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第3の人生
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私の人生は、大まかに言うと3つに分けられる。
1つは、セキレイさんと出会う前の家族との人生。
2つ目は、セキレイさんと出会ってからの、献上品としての人生。
そして3つ目は、王である風斗さんに嫁いでからの人生だ。
どの人生が一番幸せだったかなんて、いまわのきわにしか答えは出ないけれど、天より授かった運命を受け入れ、より良い人生の為に、私は最期の時まで走り続ける。時に愛する人の面影を思い出す事はあれど、私には前を見るより他に選択肢は無くなったのだ。尻込みなんかするものか。私の選択でセキレイさんを幸せにすると決めたのだ、意地にもなる。
それでも今でも思い出すのは、風斗さんからプロポーズされたあの日、私の為に手作りのアボカドサラダを持ってきてくれたセキレイさんが、黙って踵を返したあの背中だ。あの背中に飛びついていたら、今頃は……
……やめよう。
女々しいのは嫌だ。それに私は風斗さんを愛すると決めたのだ。
今、目の前にいるこの男を──
「今日からここが翡翠の部屋だよ」
風斗さんはニコニコ穏やかに微笑みながら自室であるペントハウスの扉を観音開きにし、その壁一面がガラス張りのだだっ広い白亜な部屋に私をエスコートする。
室内は、貴族特有の華美な成金インテリアなんて事はまるでなくて、むしろモノトーンでシンプルだ。
「え、一緒に住むんですか?」
私は一国の王に対して恐れ多くて困惑した。
「嫌なの?」
嫌というか、ずっとセキレイさんと暮らしていたのに、いきなり大国の王様と衣食住を共にするなんて緊張感しかない。
「い、いえ、滅相もございません」
それに風斗さんは、なんと言うか、今はこうしてニコニコと仏のようではあるが、夜はその、夜叉のようでもいて、正直、すこぶる、いや、めっちゃ、控え目に言っても、超怖い!怖過ぎる!
初めて風斗さんと繋がった日は、よく壊れなかったなと自分でも驚いた。それ程彼は変態のドS野郎だ。
「越後屋みたいな口調だね。そんなに怖がらなくても、日中は悪さしないよ」
『日中は』の『は』と言ったご機嫌な風斗さんの台詞が妙に引っかかる。
「そ、それはどうも、恐れ入ります。それで、私の部屋はいずこに?」
私はキョロキョロと何個かあるドアを見渡した。
「寝室の事?」
風斗さんは鳩が豆鉄砲でもくらったような顔をして上から私の顔を覗き込む。
「寝室?はい」
いくらだだっ広いペントハウスでも、寝室と自室が同じなのは献上品の部屋と同じなのかな?
「それなら、はい、ここ」
と言って風斗さんに手を引かれて招かれたのは、シアタールームに天蓋付きのキングサイズのベッドが置かれただけの部屋。
「うわ、やけに広いですね。ベッドもキングサイズで、枕が2人分も?」
貧しい南部国の自室とは大違いだ。
私はその贅沢な空間にドン引きする。
「え?そう。2人分。俺と翡翠の寝室だからね」
当たり前のようにそう言われ、思わず私は後ろに戦いた。
「えっ!?同室ですか?」
恐れ多過ぎるだろ。
というか、嫁相手だと一人称が『俺』なのが新鮮でドキドキする。
「側室でもあるまいし、正室なら王と同じ寝室なのは当たり前だろ?嫌なの?」
やはり風斗さんは当然のように聞き返してきて、私はモジモジと俯いてシャツの裾を指で弄んだ。
「嫌ではないです。嫌ではないんですけど……」
未だにセキレイさん以外の男の人とベッドを共にするのは落ち着かない。
「けど?」
「人と一緒だと寝付けなくて」
別に嘘はついていない。
けれど少し後ろめたくはある。
「大丈夫。慣れるって」
そうして風斗さんから背中をさすられ、私は背筋がゾワッとして全身に鳥肌を立てる。
「そうですか、そうですよね……」
心では『えーーーーーーっ!!』と不満が渦巻いていたが、まさか王様相手に嫌だとは口が裂けても言えない。
「凄い嫌そうな顔してるけど大丈夫?」
私はフフッと風斗さんから笑われ、鼻の頭をツンと指でつつかれた。
え、顔に出てた?
献上品としてあるまじき行為だ。献上品当時には研修で耳にタコが出来るくらい『王からどんな苦行を強いられても、拒絶、意見、嫌な顔は絶対にするな。答えは全て笑顔でイエスだ』と言われ続けてきたじゃないか。
「えっ!?いや~、あっ、私個人の部屋っていうのは……」
私は祈るように手を合わせ、チラチラと風斗さんの様子を窺った。
別に怒ってはなさそうだけど、この人は常に笑顔で読めない人だから油断は出来ない。
「無いよ」
キッパリと明言され、私は膝から崩れ落ちる勢いだった。
絶望……
え、四六時中一緒なの?
セキレイさん以外の男の人とずっと一緒というのは肩が凝りそうだ。せめてどこか独りになれる場所が欲しい。
「あのあの、クローゼットとか押入れでもいいんで……」
私はへりくだれるだけへりくだり、身を縮めて風斗さんに上目遣いで祈った。
「○ラえもんか。却下」
またしても風斗さんからキッパリと明言され、私は本日二度目の絶望を味わう。
「……」
オワタ。
「俺も紅玉を亡くしてからすっかり寂しがり屋になっちゃってね。この手を放したくないんだ」
そうして風斗さんから切なげに手を握られると、私はもう白旗を上げるしかなかった。
狡い男だ。イケメンならなんでも許されると思っている。
それに、紅玉さんの名前を出すのは掟破りだ。元々同情から彼を愛すると決めたのだ、主を失った犬みたいな顔をされると、全て許容しなければと思ってしまう。
「窮屈?」
「まさか、こんなに広いのに──」
「いいや、俺の愛がさ。重いくて窮屈かなって」
風斗さんから億面もなくジッと見つめられ、私の顔はカァッと熱くなった。
『愛』だなんて、正室の他に沢山側室や献上品を抱えている王様が本気で私に好意を寄せているなんて、まさかだ。
私はたまたま風斗さんの目についただけの1人に過ぎない。
「そんな、お気遣いに感謝致します、王様」
私はかしこまって腰を低くした。
「風斗でいいよ。俺はお前の王様じゃなく、夫だからね。だから敬語も使わなくていい」
そうして頭を撫でてきた風斗さんの手は、細身の彼にしては大きく、私には脅威に感じられ、思わず亀みたいに首を引っ込めてしまう。そんな私を見て、風斗さんは少し傷付いたような顔をする。
「そんな訳にはいきません。献上品の頃は一生懸命敬語や教養を習ったんですから。それに、王様が良くても、周りの偉い人達はよしとしません」
「せめて2人だけの時は気を許してくれてもいいのに、翡翠は言葉で俺を遠ざけてるよね?」
「え?そんなつもりは──」
どういう意味だろう?
他人行儀って事かな?
「ベッドの上でもそれだと困るな」
「あ、の……」
いきなり風斗さんから爽やかに言われ、私はまたしても顔が熱くなるのを感じた。
ただでさえ一度体を合わせただけの関係なのに、真っ昼間からライトにそんな事を言われたら困惑するというもの。
「せめて俺の事は風斗って呼んでよ。気兼ねするならサン付けでもいいから」
「はい、風斗さん」
「今日はこれから公務へ行くけど、朝ご飯は食べた?」
風斗さんはそれとなく私を革張りのソファーへと誘い、やんわりと座らせた。
「っぁ、それが、バタバタしてて食べそびれて」
本当は、親離れによる寂しさから何も喉を通らなかったんだけど。
「それじゃあ、内線の1番を押すとこの部屋専用のコンシェルジュに繋がるから、食事から何からなんでも頼むといいよ」
風斗さんに壁の受話器を指差され、私はなる程と頷く。
凄いな、部屋専属のコンシェルジュなんているんだ。
「高価な物が欲しい時だけは俺に言って。それは俺からプレゼントしたい」
風斗さんは私の目の前に膝を着き、私の手を取ってそこに口付けた。
うわぁ、なんか、自分がお姫様にでもなったみたいだ。この人は本当に美丈夫で、王子様になるべくして生まれてきたのだろう。
「高価な物だなんて、私にはこの髪留めさえあればそれでいいです」
私は顔の前で両手を振り、それから髪を束ねた翡翠の髪留めに触れる。
別に遠慮した訳ではない。本当に、何も欲しい物は無いのだ。
「出来た嫁だな。でも王妃ともなるとそうもいかない事もあるから、公式な場に出る時だけでもちゃんとした物を着けないと」
『ちゃんとした物』
なんの気無しに呟かれたその言葉が、ちょっと物悲しく感じる。
確かに、他人から見たらユリから貰ったこの髪留めは安っぽく感じられるかもしれない。でも私にとっては形見であり、宝だ。
「……そうですね。ありがとうございます」
私は本音を噛み殺し、笑顔で頷いた。
「良かった。じゃあ、行ってくる。お利口さんで待ってて」
そうして風斗さんから素早くおでこにキスされ、私が恥ずかしがる前に彼は立ち上がって部屋を出て行った。
「はぁ、緊張で肩が凝った」
私は右手で左肩を揉み、脱力した体をソファーに投げ出す。
「……本革が素肌に触れてペタペタする」
ショートパンツから伸びた両脚にソファーの本革が張り付いてくるようで気持ち悪かった。
居心地が悪い。
「セキレイさんとこの起毛のソファーの方が柔らかくてフカフカしてて寝心地が良かったのに、高ければいいってもんじゃないんだな……」
呟かれた独り言は広いリビングに響く事もなく吸収される。
『しーん』本当にそんな効果音がしてきそうな程静寂していて若干精神が疲れそうだ。
「セキレイさんが講習会なんかでいない時はしょっちゅうユリや木葉が遊びに来てくれてたから、なんだか寂しいな」
これから一生風斗さんとこういう生活を送るのかと思ったら、ある事が頭に浮かび、私は飛び起きる。
「まさか、拷問部屋とか無いよね?」
私は何故か忍び足でドアというドアを開けていく。
この部屋には他に寝室が1つと、使われた痕跡の無いオープンキッチン、本棚で埋め尽くされた書斎、空き部屋が2つと、住めそうな程大きなクローゼットと、ガラス張りのジャグジーがあり、私は各所のドアを開ける度にその広さからため息を漏らした。
「別に華美じゃないけど、シンプルで贅沢な空間の使い方をしてる。特に不審なデッドスペースなんかは無さそうだけど、凶器を何処かに隠してるのかな?」
私がクローゼットに行こうとキッチンからリビングを横切ると、視界の端に黒い人影が見え、心臓が飛び出そうな程驚いた。
「ひぃっ!!!!」
「王妃様が家捜しですか?」
セキレイさんよりもずっと目つきが悪くて、色白で神経質そうなメガネの青年がスーツを着てサンドイッチ等の軽食を乗せたワゴンをテーブルまで押して来る。
「朝ご飯?もしかしてコンシェルジュの方ですか?」
まだインターホンも使っていないというのに、コンシェルジュというものは必要とあればこうしてプライベートルームにまでズカズカ入って来るというのだろうか?
コンシェルジュ、恐るべし……
「コンシェルジュというか、執事というか、風斗様から貴方のおもりを頼まれています」
おもり……
この人は思った事をさらっと言ってしまうタイプのお方なのか。私が私でなければこの男は今頃平手打ちされているところだ。
こういう棘のある男の人(セキレイさん)に慣れてて良かった。寧ろ懐かしくもある。
「そうですか、これからお世話になります。お名前は何というんですか?」
私は王妃という立場も忘れ、深々と頭を下げた。
「鳥取です。因みに敬語は結構ですよ」
鳥取さんは頭を下げた私をスルーしてテーブルにサンドイッチの乗った皿を並べていく。
ダークスーツに撫でつけられた髪、執事を思わせる白い手袋、キリッとした顔のパーツが、仕事の出来る男感を醸し出し、彼をやたらと冷たい印象に見せる。
「でも、ざっと見たところ、明らかに私のが年下ですし」
「失礼ですね」
「すみません、間違ってましたか?」
だとしたら、この人はとてつもなく大人びている。
「いえ、その通りです。10くらい違いますよ」
その通りなんかーい!
「それで、下のお名前は何と言うんですか?」
「教えませんよ。私と仲良くなる気ですか?」
鳥取さんは私の問いかけにも終始目もくれず、せかせかと朝食の準備を進めている。
取り付く島もない。
それでも、鳥取さんにはこれから末永くお世話になるのだ、剣呑としていたらつまらない。
「なってはいけないんですか?」
「駄目です」
キッパリと拒絶され、私は意気消沈した。
か、頑なだ。カタブツじゃないか。
セキレイさんもこういったツンケンタイプだけど、あの人はツンからデレまでがセットだからまだ可愛げがあった。
うーん、凄く壁を感じる。冷たい。これから先が思いやられる。
「ええと……そうだ、私、あまり食欲が無くて、良かったら服部さん、食べて行きませんか?」
私は凍りつきそうな引きつった笑顔で何とか友好の糸口を探るも──
「鳥取ですし、食べません」
「──ですよね。すいません。じゃあ、せっかく用意して頂いたんですけど、勿体ないので誰か食べられそうな人にお出しして下さい」
私が申し訳無さそうにワゴンにサンドイッチが乗った皿を戻そうとすると、それを鳥取さんに手で制された。
「これは王妃様用に作られた物で、風斗様が王妃様に食べさせるようにとの仰せでしたので、貴方様が食べなければ私が罰を受けます。コンシェルジュがいながら貴方が痩せ細ったり、病気にでもかかったら責任は全て私にくるんです。ですから食べてもらわないと困ります」
凄く正直な人だ。まるで歯に絹着せぬ物言いだ。グサグサくるな。
でも、そうか、それは一理ある。私の身の振り一つで何の罪もないこの人が罰せられるのは私としても不本意だ。
「そうですよね。すみません、浅はかでした」
私はソファーに座り、手にしていた皿を膝に乗せてサンドイッチを食べ始める。
「わっ、これ、凄く美味しいですね。サーモンが挟まったサンドイッチなんて初めて食べました。こちらは誰が作っていらっしゃるんですか?」
──と私が尋ねると、鳥取さんは些か驚いた顔をして間をおいた。
「──私ですが?」
「へぇ、ハッタリさんが」
「誰が嘘を言いますか、鳥取です。ふざけないで下さい」
ツッコミさえも辛辣で手厳しい。
でもめげない。
「お忙しいんじゃないですか?3食とも飛ぶ鳥さんが?」
「鳥取です。せめて原型を留めて下さい。3食とも私が作ります」
ボケも3度目ともなると、さすがに鳥取さんも頭を抱え始める。
「てっきり専属のシェフがいるのかと思っていました」
「いましたよ、いましたけど、謀反を起こして処断されました」
「謀反?」
驚いてサンドイッチを落とすかと思った。
「食べ物に毒を盛ったんです」
「毒!?」
「どこの王室でもよくある事です」
謀反というと、私達家族を謀ったトールという男を思い出す。あの時は酷い仕打ちを受け、誰の事も信用出来なかった。それを風斗さんも体験していたんだ。でも、そうか、一国の主ならそれも当たり前か。
「そうなんですか、どこの国も同じなんですね」
「王妃様は南部国のご出身でしたね?」
「はいっ!砂漠ばかりの廃れた国なんですけど、調教師のセキレイさんが南部国王に名乗りを上げたとかで、その後実際に即位したら、きっとより良い豊かな国にしてくださると期待しています!」
私は鳥取さんの方から話を振ってもらえたのが嬉しくて笑顔でまくしたてたのだが、彼は一層冷たい表情で私の前にお茶を置いた。
「王妃様、貴方は北部国の領主に嫁がれたのですから、これからは故郷の話も調教師の話もなるべくしない事です。特に風斗様の前では絶対にしてはいけません」
「え、あの……」
元々南部国は北部国と敵対していた国と言っても、実質的に敵対していたのは事実上国の機関に入っているというだけの独自機関である政府なのだが、やはり政治的な要素が絡む分、口にするのは良くないのかもしれない。ただ、内部の人間で、尚かつ風斗さんの義兄弟であるセキレイさんの名を出してはいけないというのは、これいかに。
「いいですね?」
鳥取さんから結構な眼力で釘を刺され、私は完全にマウントをとられた。
「あ、はい……」
「では、お食事が済んだ頃に食器をお下げしに参ります」
鳥取さんが軽く一礼して踵を返そうとしたので、私は慌ててその腕を捕まえる。
「独りで食べるんですか?」
「……風斗様が居ない時は独りで食べて下さい。そして、貴方は風斗様以外の男には絶対に触れないで下さい」
鳥取さんから無下に腕を払われ、私は自分という人間を拒絶されたようで悲しくなった。
「別に風斗さん以外の男の人をどうこうしようなんて思っていないのに……」
「貴方の気持ちの問題じゃあないんですよ。事実として、王の妻たる王妃がそんな事をしたら、相手が手打ちにあうんです。調教師と乱れた擬似性行をしていた献上品時代とは違うんですから、もっと自覚を持って行動して下さい」
『でないと、こっちが迷惑なんだよ』と言われたような気がする程、鳥取さんの言葉には棘があった。なる程、セキレイさんであろうが誰であろうが、他の男との接触はそれだけで不貞を疑われるのか『調教師と乱れた擬似性行』だなんて、なんか、馬鹿にされたような、元献上品としては見下されたような気分だ。
ああ、そうか、この人は献上品を差別しているのか。献上品の事をサキュバスだとでも思っているのかもしれない。
仕方ない、偏見や誤解は誰にでもある。それを覆せるかは、自分自身の人徳にかかっている。
「すみません、軽率でした。以後、気をつけます。調教師や献上品の仲間達から離れて寂しかったものですから、他愛もない世間話でも出来ればと思ったんです」
誰も味方のいない後宮に丸腰で投げ出されたからか、誰でもいいから話し相手が欲しいと思ったのに。
「貴方は公の場以外では風斗様以外の人間とは事務的な会話以外、何も口にしてはいけません」
「もし風斗さんから国政に関する話を耳にした場合、それを私が外に漏らす可能性があるからですか?それに不貞の疑いもかけられる?」
私は風斗さんからのプロポーズを受けたその時から彼に忠誠を誓ったのだ、絶対にそんな事はしないのに、心外だ。
「そうです。ご理解下さり感謝致します。紅玉様は最初からわきまえておられましたけど。因みに、私は貴方のお目付け役でもありますから、行動にはお気をつけを」
監視役って事か。何か、今の言葉でぐんと突き放された気がする。いや、距離を置く為にわざと言ったのか。
しかし、紅玉さんとはうまくやっていたのか、何気に比べられてこきおろされた。相手はトップブリーダー(翠)が育てた伝説の献上品だから別にいいけど。
それにしても、不貞を危惧する割に、何故、風斗さんは男のコンシェルジュを私に付けたのだろう?
試されてる?
風斗さんは毒の件もあり疑心暗鬼になっていたからこそ、夜伽で暴挙に出て相手を試していた訳だけど、これもその延長線なのかな?
それとも、逆にこのカタブツ(鳥取さん)を絶対的に信頼しているとか?
今のところ凄い嫌な奴だけど……それは関係ないか。
「では、次は昼食時にお伺い致します。ああ、あと、夕食の前には使用人を手配致しますので、湯浴みと着替えを済ませておいて下さい」
「はい。お手数おかけします」
ここで私が『自分で出来ます』と突っぱねたら、きっとまた王妃としての自覚がどうのと説教をされそうだなと思い、言葉を飲み込んだ。
「失礼します」
そうして鳥取さんは軽く会釈をして部屋を出て行く。
「はぁー……制約ばかりで肩が凝る」
ひと呼吸おき、私は大きくため息をついた。
テレビも無く、静まり返った室内、花や絵画さえ飾られないこの空間は、とにかく物凄く味気ない。
「食欲がない」
本当ならとても美味しい筈のサンドイッチが、この部屋同様に味気ないものに感じられ、粘土でも口にしているようだった。
「テレビが無いのも、風斗さんや私が変に感化されないようにする為なんだろうな」
風斗さんは、時々林の奥の観測小屋で息抜きをすると言っていたけれど、今ならその気持ちがよく解る。
「きっと、私が勝手にこの部屋を出たら、すぐに鳥取さんか警備兵が駆けつけて、取り押さえられるんだろうな」
リアル過ぎてゾッとした。
「囚人か」
終身刑のね。
「あ、そうだ、早く食べなきゃ、鳥取さんがお皿を片しに来るんだった」
私が慌ててサンドイッチを口に詰めてから30分後、鳥取さんは計ったように現れ、無言で会釈し、無言で皿を片付けて行った。
まるで働くロボットだ。
「面白い程面白みの無い人だなぁ……夜まで何をしよう?」
私はソファーで両脚を抱え、膝に顔を埋める。
「時間が長い」
体育座りのまま30分を過ごしたが、2時間にも感じられた。その間思い出されたのは、ここへ来る前に最期の挨拶を交わしたセキレイさんの事。
「セキレイさん、敬語を使ってたな……」
ほんの一瞬でも、私達は恋人同士だったのに、物凄く距離を感じた。
「今は、セキレイさんになじられたいとすら思うなんて、私はどうかしている」
ここへ来てまだ1日も経っていないというのに、私は既にセキレイさんに会いたくて堪らなくなっていた。
「セキレイさんと過ごした日々が遠い昔のように感じられる」
私はふと立ち上がり窓辺まで行くと、かつて自分が迷子になった林を見下ろす。
「昔はとても広く感じられたのに、高い所から見下ろすと結構狭く感じるもんなんだ」
あの日、セキレイさんは猛吹雪の中、必死で私を探し、見つけ出し、部屋に連れ帰ってくれた。
「今、あれを思い出すのは、きっと私があの部屋に、あの時に戻りたいと思っているからなんだろうな」
ああ、でも……
「あの日、私を助けてくれたのは風斗さんも同じだ。私に自分の上着まで掛けてくれて、セキレイさんが迎えに来るまで付き添っててくれた」
本当に、日中はいい人なんだけど……
私は、嵐のような献上の夜を思い出し、背筋が凍る。全私が震撼した。
違う。風斗さんは私を試そうとしただけだ。悪気があった訳じゃない。本当は優しい人で、変態なんかじゃ……とは言い切れないのが怖い。でも、その背景には彼の不憫な境遇が関係していて、あの屈折した性癖はその過程で培われた(?)ものだと思う。彼が悪い訳じゃない。せめて妻である私だけでも、彼の良き理解者にならなければ。
「きっと、紅玉さんも風斗さんの事をそうして受け止めていたに違いないし」
ここでふと私は下世話な想像をしてしまう。
「紅玉さんもあの三角木馬に乗せられたりしたのかな?」
あの気品のある優雅な紅玉さんが、禍々しくも猛々しいアレに乗せられて風斗さんにぶたれたりなんかしたのだろうか?
ゴクリ……
凄く気になる。
やっぱり、あの凶行あっての信頼関係なんだろうから、夜な夜な……
「駄目だっ!なんか禁忌に触れるようで、なんか駄目だっ!」
私はソファーに体を投げ出し、バタバタと手足をバタつかせた。
他人の性生活に踏み込むのは良くない。
「ハァ……やる事が無いから余計な事を考えてしまう」
私は暇を潰そうとシャツの胸ポケットからスマホを取り出しメール画面を開く。暇潰しにゲームでもしようかと思ったが、気分が乗らず、何となくメール画面を開いた。
「見事にセキレイさんからの一方的なメールばかりだ」
ユリが亡くなってからと、木葉や翠が居なくなってからというもの、メールボックスの上位にはズラリとセキレイさんからのメールが並んでいる。その内容はというと──
『今夜は遅くなるから早く寝ろ』とか『これから戻る』とか『昨日から耳かき棒が見当たらない』なんて、遠回しに探しておいてほしいみたいな、なんて事のないものばかり。
「結局、耳かき棒は見つからなくて、後からセキレイさんが上にコケシが乗ったシュールなやつを買ってきたんだっけ」
思い出しただけで、シュール過ぎて笑いがこみ上げてくる。
「思えばセキレイさん、私服はシンプルでセンスがいいのに、その他のセンスが絶望的にシュール過ぎて、私へのプレゼントに買ってくれたパジャマとか部屋着が少女趣味でドン引きしたなぁ。おまけに過保護だから私のフルネームまで入れて……セキレイさんなりに、小さな女の子だった私を喜ばせようとしてくれてたんだよね」
セキレイさんからの優しさを思い出すと、自然と私の目頭が熱くなった。
「やばい、ホームシックかな?」
私は涙が溢れないように顎を上げ、何回かページを捲っていると、既読なのに添付ファイルを開いていないメールを見つける。そのメールに件名は無く、本文には『今日は楽しかったな』とセキレイさんらしく、言葉少なに綴られていた。
「添付ファイルがある……セキレイさんは普段添付ファイルなんて付けないから、今の今まで気が付かなかった」
日付は、以前、私が献上直前だった頃、落馬して怪我をした日になっている。あの日は病院帰りにセキレイさんと海へデートに行ったからよく覚えている。
……恋人ごっこをしたあの日だ。
私は、目頭どころか胸まで熱くなり、スマホを握る手に力が入る。
ドキドキした。
心臓の高鳴りを抑えつつ、私は起き上がり、その場に正座してその添付ファイルを開く。
「あっ……」
これは……
そこには、後ろからセキレイさんに抱きしめられながら撮られた笑顔の自撮り写真が映し出されていた。
「うわ、これは、ちょっと……」
目の前が霞み、瞬きした拍子に涙を落としそうになり、私はそれをすんでのところでグッと堪える。
胸が張り裂けそう。
画面の中の2人は、幸せそうに笑っていて、まるで本当の恋人同士のようで、私は、思ってはいけないのに、この頃に戻りたいと切に願ってしまった。
「間違って消去するといけないから、この1枚だけはメモリーカードに保存しよう」
私はすぐさまその写メをメモリーカードに保存する。
セキレイさんに会いたいな……セキレイさんは今頃何をしているんだろう?
メールを送ってみたら、返事をくれるだろうか?
私ははやる気持ちを抑えきれずメールの返信ボタンを押す。
『セキレイさんは今、何をしているんですか?』
私はポチポチと本文を打ち、送信ボタンを押そうとして、ふと風斗さんの顔を思い出し、我に返る。
私は人妻になったというのに、夫に内緒で好きな男にメールを送ろうとしている──
──そう思ったら、自然と最後の送信ボタンが押せなかった。
私がセキレイさんにメールを送るのは風斗さんに対する不義理になる。ましてやメールの相手が好きな人なら尚更だ。それにセキレイさんだって、嫁がせた元献上品からメールがきたら心配するし、困惑するだろうから、迷惑をかけちゃ駄目だ。セキレイさんにはセキレイさんの生活があるし、いずれセキレイさんにもいい人が出来て幸せな家庭を築くんだから。
「私はセキレイさんを諦めて風斗さんを愛するって決めたんだから、セキレイさんとは連絡をとっちゃ駄目だ。セキレイさんだってきっと同じ事を思ってる」
それでも、私はあの写メを消す事だけは出来なくて、後ろめたさと共に心の拠り所にしてしまった。
「ごめんなさい、風斗さん……」
「何がですか?」
いきなり部屋の入口で鳥取さんの声がして、私は驚嘆して反射的にスマホをソファーの溝に押し込む。
「凸っ、鳥さんっ!」
「鳥取です。お昼の時間です」
鳥取さんは相変わらず淡々とダイニングテーブルにパスタやサラダを並べていく。
「なんでノックしないんですか?!」
私の心臓は爆発でも起こしそうなくらいバクバクしている。
「抜き打ちチェックです。貴方が何か悪さをしないかと見張るのも私の仕事ですから」
「わ、悪さって……?」
好きな人とのツーショット画像をスマホに残しておく、とか?
私がビクビクしながら鳥取さんの顔色を窺うと、彼はニヤリと悪い笑みを浮かべ、何かを探るようにこちらを眺めた。
「そうですね、そのソファーの溝に隠したスマホで共犯者に連絡して謀反を起こすとか?」
「えっ!!」
頭から冷水をぶっかけられたような衝撃だった。
見てたんだ。
「あの、その、謀反だなんて、私はそんな事、絶対にしません」
とは言ったものの、他の理由で後ろめたかった私は、鳥取さんと目を合わせられない。あの、悪魔かヤギみたいな不穏な目で直視されたら自分の罪まで見透かされてしまいそうだ。
「じゃあ、または──そのスマホで不倫相手と不義密通を交わしている、とか?」
鳥取さんは悪魔の笑顔で首を傾げながら尋ねてきて、私は過呼吸になるのをぎりぎりのところで堪え、ゆっくりと、言葉を選びながら答えた。
「ふ、不倫相手なんていません。ただ、私を育てて下さった調教師の方が恋しくなり、暇でしたし、連絡しようとしたのですが、あまり良くないと思って止めたんです」
変に嘘をつくのはかえって危険と判断した私は、自分のセキレイさんへの想いは伏せたまま、ありのままを話した。
この人に嘘は通用しない気がする。
「賢明ですね。貴方の元調教師は男ですから、王妃になった今、連絡を取り合うのは好ましくないでしょう。それに王妃が個人的にスマホを所有するのも王への防犯上いけない事です」
そう言って鳥取さんは私の前に立つと右手を差し出してきた。
スマホを寄こせという事か。
「……あの、ICチップだけ渡すんじゃあ駄目ですか?チップが無ければ外部に連絡出来ないですよね?」
私はソファーの溝からスマホを取り出し、それを胸の前で握り締める。
あの写メを見られたら私とセキレイさんの複雑な関係がバレてしまう。
それに、他は何もいらないから、これだけは思い出として墓場まで持って行きたい。
「ここはWi-Fiが飛んでますからね、それでは意味が無いんですよ」
鳥取さんに、早く寄こせと言わんばかりに追い詰められ、私はじりじりとお尻で後ずさりした。
「観念したらどうですか?変に疑いをかけられるのは貴方なんですよ」
嫌な感じのわざとらしいため息をつかれた。
「……」
私はひとしきり悩んだ挙げ句、仕方なく妥協案を提示する。
「では、メモリーカードだけ抜き取ってもいいですか?中に、ここで過ごした思い出が沢山詰まってるんです」
「メモリーカードだけ持ってたってどうするんですか?スマホやパソコンが無いとその思い出を見れないじゃないですか」
鳥取さんは半ば呆れて自身の腰に左手を当てた。
「いいんです。思い出が詰まってるって事実だけでいいんです。ですから、お願いします」
私はソファーに三指を着き、そこに額を擦りつけて懇願する。
これだけは、何があろうと、命に変えても守りたい。
「……ひとつ聞いてもいいですか?」
その問い掛けに、私は顔を上げた。
「なんですか?」
「貴方の調教師というと、渡辺さんですよね?」
セキレイさんの名を出され、私は何を聞かれるのかとハラハラする。
「……はい。渡辺、セキレイさんです。お知り合いなんですか?」
「大学の先輩です。紅玉様の調教師翠さんもご一緒で、これに特別枠の調教師高雄さんも編入してきまして。それはご存知でしたか?」
「え?はい、聞いた事がありますし、お2人共献上品時代には懇意にしていただきました」
何の話だ?
「翠さんの行方について何か知っていますか?」
なんだ、そういう事か。探りか。
「全く」
翠は、木葉を第2の紅玉にしない為、彼女を連れて城から脱走した。今でも翠は献上品の誘拐容疑をかけられ全国指名手配中だ。
恐らく、鳥取さんはその翠の情報を私から聞き出そうとしている。
「スマホの履歴を拝見しても?」
「メモリーカードさえ摘出してくれれば、いくらでも」
別にスマホを見られたとて、翠の行方は私ですら解らないのだ、問題ないだろう。
「メモリーカードに全てのデータを移行している可能性は否めませんよね?中を確認させてもらえればメモリーカードはお返ししますよ」
鳥取さんから鼻先に手を突き出され、私は窮地に追い込まれた。
「それは……そうですけど、でも、ここにプライバシーは無いんですか?献上品から王妃にまで上り詰めたのに、私には自分に仕えるコンシェルジュにノーと言える権利がないんですか?」
「ありませんよ」
鳥取さんからズバッと切り口鋭く断言され、私は膝から崩れ落ちる勢いだった。
「な、無いんですか……」
「ありません」
「……」
けれど、だからと言ってあの写メを他人に見られる訳にはいかない。あれを見られたら、私とセキレイさんの関係を疑われて、ようやく一国の主になろうというセキレイさんの地位を脅かしてしまう。
「どうしたんですか?随分悔しそうな顔をしていらっしゃいますけど?」
「悪いですけど、スマホは渡せても、メモリーカードだけは渡せません」
そうして私はスマホからメモリーカードを取り出し、代わりにスマホを差し出した。
それでもメモリーカードを取り上げると言うのなら、私はその場でメモリーカードを噛み潰して証拠隠滅する。
「……」
「……」
両者、しばしの睨み合いの結果──
「仕方がありませんね」
「え?」
なんと鳥取さんが折れ、私からスマホだけを受け取った。
「貴方から力ずくでメモリーカードを取り上げる事は造作もありませんが、私が貴方に触れる事は許されませんので、見逃しましょう」
その代わり物凄く深いため息をつかれたが、そんな事はどうでもいい。私は満面の笑みでメモリーカードを胸に抱いた。
「やった、ありがとうございます!」
「でも、約束して下さい。それを絶対に風斗様の目に触れさせない事」
鳥取さんは昼食の準備を再開する。
「勿論です」
あれを風斗さんに見られたら、きっと彼を傷つけて、幻滅させてしまう。
「命が惜しかったら死守する事です。そんなくだらないハメ撮りなんて、さっさと消せばいいものを」
「え……なんか、凄く誤解されているような……」
「冗談ですよ。しかし風斗様の様に、誰にでも、見られたら困るデータのひとつやふたつあるものです」
『風斗様の様に』やけに納得出来る。逆にあの人の写真データは見るのが怖い。
「鳥取さんにも見られたら困る写真とかあるんですか?」
あ、こうやって聞いたら、メモリーカードの中身が疚しいものだって認めているようなものか?
「そりゃ男ですから、多少なりとありますよ」
鳥取さんは少しも恥じる事無く当たり前のようにそう返した。
「へぇ、真面目そうなのに……セキレイさんと一緒ですね。セキレイさんも、カタブツそうなのにスマホにはチラチラ動画が沢山入ってましたよ」
「チラチラ動画って何ですか?」
「モザイクの入った動画です。時々、モザイクの入っていない違法なのもありました」
「……早く食べて下さい」
都合が悪くなったのか、鳥取さんは私を横目で睥睨すると、テーブルの脇にかしこまって立った。
昼食が終わると、鳥取さんは食べ終わった食器と共に退室し、またしても私は夕方まで退屈な時間を過ごした。
それから湯浴みの為に鳥取さんが若い使用人の女性を部屋に伴い、私は脱衣所でその女性から服を脱がされていく。
今までは身の回りの世話は全てセキレイさんがしてくれたから、他の人にこうして脱がされて裸を見られるのは慣れない。
だからと言って『自分で出来ます』と世話を断ろうものなら、この使用人の女性の立場が無くなってしまう。
私は変に緊張して体に力が入り、カチコチになりながら浴室の椅子に座った。
「では、頭から洗っていきますね」
「あ、はい、お願いします」
よりによって相手が清楚系の綺麗なお姉さんで、とても恐縮する。
私は仰け反って固く目を閉じ、お姉さんの白魚のような指先が泡と一緒に頭部のカーブを滑るのを夢心地で堪能した。
髪を人に洗ってもらうのは心地いい。私も、年頃になるまではこうしてセキレイさんに洗ってもらったな。
いつしか私は、お姉さんの手をセキレイさんの手と重ねて昔を懐かしむようになっていた。
「では流しますね。熱かったら言って下さい」
「はい」
お姉さんから声をかけられ、私は一度夢から覚める。
そうだった、これが現実だ。セキレイさんはもういないんだ。
「まだ目を閉じてて下さいね」
髪を洗い流され、私はお姉さんから言われるままにじっと瞼を閉じていた。
トリートメントでもするのかな?
そう思っていると、首筋に熱くてぷっくりと軟らかな物が押し当てられ、それからそこにチクッとした微かな痛みを感じた。
「え?」
なんか、これって──
異変を感じて私が目を開けると、鏡越しにお姉さんが私の首筋に吸い付いているのが見えて、私は咄嗟に立ち上がる。
「なっ、何、してるんですか!?」
私はヒルにでも吸われていたような嫌悪感がこみ上げてきた。
「すみません、王妃様。私、同性に興味がありまして、とてもお美しいお肌でしたので、つい……」
お姉さんはしおらしく頭を下げたが、私は見知らぬ人間からそんな事をされて気味が悪くて仕方が無い。
何なんだ?いくら同性が好きで、私に興味があったからって、初対面の人の首筋に吸い付くか、普通。
ドン引きだ。
「ついって、そんな、つまみ食いでもするみたいに」
私はじりじりと出口側に後ずさり、お姉さんと距離をとる。
「すみません、どうかお許しを」
お姉さんは形ばかりは済まなそうにしているが、ここから出ようとしている私に手を伸ばし、捕まえようとしてくる。まるで私が風呂場から逃げ出すのを阻止しようとしているかのようだ。
「許すも何も、怒っていません。ただ、貴方の事は受け入れられませんから、どうか離れて下さい」
「いいえ、まだお体をお流ししていません」
「結構です!」
私は先刻の『使用人の女性の立場が無くなってしまう』とかなんとかいう事も忘れ、彼女の手をかいくぐって死に物狂いで風呂場を飛び出し、脱衣所を出たところで敷居に躓き、派手に転倒する。
「いっ……」
痛いっ!!
乳首がカーペットに擦れて、それらが根こそぎもっていかれたかと思った。
「何をしているんですか?」
「ふぁっ?」
頭上から涼やかな声を降らされ、私が顔を上げると、声質同様涼やかな顔をした鳥取さんと目が合い、涼やかな空気が流れた。
「まったく、貴方という人は、目を離すとろくな事をしませんね」
結局、お姉さんは部屋から逃げ出し、私は鳥取さんからジャケットを被せられ、説教をされながらソファーに座って頭を垂れる。
「私が悪いんですかっ!?いや、まあ、お姉さんが悪い訳でもないので咎めないで下さい」
お姉さんは突っ走ってしまったが、それも私への好意がさせてしまった事。湯浴みの役から外れてさえくれれば、後はそれでいい。
「貴方は本当にお人好しですね。そんなおめでたい頭では、王室で生きていけませんよ?」
そう言って鳥取さんは雫が滴る私の髪をタオルでガシガシと手荒に拭いてくれた。
「いてて、私に触れられないんじゃなかったんですか?」
もう少し優しく拭いてくれてもいいのに。そんな、親の仇みたいに……
「タオル越しですから。因みに手袋も二重ですし、眼鏡を外しましたから、何も感じません」
『何も感じません』という言葉通り、眼鏡というフィルターを外した鳥取さんの瞳は爬虫類のそれみたいにゾッとする程冷たい。
「まるでバイキン扱いですね」
「女性扱いしているんでしょ?」
ハァと盛大にため息をつかれた。
なんか、この人の、王妃に対する扱いがぞんざい過ぎないか?
「紅玉さんにもこんな雑な扱いを?」
「まさか、紅玉様は高貴なお方です。丁重におもてなしさせていただきました」
単なる嫌がらせか。嫌われたものだ。
「はいはい、そうですよね、私には気品なんかこれっぽっちも無いですから」
自覚はあったが、面と向かって言われると、そりゃ臍も曲げるというもの。
「王妃様ともあろうお方が口を尖らせないで下さい。それにしたって貴方は隙が多過ぎます。首筋にこんな痕まで残されて」
「え?痕?」
私はなんの事やらと、鳩が豆鉄砲でも食らったような顔をし、立ち上がって洗面所の鏡前に向かう。
「わっ!!」
鏡に映し出されたのは、首筋に桜の花びらのような鬱血した痕を残した自分の姿。
「あの使用人の女は風斗様のお手つきの者でしたので、嫉妬から、貴方と風斗様の夜伽の邪魔をする為にわざとつけたのでしょう。キスマークが風斗様の目に触れれば、貴方はコンシェルジュの私共々不貞の罪で極刑に処されるでしょうね」
私と接触している男性は風斗さんと鳥取さんだけだから、鳥取さんに火の粉が降りかかるのは当たり前と言えば当たり前か。
──というか、お手つきの使用人とか……風斗さん、献上品に手を出しつつ、側室までいて、どれだけ絶倫なんだ?無節操だわ。
風斗さんを愛すると決めた矢先、彼には少し幻滅してしまった。
でも、男性にオンリーワンの真実の愛を求めるのは重すぎるし、私だって、セキレイさんを忘れる事はきっと一生ないだろうし、お互い様か。
「ご迷惑をお掛けしてすいません。これが消えるまで夜伽はお断りするので心配しないで下さい」
私は安易に考え、鳥取さんに向けて頭を下げたが、彼は表情を固くしている。
「貴方が風斗様を拒む事は許されていません。いかに月のものでも、体調が悪くても、風斗様からのお誘いは絶対です」
王妃の人権や人格は無いものとして扱われるのか。
……王妃とは?
なんだか虚しい気持ちになった。
一日中部屋に押し込められ、夜だけ気まぐれに王の寵愛を受けるだけの存在、それが王妃?
悲しすぎる。
紅玉さんも同じような環境で、同じような気持ちになったんだろうか?
とは言え、今はそんな悲哀に浸っている場合ではない。
「もうすぐ風斗様が公務を終えて帰って来る時間です。今夜は新婚初夜ですから、なんとか誤魔化して、着替えを済ませましょう」
「え、はいっ!!」
気後れしつつ、私は鳥取さんにされるがままジャケットを脱がされ、用意された下着から打ち掛けのようなシルクの夜着を次々着せられる。
もはや恥ずかしがっている暇も無かったが、私にはどうしても気になる事があった。
「鳥取さん、眼鏡無しでも見えるんですか?」
的を得たように的確な動きを見せる鳥取さんを見ていると、どうにも、本当に目が悪いセキレイさんと比較してしまう。
セキレイさんなら、眉間にシワを寄せて目を凝らして物を見ていたものだけど。
「あれは伊達メガネですから」
「眼鏡を外した意味がないじゃないですか」
とんだ詐欺野郎だ。何も見えていないものだと思い、全てをさらけ出してしまったじゃないか。
私は今になって恥ずかしさがこみ上げてきた。
先刻、鳥取さんは、男だから多少なりと疚しい事はある、ような旨を話していたじゃないか!
「眼鏡を外したのは貴方の気休めになるかと思ったからですよ」
鳥取さんは動揺どころか悪びれるでもなくふてぶてしくそう言い放つ。
「視力は?」
「控えめに言って2.0です」
マサイ族か!!
「マックスじゃないですか」
鳥取さんの眼鏡姿があまりに板についていたものだから、すっかり油断していた。
「何か問題でもありますか?私は貴方にこれっぽっちも興味がありませんから、たとえ貴方の貧相なお体を目の当たりにしても理性が崩れる事は絶対にありません」
「それを断言されると逆に癇に障ります」
私に魅力が無い事はよ~くわかった。
「とにかく、今はこのキスマークをどうするかですよ」
あ、誤魔化した。
「コンシーラーで潰すとか?」
ベタだけど、それ以外に適当な策が思いつかない。
「首筋を舐められたら終わりです。それにあの方は相手を辱める為にわざと部屋の明かりをつけたまま行為に及ぶ事もあります。ですから、ちょっと待ってて下さい」
そう言って鳥取さんはスタスタと足早に部屋を出て行き、戻って来た頃には肩凝りに効く磁石の付いた湿布の様なアレを手にしていた。
「え、いかにソレが肌色だからって、さすがに違和感があるでしょう」
そして色気もない。
「キスマークは肩と首筋の境目にありますから、両側に対象に貼れば、肩凝りでもしているのかと勘違いしてくれる筈です」
「なる程!」
それなら説得力がある。
「因みにこれはどこから?」
私が髪を持ち上げると、それが合図だったかのように鳥取さんがソレを私の首筋に貼り付けていく。
「自前です。察して下さい」
「ああ」
やに納得だ。
鳥取さん、この仕事でだいぶ肩が凝っていたんだな。解ります。
「出来ました。絶対にバレないよう、せいぜい肩が凝ったフリをして下さい」
「はい。何かとご迷惑をお掛けしてすいません」
私は鳥取さんに向き直り、本日何度目かの深いお辞儀をした。
「別に、全て自分の為ですから、頭を下げる必要はありません。それより、自分の心配をしたらどうですか?初夜と言っても、あの方は手加減してくれませんよ?」
鳥取さんはそう言ってシナシナのヨレヨレになった自分のジャケットを羽織る。
「知ってたんですね」
風斗さんの異常な性癖を。
「さて、何の事だか」
鳥取さんは嘯いていたが、王妃付のコンシェルジュなら、これまでに、時として見たくもないものを見てきたと思う。
「何にせよ、私は大丈夫──」
「ただいま」
何の前触れ(ノック)も無く風斗さんが部屋にやって来て、私の心臓は跳ね上がった。
「おっ……」
「おかえりなさいませ」
咄嗟の事で声が出せなかった私を、鳥取さんはフォローするかのように率先して風斗さんの上着と鞄を預かり、夕食の用意をする為に一旦部屋を出る。
「翡翠、洗面所でコンシェルジュと何をしていたんだい?」
ニッコリと微笑む風斗さんに手を引かれ、私はダイニングテーブルの席に座らされた。
「あ、えっと、肩が凝ってたんで、鳥取さんに凝りをほぐすニップレスみたいのを持ってきていただいて、それを鏡の前で貼ってたんです」
「自分で?」
「じ、自分で、です。鏡を見ながら……」
こうして風斗さんと話をしていると、まるで尋問でもされているような気になるのは、自分の心に疚しい気持ちがあるからなのだろうか?
「そう。でも、言ってくれれば、肩くらい俺が揉んだものを」
さわさわと後ろから風斗さんに首筋を撫でられ、私の背筋はゾワゾワッと鳥肌が立つ。
「滅相もございませんっ!風斗さんのお手を煩わせる訳には……」
「ほら、すぐに堅苦しくなる。だから肩が凝るんじゃないの?」
風斗さんがクスクスと鼻先で笑い、軽く私の肩を揉んでくれたが、私は例のアレが摩擦で剥がれやしないかとハラハラした。
「なんだ、翡翠、言うほど凝ってないじゃないか」
風斗さんは後ろから私の顔を覗き込むように身を乗り出して、私はホラー映画のヒロインばりに震撼する。
「っ、わ、私にしては凝ってるんです」
ドキッとしたーーーーーーっ!!
「そう、後で全身をマッサージしてあげるよ」
させてたまるか!
「とんでもないですっ、私は一日中ここでゴロゴロしていただけですから、寧ろ私が風斗さんにマッサージします」
風斗さんのマッサージなんて、きっととても痛くて恥ずかしいものに違いない。そんなもの、絶対に受けたくない。
「翡翠は相変わらず謙虚だね。今や俺らは夫婦になるんだから、対等に甘えてくれてもいいのに、なんだか寂しいよ」
風斗さんが本当に寂しそうな顔をしていて、何だか私はとても悪い事をしたような気持ちになった。
「あの、すいません」
変な偏見を持ってすいません。
「謝らないで。皆そうさ、王を前にするとかしこまって本音が言えなくなるんだ。だから俺はいつまでたっても壁の向こうに立たされているような孤独感を感じる。まあ、それに慣れ過ぎて、何が本音かも解らなくなってしまったけどね」
私は、王のこういう話を聞く度、胸が痛くなる。私は私で、トールの本質が解らなくて騙された人間だから、王の気持ちは少しだけ理解出来た。
私が癒やしてあげられたら……
「風斗さん、それなら、私を犬だと思って飼ってみませんか?」
「え、犬?」
私の突然の申し出に、風斗さんは度肝を抜かれたようだ。
「そうです、犬です。犬はとても正直で嘘がつけません。ですから、可愛がれば可愛がる程主人に懐き、忠誠を誓うんです。それは人間も同じじゃないですか」
私は風斗さんの手を取り、そこに頬を寄せる。
「妻を犬にするなんて、バチが当たらないかな?」
風斗さんは『ハハ……』と面食らって後頭部を掻いた。
「犬、みたいにです。だから、愛情いっぱいに可愛がって下さい。そうでないと、手を咬みます」
自分でも、自分が風斗さんのペットとして暮らした方が盲目的に彼を慕える気がした。犬は愛情さえ貰えれば必然的に飼い主を慕う。人としてセキレイさんを愛している私には都合が良かった。
「調教師をブリーダー、献上品を犬と言うらしいけど、なる程、確かにそれらの関係性には強固な信頼関係が結ばれている。俺と翡翠との間にそれを適用するのも、強ち無くは無い話かも」
そうそう、犬のように可愛がってくれれば、私の身の安全も保証されるというもの。
「コンシェルジュ、夕食をここへ」
おもむろに風斗さんが声をあげると、それを合図に鳥取さんがワゴンに出来たてのご馳走を乗せて押して来た。
「じゃあ、翡翠、駄犬のお前にご主人様が餌を与えてやろう」
「だけ……」
先刻までの柔和な風斗さんはなりを潜め、いつの間にか闇属性の風斗さんが頭角を現していて、私は今になって自分の誤算に気付かされる。
しまった、方向性がそっちに行くとは、調教プレイは風斗さんの大好物だったー!
私が思う『可愛がる』と、風斗さんが思う『可愛がる』とでは大きな認識の違いがある事をすっかり忘れていた。
「コンシェルジュ、鞭と首輪と鎖を持て」
風斗さんに命令され、鳥取さんは配膳もそこそこに鞭等を取りに部屋を出る。その際、一瞬チラッとだけ私の方に同情の視線を投げ掛けたが、彼は主人の言いつけ通り禍々しい3種の神器を持って戻って来た。
誰も助けてはくれない、そういう事だ。
そして私は観念して狂気の初夜を受け入れるのだった。
これが、私の第3の人生という事だ。
……いや、珍生か?
1つは、セキレイさんと出会う前の家族との人生。
2つ目は、セキレイさんと出会ってからの、献上品としての人生。
そして3つ目は、王である風斗さんに嫁いでからの人生だ。
どの人生が一番幸せだったかなんて、いまわのきわにしか答えは出ないけれど、天より授かった運命を受け入れ、より良い人生の為に、私は最期の時まで走り続ける。時に愛する人の面影を思い出す事はあれど、私には前を見るより他に選択肢は無くなったのだ。尻込みなんかするものか。私の選択でセキレイさんを幸せにすると決めたのだ、意地にもなる。
それでも今でも思い出すのは、風斗さんからプロポーズされたあの日、私の為に手作りのアボカドサラダを持ってきてくれたセキレイさんが、黙って踵を返したあの背中だ。あの背中に飛びついていたら、今頃は……
……やめよう。
女々しいのは嫌だ。それに私は風斗さんを愛すると決めたのだ。
今、目の前にいるこの男を──
「今日からここが翡翠の部屋だよ」
風斗さんはニコニコ穏やかに微笑みながら自室であるペントハウスの扉を観音開きにし、その壁一面がガラス張りのだだっ広い白亜な部屋に私をエスコートする。
室内は、貴族特有の華美な成金インテリアなんて事はまるでなくて、むしろモノトーンでシンプルだ。
「え、一緒に住むんですか?」
私は一国の王に対して恐れ多くて困惑した。
「嫌なの?」
嫌というか、ずっとセキレイさんと暮らしていたのに、いきなり大国の王様と衣食住を共にするなんて緊張感しかない。
「い、いえ、滅相もございません」
それに風斗さんは、なんと言うか、今はこうしてニコニコと仏のようではあるが、夜はその、夜叉のようでもいて、正直、すこぶる、いや、めっちゃ、控え目に言っても、超怖い!怖過ぎる!
初めて風斗さんと繋がった日は、よく壊れなかったなと自分でも驚いた。それ程彼は変態のドS野郎だ。
「越後屋みたいな口調だね。そんなに怖がらなくても、日中は悪さしないよ」
『日中は』の『は』と言ったご機嫌な風斗さんの台詞が妙に引っかかる。
「そ、それはどうも、恐れ入ります。それで、私の部屋はいずこに?」
私はキョロキョロと何個かあるドアを見渡した。
「寝室の事?」
風斗さんは鳩が豆鉄砲でもくらったような顔をして上から私の顔を覗き込む。
「寝室?はい」
いくらだだっ広いペントハウスでも、寝室と自室が同じなのは献上品の部屋と同じなのかな?
「それなら、はい、ここ」
と言って風斗さんに手を引かれて招かれたのは、シアタールームに天蓋付きのキングサイズのベッドが置かれただけの部屋。
「うわ、やけに広いですね。ベッドもキングサイズで、枕が2人分も?」
貧しい南部国の自室とは大違いだ。
私はその贅沢な空間にドン引きする。
「え?そう。2人分。俺と翡翠の寝室だからね」
当たり前のようにそう言われ、思わず私は後ろに戦いた。
「えっ!?同室ですか?」
恐れ多過ぎるだろ。
というか、嫁相手だと一人称が『俺』なのが新鮮でドキドキする。
「側室でもあるまいし、正室なら王と同じ寝室なのは当たり前だろ?嫌なの?」
やはり風斗さんは当然のように聞き返してきて、私はモジモジと俯いてシャツの裾を指で弄んだ。
「嫌ではないです。嫌ではないんですけど……」
未だにセキレイさん以外の男の人とベッドを共にするのは落ち着かない。
「けど?」
「人と一緒だと寝付けなくて」
別に嘘はついていない。
けれど少し後ろめたくはある。
「大丈夫。慣れるって」
そうして風斗さんから背中をさすられ、私は背筋がゾワッとして全身に鳥肌を立てる。
「そうですか、そうですよね……」
心では『えーーーーーーっ!!』と不満が渦巻いていたが、まさか王様相手に嫌だとは口が裂けても言えない。
「凄い嫌そうな顔してるけど大丈夫?」
私はフフッと風斗さんから笑われ、鼻の頭をツンと指でつつかれた。
え、顔に出てた?
献上品としてあるまじき行為だ。献上品当時には研修で耳にタコが出来るくらい『王からどんな苦行を強いられても、拒絶、意見、嫌な顔は絶対にするな。答えは全て笑顔でイエスだ』と言われ続けてきたじゃないか。
「えっ!?いや~、あっ、私個人の部屋っていうのは……」
私は祈るように手を合わせ、チラチラと風斗さんの様子を窺った。
別に怒ってはなさそうだけど、この人は常に笑顔で読めない人だから油断は出来ない。
「無いよ」
キッパリと明言され、私は膝から崩れ落ちる勢いだった。
絶望……
え、四六時中一緒なの?
セキレイさん以外の男の人とずっと一緒というのは肩が凝りそうだ。せめてどこか独りになれる場所が欲しい。
「あのあの、クローゼットとか押入れでもいいんで……」
私はへりくだれるだけへりくだり、身を縮めて風斗さんに上目遣いで祈った。
「○ラえもんか。却下」
またしても風斗さんからキッパリと明言され、私は本日二度目の絶望を味わう。
「……」
オワタ。
「俺も紅玉を亡くしてからすっかり寂しがり屋になっちゃってね。この手を放したくないんだ」
そうして風斗さんから切なげに手を握られると、私はもう白旗を上げるしかなかった。
狡い男だ。イケメンならなんでも許されると思っている。
それに、紅玉さんの名前を出すのは掟破りだ。元々同情から彼を愛すると決めたのだ、主を失った犬みたいな顔をされると、全て許容しなければと思ってしまう。
「窮屈?」
「まさか、こんなに広いのに──」
「いいや、俺の愛がさ。重いくて窮屈かなって」
風斗さんから億面もなくジッと見つめられ、私の顔はカァッと熱くなった。
『愛』だなんて、正室の他に沢山側室や献上品を抱えている王様が本気で私に好意を寄せているなんて、まさかだ。
私はたまたま風斗さんの目についただけの1人に過ぎない。
「そんな、お気遣いに感謝致します、王様」
私はかしこまって腰を低くした。
「風斗でいいよ。俺はお前の王様じゃなく、夫だからね。だから敬語も使わなくていい」
そうして頭を撫でてきた風斗さんの手は、細身の彼にしては大きく、私には脅威に感じられ、思わず亀みたいに首を引っ込めてしまう。そんな私を見て、風斗さんは少し傷付いたような顔をする。
「そんな訳にはいきません。献上品の頃は一生懸命敬語や教養を習ったんですから。それに、王様が良くても、周りの偉い人達はよしとしません」
「せめて2人だけの時は気を許してくれてもいいのに、翡翠は言葉で俺を遠ざけてるよね?」
「え?そんなつもりは──」
どういう意味だろう?
他人行儀って事かな?
「ベッドの上でもそれだと困るな」
「あ、の……」
いきなり風斗さんから爽やかに言われ、私はまたしても顔が熱くなるのを感じた。
ただでさえ一度体を合わせただけの関係なのに、真っ昼間からライトにそんな事を言われたら困惑するというもの。
「せめて俺の事は風斗って呼んでよ。気兼ねするならサン付けでもいいから」
「はい、風斗さん」
「今日はこれから公務へ行くけど、朝ご飯は食べた?」
風斗さんはそれとなく私を革張りのソファーへと誘い、やんわりと座らせた。
「っぁ、それが、バタバタしてて食べそびれて」
本当は、親離れによる寂しさから何も喉を通らなかったんだけど。
「それじゃあ、内線の1番を押すとこの部屋専用のコンシェルジュに繋がるから、食事から何からなんでも頼むといいよ」
風斗さんに壁の受話器を指差され、私はなる程と頷く。
凄いな、部屋専属のコンシェルジュなんているんだ。
「高価な物が欲しい時だけは俺に言って。それは俺からプレゼントしたい」
風斗さんは私の目の前に膝を着き、私の手を取ってそこに口付けた。
うわぁ、なんか、自分がお姫様にでもなったみたいだ。この人は本当に美丈夫で、王子様になるべくして生まれてきたのだろう。
「高価な物だなんて、私にはこの髪留めさえあればそれでいいです」
私は顔の前で両手を振り、それから髪を束ねた翡翠の髪留めに触れる。
別に遠慮した訳ではない。本当に、何も欲しい物は無いのだ。
「出来た嫁だな。でも王妃ともなるとそうもいかない事もあるから、公式な場に出る時だけでもちゃんとした物を着けないと」
『ちゃんとした物』
なんの気無しに呟かれたその言葉が、ちょっと物悲しく感じる。
確かに、他人から見たらユリから貰ったこの髪留めは安っぽく感じられるかもしれない。でも私にとっては形見であり、宝だ。
「……そうですね。ありがとうございます」
私は本音を噛み殺し、笑顔で頷いた。
「良かった。じゃあ、行ってくる。お利口さんで待ってて」
そうして風斗さんから素早くおでこにキスされ、私が恥ずかしがる前に彼は立ち上がって部屋を出て行った。
「はぁ、緊張で肩が凝った」
私は右手で左肩を揉み、脱力した体をソファーに投げ出す。
「……本革が素肌に触れてペタペタする」
ショートパンツから伸びた両脚にソファーの本革が張り付いてくるようで気持ち悪かった。
居心地が悪い。
「セキレイさんとこの起毛のソファーの方が柔らかくてフカフカしてて寝心地が良かったのに、高ければいいってもんじゃないんだな……」
呟かれた独り言は広いリビングに響く事もなく吸収される。
『しーん』本当にそんな効果音がしてきそうな程静寂していて若干精神が疲れそうだ。
「セキレイさんが講習会なんかでいない時はしょっちゅうユリや木葉が遊びに来てくれてたから、なんだか寂しいな」
これから一生風斗さんとこういう生活を送るのかと思ったら、ある事が頭に浮かび、私は飛び起きる。
「まさか、拷問部屋とか無いよね?」
私は何故か忍び足でドアというドアを開けていく。
この部屋には他に寝室が1つと、使われた痕跡の無いオープンキッチン、本棚で埋め尽くされた書斎、空き部屋が2つと、住めそうな程大きなクローゼットと、ガラス張りのジャグジーがあり、私は各所のドアを開ける度にその広さからため息を漏らした。
「別に華美じゃないけど、シンプルで贅沢な空間の使い方をしてる。特に不審なデッドスペースなんかは無さそうだけど、凶器を何処かに隠してるのかな?」
私がクローゼットに行こうとキッチンからリビングを横切ると、視界の端に黒い人影が見え、心臓が飛び出そうな程驚いた。
「ひぃっ!!!!」
「王妃様が家捜しですか?」
セキレイさんよりもずっと目つきが悪くて、色白で神経質そうなメガネの青年がスーツを着てサンドイッチ等の軽食を乗せたワゴンをテーブルまで押して来る。
「朝ご飯?もしかしてコンシェルジュの方ですか?」
まだインターホンも使っていないというのに、コンシェルジュというものは必要とあればこうしてプライベートルームにまでズカズカ入って来るというのだろうか?
コンシェルジュ、恐るべし……
「コンシェルジュというか、執事というか、風斗様から貴方のおもりを頼まれています」
おもり……
この人は思った事をさらっと言ってしまうタイプのお方なのか。私が私でなければこの男は今頃平手打ちされているところだ。
こういう棘のある男の人(セキレイさん)に慣れてて良かった。寧ろ懐かしくもある。
「そうですか、これからお世話になります。お名前は何というんですか?」
私は王妃という立場も忘れ、深々と頭を下げた。
「鳥取です。因みに敬語は結構ですよ」
鳥取さんは頭を下げた私をスルーしてテーブルにサンドイッチの乗った皿を並べていく。
ダークスーツに撫でつけられた髪、執事を思わせる白い手袋、キリッとした顔のパーツが、仕事の出来る男感を醸し出し、彼をやたらと冷たい印象に見せる。
「でも、ざっと見たところ、明らかに私のが年下ですし」
「失礼ですね」
「すみません、間違ってましたか?」
だとしたら、この人はとてつもなく大人びている。
「いえ、その通りです。10くらい違いますよ」
その通りなんかーい!
「それで、下のお名前は何と言うんですか?」
「教えませんよ。私と仲良くなる気ですか?」
鳥取さんは私の問いかけにも終始目もくれず、せかせかと朝食の準備を進めている。
取り付く島もない。
それでも、鳥取さんにはこれから末永くお世話になるのだ、剣呑としていたらつまらない。
「なってはいけないんですか?」
「駄目です」
キッパリと拒絶され、私は意気消沈した。
か、頑なだ。カタブツじゃないか。
セキレイさんもこういったツンケンタイプだけど、あの人はツンからデレまでがセットだからまだ可愛げがあった。
うーん、凄く壁を感じる。冷たい。これから先が思いやられる。
「ええと……そうだ、私、あまり食欲が無くて、良かったら服部さん、食べて行きませんか?」
私は凍りつきそうな引きつった笑顔で何とか友好の糸口を探るも──
「鳥取ですし、食べません」
「──ですよね。すいません。じゃあ、せっかく用意して頂いたんですけど、勿体ないので誰か食べられそうな人にお出しして下さい」
私が申し訳無さそうにワゴンにサンドイッチが乗った皿を戻そうとすると、それを鳥取さんに手で制された。
「これは王妃様用に作られた物で、風斗様が王妃様に食べさせるようにとの仰せでしたので、貴方様が食べなければ私が罰を受けます。コンシェルジュがいながら貴方が痩せ細ったり、病気にでもかかったら責任は全て私にくるんです。ですから食べてもらわないと困ります」
凄く正直な人だ。まるで歯に絹着せぬ物言いだ。グサグサくるな。
でも、そうか、それは一理ある。私の身の振り一つで何の罪もないこの人が罰せられるのは私としても不本意だ。
「そうですよね。すみません、浅はかでした」
私はソファーに座り、手にしていた皿を膝に乗せてサンドイッチを食べ始める。
「わっ、これ、凄く美味しいですね。サーモンが挟まったサンドイッチなんて初めて食べました。こちらは誰が作っていらっしゃるんですか?」
──と私が尋ねると、鳥取さんは些か驚いた顔をして間をおいた。
「──私ですが?」
「へぇ、ハッタリさんが」
「誰が嘘を言いますか、鳥取です。ふざけないで下さい」
ツッコミさえも辛辣で手厳しい。
でもめげない。
「お忙しいんじゃないですか?3食とも飛ぶ鳥さんが?」
「鳥取です。せめて原型を留めて下さい。3食とも私が作ります」
ボケも3度目ともなると、さすがに鳥取さんも頭を抱え始める。
「てっきり専属のシェフがいるのかと思っていました」
「いましたよ、いましたけど、謀反を起こして処断されました」
「謀反?」
驚いてサンドイッチを落とすかと思った。
「食べ物に毒を盛ったんです」
「毒!?」
「どこの王室でもよくある事です」
謀反というと、私達家族を謀ったトールという男を思い出す。あの時は酷い仕打ちを受け、誰の事も信用出来なかった。それを風斗さんも体験していたんだ。でも、そうか、一国の主ならそれも当たり前か。
「そうなんですか、どこの国も同じなんですね」
「王妃様は南部国のご出身でしたね?」
「はいっ!砂漠ばかりの廃れた国なんですけど、調教師のセキレイさんが南部国王に名乗りを上げたとかで、その後実際に即位したら、きっとより良い豊かな国にしてくださると期待しています!」
私は鳥取さんの方から話を振ってもらえたのが嬉しくて笑顔でまくしたてたのだが、彼は一層冷たい表情で私の前にお茶を置いた。
「王妃様、貴方は北部国の領主に嫁がれたのですから、これからは故郷の話も調教師の話もなるべくしない事です。特に風斗様の前では絶対にしてはいけません」
「え、あの……」
元々南部国は北部国と敵対していた国と言っても、実質的に敵対していたのは事実上国の機関に入っているというだけの独自機関である政府なのだが、やはり政治的な要素が絡む分、口にするのは良くないのかもしれない。ただ、内部の人間で、尚かつ風斗さんの義兄弟であるセキレイさんの名を出してはいけないというのは、これいかに。
「いいですね?」
鳥取さんから結構な眼力で釘を刺され、私は完全にマウントをとられた。
「あ、はい……」
「では、お食事が済んだ頃に食器をお下げしに参ります」
鳥取さんが軽く一礼して踵を返そうとしたので、私は慌ててその腕を捕まえる。
「独りで食べるんですか?」
「……風斗様が居ない時は独りで食べて下さい。そして、貴方は風斗様以外の男には絶対に触れないで下さい」
鳥取さんから無下に腕を払われ、私は自分という人間を拒絶されたようで悲しくなった。
「別に風斗さん以外の男の人をどうこうしようなんて思っていないのに……」
「貴方の気持ちの問題じゃあないんですよ。事実として、王の妻たる王妃がそんな事をしたら、相手が手打ちにあうんです。調教師と乱れた擬似性行をしていた献上品時代とは違うんですから、もっと自覚を持って行動して下さい」
『でないと、こっちが迷惑なんだよ』と言われたような気がする程、鳥取さんの言葉には棘があった。なる程、セキレイさんであろうが誰であろうが、他の男との接触はそれだけで不貞を疑われるのか『調教師と乱れた擬似性行』だなんて、なんか、馬鹿にされたような、元献上品としては見下されたような気分だ。
ああ、そうか、この人は献上品を差別しているのか。献上品の事をサキュバスだとでも思っているのかもしれない。
仕方ない、偏見や誤解は誰にでもある。それを覆せるかは、自分自身の人徳にかかっている。
「すみません、軽率でした。以後、気をつけます。調教師や献上品の仲間達から離れて寂しかったものですから、他愛もない世間話でも出来ればと思ったんです」
誰も味方のいない後宮に丸腰で投げ出されたからか、誰でもいいから話し相手が欲しいと思ったのに。
「貴方は公の場以外では風斗様以外の人間とは事務的な会話以外、何も口にしてはいけません」
「もし風斗さんから国政に関する話を耳にした場合、それを私が外に漏らす可能性があるからですか?それに不貞の疑いもかけられる?」
私は風斗さんからのプロポーズを受けたその時から彼に忠誠を誓ったのだ、絶対にそんな事はしないのに、心外だ。
「そうです。ご理解下さり感謝致します。紅玉様は最初からわきまえておられましたけど。因みに、私は貴方のお目付け役でもありますから、行動にはお気をつけを」
監視役って事か。何か、今の言葉でぐんと突き放された気がする。いや、距離を置く為にわざと言ったのか。
しかし、紅玉さんとはうまくやっていたのか、何気に比べられてこきおろされた。相手はトップブリーダー(翠)が育てた伝説の献上品だから別にいいけど。
それにしても、不貞を危惧する割に、何故、風斗さんは男のコンシェルジュを私に付けたのだろう?
試されてる?
風斗さんは毒の件もあり疑心暗鬼になっていたからこそ、夜伽で暴挙に出て相手を試していた訳だけど、これもその延長線なのかな?
それとも、逆にこのカタブツ(鳥取さん)を絶対的に信頼しているとか?
今のところ凄い嫌な奴だけど……それは関係ないか。
「では、次は昼食時にお伺い致します。ああ、あと、夕食の前には使用人を手配致しますので、湯浴みと着替えを済ませておいて下さい」
「はい。お手数おかけします」
ここで私が『自分で出来ます』と突っぱねたら、きっとまた王妃としての自覚がどうのと説教をされそうだなと思い、言葉を飲み込んだ。
「失礼します」
そうして鳥取さんは軽く会釈をして部屋を出て行く。
「はぁー……制約ばかりで肩が凝る」
ひと呼吸おき、私は大きくため息をついた。
テレビも無く、静まり返った室内、花や絵画さえ飾られないこの空間は、とにかく物凄く味気ない。
「食欲がない」
本当ならとても美味しい筈のサンドイッチが、この部屋同様に味気ないものに感じられ、粘土でも口にしているようだった。
「テレビが無いのも、風斗さんや私が変に感化されないようにする為なんだろうな」
風斗さんは、時々林の奥の観測小屋で息抜きをすると言っていたけれど、今ならその気持ちがよく解る。
「きっと、私が勝手にこの部屋を出たら、すぐに鳥取さんか警備兵が駆けつけて、取り押さえられるんだろうな」
リアル過ぎてゾッとした。
「囚人か」
終身刑のね。
「あ、そうだ、早く食べなきゃ、鳥取さんがお皿を片しに来るんだった」
私が慌ててサンドイッチを口に詰めてから30分後、鳥取さんは計ったように現れ、無言で会釈し、無言で皿を片付けて行った。
まるで働くロボットだ。
「面白い程面白みの無い人だなぁ……夜まで何をしよう?」
私はソファーで両脚を抱え、膝に顔を埋める。
「時間が長い」
体育座りのまま30分を過ごしたが、2時間にも感じられた。その間思い出されたのは、ここへ来る前に最期の挨拶を交わしたセキレイさんの事。
「セキレイさん、敬語を使ってたな……」
ほんの一瞬でも、私達は恋人同士だったのに、物凄く距離を感じた。
「今は、セキレイさんになじられたいとすら思うなんて、私はどうかしている」
ここへ来てまだ1日も経っていないというのに、私は既にセキレイさんに会いたくて堪らなくなっていた。
「セキレイさんと過ごした日々が遠い昔のように感じられる」
私はふと立ち上がり窓辺まで行くと、かつて自分が迷子になった林を見下ろす。
「昔はとても広く感じられたのに、高い所から見下ろすと結構狭く感じるもんなんだ」
あの日、セキレイさんは猛吹雪の中、必死で私を探し、見つけ出し、部屋に連れ帰ってくれた。
「今、あれを思い出すのは、きっと私があの部屋に、あの時に戻りたいと思っているからなんだろうな」
ああ、でも……
「あの日、私を助けてくれたのは風斗さんも同じだ。私に自分の上着まで掛けてくれて、セキレイさんが迎えに来るまで付き添っててくれた」
本当に、日中はいい人なんだけど……
私は、嵐のような献上の夜を思い出し、背筋が凍る。全私が震撼した。
違う。風斗さんは私を試そうとしただけだ。悪気があった訳じゃない。本当は優しい人で、変態なんかじゃ……とは言い切れないのが怖い。でも、その背景には彼の不憫な境遇が関係していて、あの屈折した性癖はその過程で培われた(?)ものだと思う。彼が悪い訳じゃない。せめて妻である私だけでも、彼の良き理解者にならなければ。
「きっと、紅玉さんも風斗さんの事をそうして受け止めていたに違いないし」
ここでふと私は下世話な想像をしてしまう。
「紅玉さんもあの三角木馬に乗せられたりしたのかな?」
あの気品のある優雅な紅玉さんが、禍々しくも猛々しいアレに乗せられて風斗さんにぶたれたりなんかしたのだろうか?
ゴクリ……
凄く気になる。
やっぱり、あの凶行あっての信頼関係なんだろうから、夜な夜な……
「駄目だっ!なんか禁忌に触れるようで、なんか駄目だっ!」
私はソファーに体を投げ出し、バタバタと手足をバタつかせた。
他人の性生活に踏み込むのは良くない。
「ハァ……やる事が無いから余計な事を考えてしまう」
私は暇を潰そうとシャツの胸ポケットからスマホを取り出しメール画面を開く。暇潰しにゲームでもしようかと思ったが、気分が乗らず、何となくメール画面を開いた。
「見事にセキレイさんからの一方的なメールばかりだ」
ユリが亡くなってからと、木葉や翠が居なくなってからというもの、メールボックスの上位にはズラリとセキレイさんからのメールが並んでいる。その内容はというと──
『今夜は遅くなるから早く寝ろ』とか『これから戻る』とか『昨日から耳かき棒が見当たらない』なんて、遠回しに探しておいてほしいみたいな、なんて事のないものばかり。
「結局、耳かき棒は見つからなくて、後からセキレイさんが上にコケシが乗ったシュールなやつを買ってきたんだっけ」
思い出しただけで、シュール過ぎて笑いがこみ上げてくる。
「思えばセキレイさん、私服はシンプルでセンスがいいのに、その他のセンスが絶望的にシュール過ぎて、私へのプレゼントに買ってくれたパジャマとか部屋着が少女趣味でドン引きしたなぁ。おまけに過保護だから私のフルネームまで入れて……セキレイさんなりに、小さな女の子だった私を喜ばせようとしてくれてたんだよね」
セキレイさんからの優しさを思い出すと、自然と私の目頭が熱くなった。
「やばい、ホームシックかな?」
私は涙が溢れないように顎を上げ、何回かページを捲っていると、既読なのに添付ファイルを開いていないメールを見つける。そのメールに件名は無く、本文には『今日は楽しかったな』とセキレイさんらしく、言葉少なに綴られていた。
「添付ファイルがある……セキレイさんは普段添付ファイルなんて付けないから、今の今まで気が付かなかった」
日付は、以前、私が献上直前だった頃、落馬して怪我をした日になっている。あの日は病院帰りにセキレイさんと海へデートに行ったからよく覚えている。
……恋人ごっこをしたあの日だ。
私は、目頭どころか胸まで熱くなり、スマホを握る手に力が入る。
ドキドキした。
心臓の高鳴りを抑えつつ、私は起き上がり、その場に正座してその添付ファイルを開く。
「あっ……」
これは……
そこには、後ろからセキレイさんに抱きしめられながら撮られた笑顔の自撮り写真が映し出されていた。
「うわ、これは、ちょっと……」
目の前が霞み、瞬きした拍子に涙を落としそうになり、私はそれをすんでのところでグッと堪える。
胸が張り裂けそう。
画面の中の2人は、幸せそうに笑っていて、まるで本当の恋人同士のようで、私は、思ってはいけないのに、この頃に戻りたいと切に願ってしまった。
「間違って消去するといけないから、この1枚だけはメモリーカードに保存しよう」
私はすぐさまその写メをメモリーカードに保存する。
セキレイさんに会いたいな……セキレイさんは今頃何をしているんだろう?
メールを送ってみたら、返事をくれるだろうか?
私ははやる気持ちを抑えきれずメールの返信ボタンを押す。
『セキレイさんは今、何をしているんですか?』
私はポチポチと本文を打ち、送信ボタンを押そうとして、ふと風斗さんの顔を思い出し、我に返る。
私は人妻になったというのに、夫に内緒で好きな男にメールを送ろうとしている──
──そう思ったら、自然と最後の送信ボタンが押せなかった。
私がセキレイさんにメールを送るのは風斗さんに対する不義理になる。ましてやメールの相手が好きな人なら尚更だ。それにセキレイさんだって、嫁がせた元献上品からメールがきたら心配するし、困惑するだろうから、迷惑をかけちゃ駄目だ。セキレイさんにはセキレイさんの生活があるし、いずれセキレイさんにもいい人が出来て幸せな家庭を築くんだから。
「私はセキレイさんを諦めて風斗さんを愛するって決めたんだから、セキレイさんとは連絡をとっちゃ駄目だ。セキレイさんだってきっと同じ事を思ってる」
それでも、私はあの写メを消す事だけは出来なくて、後ろめたさと共に心の拠り所にしてしまった。
「ごめんなさい、風斗さん……」
「何がですか?」
いきなり部屋の入口で鳥取さんの声がして、私は驚嘆して反射的にスマホをソファーの溝に押し込む。
「凸っ、鳥さんっ!」
「鳥取です。お昼の時間です」
鳥取さんは相変わらず淡々とダイニングテーブルにパスタやサラダを並べていく。
「なんでノックしないんですか?!」
私の心臓は爆発でも起こしそうなくらいバクバクしている。
「抜き打ちチェックです。貴方が何か悪さをしないかと見張るのも私の仕事ですから」
「わ、悪さって……?」
好きな人とのツーショット画像をスマホに残しておく、とか?
私がビクビクしながら鳥取さんの顔色を窺うと、彼はニヤリと悪い笑みを浮かべ、何かを探るようにこちらを眺めた。
「そうですね、そのソファーの溝に隠したスマホで共犯者に連絡して謀反を起こすとか?」
「えっ!!」
頭から冷水をぶっかけられたような衝撃だった。
見てたんだ。
「あの、その、謀反だなんて、私はそんな事、絶対にしません」
とは言ったものの、他の理由で後ろめたかった私は、鳥取さんと目を合わせられない。あの、悪魔かヤギみたいな不穏な目で直視されたら自分の罪まで見透かされてしまいそうだ。
「じゃあ、または──そのスマホで不倫相手と不義密通を交わしている、とか?」
鳥取さんは悪魔の笑顔で首を傾げながら尋ねてきて、私は過呼吸になるのをぎりぎりのところで堪え、ゆっくりと、言葉を選びながら答えた。
「ふ、不倫相手なんていません。ただ、私を育てて下さった調教師の方が恋しくなり、暇でしたし、連絡しようとしたのですが、あまり良くないと思って止めたんです」
変に嘘をつくのはかえって危険と判断した私は、自分のセキレイさんへの想いは伏せたまま、ありのままを話した。
この人に嘘は通用しない気がする。
「賢明ですね。貴方の元調教師は男ですから、王妃になった今、連絡を取り合うのは好ましくないでしょう。それに王妃が個人的にスマホを所有するのも王への防犯上いけない事です」
そう言って鳥取さんは私の前に立つと右手を差し出してきた。
スマホを寄こせという事か。
「……あの、ICチップだけ渡すんじゃあ駄目ですか?チップが無ければ外部に連絡出来ないですよね?」
私はソファーの溝からスマホを取り出し、それを胸の前で握り締める。
あの写メを見られたら私とセキレイさんの複雑な関係がバレてしまう。
それに、他は何もいらないから、これだけは思い出として墓場まで持って行きたい。
「ここはWi-Fiが飛んでますからね、それでは意味が無いんですよ」
鳥取さんに、早く寄こせと言わんばかりに追い詰められ、私はじりじりとお尻で後ずさりした。
「観念したらどうですか?変に疑いをかけられるのは貴方なんですよ」
嫌な感じのわざとらしいため息をつかれた。
「……」
私はひとしきり悩んだ挙げ句、仕方なく妥協案を提示する。
「では、メモリーカードだけ抜き取ってもいいですか?中に、ここで過ごした思い出が沢山詰まってるんです」
「メモリーカードだけ持ってたってどうするんですか?スマホやパソコンが無いとその思い出を見れないじゃないですか」
鳥取さんは半ば呆れて自身の腰に左手を当てた。
「いいんです。思い出が詰まってるって事実だけでいいんです。ですから、お願いします」
私はソファーに三指を着き、そこに額を擦りつけて懇願する。
これだけは、何があろうと、命に変えても守りたい。
「……ひとつ聞いてもいいですか?」
その問い掛けに、私は顔を上げた。
「なんですか?」
「貴方の調教師というと、渡辺さんですよね?」
セキレイさんの名を出され、私は何を聞かれるのかとハラハラする。
「……はい。渡辺、セキレイさんです。お知り合いなんですか?」
「大学の先輩です。紅玉様の調教師翠さんもご一緒で、これに特別枠の調教師高雄さんも編入してきまして。それはご存知でしたか?」
「え?はい、聞いた事がありますし、お2人共献上品時代には懇意にしていただきました」
何の話だ?
「翠さんの行方について何か知っていますか?」
なんだ、そういう事か。探りか。
「全く」
翠は、木葉を第2の紅玉にしない為、彼女を連れて城から脱走した。今でも翠は献上品の誘拐容疑をかけられ全国指名手配中だ。
恐らく、鳥取さんはその翠の情報を私から聞き出そうとしている。
「スマホの履歴を拝見しても?」
「メモリーカードさえ摘出してくれれば、いくらでも」
別にスマホを見られたとて、翠の行方は私ですら解らないのだ、問題ないだろう。
「メモリーカードに全てのデータを移行している可能性は否めませんよね?中を確認させてもらえればメモリーカードはお返ししますよ」
鳥取さんから鼻先に手を突き出され、私は窮地に追い込まれた。
「それは……そうですけど、でも、ここにプライバシーは無いんですか?献上品から王妃にまで上り詰めたのに、私には自分に仕えるコンシェルジュにノーと言える権利がないんですか?」
「ありませんよ」
鳥取さんからズバッと切り口鋭く断言され、私は膝から崩れ落ちる勢いだった。
「な、無いんですか……」
「ありません」
「……」
けれど、だからと言ってあの写メを他人に見られる訳にはいかない。あれを見られたら、私とセキレイさんの関係を疑われて、ようやく一国の主になろうというセキレイさんの地位を脅かしてしまう。
「どうしたんですか?随分悔しそうな顔をしていらっしゃいますけど?」
「悪いですけど、スマホは渡せても、メモリーカードだけは渡せません」
そうして私はスマホからメモリーカードを取り出し、代わりにスマホを差し出した。
それでもメモリーカードを取り上げると言うのなら、私はその場でメモリーカードを噛み潰して証拠隠滅する。
「……」
「……」
両者、しばしの睨み合いの結果──
「仕方がありませんね」
「え?」
なんと鳥取さんが折れ、私からスマホだけを受け取った。
「貴方から力ずくでメモリーカードを取り上げる事は造作もありませんが、私が貴方に触れる事は許されませんので、見逃しましょう」
その代わり物凄く深いため息をつかれたが、そんな事はどうでもいい。私は満面の笑みでメモリーカードを胸に抱いた。
「やった、ありがとうございます!」
「でも、約束して下さい。それを絶対に風斗様の目に触れさせない事」
鳥取さんは昼食の準備を再開する。
「勿論です」
あれを風斗さんに見られたら、きっと彼を傷つけて、幻滅させてしまう。
「命が惜しかったら死守する事です。そんなくだらないハメ撮りなんて、さっさと消せばいいものを」
「え……なんか、凄く誤解されているような……」
「冗談ですよ。しかし風斗様の様に、誰にでも、見られたら困るデータのひとつやふたつあるものです」
『風斗様の様に』やけに納得出来る。逆にあの人の写真データは見るのが怖い。
「鳥取さんにも見られたら困る写真とかあるんですか?」
あ、こうやって聞いたら、メモリーカードの中身が疚しいものだって認めているようなものか?
「そりゃ男ですから、多少なりとありますよ」
鳥取さんは少しも恥じる事無く当たり前のようにそう返した。
「へぇ、真面目そうなのに……セキレイさんと一緒ですね。セキレイさんも、カタブツそうなのにスマホにはチラチラ動画が沢山入ってましたよ」
「チラチラ動画って何ですか?」
「モザイクの入った動画です。時々、モザイクの入っていない違法なのもありました」
「……早く食べて下さい」
都合が悪くなったのか、鳥取さんは私を横目で睥睨すると、テーブルの脇にかしこまって立った。
昼食が終わると、鳥取さんは食べ終わった食器と共に退室し、またしても私は夕方まで退屈な時間を過ごした。
それから湯浴みの為に鳥取さんが若い使用人の女性を部屋に伴い、私は脱衣所でその女性から服を脱がされていく。
今までは身の回りの世話は全てセキレイさんがしてくれたから、他の人にこうして脱がされて裸を見られるのは慣れない。
だからと言って『自分で出来ます』と世話を断ろうものなら、この使用人の女性の立場が無くなってしまう。
私は変に緊張して体に力が入り、カチコチになりながら浴室の椅子に座った。
「では、頭から洗っていきますね」
「あ、はい、お願いします」
よりによって相手が清楚系の綺麗なお姉さんで、とても恐縮する。
私は仰け反って固く目を閉じ、お姉さんの白魚のような指先が泡と一緒に頭部のカーブを滑るのを夢心地で堪能した。
髪を人に洗ってもらうのは心地いい。私も、年頃になるまではこうしてセキレイさんに洗ってもらったな。
いつしか私は、お姉さんの手をセキレイさんの手と重ねて昔を懐かしむようになっていた。
「では流しますね。熱かったら言って下さい」
「はい」
お姉さんから声をかけられ、私は一度夢から覚める。
そうだった、これが現実だ。セキレイさんはもういないんだ。
「まだ目を閉じてて下さいね」
髪を洗い流され、私はお姉さんから言われるままにじっと瞼を閉じていた。
トリートメントでもするのかな?
そう思っていると、首筋に熱くてぷっくりと軟らかな物が押し当てられ、それからそこにチクッとした微かな痛みを感じた。
「え?」
なんか、これって──
異変を感じて私が目を開けると、鏡越しにお姉さんが私の首筋に吸い付いているのが見えて、私は咄嗟に立ち上がる。
「なっ、何、してるんですか!?」
私はヒルにでも吸われていたような嫌悪感がこみ上げてきた。
「すみません、王妃様。私、同性に興味がありまして、とてもお美しいお肌でしたので、つい……」
お姉さんはしおらしく頭を下げたが、私は見知らぬ人間からそんな事をされて気味が悪くて仕方が無い。
何なんだ?いくら同性が好きで、私に興味があったからって、初対面の人の首筋に吸い付くか、普通。
ドン引きだ。
「ついって、そんな、つまみ食いでもするみたいに」
私はじりじりと出口側に後ずさり、お姉さんと距離をとる。
「すみません、どうかお許しを」
お姉さんは形ばかりは済まなそうにしているが、ここから出ようとしている私に手を伸ばし、捕まえようとしてくる。まるで私が風呂場から逃げ出すのを阻止しようとしているかのようだ。
「許すも何も、怒っていません。ただ、貴方の事は受け入れられませんから、どうか離れて下さい」
「いいえ、まだお体をお流ししていません」
「結構です!」
私は先刻の『使用人の女性の立場が無くなってしまう』とかなんとかいう事も忘れ、彼女の手をかいくぐって死に物狂いで風呂場を飛び出し、脱衣所を出たところで敷居に躓き、派手に転倒する。
「いっ……」
痛いっ!!
乳首がカーペットに擦れて、それらが根こそぎもっていかれたかと思った。
「何をしているんですか?」
「ふぁっ?」
頭上から涼やかな声を降らされ、私が顔を上げると、声質同様涼やかな顔をした鳥取さんと目が合い、涼やかな空気が流れた。
「まったく、貴方という人は、目を離すとろくな事をしませんね」
結局、お姉さんは部屋から逃げ出し、私は鳥取さんからジャケットを被せられ、説教をされながらソファーに座って頭を垂れる。
「私が悪いんですかっ!?いや、まあ、お姉さんが悪い訳でもないので咎めないで下さい」
お姉さんは突っ走ってしまったが、それも私への好意がさせてしまった事。湯浴みの役から外れてさえくれれば、後はそれでいい。
「貴方は本当にお人好しですね。そんなおめでたい頭では、王室で生きていけませんよ?」
そう言って鳥取さんは雫が滴る私の髪をタオルでガシガシと手荒に拭いてくれた。
「いてて、私に触れられないんじゃなかったんですか?」
もう少し優しく拭いてくれてもいいのに。そんな、親の仇みたいに……
「タオル越しですから。因みに手袋も二重ですし、眼鏡を外しましたから、何も感じません」
『何も感じません』という言葉通り、眼鏡というフィルターを外した鳥取さんの瞳は爬虫類のそれみたいにゾッとする程冷たい。
「まるでバイキン扱いですね」
「女性扱いしているんでしょ?」
ハァと盛大にため息をつかれた。
なんか、この人の、王妃に対する扱いがぞんざい過ぎないか?
「紅玉さんにもこんな雑な扱いを?」
「まさか、紅玉様は高貴なお方です。丁重におもてなしさせていただきました」
単なる嫌がらせか。嫌われたものだ。
「はいはい、そうですよね、私には気品なんかこれっぽっちも無いですから」
自覚はあったが、面と向かって言われると、そりゃ臍も曲げるというもの。
「王妃様ともあろうお方が口を尖らせないで下さい。それにしたって貴方は隙が多過ぎます。首筋にこんな痕まで残されて」
「え?痕?」
私はなんの事やらと、鳩が豆鉄砲でも食らったような顔をし、立ち上がって洗面所の鏡前に向かう。
「わっ!!」
鏡に映し出されたのは、首筋に桜の花びらのような鬱血した痕を残した自分の姿。
「あの使用人の女は風斗様のお手つきの者でしたので、嫉妬から、貴方と風斗様の夜伽の邪魔をする為にわざとつけたのでしょう。キスマークが風斗様の目に触れれば、貴方はコンシェルジュの私共々不貞の罪で極刑に処されるでしょうね」
私と接触している男性は風斗さんと鳥取さんだけだから、鳥取さんに火の粉が降りかかるのは当たり前と言えば当たり前か。
──というか、お手つきの使用人とか……風斗さん、献上品に手を出しつつ、側室までいて、どれだけ絶倫なんだ?無節操だわ。
風斗さんを愛すると決めた矢先、彼には少し幻滅してしまった。
でも、男性にオンリーワンの真実の愛を求めるのは重すぎるし、私だって、セキレイさんを忘れる事はきっと一生ないだろうし、お互い様か。
「ご迷惑をお掛けしてすいません。これが消えるまで夜伽はお断りするので心配しないで下さい」
私は安易に考え、鳥取さんに向けて頭を下げたが、彼は表情を固くしている。
「貴方が風斗様を拒む事は許されていません。いかに月のものでも、体調が悪くても、風斗様からのお誘いは絶対です」
王妃の人権や人格は無いものとして扱われるのか。
……王妃とは?
なんだか虚しい気持ちになった。
一日中部屋に押し込められ、夜だけ気まぐれに王の寵愛を受けるだけの存在、それが王妃?
悲しすぎる。
紅玉さんも同じような環境で、同じような気持ちになったんだろうか?
とは言え、今はそんな悲哀に浸っている場合ではない。
「もうすぐ風斗様が公務を終えて帰って来る時間です。今夜は新婚初夜ですから、なんとか誤魔化して、着替えを済ませましょう」
「え、はいっ!!」
気後れしつつ、私は鳥取さんにされるがままジャケットを脱がされ、用意された下着から打ち掛けのようなシルクの夜着を次々着せられる。
もはや恥ずかしがっている暇も無かったが、私にはどうしても気になる事があった。
「鳥取さん、眼鏡無しでも見えるんですか?」
的を得たように的確な動きを見せる鳥取さんを見ていると、どうにも、本当に目が悪いセキレイさんと比較してしまう。
セキレイさんなら、眉間にシワを寄せて目を凝らして物を見ていたものだけど。
「あれは伊達メガネですから」
「眼鏡を外した意味がないじゃないですか」
とんだ詐欺野郎だ。何も見えていないものだと思い、全てをさらけ出してしまったじゃないか。
私は今になって恥ずかしさがこみ上げてきた。
先刻、鳥取さんは、男だから多少なりと疚しい事はある、ような旨を話していたじゃないか!
「眼鏡を外したのは貴方の気休めになるかと思ったからですよ」
鳥取さんは動揺どころか悪びれるでもなくふてぶてしくそう言い放つ。
「視力は?」
「控えめに言って2.0です」
マサイ族か!!
「マックスじゃないですか」
鳥取さんの眼鏡姿があまりに板についていたものだから、すっかり油断していた。
「何か問題でもありますか?私は貴方にこれっぽっちも興味がありませんから、たとえ貴方の貧相なお体を目の当たりにしても理性が崩れる事は絶対にありません」
「それを断言されると逆に癇に障ります」
私に魅力が無い事はよ~くわかった。
「とにかく、今はこのキスマークをどうするかですよ」
あ、誤魔化した。
「コンシーラーで潰すとか?」
ベタだけど、それ以外に適当な策が思いつかない。
「首筋を舐められたら終わりです。それにあの方は相手を辱める為にわざと部屋の明かりをつけたまま行為に及ぶ事もあります。ですから、ちょっと待ってて下さい」
そう言って鳥取さんはスタスタと足早に部屋を出て行き、戻って来た頃には肩凝りに効く磁石の付いた湿布の様なアレを手にしていた。
「え、いかにソレが肌色だからって、さすがに違和感があるでしょう」
そして色気もない。
「キスマークは肩と首筋の境目にありますから、両側に対象に貼れば、肩凝りでもしているのかと勘違いしてくれる筈です」
「なる程!」
それなら説得力がある。
「因みにこれはどこから?」
私が髪を持ち上げると、それが合図だったかのように鳥取さんがソレを私の首筋に貼り付けていく。
「自前です。察して下さい」
「ああ」
やに納得だ。
鳥取さん、この仕事でだいぶ肩が凝っていたんだな。解ります。
「出来ました。絶対にバレないよう、せいぜい肩が凝ったフリをして下さい」
「はい。何かとご迷惑をお掛けしてすいません」
私は鳥取さんに向き直り、本日何度目かの深いお辞儀をした。
「別に、全て自分の為ですから、頭を下げる必要はありません。それより、自分の心配をしたらどうですか?初夜と言っても、あの方は手加減してくれませんよ?」
鳥取さんはそう言ってシナシナのヨレヨレになった自分のジャケットを羽織る。
「知ってたんですね」
風斗さんの異常な性癖を。
「さて、何の事だか」
鳥取さんは嘯いていたが、王妃付のコンシェルジュなら、これまでに、時として見たくもないものを見てきたと思う。
「何にせよ、私は大丈夫──」
「ただいま」
何の前触れ(ノック)も無く風斗さんが部屋にやって来て、私の心臓は跳ね上がった。
「おっ……」
「おかえりなさいませ」
咄嗟の事で声が出せなかった私を、鳥取さんはフォローするかのように率先して風斗さんの上着と鞄を預かり、夕食の用意をする為に一旦部屋を出る。
「翡翠、洗面所でコンシェルジュと何をしていたんだい?」
ニッコリと微笑む風斗さんに手を引かれ、私はダイニングテーブルの席に座らされた。
「あ、えっと、肩が凝ってたんで、鳥取さんに凝りをほぐすニップレスみたいのを持ってきていただいて、それを鏡の前で貼ってたんです」
「自分で?」
「じ、自分で、です。鏡を見ながら……」
こうして風斗さんと話をしていると、まるで尋問でもされているような気になるのは、自分の心に疚しい気持ちがあるからなのだろうか?
「そう。でも、言ってくれれば、肩くらい俺が揉んだものを」
さわさわと後ろから風斗さんに首筋を撫でられ、私の背筋はゾワゾワッと鳥肌が立つ。
「滅相もございませんっ!風斗さんのお手を煩わせる訳には……」
「ほら、すぐに堅苦しくなる。だから肩が凝るんじゃないの?」
風斗さんがクスクスと鼻先で笑い、軽く私の肩を揉んでくれたが、私は例のアレが摩擦で剥がれやしないかとハラハラした。
「なんだ、翡翠、言うほど凝ってないじゃないか」
風斗さんは後ろから私の顔を覗き込むように身を乗り出して、私はホラー映画のヒロインばりに震撼する。
「っ、わ、私にしては凝ってるんです」
ドキッとしたーーーーーーっ!!
「そう、後で全身をマッサージしてあげるよ」
させてたまるか!
「とんでもないですっ、私は一日中ここでゴロゴロしていただけですから、寧ろ私が風斗さんにマッサージします」
風斗さんのマッサージなんて、きっととても痛くて恥ずかしいものに違いない。そんなもの、絶対に受けたくない。
「翡翠は相変わらず謙虚だね。今や俺らは夫婦になるんだから、対等に甘えてくれてもいいのに、なんだか寂しいよ」
風斗さんが本当に寂しそうな顔をしていて、何だか私はとても悪い事をしたような気持ちになった。
「あの、すいません」
変な偏見を持ってすいません。
「謝らないで。皆そうさ、王を前にするとかしこまって本音が言えなくなるんだ。だから俺はいつまでたっても壁の向こうに立たされているような孤独感を感じる。まあ、それに慣れ過ぎて、何が本音かも解らなくなってしまったけどね」
私は、王のこういう話を聞く度、胸が痛くなる。私は私で、トールの本質が解らなくて騙された人間だから、王の気持ちは少しだけ理解出来た。
私が癒やしてあげられたら……
「風斗さん、それなら、私を犬だと思って飼ってみませんか?」
「え、犬?」
私の突然の申し出に、風斗さんは度肝を抜かれたようだ。
「そうです、犬です。犬はとても正直で嘘がつけません。ですから、可愛がれば可愛がる程主人に懐き、忠誠を誓うんです。それは人間も同じじゃないですか」
私は風斗さんの手を取り、そこに頬を寄せる。
「妻を犬にするなんて、バチが当たらないかな?」
風斗さんは『ハハ……』と面食らって後頭部を掻いた。
「犬、みたいにです。だから、愛情いっぱいに可愛がって下さい。そうでないと、手を咬みます」
自分でも、自分が風斗さんのペットとして暮らした方が盲目的に彼を慕える気がした。犬は愛情さえ貰えれば必然的に飼い主を慕う。人としてセキレイさんを愛している私には都合が良かった。
「調教師をブリーダー、献上品を犬と言うらしいけど、なる程、確かにそれらの関係性には強固な信頼関係が結ばれている。俺と翡翠との間にそれを適用するのも、強ち無くは無い話かも」
そうそう、犬のように可愛がってくれれば、私の身の安全も保証されるというもの。
「コンシェルジュ、夕食をここへ」
おもむろに風斗さんが声をあげると、それを合図に鳥取さんがワゴンに出来たてのご馳走を乗せて押して来た。
「じゃあ、翡翠、駄犬のお前にご主人様が餌を与えてやろう」
「だけ……」
先刻までの柔和な風斗さんはなりを潜め、いつの間にか闇属性の風斗さんが頭角を現していて、私は今になって自分の誤算に気付かされる。
しまった、方向性がそっちに行くとは、調教プレイは風斗さんの大好物だったー!
私が思う『可愛がる』と、風斗さんが思う『可愛がる』とでは大きな認識の違いがある事をすっかり忘れていた。
「コンシェルジュ、鞭と首輪と鎖を持て」
風斗さんに命令され、鳥取さんは配膳もそこそこに鞭等を取りに部屋を出る。その際、一瞬チラッとだけ私の方に同情の視線を投げ掛けたが、彼は主人の言いつけ通り禍々しい3種の神器を持って戻って来た。
誰も助けてはくれない、そういう事だ。
そして私は観念して狂気の初夜を受け入れるのだった。
これが、私の第3の人生という事だ。
……いや、珍生か?
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