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第4章「好奇心は猫をも殺す」
59話
しおりを挟む放課後。
義弟は論文を仕上げるため、その例の虫に関する実験をしなければならないらしい。
義弟に「先に帰っていてください。」と言われたのだが、私はいつもの様に殿下の部屋で待つことにした。それに対し、最初は嫌がっていた義弟も最近では渋々許してくれている。
なので、今日も殿下の部屋に足を運んだのだが……
「フーゴ、この書類を法官に届けてくれ。」
「かしこまりました!」
「あ、ついでに微税官の所に行って、ここにサインをだな……」
「殿下、年末の儀典に関する資金なのですが…」
「それは儀典官と相談する項目だろ。あ、今年は聖女も居んのか…。後で俺が話しておくから、それ保留な。」
「殿下、アンパンはこしあん派ですか?それとも粒あん派?」
「俺は粒あん派…てか、それ今関係ねーだろ!お前は少し仮眠でもとってろや!」
魔力保持者の校舎にある殿下の部屋は、様々な書類と政務を補佐する人々でごった返していた。
執務机に座るテオドール殿下は、手元の書類をノールックでサインし、周りにいる補佐人に指示を飛ばしたり、質問の対応をしたりと、激務に追われている。
扉の前で、その目も回るような忙しさに圧倒されていると、バチッと殿下と目が合った。
「やぁーと来たか、エリザァ!突っ立ってねーで、こっち来い。んで、昨日みたいにひたすらハンコ押せ。押しまくれ!」
「は、はい!」
私はいつも殿下と一緒にハーブティーを飲んでいるソファーに座り、目の前に積まれている書類のハンコ押しを始めた。
最近、殿下も年末の業務に追われ、とてつもなく忙しい日々を送っている。
部屋のあらゆる場所に積まれている書類は、処理しても処理しても一向に減らず、それどころか、日に日に増えていっているようだ。
殿下曰く、毎年この時期は忙しいが、今年は異常なほど忙しいらしい。父といい、殿下といい、今年は一体何なのだろうか。
その、流石の忙しさに私も殿下の政務を手伝わされている。
私が今処理している書類は既に殿下が確認しているものなので、〝確認済〟のハンコをただ押していくだけなのだが、その量が尋常ではない。
「あ゙ー、ツラい。ツラすぎる。」
彼は時折ぼやくが、その手は止まらない所は流石だと思う。
私も目の前の書類に手をつけてしまった以上、中途半端な状態で投げ出す訳にはいかないので、手は止められない。
義弟が迎えに来る前に、何とか終わらせなければ、と思っている私は殿下の話を聞き流していた。
「なぁ、エリザちゃん。俺って可哀想すぎない?」
「そうですね。」
「だろー!そんな俺には癒しが必要だと思うんだ。」
「そうですね。」
「だからさー、そのでっけぇ胸を揉ませてくれよー。そうすれば、もっと捗ると思うんだけどー。」
「そうですね。」
「…え、マジで?」
お互い手が止まり、真摯な顔で見つめ合う。
「…いえ、血迷いました。」
「だよな。」
業務を再開した。
※※※※※
夕日が部屋に差し込む頃、私はやっと目の前にある書類のハンコ押しを全て終えた。
息を吐き、ソファーに座ったまま背伸びをする。
いつの間にか、部屋には私と殿下しか居なかった。
「殿下、終わりました。」
「おー、サンキュー。」
殿下もキリが良かったようで、手を止めて思いっきり背伸びをした。
「ったく、今年は何なんだ。マジで勘弁してくれ。」
そう言う彼の目には薄らとクマが出来ている。
「…殿下、最近眠れていますか?」
「いや。あんまし。それに最近、夢見がわりーんだよなぁ。」
「夢見…ですか。それってどういう…」
―――コンコン、
私の言葉を遮るように、扉を叩くノック音が部屋に響いた。
「誰だ。」
「フーゴでございます。」
「入れ。」
「失礼致します。ただいま戻りました。」
「おー、お疲れさん。」
中に入ってきたのは、殿下の付き人のフーゴさんだ。その手には大量の書類を抱えている。それを見た殿下は顔を引き攣らせた。
「これが頼まれていたものです。あとこちらが、新しく見て頂きたい書類でして…。」
「…また増えやがった。」
殿下は深く溜息をつき、フーゴさんが新しく持ってきた書類に目を通した。
「…こりゃあ、ここで業務すんのも限界かもな。フーゴ、この部屋にある書類を全部皇宮に持ってくぞ。」
「ぇぇええ!?全部ですか!?」
「心配すんなって。俺の魔法でちゃちゃと運べるから。だから先に皇宮行ってろ。俺もすぐ後を追う。」
「かしこまりました。」
フーゴさんは頭を深く下げ、部屋を出ていった。
「―ってことで、エリザ。しばらく俺、皇宮に籠るから。」
殿下はいつも、わざわざ皇宮から書類を持ってきて、学校で政務をしていたのだ。
処理しきれぬ、この膨大な書類を前に学校に来るのは難しいと判断したのだろう。
それに、皇宮に居れば他の官僚とのコンタクトもとりやすい。
英断だと思う。だが、最近の日課となっていたこの時間が無くなってしまうのは少し、寂しい。
「…わかりました。」
「俺が居なくて寂しいか?」
少し疲れを滲ませたニヤリ顔に、内心苦笑いをした。疲れ果てているはずなのに、いつもの様に私をからかって…。まぁ、それが、彼らしいのかもしれない。それに、その言葉の中に私を気にかけてくれている様子も伺える。
私は殿下を安心させるため、笑顔を見せた。
「大丈夫ですよ。私には弟が居ますから。」
「…。」
何故か殿下は嫌そうに顔をしかめた。思っていた反応と違っていたため私は少々戸惑う。
「…治った思ったのに、再発…いや、こりゃあ悪化だな。」
ポツリと呟いた殿下は、椅子から立ち上がりソファーに座る私に近づいてきた。そして、じっと私を見下ろす。
「最近、聖女に会ったのか?」
「いえ、会っていません。聖女様は年末の行事の準備で、お忙しいですから。」
「…だよな。ってことは…」
殿下は腕を組み、何やら深く考え込んでいる。一体どうしたのだろうか。
「正直、こんな状態のお前から離れるのは、良くねーんだけどな…」
「??」
「まぁ、仕方がないか。状況が状況だし。」
「さっきから何を言って…」
「今のエリザちゃんに説明しても、どーせ理解しねーよ。」
そう言って殿下は私の頭を乱暴に撫で回した。
「っ、また、そのように誤魔化して…。」
「ははっ。まぁ、あれだ。何かあったら直ぐ俺を呼べよ。」
「呼べと言われましても、どうやって…いたっ、」
突然、私の右手の甲に鈍い痛みを感じた。咄嗟に右手の甲を見れば、皇族の紋章である青薔薇の模様が、淡く光を放ち浮かび上がっていた。
「それがあれば、いつでも俺を呼ぶことが出来る。便利だろ。」
自慢げに笑う殿下の瞳は青く煌めいていた。殿下が私に対し、魔法を使ったのだ。
「殿下を…?…ありがたいのですが、皇族の紋章が私の手にあったら、周りが驚いてしまいます。」
「安心しろ。普段は見えないようになっている。ほれ、もう見えてねーぞ。」
再び視線を自身の右手の甲に戻す。彼の言う通り、右手には何も浮かび上がっていなかった。
「な。」
「そのようですね。」
「いいか、これは俺とお前だけの秘密だ。」
いつになく真面目な顔で、殿下はじっと私の瞳を見つめる。その真剣さに私は思わず頷いた。
「よし、いい子だ。」
破顔した殿下は満足気に、私の頭をまたしても乱暴に撫で回した。…完全に犬扱いである。
「やめてください。」と口を開ける前に、コンコンと扉を叩くノック音が部屋に響いた。
「誰だ。」
「ユリウス=アシェンブレーデルです。姉上をお迎えに参りました。」
「ユーリ!」
義弟の訪れが嬉しい私は扉に駆け寄り、殿下の入室の許可を言う前に扉を開ける。そこには、驚いたように目を見開く義弟が居た。
「お疲れ様、ユーリ。遅くまで大変だったわね。」
「いえ、姉上こそお疲れ様です。」
「どう?論文は進んだ?」
「えぇ。今日は良い実験データが取れたので、けっこう進みました。」
「それなら良かったわ。」
「姉上は大丈夫でしたか?殿下に何か酷いこと、されませんでしたか?」
「…貴方はいつもそれね。今日も殿下のお手伝いをしていただけよ。」
「今日も…。大変でしたね…。早く邸に戻って休みましょう。」
「おいおい、お前ら。俺の存在忘れてねーか。」
後ろを振り返れば、不機嫌そうに顔を歪める殿下が私たちを睨んでいた。そんな殿下に義弟はにこやかに挨拶をする。
「あぁ。こんにちは、殿下。今日も、お忙しそうですね。」
「あぁ、めっちゃ忙しいぞ。優秀なユリウス君よ、手伝っていってくれても良いんだぜ?」
「残念ながら僕は自分のことと姉上のことで精一杯でして…力不足で申し訳ないです。」
「そんなつれないことを言うなって。俺が直々に茶をいれてやるからよ。」
「例の侍女のお茶ですか?ふふふ、遠慮しておきます。まだ冥土に行くのは早いですから。」
「はははっ。そう遠慮すんなって、冥土の土産ぐらいは持たせてやるからさ。」
一見、穏やかに談笑しているように見えるが、お互いの言葉の節々に棘が感じられる。それに、2人とも目が笑っていない。それが堪らなく恐ろしい。
私の本能が、この2人をこのままにしておくのは危険だと告げている。
私は義弟の裾を引っ張った。
「ねぇ、ユーリ。そろそろ帰りましょう?今は日が暮れるのも早いし、あっという間に夜になっちゃうわ。」
「そうですね、早く帰りましょう。」
にっこりと可愛いらしく微笑む義弟にホッと胸を撫で下ろす。
良かった、いつもの義弟だ。
正直、殿下とお話ししている時の義弟は苦手なのだ。私の知っている義弟ではないような気がして……少し、怖い。
「そうだ、早く帰れ。俺は忙しいんだから。」
そう言う殿下は再び執務机に腰掛け、書類の整理を始めた。邪魔をしてはいけないと思い、私は義弟の背中を押し部屋を出ようとした。
「エリザ。」
殿下に名前を呼ばれ、後ろを振り返る。
「約束、ちゃんと守れよな。」
頬杖をつき、ニヤリと私を見つめる殿下。私はそれに頷き、義弟とともに殿下の部屋を後にした。
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