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幸せな日々

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 カザンに救われた命は、今度は杉山さんによって救われ、それから私はそっと記憶の蓋を閉じ、それを上書きした。

 3ヶ月にも渡って暴行された凄惨な記憶、あれは私が経験した記憶じゃない。カザンの記憶だ、と。

 しかし終戦後の平和な生活によって彼自身の事も忘れていた。

「エデン?」
 目を開けると心配そうに覗き込む杉山さんの顔が──
「大丈夫?痛かった?気を失って、凄く魘されていたけど……怖い夢でも見てた?それとも何か……」
 杉山さんは選び選び言葉を紡ぎ、私の肩に触れるか触れないかのところで両手を彷徨わせる。
「……最中にすみません、最後まで出来ましたか?」
 私事に杉山さんを巻き込むのは可哀想だと思った。
「またそんな事、今度はもうしないよ。ごめんね、その……嫌な事を思い出させたかもしれない。もう2度とこんな事はしないから」
 心配で身を焦がす杉山さんの様子を見て、彼は私があの半地下のシェルターで何をされてきたか察しているのだろうと思った。
「大丈夫です、大丈夫なんです。全部、大丈夫になったんです。あれは私が経験した事じゃないですから」
「お前は……退院して帰って来た時もそんな事を言っていたな。記憶も曖昧で……」
 杉山さんは私を憐れむ様に、壊れ物にでも触れる様に私の頬を撫でた。
 冷たい指先が心地良い。
「……」
「いや、お前はもう、俺の側にいてくれるだけでいい。欲を出した俺が悪かった。凄く後悔してる」
 私は杉山さんにこんな事を言わせたい訳じゃないのに。
「私は杉山さんの事が好きです。好きだから側にいたいし、触れられたいし、抱かれて幸せを噛み締めたいんです」
「エデン……」
「杉山さん、私を助けてくれてありがとうございます。悪夢から目覚めさせてくれてありがとう」
 私が腐った肉を吐き出し、もう駄目だと床に突っ伏した時、真っ暗な半地下に細い光が差し、それがスローモーションの様に広がり真っ白なシェパードを従えた杉山さんが見え、私は魂ごと彼に救われたような気さえした。
「私をあすこから救い出してくれたのは神でも仏でも、ましてや両親でもなく、杉山さんとその犬でした。私だけが不幸じゃないし、私より不幸な末路を辿った人も沢山いた、杉山さんが救って面倒を見ている退役少年兵だって他にもいるのに、杉山さんは私を選んでくれた。私は凄く幸運で、幸せです」
 後から聞いた話だけれど、軍は私達捕虜を見捨てる方針でいたところを杉山さんが有志を募って捜索してくれたのだという。ましてや杉山さんは軍の参謀で直接戦地に赴く必要の無い人間なのに、だ。
 私は杉山さんの手の上から自身の手を重ね、身を乗り出して彼にキスをする。
「エデン、戻って来てくれてありがとう。凄く愛してる」
 そして2人で見つめ合った後、私達はもう一度キスをした。
「犬小屋を作ろう。2人で犬小屋を作って白いシェパードを飼おう」
「杉山さんが従えてたシェパードは?」
 あの凛々しい犬は真っ白で目が青くて、まるで神の使いか何かに見えたものだ。
「あの子は他部隊から借りた1番優秀な犬さ。エデンのもとに導いてくれた」
 杉山さんは私をベッドに寝かしつけ、甲斐甲斐しく肩まで布団を掛けてくれる。
「そうですか、白いシェパード、飼ってみたいです」
『子供を沢山作ってサッカーをやろう』と言わないところが優男の杉山さんらしい。
 幸せだ。
 生きてて良かった。
 この幸せは不幸を全て背負ってくれたカザンの経験の上に成り立っている。だからこそ私は、今のこの幸せが自分の経験であると意識的に認識する事にした。
 万里の死は決して忘れないけれど、氷朱鷺の事もこのまま全て忘れてしまおう。
「少し休んでからシャワーをすると良い。昼は俺が用意するから。体がしんどかったらベッドで食べてもいい」
 そう言って杉山さんはポンポンとリズミカルに私の肩を軽く叩き、立ち上がる。
「私、病人じゃないですよ。単に初夜をしたってだけなのに大袈裟ですね」
「そうだったな」
 なんて彼は砕けた様に笑ったが、どうやら杉山さん、彼は恋人の世話を焼くのが好きな世話好きさんだったらしく、その後も私を病人の如く手厚くサポートしてくれた。
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