?
義弟から早く逃げたくて、その壁に触れると突然、壁がドロドロ溶けだした。
「あっ、」
本能的に危機を察して逃げようとしたが、時すでに遅し。赤い液体が私に襲いかかる。まるでバケツの中の水をひっくり返したような激しい衝撃に、私は咄嗟に目を瞑った。
たが、それは一瞬の出来事。
「…?」
顔や腕などに、どろりとした液体がまとわりついている不快な感触を覚えた。
顔を濡らす液体を腕で拭い、恐る恐る目を開けた私は、自身の姿に唖然とした。
髪も、手も、制服も、腕も足も全て、真っ赤に染まっていたのだ。
「…うっ、」
その液体は鳥肌が立つほどに生暖かく、噎せ返るほどに鉄臭かった。その匂いに刺激され、悪心が喉元にせり上がってくる。
何とか飲み込もうと口を両手で抑え、荒い呼吸を繰り返す。
そして悟った。
あぁ、これは、これは血だ。
きっと…先程、義弟の身体から流れ出た血液。
「すみません、姉上。僕のせいで、姉上が汚れてしまいました。大丈夫ですか?」
いつの間にか身体を起こしていた義弟が、私に手を伸ばす。
いつもと変わらない声音と表情で、私を心配する義弟。その変わらない態度が堪らなく恐ろしい。
「さ、触らないで…!」
震える手で義弟の手を払い除ける。すると、義弟はわかりやすく傷付いた表情を見せた。
「…大丈夫ですよ。すぐに綺麗になりますから。」
義弟がそう言うのと同時に、辺りに撒かれていた血液が淡いブルーに煌めき出す。
私の身体にまとわりついていた血液も淡く光り、ズルズルと滑り落ちていった。
ズルズル…ズルズル…
血液は、まるで何かの生き物のように義弟の背後に向かっていく。きっと、刺された背中に向かっているのだろう。
呆然と眺めている間に、辺りには一滴も血液が残っておらず綺麗になっていた。つい先程までベッドの上が血の海だったのが、嘘のように。
「…ほら、綺麗になりましたよ。もう怖くないでしょう?」
義弟はまた私に手を伸ばしてくる。
その美しいサファイアの瞳に魅入られたかのように、私の身体は石のように動かなくなっていた。
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