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翡翠の闇
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翡翠は朝食に出したフレンチトーストを半分も食べてくれなかった。
『腹でも痛いのか?』と尋ねても、彼女は首を横に振り『フレンチトースト嫌いか?』と尋ねても首を横に振る。単に食欲がなかっただけか、反抗期(?)のせいかは解らないが、心配になり、俺は向かいの部屋の主鷹雄(タカオ)を翡翠の手綱を引いて訪ねた。
カチカチ
インターホンを押しても何も鳴らないので、俺はイライラしながらドアを数回叩く。
「あいつ、インターホンの電池を抜いてるな。ともすれば居留守を使われかねないな」
俺は諦めずに今度はドアノブをガチャガチャと回してみる。
ちなみに鷹雄という男は大変いい加減な人物で、口先だけで世を渡って来た様なチャラ男だ。しかし何故そんなチャラ男に翡翠を会わせようと思ったのかと言うと、元々彼は軍医で、俺が瑪瑙を飼っていた時代から世話になっていたからだ。
「来るのが早すぎたか?」
『でももうすぐ10時だよ?』という翡翠の冷ややかな視線を下から感じる。
「ここの鷹雄って奴は軍医のくせに飲むから、いつも重役出勤なんだよ。ちなみにこいつもダリアと、ユリという献上品を育ててる」
『2人も?』と翡翠は目で尋ねてきた。
「ん……ああ、ダリアはこの国の連合国である西部国の姫君で、和平協定の証として西部国から政略的に送られた調度品だ。身元は申し分ない高貴な献上品だ。ユリは……献上品ではあるが、ダリアが本命だから献上品のレースには参加していないものと思っていい」
話していて、翡翠は本当に喋らないなと思った。自分と似ているが、自分以上に無口だ。しかし目を見れば何となく言いたい事は伝わってくるが……何だか人形に話し掛けている様だ。
「……なぁ、翡翠、何で喋らないんだ?」
翡翠の頭に手を乗せると、彼女は俯いて何処か一点を見つめる。
拒絶する言葉は吐けるのに、日常会話がてんで出てこないのは、俺とのコミュニケーションを拒んでいる証拠に思えた。
「ウンとかスンとか、ワンとか言えるだろ?」
俺は拗ねた彼女でも宥める様に翡翠と手を繋ぎ、軽く揺すって煽ってみる。
「喋らないと、腹が痛いとか、昨日みたいに使用人からいじめられても気付いてやれないだろ?俺はお前の親代わりなんだ、最低限は──」
話しているうちに突然ドアが開き、俺はパッと翡翠の手を放した。
俺は冷やかされるのを回避するつもりで翡翠の手を放したが、彼女はどことなく傷付いた様に悲しい顔をした。
何だよ、俺の事嫌いなんじゃあなかったのかよ?
寧ろ、これで翡翠に嫌われたかな、とは思った。
「うわっ、セキレイ」
開けられたドアの隙間から垂れ目の、ホストみたいな風体の鷹雄が顔を出す。彼は俺の顔を確認するなり、ドアを閉めようとし、俺は即座にドアに足を挟んでそれを阻止する。
というか、ドアに覗き穴があるのに何で確認しないんだよ?いい加減だな。
鷹雄は俺より2つ上だが、歳のわりにだらしなくて、あのチャラさの根元でもある無造作ヘアも、単に寝癖を拗らせただけだ。
「うちの子が食欲ないってんで、診てくれよ先生」
俺は嫌がる鷹雄を尻目に、有無を言わさず翡翠をドアの隙間から捩じ込む。
「ええー、面倒くさいよ~、それでいくらくれるの?」
何だかんだ言いつつも、報酬の交渉は怠らないのが鷹雄だ。
俺と翡翠はリビングに通され、いい加減な鷹雄のわりに部屋が綺麗で驚く。
ただ、天井まである本棚には性教育の本がびっしりだ。UV殺菌が出来そうな青い光を放つガラスの箱には数多のあらぬオモチャが入っていて、俺は呆れるよりほかなかった。
「何の教育に力を入れてるんだよ!?」
ライバルの事だが、鷹雄のこの奔放さには怒りさえ覚える。
「結局最後に物を言うのはテクニックだって。あの紅玉だって、すんごい床上手だから正室になれたんだろ?」
と言いながら鷹雄は右手で下品な動作を再現した。
「ヤメロヤメロヤメロ」
俺が鷹雄の不浄の右手を思い切り叩くと、隣の部屋から顔を出したユリと目が合う。
「セキレイさん、こんにちわ。その子、例の新しい献上品見習いですか?」
ユリはその名の通り百合の様に白い肌をしていて、凛とはっきりした目鼻立ちが際立った黒髪美人だ。口元にある大きなホクロが妖艶さを引き立て、長い髪を斜め加減で耳に掛ける仕草は大人顔負けだ。年齢は翡翠よりも4つばかし上で、献上品の中で最年長のせいか面倒見が良く、利発で利口な子供だった。まさに反面教師!この部屋も、しっかりもののユリが管理をしているだろう事は容易に想像出来た。
「翡翠だ。翡翠は……臆病で、無口で、獰猛なところもあるが、仲良くしてやってくれ」
人懐こいユリの事、翡翠の事は気にかけてくれる事だろう。その証拠に、ユリはニコニコしながら翡翠に近付き、声をかけた。
「こんにちわ。はじめまして、翡翠。私はユリ。今から飲み物を用意するけど、何かリクエストはある?」
ユリが思ったより翡翠に急接近し、俺は反射的に手綱をグッと自分に引寄せる。
「え、セキレイさん!?」
ユリは驚いてドン引きしている様子だったが、今の翡翠は人の鼻にでも噛みつきそうで気が気ではなかった。何なら猿轡でもかましておくんだったと後悔さえする。
「だから、こいつは獰猛なんだって」
翡翠は無口な分、何をするか予測出来ない怖さがあった。
「ははー、セキレイ、さてはこの子に噛まれたのか、いい気味~豚のケツ~」
鷹雄に嘲笑され、念のため腰に挿していた鞭で彼の尻を打つ。
「いてっ」
鷹雄は衝撃で跳びはねたが『変態』と俺を再度嘲笑い、ユリに子供みたいに注意された。
「本当に、この人は……じゃあ、大人はコーヒーで、翡翠は……スムージーがいいかな」
『スムージー』
ユリの選択は天才的だと思った。ユリは、翡翠がまともに食べ物を口にしていないのを彼女の顔色を見て察したのだろう。さすが、利口な子だ。翡翠の見本に最適な人材だ。
「それで?クラミジアなんだって?」
鷹雄は着ていたバスローブを床へ落として一度全裸になると、入り口に掛けてあった往診用の白衣を地肌に羽織る。
「鷹雄、お前!うちの子に何てモノを見せるんだ!?しかもクラミジアじゃない!食欲不振だ!」
俺は慌てて翡翠の目を両手で覆ったが、当の彼女は煩わしそうにその手に抗う。
「あ、こら、翡翠、変なモノを見るな、キノコが食べれなくなるぞ」
普段絶対に醜態を晒す事のない俺があわてふためく姿を見て、ユリはさも可笑しげに笑った。
「キノコだなんて、酷いな。セキレイさんにもおんなじモノが付いているでしょうに。それともセキレイさんのはバナナか、ゴーヤなのかしら。私なんか見慣れてますよ?」
──でしょうね。言っておくがそんなんじゃあない。
暫くして、ダイニングテーブルを囲って皆で座っていると、ユリが飲み物をそれぞれに配ってくれた。俺と鷹雄にはコーヒー、ダリアの分としてオレンジジュース、翡翠には黄色いスムージー、林檎のウサギ付きの物を差し出す。
「私、ダリアを起こして来ます」
ユリがパタパタと隣の部屋に消え、俺はコップのフチに付いていたウサギを翡翠の口に持っていく。
「翡翠、ほら、ウサギだよ」
なかなか口を開けようとしない翡翠に、俺は少々強引にウサギを押し込み、何とか一口食べさせる事に成功する。
「ほら、この調子だよ」
俺はそう言って正面の鷹雄に肩を竦めて見せた。
「あー、なーる。そうね。なるほどなるほど」
鷹雄は軽い口調で応え、翡翠の目の前に立って彼女の口の中から心音から脈までざっと確認する。その間、はだけた白衣から鷹雄の毒々しい毒キノコがチラチラとこんにちわして、俺は些か不快だった。
俺は翡翠の視線を毒キノコから逸らすのに一苦労しているというのに、この男はヘラヘラと、物色する様に翡翠を頭の先から爪先までじろじろと不躾に観察している。
「怪我をしているが、へぇ、とても綺麗な子だねぇ」
鷹雄は顎に手を当てて感嘆とした。何だかこのチャラ男に自分ちの子を褒められるとどうにも不愉快だ。
「で、どこが悪い?」
俺が痺れをきらして尋ねると、鷹雄の口から意外な答えが返ってきた。
「この子はなーんも悪くないよ。強いて言うなら、君が悪いんじゃない?」
「俺?」
「理解がないセキレイが良くないよ。動物は環境の変化に弱いんだから、ましてや子供なんて特にデリケートなんだから、ストレスで自発的にご飯が食べられないのは不安や愛情不足が原因さ……多分ね。瑪瑙の時だってそうだったろ?愛情に飢えてて、お前の手からでないとご飯を食べられなかった」
確かに、当初瑪瑙は俺が食べさせないと食べ物に見向きもしなかった。いつも俺が鼻先までご飯を差し出してやっていた。
「けど、腹が減れば勝手に食べるだろ。水やスープは飲んだんだ。そうでないと死んでしまう」
「じゃあ、何で俺のとこ連れて来たの?数日様子を見る事だって出来たんだ」
「何でって、そりゃ……」
翡翠が心配だったからだ、とは不器用な俺には言えない。けれど鷹雄にはちゃんと伝わっていた。
「心配で、可哀想だと思ったんだろ?それが情さ。あんたなりの愛情だろ?心配ないよ。たとえお前がこの子供の仇であっても、ちゃんと愛情をかけてあげれば、お前が無理に食べさせなくても自分でご飯を食べるようになるよ」
鷹雄から諭すように言われ、俺はもう少し翡翠に自分なりの愛情をかけてやろうと思った。
さっそく食べかけの林檎を翡翠の口元に運ぶと、彼女は俺の指ごとそれに歯をたてた。
「いたっ!」
俺は革の手袋をしていたのに、翡翠のやたらと尖った犬歯により人差し指を負傷する。
「噛み癖も何とかならないか?素直な時もあるんだが、こうして気紛れに噛みついてくるもんだから不意をつかれる。わざと油断させて噛みついてるとしか思えない」
「迷ってるんだよ、その子は。あんたを信じていいものかどうか、まだ悩んでいるんだ。北部国軍や奴隷商に怪我をさせられたみたいだし、人を信じるのが怖いんだろう。ましてやお前は敵国の人間だから尚更だ」
鷹雄は退屈そうに頭の後ろで手を組み、椅子の背凭れに体重をかける。
「でも、俺らは単なるビジネス上のパートナーだ。愛情だ信頼だなどと馴れ合っていては側室の座を獲得出来ない。付かず離れずが丁度いい」
本当のところ自分でも、嫌がる翡翠にどういうスタンスで接していいものか解らず、頭を悩ませていた。
お互い利用し合えばそれでいい、とはいかないのか?
「なあ、何を怖がってる?」
ドキッ
鷹雄に心を見透かされた様で俺の心臓が一際大きく脈打つ。
「俺が?」
俺は素知らぬ顔で聞き返した。
「そうだ」
「俺は何も……」
俺が鷹雄から目を反らすと、彼はやれやれとため息をつく。
「迷っているのはお前も同じだろ。翡翠と心が通ってしまうのが怖いんだろ?瑪瑙みたいに、最後に引き裂かれるならあまり馴れ合わない方がいいとでも思ってんだろ?別れが辛いのは誰だって同じなんだから」
そう、調教師をしていると必ず別れはやってくる。彼女らは、時がくれば調教師の手から飛びたっていくのだから。
献上品を2人も調教している鷹雄の説教はもっともだ。あの翠だって、愛情が子供の心を豊かにすると言った。翡翠だって、まだあんなに小さくて、誰かしらの愛に飢えているだろう。
けれど俺はどうだ?翡翠に依存しないで、そんなに器用に愛情を与えられるのか?
翡翠を本当の家族のように愛してしまったら、その後簡単に別れられるのか?
また、そうなったとして、もし翡翠を処断しなければならなくなった時、俺に翡翠を殺せるのか?
「何だか騒がしいと思ったら、セキレイさんと……なあに?座敷わらし?」
リビングに入って来たダリアの甲高い声で俺は我に返る。
「セキレイの新しい彼女だよ」
そうして鷹雄に馬鹿にされ、俺はピクリと眉をつり上げた。
どいつもこいつも俺を変態扱いして、ロリコンにしたいらしい。
「献上品見習いの翡翠だ。まだ来たばかりで獰猛だが、仲良くしてやってくれ」
俺はそう言って翡翠の肩に手を置いたが、翡翠にチラリと此方を見返され、身の危険を感じて条件反射からサッとその手をしまう。
噛まれるかと思った。
まだ傷の癒えない俺の手は、その痛みを知っている。
「セキレイ、信頼ってのは、まずは自分が礼儀を示す事から築き上げられていくものだ。誠意を見せろ」
「──って、誰よりも無礼な男が言ってる」
鷹雄が得意気に人差し指を立てて俺にアドバイスするも、ダリアの高飛車な声がそれを邪魔した。
「まあ、言えてる」
俺が真顔で賛同すると、ダリアはL字ソファーの角に腰掛け、2個上のユリにオレンジジュースを持ってこさせる。
相変わらず態度のでかい姫君だ。
しかしながらダリアには名家としての威厳が滲み出ている。やたらと高い鼻とか、一重で鋭角な目元とか、片端だけつり上がった唇とか、毎日欠かさず盛られた金髪とか、気品や風格に満ち溢れた容姿をしているが、顔のパーツから内面まで全て尖っているせいか、ことごとく可愛げに欠ける。見た目は整ってはいるが、なにぶん愛嬌がない。寧ろ感じがすこぶる悪い。王がどエムなら真っ先に彼女を選ぶだろう。
「何か陰気そうな子ね」
ダリアはオレンジジュース片手に、脚を組んで高みの見物でもするかの様に翡翠を眺め、ユリに叱責される。
「ダリア!」
「あら、ごめんなさい。根暗の間違いだったわ。やあね、暗くて、親戚に不幸でも?」
嫌味で発せられた最後のワードで、これまで黙って聞いていた翡翠が突然立ち上がって椅子を倒し、ダリアに向かって飛び出した。
まずい!
「翡翠!待て!」
俺は咄嗟に手綱を引き、事なきを得たが、翡翠は首を括られ背中から派手に引っくり返り、物凄い音をたててテーブル上のグラスを揺らす。
咄嗟で、手加減出来なかった。翡翠は両腕で顔を隠していたが、隠しきれない唇をギリギリと噛み締めているのが見えた。きっと痛かっただろう……
──心がね。
悪いのはダリアだったかもしれない。でも人としてここで生きていくには人に牙をむいてはいけない。それが翡翠に課せられたここのルールだ。もし守られなければ、場合によっては──
俺が常に腿に携帯しているナイフで、その首を掻き切らなければならない。
そんな事、絶対にしたくなかった。
この小さな不幸の塊を不幸にしたくない。
俺が翡翠を守る。
──そう思うのに、翡翠に味方してやれないのが悔しかった。
「うちの子はまだ人慣れしていなくてね。一旦戻るよ。後でまた会議で会おう」
俺は引っくり返ったままの翡翠を抱き上げ、そそくさと部屋を後にしようとすると──
「すみません、セキレイさん、翡翠。ダリアの悪い戯れをお許し下さい」
と反省の素振りすらないダリアに代わってユリが頭を下げた。
さすが年長、器が違う。
「ダリアは気高さ故に素直になれないんです。根はそんなに悪い子ではないんです」
「いや、いいんだ。翡翠も、あれしきの嫌味を聞き流せる程大人じゃなくてね。俺からよく言い聞かせておくよ」
「すみません、こちらこそダリアによく言って聞かせます」
ペコリとユリは再度頭を下げ『ちょっと待って』と言うと、小走りでクッキーが入った袋を持って来て、それを俺にくれた。リボンで綺麗にラッピングされたそれは、袋の『小窓』から見るに動物クッキーで、前の日ユリが翡翠の為に焼いたのだろうと思った。きっと、新しくやってくる仲間の事を楽しみにしていたのだろう。
翡翠も、人ときちんとコミュニケーションがとれるように教育して、友達が出来たら、もう少し笑ってほしい。
部屋に戻り、とりあえず翡翠を俺のベッドに座らせた。顔を覆ったままの彼女を落ち着かせようとしゃがんで頭を撫でようとして──
「いたっ!」
また噛まれた。
何故噛んだのか、それは翡翠にしか解らない。けれどそれはもうどうでもいい。大事なのは、受け止める事、それが信頼への第一歩だと思った。
俺はおもむろに革手袋を外し、生身の指先を翡翠の口元に差し出す。
「ほら、腹が減ってたんだよな?思い切り齧っていいぞ」
その手で翡翠の唇に触れると、軟らかくて、温かい。革手袋だと解らなかった事だ。
「腹が減ったら俺の手を齧ればいい。腹が立ったら俺の手を噛めばいい。悔しかったな、翡翠」
親指で翡翠の唇をなぞらえていると、そこにポタポタと滴が落ちてくる。
正直、愛情とか、誠意とか、そんなものはよく解らない。俺はただただこの不器用な子が尊くて仕方がなかった。
守ってやりたい。
ビジネス上のパートナーとか、利害関係とか、そんなものは二の次で、心からそう思った。本当なら、両親から無償で与えられるはずだった愛情を、俺が親代わりとなって翡翠に与えなければならない。最初から俺の意思なんか関係なく、彼女を引き取ったその時から俺にはその責任があった。翡翠が側室に上がるその日まで──
「昔な、犬を飼ってたんだ」
俺は翡翠の隣に腰掛け、泣き止まない彼女に何の脈絡もなく切り出した。
「最初はお前みたいに獰猛で手がつけられなくて、生傷が絶えなかった。何日経っても全然懐かないし、食欲もなくて、きっとこいつはこのまま死ぬんだろうなと思ったら、哀しかった」
あの時の事を思い出しただけで、俺の心が震える。
「……瑪瑙?」
うつむいた翡翠の旋毛が、蚊の鳴く様な声で尋ねた。
「ん?そうだ。お前とは瞳の色が似ていて、とても綺麗だった。臆病だけど好奇心は人一倍あって、いつも、離れた所から俺の動向をあの瞳で追ってた。俺の事を嫌ってたくせに、あいつときたら、雷が怖くてさ、お前みたいに俺のベッドに潜り込んでた」
記憶を辿りながら、俺は知らず知らず顔が綻んでいて、興味深気に此方を見上げる翡翠と目が合い、照れくさくなる。
「お前を見ていると、瑪瑙を思い出して堪らなくなる」
俺はつい瑪瑙にするみたいに翡翠の肩を引き寄せようとして、はたと急ブレーキをかけた。
「触れるよ?」
「……」
返答はなかったが、翡翠は素直に頷き、俺が触れても噛みついてこない。抱き寄せた体は小さくて震えていたが、俺が肩をさすっていると、やがてその緊張は解けた。
「お利口さんだ。まずはこうして人に触れられる事に慣れていこう。いずれ、王に触れられても平気なように」
「……」
やはり翡翠は黙って頷くだけだったが、噛みつかれないだけ大きな進歩と言えよう。俺は調子に乗って手土産の動物クッキーを翡翠の口元に持っていった。
「これは何かな?」
四つ足で、角のある動物の形だ。
「…………牛」
「水牛だよ」
「……」
せっかく翡翠がポツリと答えたのに、俺は意地悪をして微笑する。翡翠を尊いと思えばこそ悪戯したくなるのは、俺がサドだからか、はたまた翡翠が可愛いからか、その両方か。そしてそのままそれを翡翠の唇にくっつけると、それが合図だったかの様に彼女は俺の手を噛まないように食べた。
か、カワッ……
うさぎに餌付けでもしているような気分だ。
「やれば出来るじゃあないか。じゃあこれは?」
俺が次に取り出したのは鳥の形をしたクッキー。
「…………と……」
翡翠は『鳥』と答えようとして口を開いたが、同じ轍を踏むものかと迷っている。
馬鹿だな、可愛い子だ。
俺は内心胸を打たれたが、努めて平静を装う。
「これはセキレイという鳥だよ。ほら、言ってごらん?言えたらセキレイをあげるよ」
本当はこのクッキーがセキレイであるかなんて解らなかったが、翡翠の口から、調教師である俺の名を呼ばせたかった。
やり方は狡いけれど。
「セキレイ」
翡翠は思いの外はっきりとその名を呼び、クッキーを啄んだ。小さくぷっくりとした薄ピンクの唇が俺の手に触れ、俺は感動的なものを覚える。
かっ……かわっ!
ちょっと、呼ばれたこっちが恥ずかしくなり、俺は翡翠をグイと胸に抱き留め、窓の外の曇り空を眺める。
「今夜も、雷でも鳴りそうだな」
俺は何気なく言ったつもりが、翡翠にしがみ付かれ、その健気さに堪らなくなった。
今夜も、雷が鳴ればいいのに。
「お前は、ただ思いを伝えるのが苦手なだけで、本当は素直ないい子なんじゃあないか」
俺がヨシヨシと翡翠の頭を撫でていると、突然、彼女は真面目な顔で俺を見上げる。こうして見ると瑪瑙には似ていないが、あの美しい瞳で見つめられると、瑪瑙にそうされている様な錯覚を覚えた。
翡翠から目が逸らせない。
「セキレイさん」
さん付けで呼ぶんだな。礼儀正しい子だ。いや、他人行儀なのか?
それでも自然とその名を口にしてくれる翡翠が可愛かった。
「何?」
「セキレイさんが愛していた瑪瑙って、本当は犬じゃないですよね?」
翡翠の頭を撫でる俺の手がピタリと止まり、心臓が大きく脈打った。
瑪瑙が犬ではないとか、彼女を『愛していた』だなんて、俺は一言も言っていなかったはずだ。
俺はこの青く美しい瞳を初めて怖いと思った。
「瑪瑙は猫だよ」
俺は静かに嘯いた。
「瑪瑙は、瑪瑙さんは人間ですよね?」
「……」
沈黙が肯定を意味していた。
「何で解った?」
調教師を『ブリーダー』と言うように、調教する献上品をその『犬』と形容する事はままあるが、俺は意識的に瑪瑙を犬に置き換えていた。
「セキレイさんは瑪瑙さんの事を思い出す時、人間を愛する様に微笑むから」
翡翠の青い瞳は、俺の心を全て見透かしている様だった。
「何で、瑪瑙さんを犬と呼ぶんですか?」
「お前に隠し事は出来ないみたいだな。瑪瑙の事は、忘れたくても忘れられない、忘れてはいけない事の様に思っていて、それはつまり、思い出すのが辛いはずなのに、こうしてたまに思い出してはその影を追っているわけで、俺が彼女を愛していた事実は、決して許されぬもので、調教師である自分への戒めとしてそのようにしている」
俺は観念した様に話した。
「瑪瑙さんは、あなたが調教していた献上品だったんですね」
「そうだよ。瑪瑙の事は王の好みに育てたつもりが、いつの間にか俺好みの、俺の理想の女の子に育ってしまっててね、それがいけなかった。気がついたら好きになっていて、そのせいで瑪瑙を溺愛して甘やかした。今にして思うと、俺が瑪瑙を誑かしてしまったのかもしれない。瑪瑙も私を好きだと言ってくれたし、とても幸せだったよ。一緒に生活していたからか、まるで夫婦の様な感覚だった。何処へ行くにも常に一緒なのに、貪欲に、果てもなく彼女を愛していた」
あの時の事を思い出すと、幸福感や背徳心、悲壮感に襲われ、心が疲れる。それだけ瑪瑙への愛が深くて大きな物だったのだ。
翡翠は横目でその複雑な心境を読み取りつつも、自分の好奇心より俺の心中を優先してか『瑪瑙のその後』を聞いてこなかった。普通なら、話の流れで気になるはずだ。俺なら不躾に聞いただろう。
翡翠は心の優しい子だ。
しかし俺は思った。2度と同じ過ちを犯さぬ為にも、これは寧ろ話しておくべき事なのではないだろうか?予防線を張っておくべきなのではないだろうか?
俺は意を決して口を開いた。
「調教師は、王の所有物である献上品に手を出してはいけないってのは解るだろう?」
「……話さなくてもいいんですよ」
翡翠は俺の心中を察する様に気遣ったが、俺は静かに続けた。
「俺は禁忌を犯した」
当時を振り返るのは辛かったが、自分でも、誰かに話して整理をつけたかった。
『腹でも痛いのか?』と尋ねても、彼女は首を横に振り『フレンチトースト嫌いか?』と尋ねても首を横に振る。単に食欲がなかっただけか、反抗期(?)のせいかは解らないが、心配になり、俺は向かいの部屋の主鷹雄(タカオ)を翡翠の手綱を引いて訪ねた。
カチカチ
インターホンを押しても何も鳴らないので、俺はイライラしながらドアを数回叩く。
「あいつ、インターホンの電池を抜いてるな。ともすれば居留守を使われかねないな」
俺は諦めずに今度はドアノブをガチャガチャと回してみる。
ちなみに鷹雄という男は大変いい加減な人物で、口先だけで世を渡って来た様なチャラ男だ。しかし何故そんなチャラ男に翡翠を会わせようと思ったのかと言うと、元々彼は軍医で、俺が瑪瑙を飼っていた時代から世話になっていたからだ。
「来るのが早すぎたか?」
『でももうすぐ10時だよ?』という翡翠の冷ややかな視線を下から感じる。
「ここの鷹雄って奴は軍医のくせに飲むから、いつも重役出勤なんだよ。ちなみにこいつもダリアと、ユリという献上品を育ててる」
『2人も?』と翡翠は目で尋ねてきた。
「ん……ああ、ダリアはこの国の連合国である西部国の姫君で、和平協定の証として西部国から政略的に送られた調度品だ。身元は申し分ない高貴な献上品だ。ユリは……献上品ではあるが、ダリアが本命だから献上品のレースには参加していないものと思っていい」
話していて、翡翠は本当に喋らないなと思った。自分と似ているが、自分以上に無口だ。しかし目を見れば何となく言いたい事は伝わってくるが……何だか人形に話し掛けている様だ。
「……なぁ、翡翠、何で喋らないんだ?」
翡翠の頭に手を乗せると、彼女は俯いて何処か一点を見つめる。
拒絶する言葉は吐けるのに、日常会話がてんで出てこないのは、俺とのコミュニケーションを拒んでいる証拠に思えた。
「ウンとかスンとか、ワンとか言えるだろ?」
俺は拗ねた彼女でも宥める様に翡翠と手を繋ぎ、軽く揺すって煽ってみる。
「喋らないと、腹が痛いとか、昨日みたいに使用人からいじめられても気付いてやれないだろ?俺はお前の親代わりなんだ、最低限は──」
話しているうちに突然ドアが開き、俺はパッと翡翠の手を放した。
俺は冷やかされるのを回避するつもりで翡翠の手を放したが、彼女はどことなく傷付いた様に悲しい顔をした。
何だよ、俺の事嫌いなんじゃあなかったのかよ?
寧ろ、これで翡翠に嫌われたかな、とは思った。
「うわっ、セキレイ」
開けられたドアの隙間から垂れ目の、ホストみたいな風体の鷹雄が顔を出す。彼は俺の顔を確認するなり、ドアを閉めようとし、俺は即座にドアに足を挟んでそれを阻止する。
というか、ドアに覗き穴があるのに何で確認しないんだよ?いい加減だな。
鷹雄は俺より2つ上だが、歳のわりにだらしなくて、あのチャラさの根元でもある無造作ヘアも、単に寝癖を拗らせただけだ。
「うちの子が食欲ないってんで、診てくれよ先生」
俺は嫌がる鷹雄を尻目に、有無を言わさず翡翠をドアの隙間から捩じ込む。
「ええー、面倒くさいよ~、それでいくらくれるの?」
何だかんだ言いつつも、報酬の交渉は怠らないのが鷹雄だ。
俺と翡翠はリビングに通され、いい加減な鷹雄のわりに部屋が綺麗で驚く。
ただ、天井まである本棚には性教育の本がびっしりだ。UV殺菌が出来そうな青い光を放つガラスの箱には数多のあらぬオモチャが入っていて、俺は呆れるよりほかなかった。
「何の教育に力を入れてるんだよ!?」
ライバルの事だが、鷹雄のこの奔放さには怒りさえ覚える。
「結局最後に物を言うのはテクニックだって。あの紅玉だって、すんごい床上手だから正室になれたんだろ?」
と言いながら鷹雄は右手で下品な動作を再現した。
「ヤメロヤメロヤメロ」
俺が鷹雄の不浄の右手を思い切り叩くと、隣の部屋から顔を出したユリと目が合う。
「セキレイさん、こんにちわ。その子、例の新しい献上品見習いですか?」
ユリはその名の通り百合の様に白い肌をしていて、凛とはっきりした目鼻立ちが際立った黒髪美人だ。口元にある大きなホクロが妖艶さを引き立て、長い髪を斜め加減で耳に掛ける仕草は大人顔負けだ。年齢は翡翠よりも4つばかし上で、献上品の中で最年長のせいか面倒見が良く、利発で利口な子供だった。まさに反面教師!この部屋も、しっかりもののユリが管理をしているだろう事は容易に想像出来た。
「翡翠だ。翡翠は……臆病で、無口で、獰猛なところもあるが、仲良くしてやってくれ」
人懐こいユリの事、翡翠の事は気にかけてくれる事だろう。その証拠に、ユリはニコニコしながら翡翠に近付き、声をかけた。
「こんにちわ。はじめまして、翡翠。私はユリ。今から飲み物を用意するけど、何かリクエストはある?」
ユリが思ったより翡翠に急接近し、俺は反射的に手綱をグッと自分に引寄せる。
「え、セキレイさん!?」
ユリは驚いてドン引きしている様子だったが、今の翡翠は人の鼻にでも噛みつきそうで気が気ではなかった。何なら猿轡でもかましておくんだったと後悔さえする。
「だから、こいつは獰猛なんだって」
翡翠は無口な分、何をするか予測出来ない怖さがあった。
「ははー、セキレイ、さてはこの子に噛まれたのか、いい気味~豚のケツ~」
鷹雄に嘲笑され、念のため腰に挿していた鞭で彼の尻を打つ。
「いてっ」
鷹雄は衝撃で跳びはねたが『変態』と俺を再度嘲笑い、ユリに子供みたいに注意された。
「本当に、この人は……じゃあ、大人はコーヒーで、翡翠は……スムージーがいいかな」
『スムージー』
ユリの選択は天才的だと思った。ユリは、翡翠がまともに食べ物を口にしていないのを彼女の顔色を見て察したのだろう。さすが、利口な子だ。翡翠の見本に最適な人材だ。
「それで?クラミジアなんだって?」
鷹雄は着ていたバスローブを床へ落として一度全裸になると、入り口に掛けてあった往診用の白衣を地肌に羽織る。
「鷹雄、お前!うちの子に何てモノを見せるんだ!?しかもクラミジアじゃない!食欲不振だ!」
俺は慌てて翡翠の目を両手で覆ったが、当の彼女は煩わしそうにその手に抗う。
「あ、こら、翡翠、変なモノを見るな、キノコが食べれなくなるぞ」
普段絶対に醜態を晒す事のない俺があわてふためく姿を見て、ユリはさも可笑しげに笑った。
「キノコだなんて、酷いな。セキレイさんにもおんなじモノが付いているでしょうに。それともセキレイさんのはバナナか、ゴーヤなのかしら。私なんか見慣れてますよ?」
──でしょうね。言っておくがそんなんじゃあない。
暫くして、ダイニングテーブルを囲って皆で座っていると、ユリが飲み物をそれぞれに配ってくれた。俺と鷹雄にはコーヒー、ダリアの分としてオレンジジュース、翡翠には黄色いスムージー、林檎のウサギ付きの物を差し出す。
「私、ダリアを起こして来ます」
ユリがパタパタと隣の部屋に消え、俺はコップのフチに付いていたウサギを翡翠の口に持っていく。
「翡翠、ほら、ウサギだよ」
なかなか口を開けようとしない翡翠に、俺は少々強引にウサギを押し込み、何とか一口食べさせる事に成功する。
「ほら、この調子だよ」
俺はそう言って正面の鷹雄に肩を竦めて見せた。
「あー、なーる。そうね。なるほどなるほど」
鷹雄は軽い口調で応え、翡翠の目の前に立って彼女の口の中から心音から脈までざっと確認する。その間、はだけた白衣から鷹雄の毒々しい毒キノコがチラチラとこんにちわして、俺は些か不快だった。
俺は翡翠の視線を毒キノコから逸らすのに一苦労しているというのに、この男はヘラヘラと、物色する様に翡翠を頭の先から爪先までじろじろと不躾に観察している。
「怪我をしているが、へぇ、とても綺麗な子だねぇ」
鷹雄は顎に手を当てて感嘆とした。何だかこのチャラ男に自分ちの子を褒められるとどうにも不愉快だ。
「で、どこが悪い?」
俺が痺れをきらして尋ねると、鷹雄の口から意外な答えが返ってきた。
「この子はなーんも悪くないよ。強いて言うなら、君が悪いんじゃない?」
「俺?」
「理解がないセキレイが良くないよ。動物は環境の変化に弱いんだから、ましてや子供なんて特にデリケートなんだから、ストレスで自発的にご飯が食べられないのは不安や愛情不足が原因さ……多分ね。瑪瑙の時だってそうだったろ?愛情に飢えてて、お前の手からでないとご飯を食べられなかった」
確かに、当初瑪瑙は俺が食べさせないと食べ物に見向きもしなかった。いつも俺が鼻先までご飯を差し出してやっていた。
「けど、腹が減れば勝手に食べるだろ。水やスープは飲んだんだ。そうでないと死んでしまう」
「じゃあ、何で俺のとこ連れて来たの?数日様子を見る事だって出来たんだ」
「何でって、そりゃ……」
翡翠が心配だったからだ、とは不器用な俺には言えない。けれど鷹雄にはちゃんと伝わっていた。
「心配で、可哀想だと思ったんだろ?それが情さ。あんたなりの愛情だろ?心配ないよ。たとえお前がこの子供の仇であっても、ちゃんと愛情をかけてあげれば、お前が無理に食べさせなくても自分でご飯を食べるようになるよ」
鷹雄から諭すように言われ、俺はもう少し翡翠に自分なりの愛情をかけてやろうと思った。
さっそく食べかけの林檎を翡翠の口元に運ぶと、彼女は俺の指ごとそれに歯をたてた。
「いたっ!」
俺は革の手袋をしていたのに、翡翠のやたらと尖った犬歯により人差し指を負傷する。
「噛み癖も何とかならないか?素直な時もあるんだが、こうして気紛れに噛みついてくるもんだから不意をつかれる。わざと油断させて噛みついてるとしか思えない」
「迷ってるんだよ、その子は。あんたを信じていいものかどうか、まだ悩んでいるんだ。北部国軍や奴隷商に怪我をさせられたみたいだし、人を信じるのが怖いんだろう。ましてやお前は敵国の人間だから尚更だ」
鷹雄は退屈そうに頭の後ろで手を組み、椅子の背凭れに体重をかける。
「でも、俺らは単なるビジネス上のパートナーだ。愛情だ信頼だなどと馴れ合っていては側室の座を獲得出来ない。付かず離れずが丁度いい」
本当のところ自分でも、嫌がる翡翠にどういうスタンスで接していいものか解らず、頭を悩ませていた。
お互い利用し合えばそれでいい、とはいかないのか?
「なあ、何を怖がってる?」
ドキッ
鷹雄に心を見透かされた様で俺の心臓が一際大きく脈打つ。
「俺が?」
俺は素知らぬ顔で聞き返した。
「そうだ」
「俺は何も……」
俺が鷹雄から目を反らすと、彼はやれやれとため息をつく。
「迷っているのはお前も同じだろ。翡翠と心が通ってしまうのが怖いんだろ?瑪瑙みたいに、最後に引き裂かれるならあまり馴れ合わない方がいいとでも思ってんだろ?別れが辛いのは誰だって同じなんだから」
そう、調教師をしていると必ず別れはやってくる。彼女らは、時がくれば調教師の手から飛びたっていくのだから。
献上品を2人も調教している鷹雄の説教はもっともだ。あの翠だって、愛情が子供の心を豊かにすると言った。翡翠だって、まだあんなに小さくて、誰かしらの愛に飢えているだろう。
けれど俺はどうだ?翡翠に依存しないで、そんなに器用に愛情を与えられるのか?
翡翠を本当の家族のように愛してしまったら、その後簡単に別れられるのか?
また、そうなったとして、もし翡翠を処断しなければならなくなった時、俺に翡翠を殺せるのか?
「何だか騒がしいと思ったら、セキレイさんと……なあに?座敷わらし?」
リビングに入って来たダリアの甲高い声で俺は我に返る。
「セキレイの新しい彼女だよ」
そうして鷹雄に馬鹿にされ、俺はピクリと眉をつり上げた。
どいつもこいつも俺を変態扱いして、ロリコンにしたいらしい。
「献上品見習いの翡翠だ。まだ来たばかりで獰猛だが、仲良くしてやってくれ」
俺はそう言って翡翠の肩に手を置いたが、翡翠にチラリと此方を見返され、身の危険を感じて条件反射からサッとその手をしまう。
噛まれるかと思った。
まだ傷の癒えない俺の手は、その痛みを知っている。
「セキレイ、信頼ってのは、まずは自分が礼儀を示す事から築き上げられていくものだ。誠意を見せろ」
「──って、誰よりも無礼な男が言ってる」
鷹雄が得意気に人差し指を立てて俺にアドバイスするも、ダリアの高飛車な声がそれを邪魔した。
「まあ、言えてる」
俺が真顔で賛同すると、ダリアはL字ソファーの角に腰掛け、2個上のユリにオレンジジュースを持ってこさせる。
相変わらず態度のでかい姫君だ。
しかしながらダリアには名家としての威厳が滲み出ている。やたらと高い鼻とか、一重で鋭角な目元とか、片端だけつり上がった唇とか、毎日欠かさず盛られた金髪とか、気品や風格に満ち溢れた容姿をしているが、顔のパーツから内面まで全て尖っているせいか、ことごとく可愛げに欠ける。見た目は整ってはいるが、なにぶん愛嬌がない。寧ろ感じがすこぶる悪い。王がどエムなら真っ先に彼女を選ぶだろう。
「何か陰気そうな子ね」
ダリアはオレンジジュース片手に、脚を組んで高みの見物でもするかの様に翡翠を眺め、ユリに叱責される。
「ダリア!」
「あら、ごめんなさい。根暗の間違いだったわ。やあね、暗くて、親戚に不幸でも?」
嫌味で発せられた最後のワードで、これまで黙って聞いていた翡翠が突然立ち上がって椅子を倒し、ダリアに向かって飛び出した。
まずい!
「翡翠!待て!」
俺は咄嗟に手綱を引き、事なきを得たが、翡翠は首を括られ背中から派手に引っくり返り、物凄い音をたててテーブル上のグラスを揺らす。
咄嗟で、手加減出来なかった。翡翠は両腕で顔を隠していたが、隠しきれない唇をギリギリと噛み締めているのが見えた。きっと痛かっただろう……
──心がね。
悪いのはダリアだったかもしれない。でも人としてここで生きていくには人に牙をむいてはいけない。それが翡翠に課せられたここのルールだ。もし守られなければ、場合によっては──
俺が常に腿に携帯しているナイフで、その首を掻き切らなければならない。
そんな事、絶対にしたくなかった。
この小さな不幸の塊を不幸にしたくない。
俺が翡翠を守る。
──そう思うのに、翡翠に味方してやれないのが悔しかった。
「うちの子はまだ人慣れしていなくてね。一旦戻るよ。後でまた会議で会おう」
俺は引っくり返ったままの翡翠を抱き上げ、そそくさと部屋を後にしようとすると──
「すみません、セキレイさん、翡翠。ダリアの悪い戯れをお許し下さい」
と反省の素振りすらないダリアに代わってユリが頭を下げた。
さすが年長、器が違う。
「ダリアは気高さ故に素直になれないんです。根はそんなに悪い子ではないんです」
「いや、いいんだ。翡翠も、あれしきの嫌味を聞き流せる程大人じゃなくてね。俺からよく言い聞かせておくよ」
「すみません、こちらこそダリアによく言って聞かせます」
ペコリとユリは再度頭を下げ『ちょっと待って』と言うと、小走りでクッキーが入った袋を持って来て、それを俺にくれた。リボンで綺麗にラッピングされたそれは、袋の『小窓』から見るに動物クッキーで、前の日ユリが翡翠の為に焼いたのだろうと思った。きっと、新しくやってくる仲間の事を楽しみにしていたのだろう。
翡翠も、人ときちんとコミュニケーションがとれるように教育して、友達が出来たら、もう少し笑ってほしい。
部屋に戻り、とりあえず翡翠を俺のベッドに座らせた。顔を覆ったままの彼女を落ち着かせようとしゃがんで頭を撫でようとして──
「いたっ!」
また噛まれた。
何故噛んだのか、それは翡翠にしか解らない。けれどそれはもうどうでもいい。大事なのは、受け止める事、それが信頼への第一歩だと思った。
俺はおもむろに革手袋を外し、生身の指先を翡翠の口元に差し出す。
「ほら、腹が減ってたんだよな?思い切り齧っていいぞ」
その手で翡翠の唇に触れると、軟らかくて、温かい。革手袋だと解らなかった事だ。
「腹が減ったら俺の手を齧ればいい。腹が立ったら俺の手を噛めばいい。悔しかったな、翡翠」
親指で翡翠の唇をなぞらえていると、そこにポタポタと滴が落ちてくる。
正直、愛情とか、誠意とか、そんなものはよく解らない。俺はただただこの不器用な子が尊くて仕方がなかった。
守ってやりたい。
ビジネス上のパートナーとか、利害関係とか、そんなものは二の次で、心からそう思った。本当なら、両親から無償で与えられるはずだった愛情を、俺が親代わりとなって翡翠に与えなければならない。最初から俺の意思なんか関係なく、彼女を引き取ったその時から俺にはその責任があった。翡翠が側室に上がるその日まで──
「昔な、犬を飼ってたんだ」
俺は翡翠の隣に腰掛け、泣き止まない彼女に何の脈絡もなく切り出した。
「最初はお前みたいに獰猛で手がつけられなくて、生傷が絶えなかった。何日経っても全然懐かないし、食欲もなくて、きっとこいつはこのまま死ぬんだろうなと思ったら、哀しかった」
あの時の事を思い出しただけで、俺の心が震える。
「……瑪瑙?」
うつむいた翡翠の旋毛が、蚊の鳴く様な声で尋ねた。
「ん?そうだ。お前とは瞳の色が似ていて、とても綺麗だった。臆病だけど好奇心は人一倍あって、いつも、離れた所から俺の動向をあの瞳で追ってた。俺の事を嫌ってたくせに、あいつときたら、雷が怖くてさ、お前みたいに俺のベッドに潜り込んでた」
記憶を辿りながら、俺は知らず知らず顔が綻んでいて、興味深気に此方を見上げる翡翠と目が合い、照れくさくなる。
「お前を見ていると、瑪瑙を思い出して堪らなくなる」
俺はつい瑪瑙にするみたいに翡翠の肩を引き寄せようとして、はたと急ブレーキをかけた。
「触れるよ?」
「……」
返答はなかったが、翡翠は素直に頷き、俺が触れても噛みついてこない。抱き寄せた体は小さくて震えていたが、俺が肩をさすっていると、やがてその緊張は解けた。
「お利口さんだ。まずはこうして人に触れられる事に慣れていこう。いずれ、王に触れられても平気なように」
「……」
やはり翡翠は黙って頷くだけだったが、噛みつかれないだけ大きな進歩と言えよう。俺は調子に乗って手土産の動物クッキーを翡翠の口元に持っていった。
「これは何かな?」
四つ足で、角のある動物の形だ。
「…………牛」
「水牛だよ」
「……」
せっかく翡翠がポツリと答えたのに、俺は意地悪をして微笑する。翡翠を尊いと思えばこそ悪戯したくなるのは、俺がサドだからか、はたまた翡翠が可愛いからか、その両方か。そしてそのままそれを翡翠の唇にくっつけると、それが合図だったかの様に彼女は俺の手を噛まないように食べた。
か、カワッ……
うさぎに餌付けでもしているような気分だ。
「やれば出来るじゃあないか。じゃあこれは?」
俺が次に取り出したのは鳥の形をしたクッキー。
「…………と……」
翡翠は『鳥』と答えようとして口を開いたが、同じ轍を踏むものかと迷っている。
馬鹿だな、可愛い子だ。
俺は内心胸を打たれたが、努めて平静を装う。
「これはセキレイという鳥だよ。ほら、言ってごらん?言えたらセキレイをあげるよ」
本当はこのクッキーがセキレイであるかなんて解らなかったが、翡翠の口から、調教師である俺の名を呼ばせたかった。
やり方は狡いけれど。
「セキレイ」
翡翠は思いの外はっきりとその名を呼び、クッキーを啄んだ。小さくぷっくりとした薄ピンクの唇が俺の手に触れ、俺は感動的なものを覚える。
かっ……かわっ!
ちょっと、呼ばれたこっちが恥ずかしくなり、俺は翡翠をグイと胸に抱き留め、窓の外の曇り空を眺める。
「今夜も、雷でも鳴りそうだな」
俺は何気なく言ったつもりが、翡翠にしがみ付かれ、その健気さに堪らなくなった。
今夜も、雷が鳴ればいいのに。
「お前は、ただ思いを伝えるのが苦手なだけで、本当は素直ないい子なんじゃあないか」
俺がヨシヨシと翡翠の頭を撫でていると、突然、彼女は真面目な顔で俺を見上げる。こうして見ると瑪瑙には似ていないが、あの美しい瞳で見つめられると、瑪瑙にそうされている様な錯覚を覚えた。
翡翠から目が逸らせない。
「セキレイさん」
さん付けで呼ぶんだな。礼儀正しい子だ。いや、他人行儀なのか?
それでも自然とその名を口にしてくれる翡翠が可愛かった。
「何?」
「セキレイさんが愛していた瑪瑙って、本当は犬じゃないですよね?」
翡翠の頭を撫でる俺の手がピタリと止まり、心臓が大きく脈打った。
瑪瑙が犬ではないとか、彼女を『愛していた』だなんて、俺は一言も言っていなかったはずだ。
俺はこの青く美しい瞳を初めて怖いと思った。
「瑪瑙は猫だよ」
俺は静かに嘯いた。
「瑪瑙は、瑪瑙さんは人間ですよね?」
「……」
沈黙が肯定を意味していた。
「何で解った?」
調教師を『ブリーダー』と言うように、調教する献上品をその『犬』と形容する事はままあるが、俺は意識的に瑪瑙を犬に置き換えていた。
「セキレイさんは瑪瑙さんの事を思い出す時、人間を愛する様に微笑むから」
翡翠の青い瞳は、俺の心を全て見透かしている様だった。
「何で、瑪瑙さんを犬と呼ぶんですか?」
「お前に隠し事は出来ないみたいだな。瑪瑙の事は、忘れたくても忘れられない、忘れてはいけない事の様に思っていて、それはつまり、思い出すのが辛いはずなのに、こうしてたまに思い出してはその影を追っているわけで、俺が彼女を愛していた事実は、決して許されぬもので、調教師である自分への戒めとしてそのようにしている」
俺は観念した様に話した。
「瑪瑙さんは、あなたが調教していた献上品だったんですね」
「そうだよ。瑪瑙の事は王の好みに育てたつもりが、いつの間にか俺好みの、俺の理想の女の子に育ってしまっててね、それがいけなかった。気がついたら好きになっていて、そのせいで瑪瑙を溺愛して甘やかした。今にして思うと、俺が瑪瑙を誑かしてしまったのかもしれない。瑪瑙も私を好きだと言ってくれたし、とても幸せだったよ。一緒に生活していたからか、まるで夫婦の様な感覚だった。何処へ行くにも常に一緒なのに、貪欲に、果てもなく彼女を愛していた」
あの時の事を思い出すと、幸福感や背徳心、悲壮感に襲われ、心が疲れる。それだけ瑪瑙への愛が深くて大きな物だったのだ。
翡翠は横目でその複雑な心境を読み取りつつも、自分の好奇心より俺の心中を優先してか『瑪瑙のその後』を聞いてこなかった。普通なら、話の流れで気になるはずだ。俺なら不躾に聞いただろう。
翡翠は心の優しい子だ。
しかし俺は思った。2度と同じ過ちを犯さぬ為にも、これは寧ろ話しておくべき事なのではないだろうか?予防線を張っておくべきなのではないだろうか?
俺は意を決して口を開いた。
「調教師は、王の所有物である献上品に手を出してはいけないってのは解るだろう?」
「……話さなくてもいいんですよ」
翡翠は俺の心中を察する様に気遣ったが、俺は静かに続けた。
「俺は禁忌を犯した」
当時を振り返るのは辛かったが、自分でも、誰かに話して整理をつけたかった。
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