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煩悩
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食後、俺は気になって気になって仕方がなかったクラッカーの残骸を片付け、その後風呂を沸かした後、翡翠が作ったというミルクレープを彼女と共に食べていた。
「ミルクレープって自分で作れるんだな」
俺は綺麗な層を作るミルクレープの断面を見て感嘆の息を漏らす。
ドリームキャッチャーは悲惨な姿になっていたが、それに比べたらミルクレープは割とまともな姿になっている。
いや、比べる相手が悪かったか。
「お茶の子さいさいですよ」
今どきのJKがドヤ顔で『お茶の子さいさい』とか言うか?
──推せる。
俺がフォークを使って切断したミルクレープを口に頬張ると、ガチンと硬質な何かが奥歯にぶつかった。
「えっ、なんか」
「あぁ、当たりですね」
翡翠がこちらを見て微笑ましそうにしている。
「なんだ?」
俺はテーブル上の箱ティッシュからティッシュを何枚か取り出すと、それを口元に当てて硬質な何かを吐き出す。
「コイン?」
それは綺麗に磨かれた小さなコインだった。
歯でも折れたかと思ったわ。
なんか既視感があるぞ。デジャヴュか?
これは確か、料理好きのユリがやっていた『幸運のコイン』てやつか。
ユリの死後、皆で食べたケーキから全員分のコインが出てきたってあれだ。
ドリームキャッチャーもそうだが、翡翠はこれらの事象を前世の記憶無しで無意識に辿っているのか?
だとしたら、俺の事も無意識に意識したりもしないだろうか?
「オニイサン、ツイてますね。自分のケーキからコインが出てきた人は、なんと、びっくり、まさかの、出てきたコインが貰えるんですねぇ」
なんでそんな期待を高めるようにためた?
「そもそもの意味が、金持ちになれるとかいうのだろ?ジュースも買えん」
俺はそのコインを指で弾いて天井高くまで飛ばしてはキャッチしての動作を繰り返す。
「そうですね、本来は指輪や指ぬき、ボタンも入れるみたいですけど、それぞれ意味が違うんだそうですよ」
「指ぬきにボタンなんて、嫌がらせかなんかか?」
一時期流行った『異物混入』てやつだろ。
「なんて事を言うんですか、それらが当たった人は一生独身というちゃんとした意味があるんですから」
いや、嫌がらせやん。
「じゃあ指輪は?」
「近々結婚の予感て意味ですよ。でも高校生の私達には関係ないと思ったので入れませんでした」
「あぁ、そう」
前世の翡翠は今くらいの年齢には結婚してたけどな。
結局、前世では翡翠に指輪を渡す事すら出来なかった。
ヴーヴーヴーヴー
ヴーヴーヴーヴー
ヴーヴーヴーヴー
ヴーヴーヴーヴー
「出ないんですか?」
俺の尻ポケットでスマホが唸りだして止まらなくなり、さすがの翡翠も気になっていた。
このしつこさ、間違いなく瑠璃からの着信だと思ったが、それはやっぱりその通りで、取り出したスマホの画面には見知った番号が映し出されている。先に帰宅した俺への抗議の電話と思われた。
「良くない知らせだからいいんだよ」
「親戚に不幸とか?」
「気持ち的には近いけど、全く違う」
「?」
翡翠に、誰からの、どんな内容の要件か等、どれをもっても話すわけにいかず、俺は翡翠の目の前でスマホの電源を切った。
「電源を切ったから問題ない」
「はあ」
翡翠は不審そうにこちらを刮目している。俺は話題を変える為にも翡翠に風呂を促す。
「食べ終わったら先に風呂でも入れよ。その間に片付けして寝床の準備をしておくから」
とは言ったものの、1つ大きな問題がある。
Q、寝床って?
家には客間とか来客用の布団が無い、となると……
1、とりあえず親父臭い親父のベッドに寝かせる?
2、毛布を与えてリビングのソファーで寝かせる?
✕それはちょっと可哀想だ。ここまで来るのに長旅だっただろうし、ちゃんと身体を休ませてあげたい。
3、俺のベッドに寝かせる?
⚠も、勿論、主の俺はリビングのソファーで寝る方向で。
※思春期の娘が父親のタオルとかパンツを差別するように、兄貴の布団も差別するだろうか?
↓そうなったらめっちゃ傷付く。この世の終わりだ。
A、うん、本人に確認しよう。
俺とした事が、とんだ茶番を演じてしまった。
「あのさ、別にどこでどうやって寝てもいんだけど、うち、客間も布団も無くてさ……毛布くらいなら用意は出来るけど、どうする?」
俺は照れ隠しに後頭部を掻きながら尋ねた。
「えっ、あぁと、そうか、物置とか……」
翡翠はチラチラ俺の顔色を伺いながら聞き返す。
「物置は散らかっててカビ臭いけど?」
「じゃあ、ゆくゆくは物置に間借りさせてもらうとして、今日のところはリビングのソファーで寝かせてもらっていいですか?」
「疲れるだろ、暫くは俺がリビングで寝るから、お前が俺のベッドで寝ろよ」
「いえいえいえ、申し訳無くて眠れませんから、ソファーで寝かせてください」
翡翠は滅相もございませんと自身の胸の前で両手を激しく振った。
謙虚というか、他人行儀だな。
「まあ、いいならいいけど」
「どうぞお構いなく。では、先にお湯をもらいますね」
俺は、そう言って席を立った翡翠を思わず呼び止めていた。
「なあ、双子なんだから敬──」
──語は無しでいいんじゃないか?
なんて言おうとして、俺はふと昨夜観たエロ動画を思い出す。あれは、そう、男性教師と女子生徒が体育倉庫で跳び箱を使って致すという教養高い設定なのだが、女子生徒がもれなく敬語を使っていて、男性教師に激しく穿たれながらも女子生徒が敬語で制止する様が何ともいじましくて翡翠を彷彿とさせていた。
敬語、悪くない。
「なんでもない」
「は?」
翡翠は呆気にとられた顔をしていたが、俺は自身の征服欲を優先した。
それに、翡翠の敬語を聞いていると昔(前世)に戻ったような気になれる。
「変なオニイサンですね。じゃあお風呂に入りますけど、いくら双子と言っても決して覗かないでくださいね」
多分、翡翠は冗談のつもりでそう発言したのだろうが……
「覗くか」
──もしれない。何故なら俺は高校生。やりたい盛りの煩悩男子だ。翡翠の未発達な裸なんか、見たいに決まっている。どこもかしこも前世と同じなのか、この目で確かめたい。
「決して覗かないでくださいね」
翡翠の強めの念押し、鶴の恩返しか。
翡翠はとっとと風呂場へ行ってしまい、俺はチャキチャキとテーブル上を片付け、洗い物をしていて大変な事に気付いてしまう。
あれ、翡翠、着換えとかタオル持ってってなくね?
身一つで行ったよな?
あいつ、裸一貫で出て来るつもりか?
これは大変だ。由々しき事態だ、直ちに俺が着換えとタオルを持って行ってやらないと、翡翠が困る。
俺は仕方なく、誠に遺憾だが仕方なく自分のシャツと学校の短パン、バスタオルを持って迷わず脱衣所の扉を開けた。
因みにこの行動は俺の単なる親切心からで、特に他意はない。もう一度言う、他意は無いのだ。
せめて風呂場の摺りガラスに翡翠の裸体でも映し出されねーかな。
他意は無いが、邪な気持ちは少なからずあるはある。
「翡──」
『翡翠』と呼ぼうとして、風呂場から拙い水音と鼻を啜る音がして、俺は息を潜めた。
「ぅっ、ぅぅっ……」
息を詰めて泣く翡翠の声がする。
泣いてる?
翡翠がずっと元気そうに振る舞っていたのは、ただ俺に弱いところを見せたくなくて虚勢を張っていただけだったのか。
俺は先刻までの邪な自分に無性腹が立ち、ラックに着換えとタオルを掛けると、黙ってその場を立ち去った。
俺は前世ぶりに翡翠に会えて浮かれていたけれど、翡翠はまだ喪中の最中だった。無神経な事をした。こんな時、寄り添って肩でも抱いてやれればいいのに、翡翠はそれを良しとしない。それどころか俺に隠れて涙を流すなんて、見守る事も許されていない感じがする。
「せめて、翡翠が楽しく暮らせるよう、サポートするしかないか」
具体的にどうとは言えないものの、優しくしてやろう。助平心は無しだ。
しかし俺が改心している所に現れたのは、目を赤く腫らし、ブカブカの『彼シャツ』を着た翡翠。よれた襟首から肌色の下着のような物が見え隠れし、制服のスカートよりも短い裾からは細いのにムッチリした色白の太腿がモジモジと摺合わせられている。
肌色の、スポブラ……
それはさておき、これはもう……
彼氏の家にお泊りに来た彼女じゃないか。
あまり深く考えずに着換えをチョイスしてしまったのが、結果、俺を苦しめる事になるなんて。この先、共同生活、大丈夫か?
「あぁっと、悪い」
見る事が罪のように感じられて、俺はつい謝って翡翠に背中を向けた。
直視したらヤバい事になりそうだ。
「ふ、双子なのに、兄妹なのにそんな態度をとられると気まずくなるじゃあないですか。そりゃ着換えを忘れた私が悪いですけど……」
だったらガン見しろって言うのか?
双子の妹相手にズボンにテントを張れと?
前世の記憶も無いお前はそんな滑稽な俺を見て軽蔑するだろうさ。
とは言え俺は、窓ガラス越しに翡翠の様子を窺ってしまう。
そう言うお前だって、恥ずかしそうに両手で裾を引っ張ってるじゃないか。
「パジャマ的なの自体、間違って処分してしまいました……慣れないうちはお互い気恥ずかしいと思うんで、何かお借りしてもいいですか?」
「悪い。慣れるから、とりあえず今は俺の部屋のクローゼットから適当にズボン選んで」
俺が自分の部屋を指差すと、翡翠はそそくさとズボンを取りに行く。
「はあ」
俺は片目を押さえ、興奮をやり過ごすように深く息を吐いた。
ヤバかった。衝撃映像だ。心臓に悪い。
翡翠は悲しみの渦中にいるんだ、エロい目で見てどうする。温かい目で見てやらないと可哀想だ。
「兄失格だな」
そもそも翡翠の兄に甘んじようとは思っていないが、体裁の上では良き兄でいないと翡翠に嫌われる。
「初日でこれかよ」
前途多難だ。
「出来ました」
翡翠が戻って来ると、彼女は先程のルックに俺のスェットのズボンをダボダボに履いていた。
「これはこれで……」
なかなか。
「ではお借りしますね」
「それはそれでやるよ。後は休みの日にでも足りない服とか色々買いに行こう」
「あっ、ありがとうございます。じゃあ、バイトを見つけてからでもいいですか?」
「バイト?そんなのしなくても、お前も親父の子供なんだから家の生活費から出すって」
自分で言っておいてなんだが、まるですねかじりの口振りだな。だがくれぐれも言っておきたいのは、生活必需品以外で欲しい物があれば、小遣いで足りない分はちゃんとバイトして買っている。何なら翡翠を養う為に大学も諦めて今すぐにでも就職したいと思っている。
「いや、だって、いきなりこんなデカい子供がお父さ~んて来ても、はなから自分の子供とは思えないと思います。しかも留守ですし」
「今の家長は俺だから、俺がいいと言ったらいいんだ。何なら去年俺がバイトして貯めた金で買ってやるけど?誕生日プレゼントだと思ってさ」
それにバイトなんて、俺の目の届かない所でコミュニティを作られては心配で堪らない。それに翡翠はドジだし。
「私が嫌なんです。逆に気を遣いたくないから、やらせてください」
そんな言われ方をしたらこっちが却下し辛いじゃないか。相変わらず意固地だな。
「……俺が養うって言っても?」
「は?」
翡翠がさも『今、なんて?』という表情をしたので、俺は急ハンドルで話の方向転換を図った。
「いや、忘れてくれ。ただ、家に気は遣ってくれるな。生活費はこれまで通り親父もちだから」
俺って奴はゲンキンだ。
翡翠に嫌われるよりはましだけど。
「はいっ!」
翡翠は小学生の如く元気に返事をする。
「……」
頭、ポンポンしたいな。
俺は翡翠の綺麗な旋毛に釘付けだ。
「じゃ、じゃあ、テレビでも観ますかぁ、タッハー」
翡翠はぎこちなくそう笑うと、ぎこちない動きでソファーの端に座ってテーブル上のリモコンでテレビを着ける。
初めて会う生き別れの兄に緊張しているのか、話す事が無くて気まずいのか、又はその両方か、翡翠の肩に力が入っているように見えて尊い。
かわいいなあ。
「お前、疲れてないのか?毛布ならすぐ持って来るけど?」
まあ、寝るには早いけど。
「ギラギラのバッキバキですよ!何なら今夜はオールで!」
翡翠は鼻息も荒く目を見開いて右手の拳を大きく振り上げた。
ラオーかな。
「オールはやめなさい。どうしても見逃せない番組でもあるの?」
「はいっ!まさにこれですっ」
と、いちいち語彙に力が入っている所が面白い。
ここは軍隊か。
翡翠が指したテレビを覗くとちょうど心霊番組をやっていて、心霊写真特集が始まろうとしていた。
「オカルト好きだっけ?いや、好きなの?」
前世ではそんな素振り見せなかったけど、大丈夫かな?
俺が心配して翡翠の顔色を窺うと、彼女は青い顔をしてゴクリと生唾を飲んでいた。
こりゃ適当言ったな。
まあ、付き合ってやるけど。
「今、飲み物とつまみ持って来るから、先に観てて」
「えっ⁉」
俺がキッチンに行く素振りを見せると、翡翠は縋るような視線でこちらを見上げてきた。
『え……行っちゃうの?』
そんな風に顔に書かれている。
あぁ……
「すぐ戻るよ」
俺は翡翠が可哀想になり、最速でつまみと飲み物を用意して戻る。そして戻ってみれば、翡翠は両手で顔を覆って上体をくの字に曲げて震えながら何かに耐えていた。
ハムスターの心臓だな。
「あっは」
俺は小さく失笑して翡翠の耳に冷えたグラスを押し当てる。
「∆¤‼±⁇∆†§℉℃¢€·\×÷π‰®€©!!!!!!」
翡翠は盛大に驚嘆し、諸手を挙げてソファーからずり落ちそうになっていた。
「そんなに驚かなくても……ほら、喉が乾いただろ?飲め飲め」
俺はコーラの入ったグラスを翡翠に渡し、残りのつまみやグラスをテーブルに置く。
「ナ、ナンダ、オニイサンでしたか……」
翡翠は乱れた呼吸を整え、グラスに口を付ける。
「他に誰が居るって言うんだよ」
俺は笑いを堪え、気を遣って翡翠と離れてソファーの端に座った。
「え、オニイサン、なんでそんな離れて座るんですか?」
「え、いや、だって……」
さっきは自分から距離をとっていたじゃないか。
「ま、まあ、それはいいとして」
いいのかよ。
「そんなに怖かったら違うの観たら?」
「いえ、いいんです。そもそも信じてませんから」
じゃあ逆になんで観てる?
「オニイサンは怖いの得意ですか?」
「得意ってか、俺も信じてないから、全然なんとも思わない」
正直、クラッカーのがこえーよ。
「そうですよね、こんなの全部CGですよね、タッハー」
とか言う割、グラスを持つ手が震えてるじゃあないか。
本当に大丈夫か?
夜にオネショとかするんじゃないだろうな?
「……」
「……」
二人並んでテレビを観ていると、パキッとか、カチッとかラップ音にも似たような騒音がしてきた。
「い、今の、ラップ音ですよね?」
翡翠が紙の様に白い顔をしてこちらを見た。
「んー、家鳴りだろ?いつも聞こえるけど気にした事ない」
「家鳴りって、木造ならまだしも、ここ鉄筋コンクリートですよね?」
「そういやそうだな」
俺は乾物をつまみながら片手間程度に答える。
「そういやって……あの、失礼ですがここって事故物件とかじゃ……」
「え、さあ?」
俺はコーラを飲みながら気のない返事をした。
「ちょっ……と、調べてみていい、ですか?」
「ん?いいけど」
翡翠がビクビクしながらスマホを取り出し、震える手で画面をタップしていく。
大丈夫か?
「っ!!!!!!」
タップする翡翠の手が止まり、彼女は愕然として口元に手を当てた。
「そんな、まさか、嘘だ……信じられない……」
だから言わんこっちゃない。
「大丈夫だって」
翡翠が何を見たかは知らない、が、俺が付いているから何も心配する事はないだろう。
「オニイサン、あのっ、あのっ!!」
翡翠は目を白黒させ、言いたいけど言えないって感じで口をパクパクさせていた。
雛鳥みたいだなあ。
俺はそんな翡翠を見て呑気にそんな事を思う。
「どうしたー?」
「®@#%_/‰¤π±※№∆€£√µ」
俺が尋ねると、翡翠は声にならない声で手振り身振りをして一生懸命何かを伝えようとしてくる。
とんでもない情報を見つけてしまったってのは凄いよく伝わった。
「なんだよ、ここで腐乱死体でも発見されたのか?」
「い、いいえ、ま、まっさかー」
翡翠が口元を引きつらせて笑った様を見ると図星だったのだろう。けれど俺が怖がるといけないと思って咄嗟に嘘をついたってとこだ。
お前の様子で全てを察したけどな。バレバレじゃないか、馬鹿だな、俺は全然怖くないのに。お前の方が気の毒なくらい怖がってるじゃないか。可哀想に、もはや涙目だ。
そして翡翠はえらく喉が乾いたのかコーラを一気飲みしている。
「怖いのを観てそんなに飲んだらオネショするだろ」
「大丈夫です……恐らく……」
全然自信無いじゃん……
そんなこんなで二人でテレビを観ていると『おわかりいただけただろうか』というテロップが入り、心霊映像がスロー再生され、廃墟で人影の様なものが横切る様子が映し出された。
「どぁっっ!!!!!!!!!!」
どぁっっ?
俺が色気の無い悲鳴だと思って翡翠を見ると、彼女がいきなり俺の腰目掛けてタックルしてきた。
「どぁっっ‼」
翡翠の予想外の行動に俺の方こそ変な声が出る。
「どうしたどうした?」
双子同士でどうとか言ってたのはどうなった?
「い、今、影が……」
「ん?大丈夫大丈夫、あれはやらせだよ」
震えながら必死でしがみついてくる翡翠が可哀想ではあったが、俺はそんな翡翠が可愛すぎてどさくさ紛れに彼女の背中を優しくさする。
「どぁっ!!!!!!」
「イテッ、今度はなんだよ」
何かを思い出した様に翡翠に突き飛ばされ、俺は手にしていたグラスの中身を溢しそうになった。
「あっ、あはぁ、すみません、我を失ってました」
翡翠は照れ笑いをしながらペコペコと俺に頭を下げている。
「忙しい奴だな。じゃあ、俺は風呂に入るから」
俺がそう言うと、翡翠は途端に元気を無くしてショボンとしだした。
「あ、はい……」
「ん?」
俺が翡翠の顔を覗き込むと、彼女は肩を落としながら部屋の隅に置いた自分のリュックをゴソゴソして洗面具や歯ブラシを取り出す。
俺は俺で干していた着換えやタオルを持って風呂場へ行こうとすると、翡翠もその後を付いて脱衣所に入ろうとする。
「どした?一緒に入るのか?」
おおかた、一人でいるのが怖いのだろう。
俺は冗談のつもりでそう尋ねていたが、翡翠は『置いていかないで』と目で訴えてくる。
風呂場の外には脱衣所兼洗面所があるが、翡翠は風呂場にまで付いて来そうな勢いだった。
え、俺が体を洗うとこを見てるって言うのか?
それはさすがに……
「大丈夫だって、すぐ隣に俺がいるんだから、安心して顔洗って歯磨きしろ」
「でも、お湯でパシャパシャして洗顔した後、顔を上げたら鏡に女が映ってるって、よくある話じゃないですか」
「ホラー映画の中の話な。現実にはありえない」
「でも……もし……」
翡翠は黙って首を横に振った。顎に皺が寄る程横に引き結んだ口が愛おしい。
「じゃあ、風呂場の戸を開けておく。それならいいだろ?」
翡翠はようやく首を縦に振る。
「よし、良い子だな」
俺が翡翠可愛さに彼女の頭をポンポンしようとすると、それをスンとかわされた。
おい。
「こ、子供扱いしないで下さい」
翡翠なりにプライドがあるのか。
俺は苦笑して翡翠に背を向けた。
「翡翠扱いしたんだよ」
前世ではよく翡翠の頭をポンポンしてこっちが癒やされたもんだけどな。
「?」
「俺が脱いでる間に顔洗ったら?」
「あっ、はいっ」
俺が言いながらシャツを脱ぎ始めると、翡翠は慌てて洗面所で洗面の準備を始める。
「ちゃんと肩まで浸かって100まで数えてくださいね~」
「おい、子供扱いするな」
「プクク……」
翡翠はさっきまでこの世の終わりみたいに怯えていたのに、今は少し気が大きくなって冗談まで言えるようになったらしい。
すぐに翡翠が顔を洗う水音がして、俺は俺でいつも通り体を洗い始める。
このシチュエーション、変な感じだ。
そういや指南の時に翡翠が俺の裸を見て『鬼ーーーーーーーーっ!!!!!!』って悲鳴をあげていたけど、それは今も変わらないんだろうな。
……男の体を見慣れてるって事はないよな?
俺の、体を洗う手が一瞬止まる。
翡翠はウブなままだよな?
日本と海外、どっちのが進んでるんだっけ?
18だと性的な事を経験していてもおかしくないが、まさか、翡翠に限ってそんな事は無いよな?
向こうで彼氏とか……
うわ、心霊番組より怖い。
海外じゃ、日本女性はモテるそうだし、翡翠は童顔だけど顔の造り自体は綺麗だから声はかけられたはずだ。
「……」
聞いたらセクハラになるか、嫌われるか?
まさかな……
俺は気を取り直して体を洗い流し、湯船に浸かる。勿論、肩まで浸かり、煩悩を打ち消すみたいに無心で100数えた。
シャコシャコ……
洗面所から翡翠が歯を磨く音がする。
男二人暮らしで一人は嫌いじゃなかったが、こうして翡翠の生活音を聞いていると、前世の楽しかった同棲生活を思い出す。あの頃は良かったなあ。当たり前にお互いがいて、毎日同じ話題を共有していた。
また、そんな風になれればいいけど。
「オニイサン、出来ましたー」
出来ましたーって。
風呂場に翡翠の元気な声だけが届き、俺は湯船から上がってタオルで体の水滴を拭いていく。
一応、腰にタオルを巻いて風呂場から出ると、翡翠が背を向けて両手で顔を覆っていた。
「何してんの?」
そりゃ見当はつくけど、何て入念なんだ。そんなに俺の裸が見たくないのか?
別に変態じゃないんだからわざわざ見せたりもしないけど。
「マナーです、マナー」
「あっそう」
俺はタオルを取り払い、下から順に服を着ていく。
衣擦れの音と、何故か翡翠のハァハァする吐息の音がして現場はとてもシュールな空気となっている。
なんでハァハァしてる?
気になる。
「見たいなら見たら?」
俺は半裸の状態で翡翠の背中に問い掛けた。
「だ、誰が双子の兄の裸を見たいもんですか!ゾッとします」
そこまで言わんでも……
「だったら何でハァハァしてる?」
「え、だって、後ろで人が恥ずかしそうに生着替えをしていると思ったら、なんか……ゴクリ」
生唾を飲むな、生唾を。
翡翠の方こそ恥ずかしそうに声を潜め、耳まで赤くしている。
「俺は別に恥ずかしくないし」
翡翠、お前、変態だな。
「双子の兄相手に恥ずかしがる方が変なんじゃないの?」
「お、おっしゃる通りです」
お、認めた。
「じゃあ普通にしてたら?」
「じゃあ、見ますよ?いいんですね?本当にいいんですね?体中蜂の巣になるくらい、穴が開く程ガン見しますよ?今更恥ずかしがっても無駄ですよ?ファイナルアンサー?」
「はいはい。ファイナルアンサー(苦笑)」
俺が普通にシャツを頭から被り、それに袖を通していると、翡翠が目を閉じたまま勢いよくこちらを振り返った。
「意気地なしだな(笑)心配すんな、もう服を着てる。さあさ、俺も歯を磨くからそこを退いて」
俺は『シッシッ』と翡翠を脇に追いやり、洗面台の前に立って歯磨きを始める。
「やっぱり、双子の兄の裸は見るべきじゃないと思うんですよ」
「ナンデ?」
「小さかったらどうするんですか。ゴーヤみたいにボコボコしてたり、真珠なんか入ってたら……」
俺は歯磨き粉の泡を吹き出すかと思った。
斜め過ぎる発想だ。
「余計な心配をするな。小さくもないし、真珠も入れるか、んなもん」
俺の裸を見ても同じ事が言えるのか?
いっそ見せつけてやれば良かった。
シャコシャコシャコ……
歯と歯茎の境目、八重歯の段差、奥歯の窪み等を丁寧に歯ブラシで磨いていると、いきなり後ろから翡翠の両手が伸ばされ、俺の腰に添えられた。
なんだ?
「電車ごっこか?」
「当たらずも遠からずです。気にしないでどうぞ続けて下さい」
当たらずも遠からず?
よく解らないが悪い気はしない。俺から率先して触れない分、こうして向こうからきてくれるのはとても嬉しい。
俺は口内を濯ぎ、後ろにぴったりと翡翠がいるにもかかわらず容赦なく濡髪にドライヤーをかけると、彼女は目を細めてその温風に耐えていた。
面白いなあ。
「終わった。じゃあ寝るぞ」
俺が脱衣所から出ると、腰にくっついている翡翠も必然的に出て来る。
ドラ○エみたいだな。怖いのか、どこまで付いて来る気だ?
いいのか?
このまま行くと……
俺がそのまま自室に入ると、やはり翡翠も一緒に入室する。俺が足を止め部屋の電気を点けると、翡翠は慣性の法則で俺の背中にモロにぶつかり、一瞬、背中と腰の中間地点にマシュマロみたいなポヨンとした感触がした。
あっ……
俺はちょっとギクッとして左手を腰に当て、右手で口元を押さえる。
これはあれだ、そう、あれだな。
いや、あまり深く考えるのは良くない。だってここは俺の寝室で、当然ベッドがある。だから翡翠の胸にある釣り鐘型の丘陵の事は考えては駄目だ。
そう、あれは単なる軟らかい丘陵。
「……」
「オニイサン?」
──思ってたよりあるな。
ん?
そうじゃなくて、あぁ、翡翠は毛布を取りに来たのか。
──そう思い、俺がクローゼットの一番上の棚から毛布を何枚か取り出し、それを翡翠に渡そうとするが、何ぶん腰に引っ付いている為、パス出来ない。後ろを振り返ろうにも、翡翠もまた一緒に動くのでぐるぐる回ってしまう。
コントか。
「おーい、どしたー?」
俺が立ち止まり、天井に向かって問い掛けると、背中に翡翠のおでこが押し付けられた感触がした。
あぁ、これは多分……
「怖いの?」
コクン、と翡翠のおでこが僅かに動く。
なるほど、一人でリビングで寝るのが怖くて俺に引っ付いて来たのか。しかも素直に怖いって言えなかったんだろうなぁ。
堪らないな。
「別に怖かったら怖かったで堂々と俺に甘えていいんだぞ?今日は俺が床で寝るから、お前は俺のベッドを使うといい」
「いえいえ、そんな訳にはいきません。私は居候の身ですから、床で充分です」
「居候じゃなくて、家族、な」
「でも……」
「床は硬いから、男が下に寝るべきだろ?」
「でも……」
それでも翡翠が遠慮するので、俺は冗談半分、本音7割で尋ねる。
「だったら同じベッドで一緒に寝るか?」
「え、それはちょっと」
冗談だよ、傷付くだろ……
「……だろ?大人しく言うことをきけ」
「はい」
「それと、引っ付いてたら各々寝れないだろ?」
と言うと翡翠は、自分が双子の兄に引っ付いたままであった事に改めて気付き、パッと手を離しておずおずと俺のベッドによじ登った。
俺は床にクッションを2つ並べ、その上に毛布を羽織って横になる。
「定位置についたかー?ベッドヘッドのとこにシーリングライトのリモコンがあるから、そっちで消灯して」
「あっ、はい」
翡翠の返答の後、部屋の明かりが消された。
今夜は新月か、二箇所ある窓から月明かりは殆ど差さない。
カサカサカサカサ……
何の音だ?
ゴキブリみたいな音がするな、暗くて見えないけど翡翠か?
ザッザッザッザッ
小動物が巣穴でも掘ってんのか?
ボリボリボリボリ
これは明らかに背中でも掻いてるだろ。
スヤスヤ……
おお、静まった。今までのは何だったんだ?
「ぐぅ……ぐぅ……」
翡翠の寝返りの音や吐息がリアルに耳に届く。
寝たのか。
やっぱり疲れてたんだな。
俺の方はというと、バッキバキだ。
翡翠が気になって眠れない。
どんな顔をして寝ているのか確認したい。
ハムスターみたいに丸くなって寝ていそうだ。翡翠は元々寝相のいい方ではなかったから、ちゃんと布団を着ているだろうか?
腹でも出していたら風邪をひく。
新月のせいでまるで何も見えないのが逆に想像を掻き立てて俺の睡眠を妨げる。
こいつ、よく、初対面の男の隣で爆睡出来るな。神経が干瓢くらいあるんじゃないか?
実の兄妹だからって安心しきってるだろ。
そのくせ俺が近付くと警戒するくせに、よくわからん。
俺に対する翡翠の認識って何なんだろう?
まずはガッチガチの固定観念で『あれは実の兄だ』と翡翠の中でインプットされ、そこから『実の兄とは過剰なスキンシップをしてはいけない』と一般常識にとらわれ、それに反比例して『実の兄相手に変に意識するのはおかしい』という結論に至って今に至るようだ。
ややこしいな。
警戒されてるんだか、されてないんだか……
どうしたもんか。
何で双子になんか転生してしまったのか、神様が憎い。
俺は翡翠と先に進みたいと思っているが、いざ翡翠と両思いになった時、果たして俺らは肉体的にも物理的にも結ばれていいのだろうか?
その時になったら、俺はどんな選択をするのか?
「スヨスヨ……」
「なんだよ、悩んでるのは俺だけかよ」
いらぬ心配だったか。
翡翠は俺の事なんか気にもとめちゃいない。今はまだ、さながら単なるルームメイトだ。
並んで寝ていて隣を気にするのは俺だけ。寝顔を眺めたいとか、頬を撫ぜてやりたいと思うのも俺だけ。
キスしたいと思うのも俺だけ。
ムラムラして眠れないのも俺だけ。
全部俺だけの、一方通行だ。
双子だから向き合わないのか?
恋人同士(仮)だった頃もあったのに。
翡翠があの時の事を思い出してくれれば話は早いのに。
「何で全部忘れて転生してくるんだよ、ドジだな」
どうにも翡翠らしい。
「羊でも数えるか」
その夜、煩悩の数だけ俺の頭を羊が占めたのは言うまでもない。
「ミルクレープって自分で作れるんだな」
俺は綺麗な層を作るミルクレープの断面を見て感嘆の息を漏らす。
ドリームキャッチャーは悲惨な姿になっていたが、それに比べたらミルクレープは割とまともな姿になっている。
いや、比べる相手が悪かったか。
「お茶の子さいさいですよ」
今どきのJKがドヤ顔で『お茶の子さいさい』とか言うか?
──推せる。
俺がフォークを使って切断したミルクレープを口に頬張ると、ガチンと硬質な何かが奥歯にぶつかった。
「えっ、なんか」
「あぁ、当たりですね」
翡翠がこちらを見て微笑ましそうにしている。
「なんだ?」
俺はテーブル上の箱ティッシュからティッシュを何枚か取り出すと、それを口元に当てて硬質な何かを吐き出す。
「コイン?」
それは綺麗に磨かれた小さなコインだった。
歯でも折れたかと思ったわ。
なんか既視感があるぞ。デジャヴュか?
これは確か、料理好きのユリがやっていた『幸運のコイン』てやつか。
ユリの死後、皆で食べたケーキから全員分のコインが出てきたってあれだ。
ドリームキャッチャーもそうだが、翡翠はこれらの事象を前世の記憶無しで無意識に辿っているのか?
だとしたら、俺の事も無意識に意識したりもしないだろうか?
「オニイサン、ツイてますね。自分のケーキからコインが出てきた人は、なんと、びっくり、まさかの、出てきたコインが貰えるんですねぇ」
なんでそんな期待を高めるようにためた?
「そもそもの意味が、金持ちになれるとかいうのだろ?ジュースも買えん」
俺はそのコインを指で弾いて天井高くまで飛ばしてはキャッチしての動作を繰り返す。
「そうですね、本来は指輪や指ぬき、ボタンも入れるみたいですけど、それぞれ意味が違うんだそうですよ」
「指ぬきにボタンなんて、嫌がらせかなんかか?」
一時期流行った『異物混入』てやつだろ。
「なんて事を言うんですか、それらが当たった人は一生独身というちゃんとした意味があるんですから」
いや、嫌がらせやん。
「じゃあ指輪は?」
「近々結婚の予感て意味ですよ。でも高校生の私達には関係ないと思ったので入れませんでした」
「あぁ、そう」
前世の翡翠は今くらいの年齢には結婚してたけどな。
結局、前世では翡翠に指輪を渡す事すら出来なかった。
ヴーヴーヴーヴー
ヴーヴーヴーヴー
ヴーヴーヴーヴー
ヴーヴーヴーヴー
「出ないんですか?」
俺の尻ポケットでスマホが唸りだして止まらなくなり、さすがの翡翠も気になっていた。
このしつこさ、間違いなく瑠璃からの着信だと思ったが、それはやっぱりその通りで、取り出したスマホの画面には見知った番号が映し出されている。先に帰宅した俺への抗議の電話と思われた。
「良くない知らせだからいいんだよ」
「親戚に不幸とか?」
「気持ち的には近いけど、全く違う」
「?」
翡翠に、誰からの、どんな内容の要件か等、どれをもっても話すわけにいかず、俺は翡翠の目の前でスマホの電源を切った。
「電源を切ったから問題ない」
「はあ」
翡翠は不審そうにこちらを刮目している。俺は話題を変える為にも翡翠に風呂を促す。
「食べ終わったら先に風呂でも入れよ。その間に片付けして寝床の準備をしておくから」
とは言ったものの、1つ大きな問題がある。
Q、寝床って?
家には客間とか来客用の布団が無い、となると……
1、とりあえず親父臭い親父のベッドに寝かせる?
2、毛布を与えてリビングのソファーで寝かせる?
✕それはちょっと可哀想だ。ここまで来るのに長旅だっただろうし、ちゃんと身体を休ませてあげたい。
3、俺のベッドに寝かせる?
⚠も、勿論、主の俺はリビングのソファーで寝る方向で。
※思春期の娘が父親のタオルとかパンツを差別するように、兄貴の布団も差別するだろうか?
↓そうなったらめっちゃ傷付く。この世の終わりだ。
A、うん、本人に確認しよう。
俺とした事が、とんだ茶番を演じてしまった。
「あのさ、別にどこでどうやって寝てもいんだけど、うち、客間も布団も無くてさ……毛布くらいなら用意は出来るけど、どうする?」
俺は照れ隠しに後頭部を掻きながら尋ねた。
「えっ、あぁと、そうか、物置とか……」
翡翠はチラチラ俺の顔色を伺いながら聞き返す。
「物置は散らかっててカビ臭いけど?」
「じゃあ、ゆくゆくは物置に間借りさせてもらうとして、今日のところはリビングのソファーで寝かせてもらっていいですか?」
「疲れるだろ、暫くは俺がリビングで寝るから、お前が俺のベッドで寝ろよ」
「いえいえいえ、申し訳無くて眠れませんから、ソファーで寝かせてください」
翡翠は滅相もございませんと自身の胸の前で両手を激しく振った。
謙虚というか、他人行儀だな。
「まあ、いいならいいけど」
「どうぞお構いなく。では、先にお湯をもらいますね」
俺は、そう言って席を立った翡翠を思わず呼び止めていた。
「なあ、双子なんだから敬──」
──語は無しでいいんじゃないか?
なんて言おうとして、俺はふと昨夜観たエロ動画を思い出す。あれは、そう、男性教師と女子生徒が体育倉庫で跳び箱を使って致すという教養高い設定なのだが、女子生徒がもれなく敬語を使っていて、男性教師に激しく穿たれながらも女子生徒が敬語で制止する様が何ともいじましくて翡翠を彷彿とさせていた。
敬語、悪くない。
「なんでもない」
「は?」
翡翠は呆気にとられた顔をしていたが、俺は自身の征服欲を優先した。
それに、翡翠の敬語を聞いていると昔(前世)に戻ったような気になれる。
「変なオニイサンですね。じゃあお風呂に入りますけど、いくら双子と言っても決して覗かないでくださいね」
多分、翡翠は冗談のつもりでそう発言したのだろうが……
「覗くか」
──もしれない。何故なら俺は高校生。やりたい盛りの煩悩男子だ。翡翠の未発達な裸なんか、見たいに決まっている。どこもかしこも前世と同じなのか、この目で確かめたい。
「決して覗かないでくださいね」
翡翠の強めの念押し、鶴の恩返しか。
翡翠はとっとと風呂場へ行ってしまい、俺はチャキチャキとテーブル上を片付け、洗い物をしていて大変な事に気付いてしまう。
あれ、翡翠、着換えとかタオル持ってってなくね?
身一つで行ったよな?
あいつ、裸一貫で出て来るつもりか?
これは大変だ。由々しき事態だ、直ちに俺が着換えとタオルを持って行ってやらないと、翡翠が困る。
俺は仕方なく、誠に遺憾だが仕方なく自分のシャツと学校の短パン、バスタオルを持って迷わず脱衣所の扉を開けた。
因みにこの行動は俺の単なる親切心からで、特に他意はない。もう一度言う、他意は無いのだ。
せめて風呂場の摺りガラスに翡翠の裸体でも映し出されねーかな。
他意は無いが、邪な気持ちは少なからずあるはある。
「翡──」
『翡翠』と呼ぼうとして、風呂場から拙い水音と鼻を啜る音がして、俺は息を潜めた。
「ぅっ、ぅぅっ……」
息を詰めて泣く翡翠の声がする。
泣いてる?
翡翠がずっと元気そうに振る舞っていたのは、ただ俺に弱いところを見せたくなくて虚勢を張っていただけだったのか。
俺は先刻までの邪な自分に無性腹が立ち、ラックに着換えとタオルを掛けると、黙ってその場を立ち去った。
俺は前世ぶりに翡翠に会えて浮かれていたけれど、翡翠はまだ喪中の最中だった。無神経な事をした。こんな時、寄り添って肩でも抱いてやれればいいのに、翡翠はそれを良しとしない。それどころか俺に隠れて涙を流すなんて、見守る事も許されていない感じがする。
「せめて、翡翠が楽しく暮らせるよう、サポートするしかないか」
具体的にどうとは言えないものの、優しくしてやろう。助平心は無しだ。
しかし俺が改心している所に現れたのは、目を赤く腫らし、ブカブカの『彼シャツ』を着た翡翠。よれた襟首から肌色の下着のような物が見え隠れし、制服のスカートよりも短い裾からは細いのにムッチリした色白の太腿がモジモジと摺合わせられている。
肌色の、スポブラ……
それはさておき、これはもう……
彼氏の家にお泊りに来た彼女じゃないか。
あまり深く考えずに着換えをチョイスしてしまったのが、結果、俺を苦しめる事になるなんて。この先、共同生活、大丈夫か?
「あぁっと、悪い」
見る事が罪のように感じられて、俺はつい謝って翡翠に背中を向けた。
直視したらヤバい事になりそうだ。
「ふ、双子なのに、兄妹なのにそんな態度をとられると気まずくなるじゃあないですか。そりゃ着換えを忘れた私が悪いですけど……」
だったらガン見しろって言うのか?
双子の妹相手にズボンにテントを張れと?
前世の記憶も無いお前はそんな滑稽な俺を見て軽蔑するだろうさ。
とは言え俺は、窓ガラス越しに翡翠の様子を窺ってしまう。
そう言うお前だって、恥ずかしそうに両手で裾を引っ張ってるじゃないか。
「パジャマ的なの自体、間違って処分してしまいました……慣れないうちはお互い気恥ずかしいと思うんで、何かお借りしてもいいですか?」
「悪い。慣れるから、とりあえず今は俺の部屋のクローゼットから適当にズボン選んで」
俺が自分の部屋を指差すと、翡翠はそそくさとズボンを取りに行く。
「はあ」
俺は片目を押さえ、興奮をやり過ごすように深く息を吐いた。
ヤバかった。衝撃映像だ。心臓に悪い。
翡翠は悲しみの渦中にいるんだ、エロい目で見てどうする。温かい目で見てやらないと可哀想だ。
「兄失格だな」
そもそも翡翠の兄に甘んじようとは思っていないが、体裁の上では良き兄でいないと翡翠に嫌われる。
「初日でこれかよ」
前途多難だ。
「出来ました」
翡翠が戻って来ると、彼女は先程のルックに俺のスェットのズボンをダボダボに履いていた。
「これはこれで……」
なかなか。
「ではお借りしますね」
「それはそれでやるよ。後は休みの日にでも足りない服とか色々買いに行こう」
「あっ、ありがとうございます。じゃあ、バイトを見つけてからでもいいですか?」
「バイト?そんなのしなくても、お前も親父の子供なんだから家の生活費から出すって」
自分で言っておいてなんだが、まるですねかじりの口振りだな。だがくれぐれも言っておきたいのは、生活必需品以外で欲しい物があれば、小遣いで足りない分はちゃんとバイトして買っている。何なら翡翠を養う為に大学も諦めて今すぐにでも就職したいと思っている。
「いや、だって、いきなりこんなデカい子供がお父さ~んて来ても、はなから自分の子供とは思えないと思います。しかも留守ですし」
「今の家長は俺だから、俺がいいと言ったらいいんだ。何なら去年俺がバイトして貯めた金で買ってやるけど?誕生日プレゼントだと思ってさ」
それにバイトなんて、俺の目の届かない所でコミュニティを作られては心配で堪らない。それに翡翠はドジだし。
「私が嫌なんです。逆に気を遣いたくないから、やらせてください」
そんな言われ方をしたらこっちが却下し辛いじゃないか。相変わらず意固地だな。
「……俺が養うって言っても?」
「は?」
翡翠がさも『今、なんて?』という表情をしたので、俺は急ハンドルで話の方向転換を図った。
「いや、忘れてくれ。ただ、家に気は遣ってくれるな。生活費はこれまで通り親父もちだから」
俺って奴はゲンキンだ。
翡翠に嫌われるよりはましだけど。
「はいっ!」
翡翠は小学生の如く元気に返事をする。
「……」
頭、ポンポンしたいな。
俺は翡翠の綺麗な旋毛に釘付けだ。
「じゃ、じゃあ、テレビでも観ますかぁ、タッハー」
翡翠はぎこちなくそう笑うと、ぎこちない動きでソファーの端に座ってテーブル上のリモコンでテレビを着ける。
初めて会う生き別れの兄に緊張しているのか、話す事が無くて気まずいのか、又はその両方か、翡翠の肩に力が入っているように見えて尊い。
かわいいなあ。
「お前、疲れてないのか?毛布ならすぐ持って来るけど?」
まあ、寝るには早いけど。
「ギラギラのバッキバキですよ!何なら今夜はオールで!」
翡翠は鼻息も荒く目を見開いて右手の拳を大きく振り上げた。
ラオーかな。
「オールはやめなさい。どうしても見逃せない番組でもあるの?」
「はいっ!まさにこれですっ」
と、いちいち語彙に力が入っている所が面白い。
ここは軍隊か。
翡翠が指したテレビを覗くとちょうど心霊番組をやっていて、心霊写真特集が始まろうとしていた。
「オカルト好きだっけ?いや、好きなの?」
前世ではそんな素振り見せなかったけど、大丈夫かな?
俺が心配して翡翠の顔色を窺うと、彼女は青い顔をしてゴクリと生唾を飲んでいた。
こりゃ適当言ったな。
まあ、付き合ってやるけど。
「今、飲み物とつまみ持って来るから、先に観てて」
「えっ⁉」
俺がキッチンに行く素振りを見せると、翡翠は縋るような視線でこちらを見上げてきた。
『え……行っちゃうの?』
そんな風に顔に書かれている。
あぁ……
「すぐ戻るよ」
俺は翡翠が可哀想になり、最速でつまみと飲み物を用意して戻る。そして戻ってみれば、翡翠は両手で顔を覆って上体をくの字に曲げて震えながら何かに耐えていた。
ハムスターの心臓だな。
「あっは」
俺は小さく失笑して翡翠の耳に冷えたグラスを押し当てる。
「∆¤‼±⁇∆†§℉℃¢€·\×÷π‰®€©!!!!!!」
翡翠は盛大に驚嘆し、諸手を挙げてソファーからずり落ちそうになっていた。
「そんなに驚かなくても……ほら、喉が乾いただろ?飲め飲め」
俺はコーラの入ったグラスを翡翠に渡し、残りのつまみやグラスをテーブルに置く。
「ナ、ナンダ、オニイサンでしたか……」
翡翠は乱れた呼吸を整え、グラスに口を付ける。
「他に誰が居るって言うんだよ」
俺は笑いを堪え、気を遣って翡翠と離れてソファーの端に座った。
「え、オニイサン、なんでそんな離れて座るんですか?」
「え、いや、だって……」
さっきは自分から距離をとっていたじゃないか。
「ま、まあ、それはいいとして」
いいのかよ。
「そんなに怖かったら違うの観たら?」
「いえ、いいんです。そもそも信じてませんから」
じゃあ逆になんで観てる?
「オニイサンは怖いの得意ですか?」
「得意ってか、俺も信じてないから、全然なんとも思わない」
正直、クラッカーのがこえーよ。
「そうですよね、こんなの全部CGですよね、タッハー」
とか言う割、グラスを持つ手が震えてるじゃあないか。
本当に大丈夫か?
夜にオネショとかするんじゃないだろうな?
「……」
「……」
二人並んでテレビを観ていると、パキッとか、カチッとかラップ音にも似たような騒音がしてきた。
「い、今の、ラップ音ですよね?」
翡翠が紙の様に白い顔をしてこちらを見た。
「んー、家鳴りだろ?いつも聞こえるけど気にした事ない」
「家鳴りって、木造ならまだしも、ここ鉄筋コンクリートですよね?」
「そういやそうだな」
俺は乾物をつまみながら片手間程度に答える。
「そういやって……あの、失礼ですがここって事故物件とかじゃ……」
「え、さあ?」
俺はコーラを飲みながら気のない返事をした。
「ちょっ……と、調べてみていい、ですか?」
「ん?いいけど」
翡翠がビクビクしながらスマホを取り出し、震える手で画面をタップしていく。
大丈夫か?
「っ!!!!!!」
タップする翡翠の手が止まり、彼女は愕然として口元に手を当てた。
「そんな、まさか、嘘だ……信じられない……」
だから言わんこっちゃない。
「大丈夫だって」
翡翠が何を見たかは知らない、が、俺が付いているから何も心配する事はないだろう。
「オニイサン、あのっ、あのっ!!」
翡翠は目を白黒させ、言いたいけど言えないって感じで口をパクパクさせていた。
雛鳥みたいだなあ。
俺はそんな翡翠を見て呑気にそんな事を思う。
「どうしたー?」
「®@#%_/‰¤π±※№∆€£√µ」
俺が尋ねると、翡翠は声にならない声で手振り身振りをして一生懸命何かを伝えようとしてくる。
とんでもない情報を見つけてしまったってのは凄いよく伝わった。
「なんだよ、ここで腐乱死体でも発見されたのか?」
「い、いいえ、ま、まっさかー」
翡翠が口元を引きつらせて笑った様を見ると図星だったのだろう。けれど俺が怖がるといけないと思って咄嗟に嘘をついたってとこだ。
お前の様子で全てを察したけどな。バレバレじゃないか、馬鹿だな、俺は全然怖くないのに。お前の方が気の毒なくらい怖がってるじゃないか。可哀想に、もはや涙目だ。
そして翡翠はえらく喉が乾いたのかコーラを一気飲みしている。
「怖いのを観てそんなに飲んだらオネショするだろ」
「大丈夫です……恐らく……」
全然自信無いじゃん……
そんなこんなで二人でテレビを観ていると『おわかりいただけただろうか』というテロップが入り、心霊映像がスロー再生され、廃墟で人影の様なものが横切る様子が映し出された。
「どぁっっ!!!!!!!!!!」
どぁっっ?
俺が色気の無い悲鳴だと思って翡翠を見ると、彼女がいきなり俺の腰目掛けてタックルしてきた。
「どぁっっ‼」
翡翠の予想外の行動に俺の方こそ変な声が出る。
「どうしたどうした?」
双子同士でどうとか言ってたのはどうなった?
「い、今、影が……」
「ん?大丈夫大丈夫、あれはやらせだよ」
震えながら必死でしがみついてくる翡翠が可哀想ではあったが、俺はそんな翡翠が可愛すぎてどさくさ紛れに彼女の背中を優しくさする。
「どぁっ!!!!!!」
「イテッ、今度はなんだよ」
何かを思い出した様に翡翠に突き飛ばされ、俺は手にしていたグラスの中身を溢しそうになった。
「あっ、あはぁ、すみません、我を失ってました」
翡翠は照れ笑いをしながらペコペコと俺に頭を下げている。
「忙しい奴だな。じゃあ、俺は風呂に入るから」
俺がそう言うと、翡翠は途端に元気を無くしてショボンとしだした。
「あ、はい……」
「ん?」
俺が翡翠の顔を覗き込むと、彼女は肩を落としながら部屋の隅に置いた自分のリュックをゴソゴソして洗面具や歯ブラシを取り出す。
俺は俺で干していた着換えやタオルを持って風呂場へ行こうとすると、翡翠もその後を付いて脱衣所に入ろうとする。
「どした?一緒に入るのか?」
おおかた、一人でいるのが怖いのだろう。
俺は冗談のつもりでそう尋ねていたが、翡翠は『置いていかないで』と目で訴えてくる。
風呂場の外には脱衣所兼洗面所があるが、翡翠は風呂場にまで付いて来そうな勢いだった。
え、俺が体を洗うとこを見てるって言うのか?
それはさすがに……
「大丈夫だって、すぐ隣に俺がいるんだから、安心して顔洗って歯磨きしろ」
「でも、お湯でパシャパシャして洗顔した後、顔を上げたら鏡に女が映ってるって、よくある話じゃないですか」
「ホラー映画の中の話な。現実にはありえない」
「でも……もし……」
翡翠は黙って首を横に振った。顎に皺が寄る程横に引き結んだ口が愛おしい。
「じゃあ、風呂場の戸を開けておく。それならいいだろ?」
翡翠はようやく首を縦に振る。
「よし、良い子だな」
俺が翡翠可愛さに彼女の頭をポンポンしようとすると、それをスンとかわされた。
おい。
「こ、子供扱いしないで下さい」
翡翠なりにプライドがあるのか。
俺は苦笑して翡翠に背を向けた。
「翡翠扱いしたんだよ」
前世ではよく翡翠の頭をポンポンしてこっちが癒やされたもんだけどな。
「?」
「俺が脱いでる間に顔洗ったら?」
「あっ、はいっ」
俺が言いながらシャツを脱ぎ始めると、翡翠は慌てて洗面所で洗面の準備を始める。
「ちゃんと肩まで浸かって100まで数えてくださいね~」
「おい、子供扱いするな」
「プクク……」
翡翠はさっきまでこの世の終わりみたいに怯えていたのに、今は少し気が大きくなって冗談まで言えるようになったらしい。
すぐに翡翠が顔を洗う水音がして、俺は俺でいつも通り体を洗い始める。
このシチュエーション、変な感じだ。
そういや指南の時に翡翠が俺の裸を見て『鬼ーーーーーーーーっ!!!!!!』って悲鳴をあげていたけど、それは今も変わらないんだろうな。
……男の体を見慣れてるって事はないよな?
俺の、体を洗う手が一瞬止まる。
翡翠はウブなままだよな?
日本と海外、どっちのが進んでるんだっけ?
18だと性的な事を経験していてもおかしくないが、まさか、翡翠に限ってそんな事は無いよな?
向こうで彼氏とか……
うわ、心霊番組より怖い。
海外じゃ、日本女性はモテるそうだし、翡翠は童顔だけど顔の造り自体は綺麗だから声はかけられたはずだ。
「……」
聞いたらセクハラになるか、嫌われるか?
まさかな……
俺は気を取り直して体を洗い流し、湯船に浸かる。勿論、肩まで浸かり、煩悩を打ち消すみたいに無心で100数えた。
シャコシャコ……
洗面所から翡翠が歯を磨く音がする。
男二人暮らしで一人は嫌いじゃなかったが、こうして翡翠の生活音を聞いていると、前世の楽しかった同棲生活を思い出す。あの頃は良かったなあ。当たり前にお互いがいて、毎日同じ話題を共有していた。
また、そんな風になれればいいけど。
「オニイサン、出来ましたー」
出来ましたーって。
風呂場に翡翠の元気な声だけが届き、俺は湯船から上がってタオルで体の水滴を拭いていく。
一応、腰にタオルを巻いて風呂場から出ると、翡翠が背を向けて両手で顔を覆っていた。
「何してんの?」
そりゃ見当はつくけど、何て入念なんだ。そんなに俺の裸が見たくないのか?
別に変態じゃないんだからわざわざ見せたりもしないけど。
「マナーです、マナー」
「あっそう」
俺はタオルを取り払い、下から順に服を着ていく。
衣擦れの音と、何故か翡翠のハァハァする吐息の音がして現場はとてもシュールな空気となっている。
なんでハァハァしてる?
気になる。
「見たいなら見たら?」
俺は半裸の状態で翡翠の背中に問い掛けた。
「だ、誰が双子の兄の裸を見たいもんですか!ゾッとします」
そこまで言わんでも……
「だったら何でハァハァしてる?」
「え、だって、後ろで人が恥ずかしそうに生着替えをしていると思ったら、なんか……ゴクリ」
生唾を飲むな、生唾を。
翡翠の方こそ恥ずかしそうに声を潜め、耳まで赤くしている。
「俺は別に恥ずかしくないし」
翡翠、お前、変態だな。
「双子の兄相手に恥ずかしがる方が変なんじゃないの?」
「お、おっしゃる通りです」
お、認めた。
「じゃあ普通にしてたら?」
「じゃあ、見ますよ?いいんですね?本当にいいんですね?体中蜂の巣になるくらい、穴が開く程ガン見しますよ?今更恥ずかしがっても無駄ですよ?ファイナルアンサー?」
「はいはい。ファイナルアンサー(苦笑)」
俺が普通にシャツを頭から被り、それに袖を通していると、翡翠が目を閉じたまま勢いよくこちらを振り返った。
「意気地なしだな(笑)心配すんな、もう服を着てる。さあさ、俺も歯を磨くからそこを退いて」
俺は『シッシッ』と翡翠を脇に追いやり、洗面台の前に立って歯磨きを始める。
「やっぱり、双子の兄の裸は見るべきじゃないと思うんですよ」
「ナンデ?」
「小さかったらどうするんですか。ゴーヤみたいにボコボコしてたり、真珠なんか入ってたら……」
俺は歯磨き粉の泡を吹き出すかと思った。
斜め過ぎる発想だ。
「余計な心配をするな。小さくもないし、真珠も入れるか、んなもん」
俺の裸を見ても同じ事が言えるのか?
いっそ見せつけてやれば良かった。
シャコシャコシャコ……
歯と歯茎の境目、八重歯の段差、奥歯の窪み等を丁寧に歯ブラシで磨いていると、いきなり後ろから翡翠の両手が伸ばされ、俺の腰に添えられた。
なんだ?
「電車ごっこか?」
「当たらずも遠からずです。気にしないでどうぞ続けて下さい」
当たらずも遠からず?
よく解らないが悪い気はしない。俺から率先して触れない分、こうして向こうからきてくれるのはとても嬉しい。
俺は口内を濯ぎ、後ろにぴったりと翡翠がいるにもかかわらず容赦なく濡髪にドライヤーをかけると、彼女は目を細めてその温風に耐えていた。
面白いなあ。
「終わった。じゃあ寝るぞ」
俺が脱衣所から出ると、腰にくっついている翡翠も必然的に出て来る。
ドラ○エみたいだな。怖いのか、どこまで付いて来る気だ?
いいのか?
このまま行くと……
俺がそのまま自室に入ると、やはり翡翠も一緒に入室する。俺が足を止め部屋の電気を点けると、翡翠は慣性の法則で俺の背中にモロにぶつかり、一瞬、背中と腰の中間地点にマシュマロみたいなポヨンとした感触がした。
あっ……
俺はちょっとギクッとして左手を腰に当て、右手で口元を押さえる。
これはあれだ、そう、あれだな。
いや、あまり深く考えるのは良くない。だってここは俺の寝室で、当然ベッドがある。だから翡翠の胸にある釣り鐘型の丘陵の事は考えては駄目だ。
そう、あれは単なる軟らかい丘陵。
「……」
「オニイサン?」
──思ってたよりあるな。
ん?
そうじゃなくて、あぁ、翡翠は毛布を取りに来たのか。
──そう思い、俺がクローゼットの一番上の棚から毛布を何枚か取り出し、それを翡翠に渡そうとするが、何ぶん腰に引っ付いている為、パス出来ない。後ろを振り返ろうにも、翡翠もまた一緒に動くのでぐるぐる回ってしまう。
コントか。
「おーい、どしたー?」
俺が立ち止まり、天井に向かって問い掛けると、背中に翡翠のおでこが押し付けられた感触がした。
あぁ、これは多分……
「怖いの?」
コクン、と翡翠のおでこが僅かに動く。
なるほど、一人でリビングで寝るのが怖くて俺に引っ付いて来たのか。しかも素直に怖いって言えなかったんだろうなぁ。
堪らないな。
「別に怖かったら怖かったで堂々と俺に甘えていいんだぞ?今日は俺が床で寝るから、お前は俺のベッドを使うといい」
「いえいえ、そんな訳にはいきません。私は居候の身ですから、床で充分です」
「居候じゃなくて、家族、な」
「でも……」
「床は硬いから、男が下に寝るべきだろ?」
「でも……」
それでも翡翠が遠慮するので、俺は冗談半分、本音7割で尋ねる。
「だったら同じベッドで一緒に寝るか?」
「え、それはちょっと」
冗談だよ、傷付くだろ……
「……だろ?大人しく言うことをきけ」
「はい」
「それと、引っ付いてたら各々寝れないだろ?」
と言うと翡翠は、自分が双子の兄に引っ付いたままであった事に改めて気付き、パッと手を離しておずおずと俺のベッドによじ登った。
俺は床にクッションを2つ並べ、その上に毛布を羽織って横になる。
「定位置についたかー?ベッドヘッドのとこにシーリングライトのリモコンがあるから、そっちで消灯して」
「あっ、はい」
翡翠の返答の後、部屋の明かりが消された。
今夜は新月か、二箇所ある窓から月明かりは殆ど差さない。
カサカサカサカサ……
何の音だ?
ゴキブリみたいな音がするな、暗くて見えないけど翡翠か?
ザッザッザッザッ
小動物が巣穴でも掘ってんのか?
ボリボリボリボリ
これは明らかに背中でも掻いてるだろ。
スヤスヤ……
おお、静まった。今までのは何だったんだ?
「ぐぅ……ぐぅ……」
翡翠の寝返りの音や吐息がリアルに耳に届く。
寝たのか。
やっぱり疲れてたんだな。
俺の方はというと、バッキバキだ。
翡翠が気になって眠れない。
どんな顔をして寝ているのか確認したい。
ハムスターみたいに丸くなって寝ていそうだ。翡翠は元々寝相のいい方ではなかったから、ちゃんと布団を着ているだろうか?
腹でも出していたら風邪をひく。
新月のせいでまるで何も見えないのが逆に想像を掻き立てて俺の睡眠を妨げる。
こいつ、よく、初対面の男の隣で爆睡出来るな。神経が干瓢くらいあるんじゃないか?
実の兄妹だからって安心しきってるだろ。
そのくせ俺が近付くと警戒するくせに、よくわからん。
俺に対する翡翠の認識って何なんだろう?
まずはガッチガチの固定観念で『あれは実の兄だ』と翡翠の中でインプットされ、そこから『実の兄とは過剰なスキンシップをしてはいけない』と一般常識にとらわれ、それに反比例して『実の兄相手に変に意識するのはおかしい』という結論に至って今に至るようだ。
ややこしいな。
警戒されてるんだか、されてないんだか……
どうしたもんか。
何で双子になんか転生してしまったのか、神様が憎い。
俺は翡翠と先に進みたいと思っているが、いざ翡翠と両思いになった時、果たして俺らは肉体的にも物理的にも結ばれていいのだろうか?
その時になったら、俺はどんな選択をするのか?
「スヨスヨ……」
「なんだよ、悩んでるのは俺だけかよ」
いらぬ心配だったか。
翡翠は俺の事なんか気にもとめちゃいない。今はまだ、さながら単なるルームメイトだ。
並んで寝ていて隣を気にするのは俺だけ。寝顔を眺めたいとか、頬を撫ぜてやりたいと思うのも俺だけ。
キスしたいと思うのも俺だけ。
ムラムラして眠れないのも俺だけ。
全部俺だけの、一方通行だ。
双子だから向き合わないのか?
恋人同士(仮)だった頃もあったのに。
翡翠があの時の事を思い出してくれれば話は早いのに。
「何で全部忘れて転生してくるんだよ、ドジだな」
どうにも翡翠らしい。
「羊でも数えるか」
その夜、煩悩の数だけ俺の頭を羊が占めたのは言うまでもない。
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