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約束前夜

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今日も公務の為に執務室でセキレイと今後の南部国についての話し合いをしていた。
時刻は午後6時。早く帰りたいな。
翡翠と時を過ごせば過ごす程、別れが辛くなるのはわかっていたが、これが翡翠と過ごす最後の晩だと思うと、早く彼女に会いたくて仕方がなかった。
俺が、本日何十回目かに腕時計を見ると、セキレイが真顔で『後は俺がやっておきますよ』と申し出た。
「え?いいよ。昨日も任せちゃったし」
「気になるんでしょう、翡翠の事」
トントンと、セキレイは資料の束を応接テーブルで整える。
「いや、別に」
本当は物凄く気になっていた。
「あんた、独占欲の塊なのにさ、昨日はなんであんな事を言ったんですか?」
セキレイが言う昨日の事とは、俺が言った、翡翠を外に連れ出してくれというあれだ。
「兄さんも、これから南部国王になれば、自分の秘蔵っ子とゆっくり話す機会なんかなくなるだろ?」
本当のところ、そんなものはただの建前で、昨日の俺はセキレイと翡翠を試す為にそんな事を言っていた。セキレイも翡翠も、一度城から離れれば欲が出て尻尾を出すかもしれないと思っていたのだが、今は、俺の為に俺の言いつけを破って料理やらプレゼントを用意してくれた翡翠を紅玉のようにしたくないと、断腸の思いでかわいい我が子をこの無愛想な男に託そうとしている。
「……正直に言えよ。お前は鬼畜だから、俺と翡翠を罠にかけて罰したいだけなんだろ?」
「違うって」
どれだけ俺の日頃の行いが悪かったんだろう?
でもちょっと前の俺ならそういうプレイもありだった。
「言っておきますが、翡翠は絶対に来ませんよ」
セキレイはふてぶてしく脚を組んで断言する。
「凄い自信だね」
「なにしろ俺が調教しましたから。だから翡翠は主を絶対に裏切らない」
「翡翠が思う主ってのが俺だったらね」
そこらへんがよく解らない。翡翠は明らかにセキレイが好きだから。
「あんた以外に誰がいるんですか?」
「……例えば、兄さん、とか」
俺がセキレイを真正面から見据えると、彼はどっしりと構えつつも、ほんの僅かに黒目だけを揺らした。
わかりやすっ。
「馬鹿言うな」
そう一蹴されたが、2人が愛し合っていた事はほぼ確定している。
「兄さん、わかってるんだよ、全部」
俺がそう言うと、セキレイは凍りついたようにフリーズした。
まあ、図星だよな。
『何故、風斗が知っているんだ?』ってとこか。
「いや、お前は何もわかってない。それに翡翠の愛や、懐の深さは、俺だってよくわからないんだ」
「じゃあ、兄さんの気持ちは?翡翠を愛してるんだろ?」
おれがズバッと切り込むと、セキレイは観念したようにハッキリと頷いた。
「……認めよう。でもそれが関係ありますか?大事なのは翡翠の気持ちだ。それからお前の気持ち。お前に心から翡翠を愛する気持ちがあれば、あいつはそれに応えてくれるし、お前を絶対に裏切ったりしない。お前を独りにはしない。翡翠はそういう人間ですから」
「俺には解らないよ。花梨や紅玉にも裏切られたからね」
俺は漏れ出る哀愁を誤魔化す為にセキレイの胸ポケットから煙草一式を取り上げ、慣れない煙草を吸いだす。
「じゃあ、正直な話をしましょう」
セキレイは姿勢を正し、開いた両膝の上で両手を組んだ。
「翡翠が献上される直前、俺はあいつをここから連れ出そうと一緒に駆け落ちする事を打診した事がありました」
「……」
俺は何も知らなかった分、その話がショッキング過ぎて、一瞬、紫煙を吐き出すのを忘れた。
「それで?」
俺は深く息を吐き出しながらざわつく心を落ち着かせる。
「何度も逃げ出すチャンスは与えたが、翡翠は頑なにそれを断ったよ。翡翠には、お前のとこに嫁ぐ確固たる信念や覚悟があったんだ。だから俺にはそれを止められなかった。だからこそ俺は、変態野郎のお前に頭を下げて翡翠を頼んだんですけど?」
セキレイは片眉を吊り上げ、嫌味ったらしく言い放った。
「……」
今更そんな事を言われても……
実際に翡翠が誰を選ぶかなんて、翡翠本人にしか解らないじゃないか。
俺の頭の中を色んな考えが巡り、脳内がぐちゃぐちゃになった。
「それでも翡翠を疑うなら、せいぜい残り少ない時間を楽しむんですね」
そう言ってセキレイはその場にあった資料を全て自分の鞄にしまい、執務室を出て行った。
残された俺は吸いかけの煙草を灰皿に置き、昨日翡翠から貰ったドリームキャッチャーをジャケットの胸ポケットから取り出して彼女との思い出と共に眺める。
「これが、セキレイの本当の願いをぶち破った呪いのドリームキャッチャーか」
──と言っていて、自分でも可笑しくなった。
「セキレイの本当の願いが、翡翠と駆け落ちしてずっと一緒にいる事だったとして、俺はこれに何て願いを込めればいいんだか」
このドリームキャッチャーが、翡翠とは違ってあまのじゃくなのだとしたら、願い事は慎重にしないとな、なんて、信じちゃいないけど。
「……翡翠と幸せな家庭が築けますように」
気が付くと、俺の口からは本音が溢れ出ていた。
「あぁ、俺の願いはきっと叶わない」
別にそれで良かった。
本心では翡翠と一緒にいたかったが、俺の良心は彼女の最善の幸せを願っている。
「さて、今日は今日とて妻の元に帰るか」


「ただいま」
俺が部屋に戻ると、翡翠が笑顔で出迎えてくれた。
エプロン姿がかわいい。
「おかえりなさい」
誕生日だった昨日も帰って来たこの部屋は、別に特別な日でもないのに特別温かく感じた。
「今夜はカレー?」
カレーのスパイシーな匂いがする。
約束のニシンは明日の朝食に出るのか?
「はい、鳥取さんが、風斗さんは子供舌だからカレーが好きだって言ってたんで、カレーによく似たカレーというか、カレーもどきみたいのを作ったんです」
確かに俺はカレーが好きだが、それなら何故、カレーではなく、カレーによく似たカレーもとい、カレーもどきを出すのか……翡翠という人間を理解するには、もっともっと彼女の行動哲学を学ばなければならないだろう。
深いな、翡翠。あのカタブツのセキレイと同居していただけの事はある。
「カレーによく似たカレーって、まさか、カレーみたいな○○とか、○○みたいなカレーとかそういうのじゃないだろうね?」
俺に、そこまでアブノーマルな趣味はない。
「は?」
翡翠の、鳩が豆鉄砲をくらったような顔がかわいい。
好きだな。
「いや、いいけど、カレーもどきってのが闇鍋並に怖いよ」
しかも『みたいな』って……
「あ、いえいえ、カレーにコクを出す為にビーフシチューの素を足したんです。だからこれは、カレーであって必ずしもカレーではないという不思議な飲み物なんです」
飲み、物?
「へぇ、面白いね。自分で考えたの?」
外界からの情報を遮断しすぎるのも良くないもんだな。独断で謎の何かや何とかもどきをリリースしちゃうんだもんなぁ、不安だ。他に変な隠し味とかしてないだろうな?
俺は笑顔の裏に毒を隠した。
「友達のユリが生前に教えてくれたんです」
「そう」
ユリ?
ユリは確か、鷹雄のとこの特別枠の献上品だった筈。あの、地雷で亡くなった子だ。
ガトーショコラもユリから教わったと言っていたな。
翡翠にジャケットを脱がされ、俺が軽く手洗いしてダイニングテーブルに着くと、彼女はパタパタと慌ただしく2人分のカレーやサラダを目の前に並べていく。
見た感じは普通のカレーだな。具がとにかくゴロゴロとでかいけど。
それから俺は毒々しいくらい真っ赤な福神漬けを見て──
「普通のサラリーマン家庭みたいだな」
──と思った。
「らっきょう派でしたか?あれでしたらお出ししますよ?」
翡翠は向かい側の定位置に座ろうとしたが、腰を浮かせた。
「いや、いいよ。郷に入っては翡翠に従えって言うからね」
それを聞くと翡翠は浮かせていた腰を椅子に落ち着けた。
「言いますね。では、いただきます」
「いただきます」
俺達は2人同時に手を合わせ、向かい合って目玉焼きの乗ったカレーもどきを食べた。
「これ、随分時間がかかったんじゃない?」
翡翠の作ってくれたカレーは、フルーティーな中に深いコクがあり、街の小さな洋食店で食べるような懐かしい美味しさがあった。
翡翠は元々料理上手だから、心配する必要はなかったか。
「全然。圧力鍋を使ったんでめちゃくちゃ早かったですよ。やっぱり、ビーフシチューの素を入れると長時間煮込んだようなコクが出るんで、そのおかげですよ」
俺も翡翠も、またどちらともなく手を合わせ同時に『ごちそうさま』をする。
「ガトーショコラといい、カレーといい、お店を出せるね」
これは何もおべっかを使った訳ではない。翡翠が作ったカレーは忖度なしに美味しかった。
「ありがとうございます。きっとユリも喜んでいます。いつか、ユリの味を世界にひろめられたらなぁ、なんて」
ユリの話をする時、翡翠はいつも幸せそうでいて、寂しそうでもある。
「ごめんね、翡翠」
不意に漏れた俺の言葉に、翡翠は思わず姿勢を正した。
「え、なんですか?」
「王なのに戦争を止められなくて」
俺は世界の中心である北部国の王でありながら、国の、独立した軍事機関にはあまり介入出来ない。偉そうに王と言っても、所詮俺は単なる国のシンボルに過ぎない。古株の大臣達の傀儡だ。だからこそ、あぶれて用済みになった献上品の過酷な末路すらも変えてやれないのだ。
「俺はまだ若いからか、先の王でももう少し権力や決定的があった。俺に力があれば、もしかしたらお前の友達は……」
「風斗さん、あの時こうしていたら、なんて、考えても不毛ですよ。その代わり、これからはこうしよう、ああしようって考える方がワクワクするじゃないですか。王には、国の憲法を変えるだけの力があるんですから、少しずつ、バレないようにヌルッと色々面白い憲法を作ったり、馬鹿馬鹿しい法案をちょっとずつ変えていけば、気付かぬ間に世界は変えられますよ」
ヌルッと……
「翡翠は意外と破天荒なんだな」
ハハハと俺は乾いた笑いを漏らす。
周りにいないタイプの面白い娘だ。
「本気で言っているんですよ?風斗さん1人で無理なら、私も尽力します」
そんなものは無理に決まっているけれど、翡翠のその気持ちだけで心強く感じる。王妃なんてものは王のオマケみたいな立ち位置なのに、翡翠ならなんでもやってしまえそうな雰囲気がある。
変な娘だな。何を考えているのか全然読めないし。
けど、彼女が芯のある優しい人間だというのだけは伝わった。
「いいんだよ、翡翠。俺は1人でも大丈夫だから。無理して一緒にいる事はないよ。明日、旅立つにあたって必要な物はある?」
こんな優しい人間、鬼畜の俺には似合わない。この人は、然るべき男の元で大事にされるべきなんだ。セキレイなら、俺には出来ない愛し方で翡翠を幸せにしてやれるだろう。
「風斗さん……」
翡翠が悲しそうな顔をして、その場は通夜のような空気感になる。
「翡翠、お前は俺に同情して俺のプロポーズを受け入れてくれた。俺はね、献上品が王からのプロポーズを断われないのも、お前が俺に同情してイエスと言ってくれるのも解っていてプロポーズしたんだ。狡いだろ?」
「そんな事は……」
「でも今気付いたよ。俺は自分が幸せになりたくて翡翠にプロポーズしてたんだなって。自分の一方的な愛を押し付けて、君を置き去りにしてた。でもさ、君を知れば知る程、君を不幸にしたくないって思うようになったんだよね。だからさ、翡翠、セキレイと幸せになってほしいんだ」
そうだ、なんで今まで気付かなかったんだろう?
好きな人の幸せを願う事が、本当の愛じゃないのか?
「あ、の……セキレイさんは……ダリアと結婚するじゃないですか、だからって訳でもないですけど、私はセキレイさんには付いて行きません」
翡翠はテーブルの上で両手を組み、左手の薬指にはめられた指輪を見ていた。
「兄さんの結婚は偽装結婚みたいなものらしいから、別に気兼ねする事はないよ」
「あっ、そうじゃないんです。そうじゃなくて……」
急に翡翠が顔を赤らめ、モジモジと手遊びを始めた。
「どうしたの?」
俺が尋ねると、翡翠はとても言いにくそうに──

「ちょっと試したい事があるんです」

──と俺の手を握りしめた。
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