1 王への献上品と、その調教師(ブリーダー)αp版

華山富士鷹

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西の踊り子

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あれから毎晩、俺は何度となく翡翠に指南しようとしたが、彼女がどうにも逃げ腰で実践は頓挫する。
その間、俺はギリギリのところまで我慢を余儀無くされ、常に寸止めの状態で何日も過ごし、フラストレーションは溜まる一方だった。
「昨日も翡翠相手に指南してたでしょ?」
奥方懐妊の祝いの席にて、大臣席に座る翠から肘で小突かれる。
「ここのところ毎晩だよ」
俺は深くため息をつき、目の前の日本酒をお猪口でぐい飲みした。
「知ってる。ドタバタうるさいからね。盛り過ぎなんだよ。というか、一体どういうプレイをしてるんだよ?何か殺人事件みたいな断末魔が聞こえるんですけど」
「う~ん、まあ、翡翠がなかなか慣れなくてってのもあるけど、俺の方が翡翠に手を出しそうになって中断する事も少なくない」
「別に、ヤっちゃえばいんじゃない?」
サラッと翠らしからぬ事を言われ、俺はギョッとして翠を凝視したが、彼はいつもの涼しい顔をしている。
聞き間違いか?
俺は気を取り直して手酌でお猪口に酒を注ぎ、そのままそれをあおる。
「木葉は純朴そうに見えて以外と冷静なんじゃないのか?特段悲鳴なんか聞こえてこないけど?」
俺が翠に祝い酒を振る舞おうとすると、彼は手を振ってそれを断る。
翠は飲めない訳ではないが、酒に飲まれるのを嫌がる。
「木葉の純朴は偽りだからね。俺ら大人にはあれが無邪気で天真爛漫に見えて、実は全て計算しつくされているんだ」
「まさか」
あのどんくさそうなのが全て計算?もしそうならとんでもない演技派女優だ。
「いいや、木葉は打算的でとってもあざといよ。勿論、それが悪いって訳じゃないけど、木葉は紅玉に憧れてそのように自分を演出しているんだよ。紅玉は何でもそつなくこなしたけど、時々ギャップを狙ってわざと不出来なふりをするんだ。大したたまだよ、本当に」
「へぇ、正室になるだけの事はあるな。んで、木葉はその真似事をして正室にでもとってかわる気か?」
俺は冗談のつもりで笑ってみせたが、翠は怖いくらい真剣に応える。
「そうじゃない、木葉は王に好かれようとしてそんな事をしているんじゃないんだ。全ては俺に好かれたいが為にやってる」
「それは良くない傾向じゃないのか?」
献上品が調教師に想いを寄せる等と言語道断だ。勿論、その逆も然り。
「まあ、調教師にしてみたら、良くないよね。でもさ、俺は気持ちを抑えるのに慣れてるけど、木葉は真っ直ぐだから、その気持ちを汲み取ってあげられないのが凄く辛いんだ」
翠は壇上に王と並んで鎮座する紅玉を見据え、遠い目をした。
もしかしたら翠は、元々紅玉を1人の女性として愛していて、その気持ちは今でも変わらないのかもしれない。そして紅玉もまた、翠を見返す熱い視線を見ると、翠の事を今も昔も変わらず想っているに違いない。
相思相愛なのに、2人は別々の人生を送っている。そう思うと、俺は必然的に瑪瑙の事を思い出してしまう。
「翠、お前、紅玉の事……」
著名な来賓でごった返すこの場ではっきりとは明言出来なかったが、翠は俺が言わんとしている事を察して頷いた。
「自分に正直に生きていたら、どうなってたんだろうな」
ハハ……と翠は憂いた。
翠の奴、実は紅玉を嫁に出した事を後悔しているんじゃあないか?
「さあ……俺みたいになってたかもな」
日本酒はわりと好きだったが、今は苦く感じる。
「セキレイは後悔してるの?瑪瑙の事」
翠は紅玉に向けて祝杯を上げたが、やはりそれには口をつけなかった。
「そりゃそうだよ。瑪瑙を死なせてしまったからな」
今は翡翠がいてくれてるおかげでこうして雑談のように瑪瑙との事を話せたが、あの直後はまともに口もきけない程ショックを受けていた。
「でも、瑪瑙を愛して、一緒になろうとした事は後悔してないだろ?」
事の発端は俺の瑪瑙への愛だ。俺さえ冷静であったなら、あんな事は起こらなかった。        
「いいや、俺のワガママな愛が瑪瑙の死を招いたんだ、罪深いよ」
「人を想う事は罪じゃないよ。罪なのは運命さ」
「詩人か」
「言えてる」
俺が鋭く突っ込むと、翠は白くて並びのいい歯を見せて笑う。
裏表のない、爽やかな笑顔だな。
気持ちの悪い話だけど、この笑顔に、俺は何度となく救われてきた。
「鷹雄の奴は祝賀会には参加してないんだな?」
俺は辺りを見回し、医学界枠の席に1つだけ空席を見つける。
「うん、あいつはまだ誰かの幸せを願える状態じゃないからね。最近は、うちにダリアを預けっぱなしでユリの遺骨捜しに行ってるよ」
翠もその空席を見つめ、下加減で話した。
「遺骨捜しったって、ユリは地雷で……」
木っ端微塵になったはずだ。時間だってだいぶ経過している。
「バラバラになったよ。でも、鷹雄はせめてユリが亡くなったとされる現地の土を持って帰りたいって。ユリをあんな場所に置き去りにするのは忍びなくて、どうにか連れて帰りたいんだと思うよ。それからユリを連れて各所を巡っていろんな世界を見せてやるんだとか……」
翠は急にそっぽを向いて上加減になる。俺も、目の奥がギュンと痛んだ。
「そうか……でもダリアの奴が少し可哀想だな。ほったらかしじゃないか」
ダリアは年齢的にもいい歳だし、早くに献上の儀式を受けないと行き遅れるだろうに。それにダリアは西部国から友好の証として贈られた特別な献上品だ、背負っているプレッシャーだって並大抵ではないはず。
「ダリアが鷹雄の背中を押したんだよ。自分には出来ないからって。ダリアもずっとユリの事が気掛かりだったんだよ。あの娘が一番ユリのそばにいたからね」
「いつも虚勢を張っていたけど、ダリアはユリが居なくなって、今、凄く辛いんだろうな」
最近のダリアは以前の高圧的な覇気はまるでない。廃人というか、脱け殻だ。そうなるまでにユリの事を愛していたのだ。
「何だか、俺らの仕事って、子供達を高い地位にのし上げてあげるものだと思っていたけど、それで子供達が幸せになるとは限らないって、年月を追うごとに思い知らされる。勿論、最初は自分の家族を養う為に始めた事だけど、それでも、俺は紅玉や木葉を幸せにしたくて奮闘してる。でも、紅玉含め、献上品の子供達の成長を見ていると、時々自分の判断を疑ってしまう」
いつも真っ直ぐで、自分を持っていた翠が、今は俺の目の前で苦悩している。
鉄の男翠も、人並みに悩んだり、迷ったりするんだな。
翠と出会って長いが、こんな彼を見るのは初めてで、少し共感を生んだ。
「紅玉、幸せそうに見えるけどな?」
俺の目には、王の隣で微笑んでいる紅玉は幸せそうに見えるが、育ての親には本当の紅玉の姿が見えるのかもしれない。
「無理して笑ってるよ。紅玉が凄く自然な笑顔の時は逆に作ってる時だから。彼女が心から笑う時はさ、照れたようにはにかむんだ。顔を真っ赤にしてさ、手で顔を隠すんだけど、目だけ覗かせて、上目遣いで」
翠はその場面を思い浮かべながら笑ってブドウジュースを口にした。
何だか話を聞いていると、本当に2人は恋人同士だったんじゃないかと疑いたくなる。
だって紅玉は、俺にそんな本気の笑顔なんか見せた事などない。俺は彼女の繕った顔しか知らない。きっと翠にしか見せない表情があるのだろう。
翠は半分くらいブドウジュースを飲んで、ふとその手を止めた。
「どうした?」
俺は毒でも盛られたかと翠に声をかけると、彼は唐突にコップを置いて突然身を乗り出す。
「紅玉、具合が悪そうだ」
「え?」
俺は紅玉を確認するが、別に変わった様子はない。
「そうか?照明の加減じゃないか?」
「いいや、我慢してる」
翠にしか解らないのか、周りは誰1人紅玉の変化に気付かない。そう、王ですら。
翠は立ち上がって紅玉に駆け寄ろうとして、俺は慌ててその手を掴んで制止した。
「翠、駄目だ」
俺は心を鬼にして翠を睨む。
王に嫁いだ者には、たとえ育ての親である調教師と言えどこちらから不用意に近付いてはならない。
これが、調教師である俺達の鉄則だった。
手を伸ばせば届きそうなのに、絶対に手を伸ばしてはいけないのだ。
「セキレイ、放せ!」
こんなに我を失った翠を見るのも初めてだった。
「翠、落ち着け、紅玉のそばにはちゃんと王が付いてる」
俺は、今にも紅玉を抱き締めに飛び出しそうな翠を強引に席に引き戻す。翠も、王の名を聞いて我に返り、正座して拳を握りしめた。
「もう、俺は紅玉の調教師じゃないんだな」
弱々しくそう話した翠の背中が、とても小さく見えた。
俺が尊敬する伝説の調教師も、ただの人間だったんだな。

数分後、紅玉は本当に体調を崩し、王が呼んだ側近達によって退室させられた。
翠はその後も紅玉が気になるようで、俺がどんなに話し掛けても上の空だった。

紅玉退室の後、祝賀会も佳境に入り、お偉い大臣の退屈なスピーチが終了すると、西部国から呼ばれたという旅一座の演舞が下座にて始められた。
演舞は、白拍子の様な古き良き日本の伝統芸能の堅苦しい演目で、室町時代の和装を模した1人の女性が烏帽子や能面を被って扇子を振りかざし、その後ろで禿姿の男の子1人を含む5人の男達が袴姿で拍子や音頭をとっていた。
俺は上の空の翠に話し掛けるの諦め、退屈凌ぎにその白拍子を何の気なしに眺める。
演目が演目だけに、会場にいた誰もその白拍子には注目していなくて、俺は少しだけ気の毒に思い、せめて自分だけでも見届けてやるかと白拍子をつまみに腰を据えて日本酒をあおっていた。
「へぇ、上手いもんだな」
じっと白拍子を眺めていて、自然と俺から感動のため息が漏れる。
暫く観察していると、俺はその能面の女性のしなやかな身のこなしにすっかり惹き付けられ、気が付けばずっと彼女の動きを目で追っていた。
堅苦しい演目なのに、その女性は軽やかな笛の音や軽快な太鼓の音頭に乗せて軽い身のこなしでフワフワと舞い、まるで蝶の様だ。
俺はいい気分でつい酒が進み、時の経過さえ忘れていた。
そこから白拍子も終演に近づき、女性が躍りながら能面を止める紐に手を掛け、俺は好奇心で目を凝らす。
そして女性が能面を投げ捨てた時、真っ直ぐにこちらを見やる彼女と目が合い、俺の体に衝撃が走った。

「……瑪瑙?」

女性は、瑪瑙にとてもよく似た面構えで、瑪瑙のそれと全く同じ青い瞳でこちらをしばし見つめていた。
そんなはずない。
だって瑪瑙は何年も前に崖から落ちて死んだんだ。
そんなはずはないと思うのに、どうしても彼女が、俺が最後に見た瑪瑙の数年後の姿に見えて仕方がなかった。
だってあの瞳は、瞳だけは、瑪瑙そのもので、変わるはずがない。
あれは瑪瑙か? 
いや、でも確かに瑪瑙は死んだと報告を受けた。
けどよく考えると、俺は人伝に聞いた話でしか瑪瑙の死を知らない。実際に自分の目で見た訳じゃない。
もしかしたら瑪瑙は、運良く生きながらえ、この旅一座で働くようになったのかもしれない。

瑪瑙が生きているかもしれない。

俺は何年も前の気持ちが昨日の事の様に思い出され、胸が熱くなった。
件の女性が能面を取ってから会場は掌を返したかの様にワッとわき上がり、誰もが彼女の可憐な舞いに釘付けになる。そしてそれは王も例外ではなく、彼もすっかり彼女に魅了されていた。その場にいた誰もが、男女関係無しに彼女に恋をしていた。
ただし翠は除く。
「俺は戻るけど、翡翠の事はそのまま預かってるから、もう少し楽しんでて」
翠は俺が手にしていたお猪口に自分のグラスを軽くぶつけ、身の回りの整理整頓をすると立ち上がって俺に葉っぱを掛けた。
「でももう若くないんだから、程々にね。日付が変わる前には翡翠を迎えに来いよ」
「分かってるって、俺もすぐ戻るよ」
俺はシッシッと翠を追いやり、すぐに、演目を終えた女性を目で探る。
あれは本当に瑪瑙なのか?
俺はすぐにでも確かめたくて矢も盾も堪らず席を立った。
「瑪瑙っ!」
俺は女性が廊下に出て1人になったタイミングで声を掛けたが、彼女は止まらず先の角を曲がった。
やはり違うのか?
俺が半信半疑でその後を追うと、角を過ぎた所で立ち止まっていた彼女と正面衝突する。
「あっ!」
「悪い!」
俺は尻餅を着きそうになった彼女の腕を掴み、グイと自分の方に引き寄せた。
「お前……」
語尾が出てこない。
こうして間近で彼女を見ると、見れば見る程、この女性は『瑪瑙』だ。
俺がこの綺麗な瞳を忘れる訳がない。

だってずっと好きだったんだ。

今は伸びきってしまったこの髪も、大人っぽくなった顔立ちも、壊れてしまいそうな体の線も、全部、当時から凄く凄く好きだった。
「瑪瑙!瑪瑙なんだろ!?」
俺は思いに任せ許可なく彼女を強く抱き締めていた。
「痛い」
「あ、ごめん」
胸の中で彼女が苦しそうにし、俺は我を取り戻して性急だった自分を恥じる。
まだ瑪瑙だって決まった訳じゃないのに、何をやっているんだ、俺は──
しかしそんな俺を見上げていた彼女はフッと笑いだし──

「相変わらずセキレイさんは強引だね」

──と俺の胸に顔を埋めた。
「瑪瑙っ!!」
やっぱり瑪瑙だ!
瑪瑙は生きていたっ!!
俺は感激の坩堝に押し流され、再度彼女を力いっぱい抱き締めていた。
「だから痛いってば!」
そんな文句を言う瑪瑙も、どこか嬉しそうだった。
「お前、何で、死んだと思ってた」
「死んでないよー、あの日、ここの兵士が見逃してくれたんだ」
えへへと瑪瑙がハニカミ、俺の感触を確かめる様に胸板に顔をすり寄せる。
体にしっくりくる懐かしい感触だ。
「でもお前、何で戻って来たんだ!?正体がバレたらどうなるか……」
王を謀った罪に時効はない。瑪瑙がした事はとんでもなく危険な行為だ。
「私、どうしてもセキレイさんに会いたくて旅一座に入って修行したんだから!何で戻って来ただなんて寂しい事言わないで、セキレイさんは私に会いたくなかったの?」
瑪瑙は途端に表情を曇らせ、涙目になった。
「そんなはずないだろ!お前が居なくなってから、俺がどんな思いだったか……」
2度とあんな思いをするのはごめんだ。
「セキレイさん、セキレイさん、私、ずっとずっとセキレイさんの事が大好きだったの。世界を敵に回しても、一生セキレイさんのそばにいたかったの」
瑪瑙は積もり積もったこれまでの思いの丈を切々と吐露し、俺の胸を涙で濡らす。
「瑪瑙、俺だってそうだった。たとえ血を分けた弟だろうと、誰にもお前を渡したくなかった。だから俺はあの時……」
瑪瑙と一緒になろうと誓ったんだ。
「瑪瑙、でも俺は、お前を死なせたと思って、お前を側室にしてやれなかった事を悔やんだ」
「セキレイさん、もういいの。こうしてセキレイさんに抱き締められてるだけで私は幸せなの」
「瑪瑙……」
俺は瑪瑙の顎に手を当ててクイと上を向かせ、その淡いピンクの唇にキスしようとした。
「あっ」
いきなり角の先からこの城の警備兵が現れ、俺達に軽く接触する。
俺は瑪瑙を庇って彼女を壁側に囲うと、彼女の小脇から紙切れがヒラリと舞い降りた。俺はそれを拾い上げようとして、直前で手を止める。
「電話番号?」
紙切れには携帯の番号だけがメモされている。さっきの男が自分の電話番号をメモした紙切れをさりげなく瑪瑙の小脇に仕込んだのだろう。恐らく、会場で瑪瑙に心奪われた男の1人だ。
「よくあるのか?」
何かムカつくな。
俺はムスッと表情を強張らせる。
「演者をしていると、こういった事はよくあるよ。舞台に立っていると、それなりのものが何割増しかに見えるものだし」
瑪瑙はそう言って謙遜したが、彼女は俺が見たどの時系列の瑪瑙より断然綺麗になっていて、俺が想像していた瑪瑙の未来像を遥かに凌ぐ破壊力だった。瑪瑙の、大人になりかけの危うい美しさが、今は大人の妖艶さに成り変わっている。
「お前は綺麗だよ。今も昔も、俺の心を掌握して放さない」
今度こそ、誰にも渡したくないと思った。
俺が瑪瑙の頬に触れると、彼女は恥ずかしそうに俺から視線を外した。

翡翠と同じような反応をするんだな。

俺はやけに感心して翡翠にするみたいに瑪瑙の頭を撫でた。
「セキレイさん、私、もう子供じゃないよ」
「え?ああ、そうだった。いつもの癖で」
俺は下から瑪瑙に怒られ、後頭部を掻いて誤魔化す。
「ねぇ、セキレイさん、セキレイさんは今でも調教師フロアのあの部屋に住んでるの?」
瑪瑙がそんな事を言い出し、どうしてか彼女は俺のシャツの裾を握り締めた。
「そうだよ」
「ふぅん」
瑪瑙は何か思うところがあるのか、俺を勘ぐる様な目で下から見上げてくる。
「?」
「ねぇ、セキレイさん、これからセキレイさんの部屋に行ってみたい」
「えっ!?」
瑪瑙の突然の申し出に、俺はドキリと心臓が浮いた。
「何で?駄目?」
瑪瑙に物欲しそうな潤んだ瞳で見つめられ、俺はみっともなくたじろぐ。
「え、いや、別に駄目じゃあないけど……」
俺は不自然に歯切れの悪い返答をした。
翡翠は翠の部屋に預けているけど、あと30分程で迎えに行かなければならないし、万が一新旧の献上品が顔を合わせたとなると、ちょっと気まずいというか、良くないのではないだろうか?
「セキレイさん、解ってるの?」
瑪瑙は好戦的な態度で俺のネクタイを自分の方に引き寄せた。
「何?」
「私はもう大人で、献上品じゃないんだよ?」
それってつまり、俺を誘っている?
俺は瑪瑙に膝で腿を割られ、下からグイッと体の中心を圧迫されると、俺はそれだけで全身の血が滾った。
「こら、瑪瑙、こんな所で変な事をするな」
俺はキョロキョロと辺りを見回し、角の向こうから人々の喧騒が耳に届き、慌てて瑪瑙の膝を手で押し戻す。
「じゃあ部屋に連れて行って」
瑪瑙にネクタイを極限まで引かれ、耳元で熱っぽく囁かれると、俺は少しだけならと理性がぐらついた。

「へぇ、私がいた頃とはだいぶ変わっちゃったなぁ。全然私の物が無くて、何だか寂しいな」
瑪瑙は俺の部屋に入るなりキョロキョロと物珍しそうに辺りを見渡し、俺は後ろめたさでチクチクと胸が痛かった。
「子供部屋はどうなってるの?」
瑪瑙が子供部屋のドアを開けようとして、俺は咄嗟にその手を引き寄せ、彼女に口付ける。
今、俺が他の誰かを調教している事を知ったら、瑪瑙は傷付く。
強引な誤魔化し方だったが、逆にそれが瑪瑙に火を着け、彼女は俺とキスしながら性急に服を脱ぎ去った。
「ほら、セキレイさん、私、大人になったでしょ?」
月明かりによって照らし出されたのは、以前の芸術的な美しさの瑪瑙の体とは違う、とてもメリハリのある肉欲的な艶かしい彼女の肢体だった。
当時、王が瑪瑙に装着した銀の首輪も変わらずに付けられている。
瑪瑙は長い髪でトップが隠れているのにそこが変にエロ過ぎて、俺は瑪瑙を直視するのさえ照れくさくなる。
今になって酔いが回ったか、随分と体が火照る。
「セキレイさん、触っていいんだよ?」
瑪瑙に自分の手を誘導され、彼女の大人になったたわわな丘に触れると、俺は背徳感でイケナイ気持ちになった。
王の所有物の証である首輪はやに目障りで忌々しかったが、そんな物を付けている瑪瑙に触れると、俺の征服欲は俄に満たされた。そもそも瑪瑙は元献上品で、指南以外で俺が触れていい体ではなかったのだ、それがこうして俺の手の内にあると思うと、鳥肌が立つ。
感動的だ。
ずっと、瑪瑙との指南の先を夢見ていた。
今なら、手を伸ばせば届くし、手に入れられる。
「セキレイさん、好きにして」
それはまるで淫夢の様で、悪魔の囁きに思えた。

そこから俺は思春期のガキみたいに性に無我夢中だった。日頃の生殺しも相まって、俺はサービス精神も忘れ、自分勝手に何度となく瑪瑙を抱いた。俺はあまりにもせわしなく様々な事を一挙にやり過ぎたのと、酩酊状態のせいで最中の記憶はぶっ飛び、麻薬の様な前後不覚な感覚の中、溢れんばかりの充実感を味わった。
ずっと欲しかった物が手に入った。
しかし俺は完全燃焼で意識を手放そうとした時、1つだけ心にとっかかりを覚える。

瑪瑙は処女じゃなかった。

朝になって、俺は割れそうに痛む頭痛で目が覚めた。
「うぅ……翡翠……」
肩にズシリと重みがあり、昨夜は雷でも鳴ったかなと、俺は思った。

「翡翠って?」
 
すぐ耳元で瑪瑙の声がして、俺は真っ青になって飛び起きる。
し、心臓に悪……
カーテンが全開だったせいで日射しが目に痛い。
「ヤバッ!!今、何時だっ!?」
日付が変わる前に翡翠を迎えに行く約束だったが、ベッド下に転がるスマホを見ると、時刻はもはや午前10時を指していた。
大遅刻どころの話ではない。献上品をよそに預けて、自分は部屋で女としけこんでたなんて、調教師失格だ。
酔いが醒めて冷静になってみると、俺はとんでもなくどうしようもない鷹雄の様な事をしていた事に気が付く。
うわ、最低最悪だ。
意外と着信やメールは来ていないが、逆にそれも怖い。
「セキレイさん、やっぱり私の後にも犬を飼ってたんだ。翡翠って、献上品の子の名前でしょ?」
「あ……ハイ」
嘘をついても仕方がない。俺は素直に頷く。
「そっか……そうだよね。セキレイさんは国を手に入れるのが夢だったもんね。私が逃げ出したから、代わりに新しい子を見繕ったんでしょ?」
瑪瑙はいじけて全裸のまま体育座りした。それがやけに華奢で小さく見えて、俺は彼女を覆い尽くす様に抱き付く。
「瑪瑙、お前の代わりなんていない。翡翠の事は、没落した南部国王の娘がいるって噂を聞いて引き取ったんだ。代替え品みたいに言うな」
「そう……でも、指南はしてるんでしょ?」
瑪瑙に大きな瞳で見つめられ、俺は解りやすくギクリと肩を揺らした。
「えと……ちょっと」
何故だか俺は、自然とその場に正座した。何故だか無性に正座したくなったのだ!
「セキレイさん」
「ん?」
ジト目で瑪瑙に見上げられ、俺はその緊張感で全身から冷や汗が噴き出す。
「汗びっしょりだよ」
「うん……」
何か尋問されている気分で居心地が良くない。
「瑪瑙、とにかく今はうちの子を迎えに行ってやらないといけないから、また今度会えるか?」
俺はせかせかとベッド下に脱ぎ捨てられた衣服を集め、それを適当に引っ掛けると、急かす様に瑪瑙の着替えを手伝ってやる。
「ほらほらバンザイして」
俺が瑪瑙の両手を上に上げると、彼女は上目遣いでワガママを言い出す。
「セキレイさん、シャワーしたい」
「えっ!?」
そんな事をしている場合ではないのに。
ヤるだけヤっておいて朝には都合良く女を追い出すなんて、ゲスの所業だが、翡翠が待ってる、早く行かなきゃ。翡翠にだって酷い事をした。
俺は気持ちだけが焦り、急ぐあまり無意識に体が少し揺れる。
「瑪瑙、頼むから自分の部屋に戻ってからにしてくれないか?翡翠のスケジュールも押してて、それで、あの……」
解っている。この場合、全て男の俺が悪い。そして圧倒的に分が悪い。けれどとにかく俺は、待ちぼうけしている翡翠をどうにかする事で頭がいっぱいだった。
しかし瑪瑙はそんな俺を翻弄して困らせる様にワガママを押し通してくる。
「やだ、だって汗でベタベタだし、髪も乱れていかにも夕べ──」
「あーーあーーあーー!解った、解った!それ以上言うな、ほら、洗ってやる」
俺は半ばやけくそで瑪瑙をお姫様抱っこし、自らも裸になってバスルームに入った。

「熱い?」
瑪瑙の目に入らないよう手で彼女のおでこを押さえながら熱いシャワーをかけていくと、彼女は俺と一緒に暮らしていた当時と同じように顎を上げて目を閉じる。
「ちょうどいい」
こうしていると、本当に、あの頃に戻ったみたいだ。
俺は昔を懐かしむと同時に、どうしてか翡翠にとても申し訳がたたなくなった。
この感情はあれに似ている。

浮気だ。

そう、まるで浮気している気分だ。
翡翠と俺とは献上品と調教師というだけの関係で、そもそもそれ以上のなにものにもなってはいけないはずなのに、翡翠を裏切っているという罪悪感で胸が潰れそうだった。
別に、調教師は献上品の指南もするが、プライベートでは普通に恋愛をしたり、結婚だって許されている。なかなかそれらの両立がうまく成り立たないという理由でパートナーを持つ調教師は少ないが、禁じられてはいないのだ、俺が瑪瑙とよりを戻したところで、翡翠に対して後ろめたく思う必要はないはず、なの、だが、理屈ではどうにも出来ない俺の良心がズキズキと痛んだ。
「ッア……」
俺が慌ただしく瑪瑙の体にスポンジをかけていると、不意に彼女が息を詰めた。
「へっ、変な声を出すなよ」
俺は思わぬハプニングに狼狽して手を引っ込める。
シラフの時にそんな甘い声を出されるととてつもなく恥ずかしい。ましてや相手は成熟した瑪瑙だ、爽やかな朝には目の毒すぎた。
昨夜は暗かったし、夢中過ぎててあまり瑪瑙の完成された裸を堪能出来なかったけれど、こうして明かりの下でまじまじ見てみると、大きく膨らんだ胸や、そこに掛かった長い髪、キュッと上がった腰が時の経過を感じさせ、俺の平常心を脅かす。
なんか、凄く、女女してるな。 
俺は、こうして瑪瑙の体を洗ってやって、当時と同じようでいて、やはりこういうところが決定的に違うなと思った。昔は今みたいに邪な気持ちでこんな事をしていなかったし、それに昨夜、瑪瑙にしでかしたあんな事やこんな事がフラッシュバックして、尚更彼女の体がエッチに見える始末。
そうなると俺は、こんなスケベ心でさえ、翡翠に対して気が咎めだす。
翡翠がどう思うかは解らないが、やっぱり俺は浮気している気分で、せめて今は理性を保とうと思った。

ふぅ、と俺は息をつき、今度は自分自身がシャワーを浴びようとすると、瑪瑙が石鹸を手で泡立て、両手を俺の胸板に滑らせた。
「待て待て待て待て待て待て待て待て待て待て待て」
俺は戦いてバスルームの壁に背中をぶつける。
「セキレイさん、今度は私が洗ってあげる」
瑪瑙に悪気は無いのか、彼女は胸を両脇から二の腕で押し寄せて満面の笑みで張り切っていた。
かわいい、かわいいし、エロいし、魅力的な誘いではある。当時は瑪瑙とこんな風ににゃんにゃんする事を夢見ていた時もあった、あったが、今は駄目だ。今は翡翠を迎えに行かなくては!
俺は自分を戒め、懲りずに伸ばされた瑪瑙の手を掴み、壁に体ごと押し付けた。
「大人しくしてろ」
昨夜激しく動き過ぎたせいもあり、俺はちょっと疲れきっていた。
「セキレイさんてこういう押さえ付けてするの好きだよね」
「……」
俺は急ぐあまりめっきり自分の性癖を忘れていた。
ああ、もう、だから、早く翡翠を迎えに行かなきゃ!
「俺はもういいから、早く体を拭くぞ、ほらほら行くぞ」
俺は早口で捲し立て、強引に瑪瑙の手を引き剥がし、彼女を脱衣場に引っ張っていく。
「本当はやりたいくせに」
「うるさいうるさいうるさいうるさいうるさい、また今度な」
俺は勢いで『今度』と言ったものの、翡翠の手前、これからも瑪瑙に会っていいものかとちょっと迷いが生じた。
「ねぇ、セキレイさん、その子とは毎日会えるんでしょ?私はまたいつ会えるか解らないんだよ?だから私、まだセキレイさんと離れたくない」
俺だってそうだけど、翡翠が……
俺は、泣きそうな顔でしがみついてくる瑪瑙をバスタオルでくるみ、おでことおでこを合わせて抱き締める。
「解ってる。俺もそうだから。でも俺は調教師だから、翡翠の面倒をみないと」
翡翠は俺の責任で、俺の秘蔵っ子、大事な──

大事な、なんだ?

適切な表現が思い付かない。
とにかく、瑪瑙も大事だが、翡翠だって大事って事だ。
「けどセキレイさん、私は今日までずっとずっとこの日を待ってたんだよ?!それがどんなに寂しかったか」
ひしっと瑪瑙は俺の背中に手を回して放さなかったけれど、俺はふと昨夜のとっかかりを思い出し卑屈な気持ちになる。

だから他の男とヤったって?

喉元まで出かかったが、俺はその言葉を飲み込んだ。
俺があの時約束の場所に行けていたら、瑪瑙は昨夜みたいに俺とめでたく初夜を向かえ、生涯を共にしていたはずだった。瑪瑙の運命を変えてしまったのは俺で、全て俺の責任だ。その後瑪瑙がどんな生き方をしていたとしても、それは瑪瑙の自由だし、俺の言えた立場ではない。言えた立場ではないけれども、ただひとつだけ言いたいのは、スゲームカつくし、スゲー気になるという事。
だからと言って聞けないけど。
「さぁさ、俺のシャツでいいだろ?あの和服、着るのに時間がかかりそうだし」
俺は簡単に着替えを済ませ、急ぎ足でクローゼットから自分のシャツやズボンを引っ張り出して来て、それを瑪瑙に着せていく。
「ほら、バンザーイ」
「だからセキレイさん、私、もう子供じゃないよ」
とか言いながらも瑪瑙は嬉しそうだ。
「はいはい、それは昨夜思い知らされました。てか和服の下ってやっぱり下着つけないのな」
俺はやけに感動して瑪瑙に厚着させていく。
他の男に瑪瑙の乳首が浮いているとこを見られるのは嫌だ。
「うん、やっぱり伝統芸能だし。ちゃんとするところはちゃんとしたいし、必要にかられて始めたお仕事だけど、それでお金をもらうんだから、何の事でもきちんとやりたいなって」
誇らしげに語る瑪瑙を見ていると、立派になったなと思う。翡翠みたいにあんなに臆病で人見知りで引っ込み思案で意気地無しだったのに、成長したもんだ。
翡翠もいずれこんな風に……
改めて考えてみると、少し寂しい。
「……ふぅん、俺のパンツで良かったら履いてくか?」
「ぇー、やだ」
冗談のつもりで言ったのに、謙遜とか遠慮の言葉ではなくいきなり否定され、俺はしばし傷付く。
「早くズボン履けよ」
俺は投げやりにそんな事を言い、しゃがんで瑪瑙に肩を貸しながら履きやすい様に両手でズボンを拡げてスタンバイした。
「セキレイさんて、今でもこんな風に過保護なの?」
「え?過保護か?厳しい方かと思ってたけど」
「過保護だよ。なんだかんだ言ってめちゃめちゃ過保護。翡翠も雷を怖がるの?」
それはつまり『雷の夜は一緒に寝てあげているの?』という事を指している。
探りを入れられているな。
「え、いや……」
俺は瑪瑙がやきもきを焼くのを恐れて咄嗟に言葉を濁した。
「もしそうだったら、妬けちゃうなぁ」
「……」
瑪瑙は俺の懐に入り込むのが上手くなったと思う、昔より大胆になったし、嫉妬深くなったし、強かになった。これは良いことなのか俺には解らないが、純真だった頃の彼女はもうどこにもいない気がする。
「セキレイさん、セキレイさんは、本当の本当に私の事が好き?私がいなかった何年間もずっと忘れずに好きでいてくれた?」
俺の頭の上から瑪瑙の涙声がした。
見上げると、瑪瑙は今にも泣き出しそうな顔をしている。
男というのは女の涙に弱い生き物だが、俺は昔から瑪瑙の涙にはすこぶる弱い。
「当たり前だろ。ずっと変わらずに好きだよ」
俺は大人になった瑪瑙の膝っ小僧に愛を誓う様に口付けた。
「翡翠よりも?」
「……比べられないよ」
翡翠は献上品だ。瑪瑙とはまず土俵が違う。瑪瑙は何をそんなに心配する必要があるのか。
「セキレイさんはロリコンだから心配だよ」
瑪瑙はさっきまでの表情をくるりと変え、一転して可愛げたっぷりにごねてズボンに片足を通した。
「お前はもうハタチ超えてるだろ?」
「私はね」
瑪瑙は意味深に目配せして、もう片方の足を上げる。
それにしたって、瑪瑙はこんな事を言う様な奴だったか?
瑪瑙は男を手玉にとっていいように転がすタイプの人間じゃなかったはずなのに、今の俺は完全に瑪瑙のペースだ。瑪瑙はもっと、翡翠みたいに不器用だったのに。
何か、瑪瑙を遠くに感じる。
それから瑪瑙が片方の足もズボンに収めようとして、両手で俺の肩に寄りかかった時、俺の背後で脱衣場のドアが開く音がした。
この部屋はオートロックのはずなのに、何事だ?と俺が振り返ると、そこに、いるはずのない翡翠が呆然と立ち尽くしていた。

しまっ──

『た』と両手で頭を抱えそうになるも、俺の顔が青ざめるに留まる。
「……翡翠、あのさ、これ──」
俺は自分でも何を言おうとしているのか混乱していた。
とにかく、翡翠に解ってもらう為にはどんな言葉が最善か頭をフル稼働させたが、駄目だ、多分、どんなに言葉を尽くしても、翡翠は傷付く。
その証拠に、翡翠は瞬きもせずに大粒の涙を1つ落とした。
翡翠はこの状況を見て、昨夜俺に何があって、何故迎えに来られなかったのか理解しただろう。
「翡翠、迎えに行けなくてごめん……なさい……」
翡翠があんまりにも傷付いた顔をするものだから、俺は腫れ物にでも触るように言葉を選んだ。
「昨日は、えっと、たまたま瑪瑙と再会して、じゃなくて、瑪瑙が実は生きていて、それで……」
ヤってしまいました。という言い訳は、する必要があったかどうかは解らないが『瑪瑙』という名前を耳にしただけで、翡翠はひどく怯えた顔をした。
「セキレイさん、解ってます。私は大丈夫です。知ってたんです。昨夜は、この部屋のドアがキチンとしまっていなかったようで、その……とても静かな夜だったから、ギシギシとか、息遣いとか、壁越しにも聞こえてて、それで、あの、すみません」
「……」
翡翠は全て解っていたのか。
「いや、悪いのは俺なんだ、俺が──」
俺が悪いのに、翡翠が大層悲しい顔をしていて、俺の良心はズタズタになる。
いっそ殺してくれ、翡翠。
「それから、そろそろ大丈夫かと思って帰って来てしまって……すみません、お取り込み中なのに、せっかく瑪瑙さんと再会できたのに、すみません。あの、すみません」
翡翠は瑪瑙にも頭を下げ、俺の言い訳も待たずに部屋を飛び出した。
俺がそのすぐ後を追って脱衣場を出ると、床にこの部屋の合鍵が落ちていた。
翡翠が落としたのだろう、俺はその鍵を見て思った。

翡翠は合鍵を持って部屋を出たのに、今の今まで俺が迎えに来るのを信じて隣の部屋でずっと待っていたんだ。
俺が夜通し瑪瑙を愛する騒音を聞きながら……
どうして誘惑に負けてしまったのだろう、今更ながら悔やまれる。
俺は鍵を握り締めたまま部屋を飛び出そうとして、その腕を瑪瑙に掴まれた。
「セキレイさん、行っちゃ駄目だよ!」
瑪瑙に強い口調で止められ、俺は思わず振り返る。
「でも、翡翠が──」
「セキレイさんは調教師でしょ?献上品とは距離を置かなきゃ。今追いかけたら、翡翠は勘違いする。これでいいんだよ」
「でもっ……」
確かに、調教師と献上品の距離が近すぎるのは問題だし、指南をしていると俺の方が勘違いしそうになる。

翡翠は自分の物だって。

それに、今、翡翠を追いたいのは、多分、俺が翡翠を引き止めたいからだ。
それがいかに良くない事か、瑪瑙の言っている通りなんだけど……
「会ってどうするつもり?迎えに行けなかった事は謝罪したよね?じゃあ他に何て言うの?私達のこの事実を弁解するの?何故?セキレイさんと翡翠は調教師と献上品でしょ?付き合ってる訳でもないのに、浮気した彼氏みたいに弁解するの?」
確かに確かに、付き合っている訳でもないのに弁解するのは何だか俺が自意識過剰みたいになる。それに自分でも、翡翠に会ったところで何を話していいか解らない。
けど、会いたいんだ、翡翠に。
そんな事、瑪瑙の前では絶対に口に出来ないけど。
「……調教師として、献上品に家出されると困るだろ?」
こんな体たらくで『調教師として』なんて甚だ可笑しいが、俺はそれほどまでにどうにかして翡翠を追いかけたかった。
しかし俺のそんな思いは瑪瑙にも伝わっていて、彼女は呆れてとても深いため息をつく。
「家出したって、献上品なんかこのフロアしか出入りが許されてないんだから、行けるところは限られてるでしょ?それに、セキレイさんは、昔、私を鷹雄さんにずっと預けてたじゃない」
急に昔の過ちをほじくり返され、俺はギクリと目が泳いだ。
瑪瑙の奴、未だに当時の事を恨んでいるのか……
「それは……まあ……俺の精神力がもたなくて、お前と距離をおこうとだな……」
俺がしどろもどろになって冷や汗を流していると、瑪瑙は片手を腰に当て、俺の目先三寸のところで指を指す。 
「そうでしょう?自分でも、献上品とは距離をおかなければならない事は解ってるじゃない」
「あ……」
とんだマヌケだ、揚げ足を取られた。
そうだ、自分でも嫌になるくらい解っていた。
「セキレイさん、解ってるの?あの子はセキレイさんの事が好きなんだよ?セキレイさんは気持ちに応えてあげられないんだから、時には突き放した方があの子の為になるし、私の時の様な過ちは繰り返したくないでしょ?」
「ちょちょちょちょちょ、何が?」
瑪瑙に結構な勢いで詰め寄られ、俺は気持ち背中を反らせて戦く。
翡翠が俺の事を好きだって?
そんな馬鹿な事、あるはずがない。だって翡翠には、俺の事を好きになるなとずっと言い聞かせてきたんだから。
それにたとえ翡翠に好意があったとしても、それは翠やユリに向けられてきたような微妙なものだ、俺が応えるとか応えないとかの次元の話じゃない。
「翡翠が俺を?ないない」
俺はあり得ないと笑い飛ばしたが、瑪瑙は怖いくらい真剣に俺を見据えてきた。
「私は元献上品で、セキレイさんを愛してるんだよ?私には翡翠って子の気持ちがよく解るよ」
それは凄く説得力のある話だが、実際に翡翠の口から聞いた訳ではないのだ、早とちりしてはいけない。
でももしそれが本当なら、少し嬉しいけれど、その何百倍もの罪悪感が押し寄せてくる。
「セキレイさん、嬉しそうにしたり、青ざめてみたり、分かりやすいよね?」
「……」
瑪瑙にチクチクと指摘され、俺は閉口した。
さすが瑪瑙、俺の事をよく解っていらっしゃる。
「セキレイさん、あの子はもうすぐ出荷でしょ?」
瑪瑙の『出荷』という言い方に悪意を感じ、俺は難色を示した。
「献上な」
「セキレイさんがあの子をどう想おうと、あの子がセキレイさんをどう想おうと、もうすぐ献上されるんでしょう?それなら今のままでいた方がいい。下手に優しくしたらあの子を迷わせるだけだよ。献上品が土壇場になって逃げ出したら、処断か、私みたいになる」
そこで瑪瑙は自らの胸の前でギュッと手を握り締め、表情を強張らせる。
「瑪瑙?」
明らかに様子のおかしい瑪瑙の肩に触れると、小刻みに震えていた。そして彼女は意を決したように重い口を開いた。
「セキレイさん、私があの日どうやって生き延びたか知ってる?」
「何……?」
俺は恐る恐る聞き返す。
嫌な予感がした。
俺が知っているのは、瑪瑙は俺が来る前に城の警備兵に見つかり、追い詰められて崖から転落したという事だ。後に瑪瑙の口から警備兵に見逃してもらったと聞いたが、その詳細までは知らない。
「私はセキレイさんが来る前に警備兵に見つかって、崖まで逃げてきた。でも追い込まれて、私はそこから飛び降りる勇気もなくて、銃を握る兵士に命乞いをした。どうしても生き延びてもう一度セキレイさんに会いたかったの。どうしてもセキレイさんと一緒に生きたかったの、だから、だから……」
「瑪瑙、もういい」
俺は、何度も唇を噛み締めながら言葉を紡ぐ瑪瑙をしっかりと抱き寄せ、彼女の頭を胸に押し付けて意図的に告白を遮った。
恐らく瑪瑙は……
「うっ……」
俺の腕の中で瑪瑙が嗚咽を漏らして泣き出す。
「瑪瑙、ごめんな」
あの日俺が約束の場所に行けていたらこんな事にはならなかった。
俺のせいだ。俺のせいで瑪瑙は……

瑪瑙はきっと、その警備兵にその身を捧げる事で見逃してもらったのだ。

それから城仕えの箱入り献上品が旅一座に入るまで、もっともっと色んな事があっただろう。昨夜の瑪瑙の手慣れ感を思えば、それらは決して想像に難くない。ひょっとしたら瑪瑙は、王の側室になるよりももっとずっとおぞましい目にあったのかもしれないし、あのまま側室になれていたら、今より全然幸せになっていたと思う。そう思うと、やはり瑪瑙の言う通り翡翠とは距離をとり、然るべき日に王へと献上するのが賢いやり方かもしれない。

翡翠を、第2の瑪瑙にしてはいけない。
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