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第4章「好奇心は猫をも殺す」
71話
しおりを挟む―――カーン、カーン、カーン…
終業を知らせる鐘が鳴る。
本日、全ての授業が終わったのだ。
静まり返っていた教室が、帰り支度を始める生徒たちによりざわつき始める。
広げていた教科書を鞄に仕舞い、こぼれそうになる溜息を飲み込む。私の心は憔悴しきっていた。
授業が特別難しかった訳ではない。ここで学ぶものは全て前世で習得済みだ。なので、私にとって今の授業は復習みたいなものであり、苦に感じることは無い。
「…。」
鞄から視線を上げれば、私を見つめる幾つもの瞳と目がった。その瞳には私に対する、あからさまな嫌悪感が滲み出ている。
奇妙なことに、教室に入った時から、ずっとこの調子なのだ。
いつもなら、このタイミングでお友達が帰りの挨拶をしにやって来るのだが、その彼女たちですら、私と目を合わせることなく、そそくさと教室を出ていってしまった。
一体何が起きているのだろうか。まるで300年前に戻ったみたいだ。
―…嫌な感じね。
その好奇な視線に息苦しさを感じた私は、足早に教室から立ち去った。
※※※※※
早く邸に帰りたかった私は、やや早足で廊下を歩く。
「姉上。」
背後から、私を呼ぶ義弟の声がする。
足を止め後ろを振り向けば案の定、こちらに義弟が駆け寄ってきた。
「お疲れ様です。今からお帰りですか?」
「えぇ、そうよ。…ユーリは今から研究?」
「はい。」
穏やかに微笑む義弟に、心が軋む。
「そう、頑張ってね。」
「ありがとうございます。」
「それじゃあ、私そろそろ行くわ。早く辻馬車を拾わないと…」
「辻馬車?」
笑みを浮かべたまま双眸を細め、じっとこちらを見つめるてくる義弟の視線に背中がゾワゾワとした。
何かおかしなことを言ってしまったのだろうか。
「最近、辻馬車のフリをした強盗が多発していると、僕言いましたよね?」
記憶を手繰り寄せれば、最近義弟にそう言われた気がする。
「帰りの馬車は既に用意してありますから、辻馬車なんて使わないで下さい。」
「…。」
私を心配する真摯な言葉に、私の心が揺らぎ始めた。
義弟が嘘をついてまで、聖女と一緒に過ごしていたのは私の勘違いだったのでは?だって、義弟はこんなにも私の事を想ってくれているのだ。そんな彼が私を裏切るようなことをするとは考えられない。
それとも、こうして私を心配する素振りすら真っ赤な嘘?
帰りの馬車を用意したのも、私を早く帰らせて、聖女と長く過ごしたいから?
「…。」
何が正しいのか分からなくなってきた。
私は一体何を信じれば良いのだろう。
「…ごめんなさい。辻馬車を使うのはやめるわ。」
「えぇ、そうしてください。もし、貴女に何かあったら…僕はこの世界で生きていけません。」
不安げに揺れるシトリンの瞳。
彼の頭を撫でようとして、思わず伸びた手を下に下ろす。
「…大袈裟ね。」
力なく笑えば、義弟も笑う。
甘く、優しい、人を堕落させるような蠱惑的な微笑み。
―…結局のところ、何の根拠も無いのよね。
彼を信じるのか、それとも疑うのか。
どちらにせよ、それを裏付ける証拠がない。
彼が真面目に論文を仕上げている、という事実が分かれば、少しはこの心の乱れも落ち着くのだろうか。
何か、確かなものが欲しい。
貴方を信じることが出来る、何か…、そう。
真実の欠片が欲しい。
※※※※※
邸に帰ってきた私が、まず先に向かったのが義弟の部屋だ。
義弟は出掛ける時は必ず、自室に鍵をかける。今までは、それについて大して気にしていなかったが、義弟に対して疑惑が生まれている今は、それすらも怪しいと思ってしまっている。何か見られたら不味いものでもあるのでは、と。
鞄を持ったまま、義弟の部屋のドアノブを回せば、鍵がかかっていた。…思っていた通り。
私は懐からスペアキーを取り出し、鍵穴に差し込んだ。鍵を軽く回せば、解除を知らせる小さな音が廊下に響く。そのやけに響いて聞こえてきた解除音に、心臓がドクリと脈打ち、手が震え始めた。
部屋の主がいない隙を見計らって、その部屋に勝手に入り込むだなんて、淑女のやる事ではない。いや、淑女としてというよりも人間して、ありえないことだ。私がやっていることは、泥棒と同じ。
もし義弟にバレてしまったら、幻滅されてしまうかもしれない。今後、私に笑いかけてくれることも…
「―っ、」
義弟を疑っているくせに、嫌われたくないだなんて、なんて身勝手なのだろう。
押し寄せてくる恐怖感と、湧き上がる好奇心がぶつかり合い、呼吸を乱れさせた。
―…落ち着きなさい。ユーリはまだ帰ってこないわ。だから、大丈夫。少し調べるだけなんだから。
深く息を吸い込み、呼吸を整える。
そう、私は何かを盗む訳では無い。
ただ知りたいだけ。義弟が何を実験しているのか、ちゃんとやっているのか。
もし、論文に手をつけず、聖女にうつつを抜かしているのであれば、それは姉として叱るべき問題だ。だから、これは悪いことではない。
後ろめたい気持ちを強引に正当化することによって、無理やり自分を納得させる。
ドアノブを捻れば、鍵を解除した扉は呆気なく開かれた。
部屋の中は、締め切っているカーテンのせいで薄暗い。
私は恐る恐る部屋の中へと足を踏み入れた。
何もない、というわけではないのだが、どことなく、殺風景な部屋だった。
何度も義弟の部屋には訪れているが、まじまじと見るのは今回が初めてかもしれない。
1人用のベッド、2人掛けのソファーに勉強机、窓の前にあるティーテーブルと椅子。そして、部屋の隅にある本棚には古い植物図鑑と真新しい虫の図鑑が並べられていた。
義弟の部屋は、必要最低限のもので作られている。
ものに執着しない彼らしい部屋なのかもしれない。
「…探しましょう。」
ぼんやりと部屋を眺めている場合じゃない。
私は綺麗に整頓されている勉強机に歩み寄った。
大半の論文はこの勉強机で書いているはず。ならば、この机のごとかに論文で使用した文献等があるはずだ。
ざっと見たところ机の上にそれらしい物は置いていない。ならば、机の引き出しの中だろうか。視線を落とせば鍵付きの引き出しの存在に気が付いた。
―もしかしたら、この中に…?
だが、目的である証拠の品が引き出しの中にあったとしても、鍵がかかっていては中を見ることはできない。だからといって、ここまで来て何もしないで引き返すわけにもいかない。
私は、ダメ元で引き出しに手をかけた。
「…え、」
予想に反して、呆気なくあいてしまった引き出しに、目をぱちくりさせる。
鍵の閉め忘れだろうか。少々神経質…いや、よく言えばしっかり者の義弟がそんなヘマするとは考えにくい。
ならば、何故?
―あ、
引き出しの中にあった一冊の本に、全ての意識を奪われる。
確かこれは…以前、この部屋を訪れた時に、義弟が読んでいたものだ。
私は、そっとその本を持ち上げる。
さほど大きくはないが、ずっしりと重い。紙質は良好とは言えず、黄ばんでいた。この本が相当古いものだということがわかる。
本の表紙はだいぶ日に焼けており、タイトルを読むことすら不可能だった。
その色褪せている背表紙を指でなぞる。
…何故だろう。私はこの本のことを知っている気がする。
幼い頃、義弟と一緒に見ていた本なのだろうか。
ぱらりと黄ばんだページを捲ると、微かに香るカビ臭さが鼻腔を刺激してきた。そのなんとも言えない懐かしい香りを肺に吸い込みながら、本に書かれている文字に目を走らせる。
まずは1ページ目、そこには拙い子供の字でこう書かれていた。
『〇月✕日
ノートをもらった。
今日から書いていこう。』
どうやら子供の日記のようだ。
幼い頃に義弟が書いていたものだろうか。
私は次のページを捲った。
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