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神の悪戯

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 この現世において、翡翠との再会に勝る驚嘆は後にも先にも無いものと思っていた。今、翡翠と風斗のキスシーンを目の当たりにするまでは──
 彼らがキスをするシーンを目撃したのはこれが初めてじゃなかった。
 しかし前回見たキスシーンは薄布一枚隔てた、所謂ぼかしありきのもので、こうもハッキリ、ガツンと見せつけられたのは初めてだ。
 まるで死刑判決でも受けたみたいにショックで頭が真っ白になった。
 翡翠の腰を抱き寄せる風斗の腕や、風斗の胸でギュッと握られた翡翠の手や、夕日をバックに重なり合う二人の影なんかは何処からどう見てもラブラブカップルだった。おまけにこちらに気付いて離された2つの唇の間に糸が引くのを見て、その濃厚さに愕然とした。
 よく、雷に打たれて一瞬で白髪になった
 という稀有な人のエピソードを聞くが、今の俺なら雷に打たれなくても気持ちだけで白髪になれそうだと思った。
 百歩譲って前世では、二人は主従関係だからと歯を食いしばってキスやそれ以上の事も目を瞑ってきたが、現世ではそうもいかない。前世での各々の立場はフラットになっているのだ、許せる筈がない。
 それで言うと翡翠も翡翠だ。風斗との夫婦契約は転生によって無条件に解除されているのに、どうして風斗の好きにさせているんだ?
 まさか翡翠のやつ……
 …………………………………………………
 当初翡翠は俺の為にと風斗の生贄に甘んじたが、夫婦となってからは流石に風斗に対して情も湧いていただろう。
 それが、たかだか(?)転生でリセットされる事はなかったという事か。
 そりゃそうか。俺の、翡翠への気持ちだって前世のままなんだから。
 翡翠は今回も、風斗を選ぶのかもしれない。
 今の風斗は一国の王でもなんでもない。単なる大学生と言うじゃないか。もし、それでも翡翠が風斗を選ぶなら、それはもう本物の愛と認めるしかないだろう。「はぁ……」
 無意識に、自然とため息が出る。
 頭に血が上って翡翠を詰めてしまったが、翡翠も、風斗でさえも誰も悪くない。悪いのは、俺の異常なまでの嫉妬心か、状況を掻き混ぜている神とやらだ。
 よりによって俺が一番恐れていた人物を同じ世界線に転生させるなんて、神は俺の事が嫌いならしい。まさに神に見放されたとしか言いようが無い。
 例え俺と翡翠が現世で双子であっても、彼女の前世の夫さえ出現しなければだいぶ平穏安泰に生きられたのに。
 一体、俺が何をしたって言うんだ?
 いや、物の見方を変えてみたら、この案件は俺が勝手にやきもきしているだけで、これは翡翠と風斗の為のストーリーで、俺は今回も単なる当て馬という可能性が高い。というより、多分そうなのだ。そうとしか考えられない。そうでなければ俺は翡翠の双子の兄になんか転生させられていないだろう。
 翡翠本人は、双子の実の兄から触れられて気持ち悪かっただろうか?
 俺があれだけ嫉妬したんだから俺の気持ちには何となく気付いていて、それでいて気付かぬふりをしているのだと思う。
 多分、兄からの寵愛を認めたくないのだ。
 俺にだって戸惑いはある。けれど二度目のチャンス(?)を無駄にはしたくなかった、のに──
 やはり近親相姦は無理があったか。
 それに翡翠が言う通り、俺には瑠璃がいる。でもこれに関しては、翡翠の出現以前から何とかしなければならないと思っていた。

「何、難しい顔してるの?」

 下校中、隣を歩いていた瑠璃からそう突っ込まれる。
 そうだった。あれから翡翠と気まずくなり、登校はどっちかがどっちかの後ろを離れて歩き、下校は各々バラバラになっていた。最近では家でもあまり会話をしていない。
 翡翠から距離をおかれているのもそうだが、俺自身、これ以上翡翠に嫌われたくなくて行動に出れずにいる。
 行動に出たところで、どうにかなる問題でもないけど──
「ねーって!」
 あまりにも俺がうわの空で、瑠璃が痺れをきらし、俺の腕を引っ張った。
「悪い、考え事してた」
「何考えてたの?」
「何って、そりゃあ──」
 おいおい、俺の思考までジャックする気か?
 面倒だな。
「夕飯の献立」
 俺はサラッと当たり障りの無い事を言った。
「何にするの?」
 瑠璃はきつそうな見た目をカバーするように鼻にかかった声で俺の腕に豊満な胸を擦り付けてくる。
 これは明らかに誘ってるな。
 俺はやりたい盛りの男子高校生だけど、賢者モードの現在、そのマシュマロのような胸の感触が、それこそマシュマロの感触にしか思えなかった。
 翡翠が相手だったら、こうはならないのに。
「ええと……なんか、適当に」
「適当な答えねぇ。それなら今晩のおかずは私にしない?」
 瑠璃は俺の腕にぶら下がるようにしてこちらを見上げる。
『お風呂にする?ご飯にする?それとも、わ、た、し?』というベタなフレーズが頭を過ぎった。
 新婚夫婦か!
「いや、早く帰って夕飯の支度をしないと」
 俺はしれっと瑠璃の誘惑を回避した。
「いつもセキレイが作ってるの?」
「今朝は翡翠が作ったから、晩御飯は俺が作ろうと思って」
「当番制?」
「別に決めてはないからマチマチだけど、基本的には朝は先に起きた方がやって、夜は先に帰った方がやってる」
「じゃあいいじゃん。子供じゃないんだから勝手に何か作って食べるよ。それより久しぶりにデートしよ?」
 瑠璃は幼い子が駄々をこねるように俺の片腕を前後左右に振ってくる。
「そんな気分じゃない」
 翡翠とすったもんだしてから、翡翠以外の誰かと何処かへ出掛ける気持ちにはなれなかった。
「何、早く帰って妹の顔が見たいの?」
 違くもないけど。
 瑠璃の目が俺を探るように上目遣いになるのを見て、厄介だな、と思った。
 こういう時の瑠璃はとにかくしつこい。ネットで言う粘着というやつだ。
「別に、早く帰って休みたいだけ」
 俺は自然と早足になる。
 早くこの場から逃れたい。
「お父さんはまだ出張なの?」
 日頃の瑠璃の尋問により、俺にはプライバシーというものが無くなっている。
「そうだけど」
「妹と二人きりじゃん」
「家族だからな」
「でも今までずっと別々に暮らしてたのに、いきなり女子校生とひとつ屋根の下なんて、理性がもたないんじゃない?」
 ああ、もたないさ。
「もつももたないも、妹だぞ?」
 体裁を保って否定しながら自分でも胸が苦しくなった。
 すこぶるブーメランだな。
「例えば、生き別れの兄妹が大きくなって再会して、恋愛感情を抱いたり、関係をもつのって、ジェネティックセクシュアルアトラクションて言うんだって」
 アトラクションて、遊園地か。
「何の話だ、何が言いたい?」
 人は図星をつかれると逆ギレするものだが、何だかイライラするなあ。
「彼氏が、生き別れだった妹とひとつ屋根の下で暮らしてるのが不安だって言ってんの!」
 彼氏だって?
 よく言う。
「妹は妹だろ、馬鹿馬鹿しい」
 そう、翡翠は妹だ。絶対に俺の手には入らない女だ。
「でも仲良すぎない?」
「どこが」
 恋人ごっこはしてたけど。まあ、普通の兄妹間ではやらないか。
「年頃の兄妹二人が毎日一緒に登下校したり、買い出しとかする?」
「そんな兄妹がいたっていいだろ?」
 まるで犯罪者扱いだな。
「それも最近再会したばっかなのにさあ」
 俺達は前世からの腐れ縁なんだよ。
「そんなもの、関係あるか?」
「普通、気まずいもんでしょ」
 なんなら出会った時よりも今の方がずっと気まずいっての。
「よそはよそ、うちはうち」
「ふーん……でも翡翠を兄妹だって知らなかったら、普通に女の子として可愛いなって思っちゃって意識してたよね?」
「さあな」
 実の妹と知っていたとてめちゃくちゃ意識してるけどな。
「じゃあ翡翠に彼氏が出来たら妬ける?」
 その質問で、俺の脳裏には風斗のいけ好かない顔が浮かび、胸糞が悪くなった。
 今の俺はきっと、シベリアンハスキーみたいな顔をしているだろう。
「別に」
 ポーカーフェイスを心掛けているつもりだが、女は男より表情の微妙な変化を読み取る事に長けている。
 この、探るように人の目をガン見してくる瑠璃の強かさが好きになれない。
「嘘ばっか」
「嘘なもんか、妹が幸せになれればいいと思ってるよ」
 本当は自分が幸せにしてやる前提の話だけど。
「嘘嘘、そんな怖い顔して、何が妹の幸せよ。ほんと、兄妹なのに気持ち悪~い!」
 瑠璃は突き放すように俺から離れ、機嫌を損ねたのかプイと顔を背けて俺の一歩前を歩き出す。
「何が?」
「見てれば解るのよ。女の勘ていうか……あなた達が互いを見る目が気持ち悪いったらないのよ」
「はぁ?どんなだよ?」
 俺は全身の空気を口から吐ききった。
 また、人の視線にまでケチをつけようってのか?
 疲れる。
「性的な目」
「変な言いがかりつけるなよ」
 俺はまだしも、翡翠は俺の事なんか何とも思ってやしない。ましてや性的にだなんて。 
 でも『気持ち悪い』なんて、やっぱり世間一般的にはそう思うのが普通なんだよな。翡翠はどうあれ、俺が翡翠をそんな風に見るのも、ましてや手籠めにするのも、俺共々白い目で見られる翡翠には不幸でしかない。
 子供だって望めないし……
「……」
 俺は本能の赴くまま、自分の想いを一方的に翡翠にぶつけてきたけれど、愛があれば相手を幸せに出来るなんて単なる幻想に過ぎなかったのだと思った。
 風斗なら翡翠を幸せに出来るんだな。
 悔しいけれど、それが現実だ。
 それに俺には──
「誰が相手でもいいけどさ、私を裏切ったらどうなるか解ってるでしょ?」
 そう言うと瑠璃は無数の筋状に伸びた左手首のカサブタを俺の目の前に突きつける。
 俺はその真新しいカサブタの痛々しさに『ウッ』となって足を止めた。
「分かってるよ」
「分かればよろしい」
 瑠璃はその傷跡を隠すでもなく、まるで俺に見せつけて罪悪感を植え付けるかの如く堂々としていた。
 そんなもので脅してまで人を縛り付ける事に何の意味があるって言うんだ?

 そう、俺は瑠璃に別れを切り出す度にあのリストカット痕で脅され、別れを阻止されるのだ。

「ねぇ、海浜公園でたこ焼きでも食べて行こうよ」
 あんなグロ映像を見せつけておいて本人は至ってご機嫌なところが逆に不気味だ。俺の方はすっかり食欲を失ったというのに。
「だから早く帰って夕飯を……」
「じゃあ早く行かないとね。私、最近めっちゃ食欲あって、家までもたないし」
「いや、だからぁ……」
 そうじゃない。そうじゃないのに瑠璃は聞く耳を持たない。始めから聞く気が無いようだ。
 瑠璃にグイグイと駅まで腕を引かれ、俺は諦めの境地にいた。

 駅から瑠璃と電車に乗り、海浜公園の近くで降ろされ、俺は仕方無しに二人分のたこ焼きを買う。片方は青海苔有り、もう片方は青海苔無し。見栄を気にする瑠璃には後者だ。
「はい」
 俺は海浜公園のベンチに座る瑠璃に買ってきたたこ焼きのパックを差し出すも、彼女は横を向いたまま受け取ろうとしない。どうやら何かに目を奪われているようだ。
「食わないのか?」
 俺は瑠璃の隣に腰掛け、彼女の膝に青海苔無しのたこ焼きパックを乗せ、自身は青海苔有りのたこ焼きパックを開ける。
「ねぇ」
 瑠璃が俺と反対側を向いたまま視線の先を指差した。
「ん?」
 俺は気の無い返事をしてたこ焼きに爪楊枝を突き立てる。
「あれ、妹じゃない?」
 俺は爪楊枝を刺したたこ焼きを持ち上げようとして、それをパックに落とした。
「妹って、俺の?」
「私、一人っ子だよ?」
 まあ、そうか。
 動揺しながら俺が瑠璃の視線の先に目をやると、少し離れた隣のベンチに翡翠と風斗が座っているのが見え、一瞬で血が沸騰した。
「あいつ、なんで……」
 なんで翡翠は風斗と一緒にいるんだ?
 最近揉めたばっかりなのに、実は毎日ここで風斗と密会してるのか?
 やっぱり翡翠は風斗の事を──
「なんだ、翡翠にも彼氏がいたんじゃん」
 瑠璃の放った一言に、俺は心臓が浮くような動悸を覚える。
 ドッドッドッドッドッドッドッドッ
 彼氏?
 こんな短期間で付き合うか?
 いや、無くも無いし、どっちにしても俺が怒る筋合いでもない。それに前世と違って翡翠には自由恋愛の権利がある。献上品というしがらみ関係無く風斗を選んだのだとしたら、俺にそれを止める権利は無い。ましてや二人は前世で良き夫婦だったのだ。俺の出る幕ではない。
 俺は力が抜けたようにため息をつき、自分のたこ焼きを瑠璃に渡してベンチから立ち上がった。
「え、セキレイ?」
 どよめく瑠璃を尻目に、俺は彼女に背を向けて歩きだす。
 翡翠と風斗に気付かれる前に帰ろう。また面倒な事になるし、今は誰とも話したくない。
「食欲が無い。俺の分も食べていい。俺は帰るから、お前も早く帰れ」
 瑠璃には悪い事をしたが、これ以上ここにいるのは無理だ。翡翠と風斗の交際に口出しはしないが、激しい嫉妬心で見ていられない。
「おかしな事だ」
 翡翠と風斗が夫婦だった頃はここまで妬いたりしなかったのに。翡翠と兄妹である俺に何のチャンスも無いのに往生際の悪い事だ。
「セキレイ!急にどうしたの?」
 俺は頭を冷やしたくて一人になったのに、瑠璃はそれを見逃してはくれず、両手にたこ焼きを持って追い掛けて来た。
「気分が悪いんだよ」
 俺は瑠璃を巻くように早足になる。
「元気そうじゃん。そんなに妹が彼氏とイチャイチャしてるのを見たくないんだ?」
 瑠璃は意地の悪い言い方で何処までも俺を追尾してくる。
「別に」
 なんでこいつはいつも心臓を抉るように的確に俺の図星をついてくるんだか。嫌な性格だ。
「へぇ、でも、あのカップルを見てから急に気分が悪くなったよね。具合とか調子じゃなくて気分が、ね」
「……」
 ああそうさ、図星だよ。ぐうの音も出やしない。
「それって嫉妬じゃん。そうでしょ?」
 瑠璃は確認というより、俺を責立てるようにそう詰めてきた。
「違う」
「じゃあなんで、私っていう彼女がいながら妹カップルに対してそういう態度になるの?」
「別に妹カップルが原因じゃない」
「妹カップルが原因じゃん。あの二人を見てから気分が悪くなったんだから」
「違う」
「どうして認めないの?」
 そんなもの、とっくに認めてるさ。けど、他人に口に出して言える訳がない。
『実の妹の彼氏に嫉妬してる』なんて、一般的に言える筈が無いんだ。
 もし一般的に兄妹間の近親婚が認められていたら、ここではっきり真実を吐き出せたのに。
「それって兄としてじゃなくって、男として嫉妬してるからなんでしょ?」
「違うっ!!」
 瑠璃の決定的な一言に、俺は遂に堪忍袋の緒が切れて振り返りざまに怒号をあげた。
「───────ほら、図星じゃん」
 瑠璃は初めて見る俺の姿に一瞬硬直したが、悪びれた様子もなくそう言った。
「もう付いて来るな。送れなくて悪いけど、俺は歩いて帰るから」
 俺がピシャリと言い放つと、瑠璃はようやく諦めて駅の方へと歩き出した。
 駄目だ、むしゃくしゃする。
 俺は瑠璃を怒鳴ってしまった事に自己嫌悪するも、イライラが収まらなかった。
 俺は頭を冷やす意味でだいぶ時間をかけて自宅へと帰る。

 暫くして、俺は自宅のドアの前まで来ると大きく息を吐き、怒りん坊な自分を自身から追い出すようにペシペシと両手で両頬をぶち、気持ちを改めながらドアを開ける。
 当然翡翠は既に帰ってるだろう。カリカリしてても翡翠を怖がらせるだけだ。フリだけでも良き兄でいないと。
「ただいま」
 俺は努めて普段通りを装って玄関に足を踏み入れる。
 リビングの電気がついている。
 こんな夜分に事故物件で独りなんて、翡翠もさぞや怖かった事だろう。
 先刻の事は忘れて、翡翠には優しくしてやろう。
 そう思った矢先、リビングから何やら鼻から抜けたような『っあ、駄目ですって』という翡翠の声が聞こえてきた。
「え?」
 ──と思っている間にあろうことか『翡翠が無事か、全部脱がして確認したいんだ』というねっとりとした風斗の声までして、俺は階下への配慮すら忘れてドタドタと電光石火の勢いでリビングに飛び出す。
「風斗っ!!」
 俺が隣室への配慮すら忘れて大声をあげると、ソファーの背もたれからひょこっと風斗が頭を出した。
「遅かったね、セキレイ」
 ソファーの背もたれの向こうでは翡翠が風斗によって組み敷かれている、そのように思った。
「おまっ──」
 時すでに遅しって意味かっ!?
 俺は翡翠の貞操が奪われたものと認識し、二人は前世で良き夫婦で~とか、俺が怒る筋合いは無い~等といういつぞやの葛藤も忘れ、風斗に掴み掛かって拳を振り上げた。
「セキレイさんっ、止めて下さいっ、違うんですっ!!」
 やっぱり翡翠は風斗に組み敷かれていて、風斗の下からシャツを正しながら俺を止めにかかる。
 そんな翡翠の首筋に赤い鬱血を見つけ、俺は更に燃え滾った。
 こいつはもう王でも何でもないんだ、好きなだけ殴っても問題無いよな?
 俺は迷わず大きく振り上げた拳を風斗の顔面に振り下ろした。
「セキッ、どわぁっ!!」
 俺が振り下ろした拳は間違いなく風斗の横顔を捉え、その手に鈍い痛みを覚えたが、悲鳴をあげてソファーから落ちたのは翡翠の方だった。この状況を簡潔に説明すると、俺が風斗をぶん殴る瞬間、翡翠がその間に身を挺して割り込もうとしてそれを風斗に押し返され、そのままソファーから落下。風斗本人は俺に殴られて左頬を赤く腫らした、という顛末だ。
 翡翠、なんで風斗を庇うんだよ。風斗だって、王として一生を生きた筈なのに、自分から殴られにいくなんて……
 風斗を殴ったら少しは憂さも腫れるかと思ったのに、逆に彼らの絆を見せつけられたようでモヤモヤした。
 翡翠を助けた筈が、まるで俺が横柄な悪者みたいじゃないか。
「ハハハ、イテテ。俺が現役の王だったら今頃セキレイは市中引き回しのうえ打首獄門だったよ」
 風斗は殴られた事に腹を立てるでもなく、痛々しい患部を押さえながらのほほんと笑っている。しかし一見すると温厚そうなお人好しのように見えて、これで夜は鞭を持った暴君というのだから同情はしていない。いや、現世でもSM趣味とは限らないけど。
「世が世で良かったよ」
 俺は少し乱暴に風斗から手を引いた。
「いつの時代も暴力は善くないよ」

 お前が言うな。

 ──と、翡翠も思った筈だ。
「大丈夫ですかっ、風斗さん」
 翡翠はソファーに乗り出し、両手で風斗の顔を挟んで心配そうに怪我の具合を診ている。
「大丈夫大丈夫。口の中を切っただけだから、今、キスをしたら鉄の味がすると思うよ?」
「何、馬鹿な事を言ってるんですか。鉄分なら足りてます。それより口の中を見せて下さい、ほら、あーんして」
 翡翠が小さい子にするみたいに口を大きく開けて見せると、風斗もそれに習って口を大きく開けた。
「どほ?(どお?)」
「血の海です」
 翡翠は風斗の口内を見ると、痛そうに顔を顰める。
「あにほれ、ほわい(なにそれ、コワイ)」
「口の中なんて私にはどうしようも出来ないしな……」
「あめて(舐めて)」
「舐めて治るならとっくに舐めてますよ」
 え、ちょっ……
 元夫婦の感覚でいくと自然なやり取りなのかもしれないが、見ているこっちは気が気ではない。
 おいおいおいおい、おいおいおいおいおいおい、マジでガチで舐めたりしないだろうな。
「舐めて」
 風斗は自分の頬を包む翡翠の両手に己の両手を添え、ニッコリとねだった。
 あざとっ‼
「縫った方がいいんじゃないですか?それか焼きごてで焼き切るとか」
 怖っ……
 これを冗談ではなく本心から言っているところがまた、翡翠らしいというか……
「口内炎じゃないんだから」
 風斗は苦笑いしながら静かに口を閉じた。
 やったれ翡翠。
「鷹雄さんがいてくれたらなぁ……」
「あれはヤブで有名な名医だからね。それに切るのも縫うのも得意だったかな」
 風斗は懐かしそうに目を細めた。
 鷹雄は前世で風斗のお抱え主治医だった。厳密に言うと、風斗と、風斗がプレイで傷付けた女達の主治医だ。風斗も思うところがあるのかもしれない……何が?
「両極端ですね」
「とにかく鷹雄でも嫌だよ」
「人には痛い事とか嫌がる事を率先してするくせに、自分は嫌なんですか?」
 この(元)夫婦はかかぁ天下なのか、翡翠は結構強気だ。
「怪我の手当てに俺の性的趣味嗜好は関係ないだろ。嫌に決まってる」
「まったく、ワガママですね」
 翡翠は呆れてため息をついたが、全然嫌そうな感じはしなかった。
 なんかモヤるな。いっそ目の前で痴話喧嘩でもしてくれたらこんな気持ちにならなかったのに。
「昔はいくら私が泣いて嫌がっても止めてくれなかったのに」
 翡翠は憂さ晴らしするように片手で風斗の頬を軽くムギュッと挟んだ。
「イテテ、でもそれは最初の頃だけだったでしょ?」
「それは……まあ……」
「俺はもう、愛を知って、それを表現する術も手に入れたから、絶対に翡翠を泣かせたりしないよ」
 風斗が愛の告白でもするみたいに翡翠の手を握り、そこに口付けると、翡翠は悲しそうにただそれを見つめていた。
「……」
 俺は一体、何を見せられているんだ?
 俺と翡翠は何処まで行っても兄妹なのに、翡翠と風斗は何処までも行っても夫婦なんだ。
 胸が苦し過ぎておかしくなりそうだ。
 なんで風斗なんだ?
 なんで俺じゃないんだ?
 それが運命だから?
 それとも翡翠自身が風斗を選んだから?
 だとしたら、運命だから仕方が無いと言われた方が諦めもつく。
「いい加減、俺の目の前でイチャイチャすんのやめろ。てか帰って病院行け、風斗」
 俺が親指を立てて出口を指すと、何故か翡翠が申し訳なさそうに俺に向き直った。
「あの、セキレイさん、その事なんですけど……」
「いいよ翡翠、俺が言う」
 風斗が翡翠を庇うような物言いをしたのも何だか気に食わない。
 あぁ、煙草が吸いたい(ような気がする)
「俺、今日からここに住む事になったんだ」
 何を言い出すのかと思えば、血迷った事を──
「ハッ、アホか、駄目だ、今すぐ出て行け」
 これは俺が俺だから却下している訳ではない。世間一般的に見ても、仮に高校生の娘が何処の馬の骨とも知れないイケメンを家に連れ込んで、あまつさえその馬の骨が図々しくも家に転がり込もうと意気揚々としていたなら、まともな脳味噌をした娘の家族は当然それを退けるだろう。俺はそれに制御不能の嫉妬心も加わるので尚更許せない。
「いやいや、君のお父さんが決めた事だから」
 風斗は半笑いで『なーに言ってんの』と両手を掲げている。
 いやいや、そっちこそ何を言ってるのか理解に苦しむ。
「なんでうちの父親が出てくるんだよ」
 翡翠が怯えた目で俺をチラチラ確認してくるのも不可解だ。何だってこんな突飛な事を言い出すのかと思っていると、風斗の口から天地がひっくり返る程の衝撃発言が発せられる。

「だって俺、君らの従兄弟だからね」
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