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第4章「好奇心は猫をも殺す」
61話
しおりを挟む湯汲みを終えた私はベッドの中に横たわり、自身の右手の甲を見つめた。
―…どうやって殿下を呼び出すのかしら?
湯汲みの際にふと気が付いたのだが、肝心な殿下を呼び出す方法を教えられていなかったのだ。
だが、私には義弟が居る。
殿下をわざわざ呼び出すことはないだろうと、私は眠りについた。
◈◈◈◈◈
夢をみる。
ひどく、懐かしい。
昔の夢。
お母様に叱られた私は、皇宮の庭で泣いていた。
そんな私に少年は、1輪の花を差し出す。
「これ、君にあげるから泣かないで。」
その1輪の花を受け取ると、甘い香りふんわりと漂った。
プレゼントなんて、生まれて初めてだ。
驚いた私は、思わず涙をとめる。
「甘くていい匂いがする…。私、お花なんてはじめてもらったよ。ありがとう、凄くうれしい。」
「お花、好きなの?」
「うん、好き。」
「じゃあ、もっと素敵なものを見せてあげる。おいで。」
サファイアの瞳を持った少年は私に手を差し伸べる。その手を取ろうとして、やめた。自分の醜い手が視界に入ったからだ。
不器用な私の手には傷が絶えない。
「どうしたの?」
「私の手、汚いの。」
こんな手では、彼に触れられない。
「…そんなことないよ。」
少年はそう言うと、私の両手を自身の手で優しく包み込んだ。
少年の手の温かさに驚き、目を見張る。
「この手は君が頑張った証だよ。」
「あかし?」
「そう。例えば…ほら、ここ。長い時間ペンを握っているんだね、ペンダコが出来ている。」
彼の言う通り、右手の人差し指には長時間ペンを握っていたことによって、角質層が厚くなっていた。
「刺繍も勉強してるの?ここに針の傷があるよ。あぁ、手首も腫れている。沢山ピアノの練習をしたんだね。今日のピアノの発表会、手が痛くて辛かったんじゃない?」
少年は次々と、私の手にある傷の原因を解き明かしていく。
私は信じられないものを見るように、彼の顔を凝視した。
「君は凄いね。頑張り屋さんだ。」
私の手をギュッ握りしめた少年は優しく微笑んだ。
「―っ、」
少年の言葉を理解した途端、私の瞳からは止まったはずの涙がボロボロと零れ落ちた。
「な、泣かないで。ごめん、嫌だった?」
少年は戸惑った様子で、オロオロとしている。私は泣きながら首を横に振った。
嫌じゃない。その逆だ。私は嬉しいのだ。少年が、初めて私の努力を認めてくれた。
母から醜いと言われていた手も、少年は頑張った証と言ってくれた。
これ以上、嬉しいことがあるのだろうか。
「おいで、リトルレディ。」
少年は私の手を引き、歩き始めた。
手を引かれる私は泣きながら少年の背中を見上げる。
優しくて、かっこよくて…
まるで、絵本に出てくる王子様みたい。
―――この時から、私の小さい世界は彼でいっぱいになった。
◈◈◈◈◈
「エリザベータ、なんてみっともない顔をしているの!?淑女たるもの、表情を崩すなんて有り得ないわ。早く泣き止みなさい!」
「ご、ごめんなさい、お母様。」
「エリザベータ、人に弱みを見せたら駄目よ。周りの人間は、全員敵だと思いなさい。決して人を信じないで。」
「…はい、お母様。」
「エリザベータ!なんで、こんな簡単なことも出来ないの…!?駄目よ、こんなんじゃ、駄目よ!あの人を見返すために、お前は必要なの。あの女じゃなくて、私を選んでいたら、もっと優秀な子供が産まれたという証拠を…!!エリザベータ!聞いているの…!?しっかりしてよ!!!」
「申し訳ございません、お母様。」
「エリザベータ、お前は顔だけは私に似て極上よ。中身はどうにもならなかったけれど、その顔があれば、周りを騙せるわ。周りを騙して、皇太子妃になりなさい。そうすれば、きっと、あの人も自分の過ちに気づくはず…。うふふ、あははっ。」
「かしこまりました、お母様。」
出来損ないの私はもっと頑張らなければならない。もっと、もっと…
頑張れば、きっとあの人は私を褒めてくれる。またあの時のように「頑張ったね、凄いね。」と。
だから、どんなに辛くて挫けそうになっても、心が折れることはなかった。
―――なのに…
「父に気に入られようとして、政治に口を出したらしいね。しかも、僕が考えた政策に。」
アルベルト様が冷たい瞳で私を見据える。
少し前に、謁見の席で陛下に「新しい政策についてどう思う?」と問われたので、「その政策は、現実的に考えて失敗する確率が高いと思います。」と、思ったことを言っただけだ。
そもそも、彼が考えた政策だなんて知らなかった。だが、彼の機嫌を損ねてしまったことは、事実。
私は軽くスカートを摘み上げ、深々と頭を下げた。
「私の軽率な発言のより、殿下のお気を悪くさせてしまったことを、深くお詫び申し上げます。」
「っ、」
突然、私の右頬に衝撃が走った。思わず頬を手で抑える。
頬が、熱い。
遅れて、彼に叩かれたのだと気付いた。
恐る恐る顔を上げれば、氷のように冷たいサファイアの瞳と目が合った。
「僕を馬鹿にするのもいい加減にしろ。人を見下すのは、そんなにも楽しいのかい?」
彼を下に見るだなんて、そんな恐れ多いこと一度たりとも考えたことなんてない。
私は彼を誰よりも尊敬し、誰よりも愛しているのだ。
そう言いたかったが、彼の前で感情を露わにするだなんて、みっともない。きっと、今以上に幻滅されてしまう。そう思った私は口を噤んだ。
「叩かれても顔色ひとつ変えないだなんて、やはり貴女は人形のようだ。」
彼は吐き捨てるようにそう言うと、私に背を向け去って行った。
彼を引き留めようとして伸ばした手を下に下ろす。今話しかけても、また冷たくされるだけだ。
涙が溢れそうになったが、唇を噛み締め、ぐっと堪える。
ここで泣いては駄目。泣いてしまったら、きっと心が折れてしまう。
心を守るため、私は自分自身に暗示をかけた。
―まだ、努力が足りないのよ。もっと、頑張ればきっと昔みたいに…。まだ大丈夫よ。大丈夫…
けれど、私が頑張れば頑張るほど、貴方は冷たくなっていった。
◈◈◈◈◈
無常にも、この世界は私の存在を無視してどんどん先に進んでいく。
「愛しの聖女マリー、どうか僕の花嫁になって欲しい。」
「喜んでっ!」
国境視察から帰ってきたアルベルト様は、民衆の前で聖女にプロポーズをした。
2人は幸せそうに抱き合い、それを見た民衆は歓喜の声を上げる。至る所から、2人を祝福する声が飛び交っていた。
その民衆の中で、1人、取り残されている女がいる。
…私だ。
彼は、私の婚約者なのだ。なのに何故、聖女が彼の隣にいるの?
婚約者が居る身で他の女性の手をとるだなんて、いくら皇太子だからといっても許されることではないはずだ。
なのに、何故誰も彼を咎めないのか。
周りから聞こえてくるのは、2人を祝福する声と、私を嘲笑う声。私はそれを目を閉じ、じっと耐える。
どうして、私はこんなにも惨めなの?
どうして、貴方は聖女を選んだの?
私は貴方の隣に立ちたくて、今まで頑張ってきたというのに。今までしてきた努力は全部、無駄だったのか。
存在意義を全て否定された私は、絶望の海へと堕ちていく。
―あんな女より、私の方が妃に相応しいのに…!
そこまで思って、はっと気づく。
―――今の私は、まるで、お母様のようじゃないか。
「ねぇ!貴女の名前は?」
突然、聖女に話しかけられた私は弾かれたかのように顔を上げる。
「…エリザベータ=コーエンでございます。」
「うっわぁ、古典的な貴族の令嬢だ。えっと…エリザベータ様、貴女はどうして私を祝福しないの?」
聖女の言葉に首を傾げる。どういう意味だろうか。
「あれ?おっかしいなぁ。皆、私のことを祝福するって神様が言ってたのに。うーん?…あぁ、そっか!」
ピンクダイアモンドの瞳を持つ聖女は、誰もが見惚れるほど可愛らしい笑顔を私に見せた。
「貴女は、不良品なんだね!」
「…え、」
「私の新しい世界に不良品はいらないよ。」
無邪気な子供のようにそう話す聖女は思いっきり息を吸い込み、そして…
「エリザベータ様が私を殺そうとしたのっ!」
◈◈◈◈◈
気付けば私は冷たい牢屋の中に押し込まれていた。
「お待ちくださいませっ、私は聖女様を殺そうとしておりません!私を信じてください!」
私はアルベルト様の足に縋り付く。
彼は私を一瞥してから、その足で私のお腹を蹴り上げた。
「がっ!?」
私は冷たい床に倒れ込む。今まで経験したことのない痛みに、息ができない。何とかその痛みに耐えようと、身体を丸める。
アルベルト様は、痛みに悶えている私の顎を掴み、無理やり上に向かせた。
彼の冷たいサファイア瞳と目が合い、身体が震え上がる。
「プライドの高い貴女が、こんな仕打ちを受けるだなんて、さぞ屈辱だろうね。」
「な、」
「今まで散々人間を見下して、その上僕の愛しの聖女を傷付けようとするだなんて…許せるわけがないよね?」
加虐的な笑みを浮かべる彼に、言い知れぬ恐怖を感じた私は、彼の手を払い除け、逃げよう身体を起こした。
が、
「何処に行くの。」
「ぐっ、」
足を掴まれた私は無様にその場に倒れ込む。
「愚かだね。貴女は自分の立場をまるで理解していない。…わからせてあげようか。」
彼は静かに腰に下げている剣を引き抜き、そのまま私の両足首にその剣を振り落とした。
「あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙!!!!?」
暗い牢屋に私の叫び声が響き渡る。
痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い!!!!
先程アルベルト様に蹴られた時とは比べ物にならない程の強い痛みが私を襲う。あまりの痛さに私は悲鳴を上げながら、冷たい床をのたうち回った。
「…あぁ。貴女が暴れたせいで、上手く切り落とせなかった。」
アルベルト様は躊躇なく、私の足首を目掛けて再び剣を振り落とす。
「―っ、!!」
遠くの方で、何かが切り落とされると音がした。
きっとそれは私の…
「これで、貴女はどこにも行けないよ。どこにも…ね。」
薄れゆく意識の中で私が最後に見たものは、濁った瞳で私を見下ろす、アルベルト様の安心しきった顔だった。
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