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その日はいつもと変わらぬ朝だった

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その日はいつもと変わらぬ朝だった。
朝起きると翡翠はもうベッドにはいなくて、俺がリビングへ行くと、キッチンでフライパンを振る彼女の姿が。

今朝はパンケーキか。

バニラの甘い匂いが俺の鼻腔をくすぐり、その香りに誘われて子供達も眠い目を擦りながら起きて来る。
俺は新聞を読みながらコーヒーを飲み、パンケーキをかじり、子供達はハート型に型どられたパンケーキに自分達で思い思いのトッピングをして楽しむ。毎週土曜日はパンケーキの日と決まっているのでいつもこんな感じだ。そして毎週日曜日の晩はたこ焼きパーティーや餃子パーティー等、家族で楽しめる献立が定番になっている。俺や子供達は毎週それを楽しみにしており、その内容については直前までわからないのでワクワクしながらその時を待つのだ。
「明日は何パーティーかな?」
なんて胸を膨らませていると、翡翠が──
「今日の晩御飯を通り越して明日の晩御飯の話ですか?鬼が笑いますよ」
──と、流し台で洗い物をしながら笑って、俺もそれにつられて『鬼は来年の話をしないと笑わないよ』と笑い返し、聞いていた子供達も連鎖的にケラケラと笑い出す。

幸せだな。

それから迎えに来た乳母に子供達を預け、俺は翡翠にハグしながらキスをすると部屋を出た。

本当に、いつもと変わらぬ幸せな朝だった。


それから俺に一報が入ったのは、俺が部屋を後にした僅か1時間後。
『王妃、危篤』との知らせだった。

俺が息せき切って城の医療フロアにあるひとつの病室へ飛び込むと、翡翠は、今朝の元気そうな姿が嘘みたいに沢山の機器と管で繋がれ、自発呼吸もままならないのか人工呼吸器を着けて虚ろな目で天井を見ていた。

翡翠はもう……

素人目で見ても明らかだった。
「翡翠……」
駆け寄り、俺が翡翠の冷たい手を握ると、見えているかはわからないが彼女の虚ろな瞳に俺が映る。
「翡翠」
遂にこの時がきたか、というより、いずれ翡翠が先立つ事は解っていた筈なのに、俺には目の前の現状が青天の霹靂みたいに感じられた。
「鳥取、子供達を──」
俺が、後ろから付いて来ていた鳥取に声をかけると、それを言い切る前に翡翠が弱々しく首を横に振った。
「なんでっ……」
と思ったが、自分には子供達の到着を待てるだけの命が残っていないと翡翠自身が感じているのだと気付いた。
それに翡翠は、自分の子供達には親の死に様を見せたくなかったのだろう。
「分かった。俺がっ……」

見届けるから。

でもそれは、想像以上に辛い試練だった。
翡翠の、少しだけ瞳孔が開いた瞳、握力の無い手、機材に掻き消される虫の息、どれも見るに耐えない。それが愛する人であれば尚の事。
なんで、今朝は元気そうだったのに。唐突過ぎる。
翡翠が俺の元に残ると決めてくれてから、俺は彼女と晩年まで一緒にいられると思っていたのに、早すぎる。心の準備なんて出来ていなかったし、翡翠との別れなんか想定していなかった。
「翡翠、お前は俺の所に留まると言ってくれたじゃないか」
絶対に嫌だ。翡翠を逝かせたくない。
現実なんか受け入れるもんか。
俺は翡翠の手を両手で握り締め、グイグイと揺さぶる。
「頼む、逝かないでくれ。俺にはお前が必要なんだ。愛しているんだ、とても愛しているんだ、だから、どうか、俺を置いて逝くな」
現実を受け入れるもんかといいながら、俺の視界はぐにゃりと歪んで生温かい雫が頬を伝った。
翡翠が生きている限り、まだ希望はあると思いたいのに、既に俺の頭の中は翡翠と過ごした穏やかな日々が走馬灯のように回想されていた。

吹雪の中、雪に埋もれた翡翠を抱き上げ、観測小屋まで連れて帰った日の事。
あの時も翡翠の手は冷たくて、今みたいにぐったりと手足を投げ出して横になっていた。
それから翡翠が献上の儀式で俺に(偽の)初めてを捧げてくれた日の事や、俺のプロポーズを受けてくれた日、そして結婚して暫くは2人でラブラブな日々を送り、翡翠が子供達を産んでからは家族でドタバタと騒がしく、幸福な日々を過ごしてきた事。後は、今朝、元気に俺を仕事へ送り出してくれた事……
その全てが、今、伝説か幻になり代わろうとしていて、俺は身を打たれるような胸の痛みを感じていた。
翡翠が『過去の人物』になってしまうなんて嫌だ。
「酷いじゃないか、翡翠。人をこんなに惹きつけておいて自分はさっさと先に行くなんて。俺はこんなにも誰かを愛した事はなかったのに、何でお前なんだよ。あんまりだ」
喪失感と共に、俺は誰にぶつけていいかもわからないやるせなさを吐露していた。
「──さん……」
「何?」
翡翠が苦しそうに何かを訴え俺の顔に触れてきたが、人工呼吸器が邪魔で断片的にしか言葉が聞き取れない。
「子供……達を………」
「翡翠、喋らないで。苦しいんだろ?」
翡翠が顔の中央に皺を寄せ、毒でも飲んだかのように苦痛に耐える姿を目の当たりにし、俺は大切な者が奪われる恐怖で必死に彼女の手を握った。
けれど、例えそんな事をして翡翠を現世に繋ぎ止めようとしても、彼女の魂はスルリと簡単に俺の手からすり抜けて行く。
「──めん、なさい……」
「翡翠っ!!」
「さ……」
「駄目だっ!!」
俺は『さ』に続く言葉を強引に遮った。
嫌だ。聞きたくない。
だが、いかに俺が彼女の別れを拒絶しようと、無情にもその時は容赦なく襲ってくる。

「……────さ……ん、愛しています」

いまわの際、翡翠は最期の力を振り絞り、それだけを言い遺して息をひきとった。
ピーーーーーーーーーーーーーーーッ
ドラマかなんかで何十回と聞いてきた、終わりを告げる医療機材の電子音が、俺には自身の人生の終わりを知らせるアラームに思えた。
「……」
彼女の名を口にしたはずなのに、声にならなかった。
俺は膝から床へ崩れ落ち、そこから動けなくなる。
翡翠が……死ぬなんて……
今、目の前で翡翠を看取ったはずなのに、彼女の死が信じられなかった。
だって、今朝は元気だったのに。
「こんなのってない……嘘だ……」
だって翡翠は目の前にいるし、触れるし、まだ温かくて、さっきまでは話もしていたのに、もうここにはいないなんて信じられない。
「し、心臓マッサージ、心臓マッサージをしないとっ!!」
俺は翡翠の死を受け止めきれず、力任せに心臓マッサージを始めた。
「翡翠、戻って来い!!」
グッグッと翡翠の胸部を両手で圧迫すると、彼女の左腕がベッドからずり落ち、その左手薬指から金の婚約指輪が抜け落ちた。
指輪はコロコロと床を転がり、壁にぶつかって動きを止める。
「風斗様、もう止めて下さい」
見ていられなくなった鳥取が後ろから俺を羽交い締めにした。
「離せっ!!」
俺が諦めきれずにジタバタと暴れると、鳥取が腹の底から俺を一喝する。
「翡翠様をまた苦しめる気ですか⁉翡翠様は死んだんじゃないんです。やっと安息の床につかれたんです」
「っ……」
痛いところを突かれ、俺はガクリと頭を垂れた。
自分本意な愚かな事をした。
俺はいつもこうだ。こうして自分勝手に翡翠を苦しめてきた。
「悪い……取り乱した」
死は、誰にもどうする事も出来ない。子供みたいに駄々を捏ねても、翡翠は戻ってこない。
──そんな現実が辛い。

そしてそれに輪をかけて思う。
翡翠は最期に、誰に向けて愛していると言ったのか……
誰、又は『どっち』に向けて愛を告げたのか、俺の胸に大きなしこりを残したが、今はもう、確かめる術が無い。

翡翠はその真相と愛を墓場まで持って逝ってしまった。

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