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花火大会1

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『ねぇ、エデン、今度市街地で花火大会があるからお忍びで行ってみない?』
 そう言った氷朱鷺の顔は、昔一緒にピクニックへ行った時のあの顔に似て遠足を心待ちにする子供のようだった。
「あの……」
 私は二の句が継げられなくて明らかに動揺してしまう。
 なんて言ったらいい?
 まさか氷朱鷺の方から花火大会に誘ってくるなんて予想もしていなかった。
 モヤモヤしてずっと言い出せなかったものを向こうから切り出してくれるなんて千載一遇のチャンスだけど、これを承諾したら杉山さんから提案された氷朱鷺暗殺計画を容認したも同じ。よって氷朱鷺が暗殺されてしまう。
 私は本当にそれでいいのか?
 万里の復讐は勿論したい。でも氷朱鷺を殺すのが氷朱鷺への復讐になるのか疑問じゃないか。
 私はただ、もう氷朱鷺のいない所で静かに暮らせたらそれでいいのだけれど、自由になるには氷朱鷺を殺さなければならない。
「どうしたの?」
「いや、その……」
 少し前までは殺したい程氷朱鷺を憎んでいたのに、いざとなると彼を殺す事に躊躇いを覚えるなんて、やっぱり私は氷朱鷺を心から憎めずにいるのだ。
「長くケージに閉じ込められてた動物ってさ、ケージの扉を開けてもなかなか外に出ようとしないらしいよ。寧ろ外の世界を怖がるとか」
 は?
「なにそれ」
「いや、そういう気分なのかなって」
「監禁されてまだそんなに経ってないでしょ」
「監禁て言われるとなんだかなあ……」
 氷朱鷺は心外そうにしているけど、これが監禁でなければなんなんだ、と思う。
「それで、あまり乗り気じゃなさそうだけど、つまり俺とは行きたくないって事?」
 こういう時に限って氷朱鷺が傷付いた仔犬の様な顔をするものだから、私は尚更言葉に詰まる。
「そんなんじゃなくて、ただ……」
「ただ?」
 先を促す様に氷朱鷺から見つめられ、私は後ろめたくて視線を逸らした。
「……少しでもエデンが元気になればって思ったんだけど、時期尚早だったかな?」
 この、無駄に良心に訴えかけてくる感じが地味に効いてくる。
 ……いや、待て、誰のせいだよ。
 どうする?
 自由になれるチャンスだ。
「……」

「行ってきたらいいじゃないか」

 私がだんまりしていると、いきなり杉山さんが部屋に入って来た。
「杉山さん……」
『私に氷朱鷺を見殺しにしろと?』という風に私は杉山さんに目配せする。
「それでエデンが元気になるなら、俺は大腕を振って送り出すけど?」
 杉山さんからはただただ緊張感の無いウインクが返されただけだ。
 えぇ……
「ドアにコップでも押し当てて聞き耳でもたててたんですか?」
 氷朱鷺は辟易とした様に腰に手を当てて目を細める。
「まあ、そんなとこ。調教師は献上品の監視も仕事のうちだろ?」
 なんて言いながら杉山さんは後ろから私の両肩をポンポンと叩いた。
 人ひとり殺そうというのに軽いな。これも戦争の弊害か。
 ──いや、あれだけの財力があれば裏社会とも繋がっているだろうし、何人かは闇に葬り去っていてもおかしくない。本人がのほほんとしているだけで周りはかたぎじゃない可能性も。
「杉山さんてストーカー気質だよね」
 めっちゃハッキリ言うじゃん。
「お前程じゃないけどな。心配するな、花火大会当日は尾行したりしないから」
 そう言って杉山さんは氷朱鷺に向けてヒラヒラと手を振った。
「俺にエデンを託すなんて珍しいですね」
 ギクリ、そんな擬音が響いてきそうな程       私の心臓は飛び跳ねた。
「根本的なとこ、悪いようにはしないだろ?」
『エデンにだけは』と杉山さんが付け加えたのは、暗に氷朱鷺が『万里』を死に追いやった事を皮肉っている。それが分かるからこそ氷朱鷺は私達に背を向けて話した。
「そうですね、杉山さんさえ来なかったらエデンも平穏無事に過ごせますから」
 氷朱鷺の奴、万里への仕打ちを後悔している様だったし、私に対しても少なからず後ろ暗いと思っているのか。
「お前さえいなかったらエデンどころか万里も今頃は平穏無事に暮らしてたのにな」
 杉山さんが私怨をぶつける様にそう言葉を吐くと、氷朱鷺の背中が一瞬で緊張感を纏った。
 でも一番殺気立ったのは私自身だ。

『氷朱鷺さえいなかったら万里は──』

 気付いてはいけない事に気付かされた瞬間だった。
 いや、寧ろ、杉山さんがわざと気後れする私に復讐の気持ちを思い出させたのだろう。
 杉山さんは本気だ。本気で氷朱鷺を殺す気だ。
 私はどうだ?
 物理的には全然氷朱鷺を殺せる。でも彼を殺したとして、この世から氷朱鷺がいなくなったとして、私はその事にどんな感情を抱くのか全くの未知数だ。後悔するのかせいせいするのか、いっそ氷朱鷺を殺してハッキリさせるべきなのかも。いや、これって本末転倒か?
 じゃあ万里はどうだ?
 万里はもうこの世にはいないけれど、私が氷朱鷺を見殺しにしたらきっと哀しむ。でもこれは、私が深層心理で氷朱鷺を死なせたくないからそのように思い込もうとしているだけの可能性もある。戦場で無差別に人を殺してきたからこそ、いかに相手が弟の仇と言えど人一人消すには冷静になって考えないと。
 冷静に──
 ──そう思うのにさっきの杉山さんからの一石が胸に響いてざわつく。
「エデンだって万里が生きていたら、今度の花火大会は万里と一緒に見れていた筈だろ?」
 杉山さんが焚き付けるように私に言った。
「万里が生きていたら……」
 小さい頃、産まれたての万里を背負って庭で遥か遠くの花火を見ていた事があった。あまりにも花火が小さくて背中の万里には目にも入っていなかったけれど、大きくなったら、これを真下から見せてやりたいと幼心に思った。
 あれは本当に、カビの胞子みたいに小さな花火だったな。

 万里が生きていたら……

 考えないようにしていたけれど、そんな風に思うと万里の死が悔しくて悔しくて今すぐ氷朱鷺の首に手をかけたい衝動に駆られた。


 そして1週間、私は氷朱鷺を殺す覚悟を決める為だけに毎日を過ごした。彼への情を捨てる為に極力会話を避け、視線すら合わせないようにして花火大会当日を迎える。
 私が氷朱鷺を殺す訳じゃない。ただ単に氷朱鷺は物盗りに襲われて不運にも亡くなるだけだ。私は朝からそう幾度となく自分に言い聞かせ、自分を納得させる努力をしていた。
 私は氷朱鷺を見殺しにする訳じゃない。助けないだけ……
 別に自分が罪悪感を感じたくないからそんな事を自身に言い聞かせている訳ではない。氷朱鷺が死ぬのは偶然であり運命で、仕方の無い事だったのだと自分を諦めさせたかったのだ。
 全ては万里の無念を晴らす為に。
「浴衣を用意したんだ」
 夕方、氷朱鷺がタイトパンツに緩いシャツという私服姿で部屋に現れ、持って来た白い浴衣を私に差し出した。
「使用人から浴衣の着付けも習ったから俺に任せてよ」
 氷朱鷺は嬉しそうにそう言って立ち尽くす私の体に浴衣をあてがっている。
「別にいつものシャツとズボンで大丈夫です」
 私はなから花火大会を楽しむつもりなんかないのに。
「せっかくだから浴衣にしようよ。だって俺が見たいんだから。ちょっと短いけど髪もアップにしてさ」
 あまり喜怒哀楽を表に出さない氷朱鷺が珍しく浮足立っていて、それを見ているこっちが哀しくなってくる。
 お前は今日、物盗りに襲われて死ぬっていうのに。
 ズキ……
 胸が痛む。
「……似合わないのでいいです」
 あまり考えないようにしよう。
「大丈夫、似合うのを選んできたんだから」
 自信満々の氷朱鷺は着付けを始めようと私のシャツの裾に手をかけてきた。
 氷朱鷺がいかに花火大会を楽しみにしていたか、考えるとじわじわ罪悪感が込み上げてくる。
 ズキ……
 確かに、浴衣は白地に牡丹が大輪の花を咲かせた見事な物で、きっと仕立ての良い品物に違いないのだろうけど、自分は元々見栄に拘る方では無いし、氷朱鷺襲撃の際にはフットワークが軽い方が良いと思った。
「触らないで下さい」
 私は氷朱鷺の手を振りほどき、彼と距離をおいた。
「触らないと着替えさせられないでしょ?」
「着替えるつもりないですから」
「どうして?」
「どうしてって……浴衣は煩わしいし、面倒臭いですから」
 でもそう言える程、浴衣なんて着た事が無いなと思った。
「花火大会の時くらいいいじゃん」
「着ません」
 こんなに頑なに断ったら逆に怪しまれるか?
「ねえ、エデン」
 今度は氷朱鷺が小首を傾げ、軽く微笑みながら尋ねてきた。
「はい?」
「こないだテレビで観たんだけど」
「はい」
「花火大会のデートで女性が浴衣を着ない理由に、脱がされたら着るのが面倒ってのがあってね」
「はい」
「エデンもそうなのかなあって」
「着ましょう、浴衣」
 そんな風に勘違いされるくらいなら素直に着た方が楽だわ。
「良かった。俺は花火より浴衣姿のエデンが見たかったからさ」
 よくそんな歯の浮くような事が言えるな。一般的に、イケメンじゃなかったらその発言はドン引きされるだろ。
 兎にも角にも私が氷朱鷺から浴衣を引ったくり仕方無く脱衣所でそれに着替えると、氷朱鷺は右手で口元を隠しながらよそよそしい視線を送ってきた。
「何ですか?」
「いや、いざ目の前にすると照れ臭くて直視出来ないなって」
 なんでそっちが照れる?
「そちらは着替えないんですか?」
 そう言えば氷朱鷺の事はなんて呼ぶのが正しかったんだっけ?
 王配だと殿下?氷朱鷺殿下?氷朱鷺王配?氷朱鷺様?貴方様?なんだかこの現代社会ではしっくりこないな。私が献上品なら氷朱鷺は旦那様か?前者よりは自然だけどそれはちょっと嫌だな。まあ、氷朱鷺が王配になってからも全然呼び捨てにしていたけれど。
「俺はエデンの浴衣姿が見れればそれで良かったから、引き立て役に徹するよ」
 氷朱鷺って、策士なところがあるけど愛情表現はド直球なんだよな。
 ……というか、さっきから私は今更何を思っているんだか。
「そうですか」
「免許は取ったんだけど、現地までは側近に送ってもらうからね」
『じゃあ、行こうか』という言葉を合図に氷朱鷺から手を差し出され、私は反射的にその手を握って歩き出してしまったが、コンマ数秒で後悔した。
 手を繋ぐとデート感が半端ない。
 氷朱鷺の奴、たとえ私にGPSを着けたとて手を繋がなければ不安なのだろう。
「温かい……」
 私よりも温かい氷朱鷺の手にその感想を禁じ得なかった。
「ん?そりゃね。俺を血の通わない人間だとでも思ってたの?」
 氷朱鷺がクスリと笑う。
「思ってた」
 氷朱鷺の蝋人形みたいに白くて、ピアニストみたいにスラリと長い指は男にしては綺麗過ぎてどこか作り物のような気がしていたけれど、彼には当たり前に熱があって、やわらかくて、力強さがあって、温もりのある生きた人間なんだ。
「エデンが思うよりずっと、俺は生身の人間なんだけどね」
「……」
 私は戦場で殺してきた人達の体温をこうして感じた事はなかったけれど、ただ何も考えず、家族の生活の為にその体温を奪ってきたんだ。
 子供だった私にはそこまで考える余裕がなかった。殺らなきゃ殺られる、ただそれだけだった。

 そこから私達はエレベーターで地下駐車場へ行き、氷朱鷺の側近が運転する黒塗りの高級車で海に程近い市街地まで向かった。
「人混みを抜けるから、絶対に俺の手を放さないでね」
「はい」
 そうは言っても、下駄は歩きにくくて履き慣れないせいか5分で両足の親指と人差し指の付け根がヒリヒリしてきた。
 他の浴衣姿の女性達が小股で軽快に歩いているのが信じられない。コツでもあるのか?
「足、しんどい?」
 氷朱鷺が遅れ始める私に気付き、歩みを止めて目の前にしゃがんだ。
「すいません、ちょっと慣れなくて」
「無理させてごめんね。おんぶする?」
 氷朱鷺が心配そうに私の足を見つめている。
「浴衣でおんぶなんて現実世界では無理があるかと。ドラマやアニメではよくあるシチュエーションかもしれないですけど、現実では前合わせを開いて股おっ広げでおぶさるなんて晒し者ですよ」
「──下着も着けてないから?」
 顎に手を当てた氷朱鷺の目線が私の股の辺りに移動した。
 露骨に見るな。
「着けてます。だから良いって事でもないですから」
「ふうん」
 確かめるように氷朱鷺の視線が更に私の股に注がれて恥ずかしい。
「歩きます」
 私は氷朱鷺を追い越し、海岸へとズンズン歩き出した。
「待って待って、手」
 私が振り回すようにしていた手を氷朱鷺に捕まえられ、今度はゆっくりとした歩調で彼からリードされる。
「はぐれたら大変だから、絶対に手を放さないでって」
「……」
 はぐれるも何も、この花火大会が終わったら私は氷朱鷺を見殺しにするのに。
 この握っている手も、硬く、冷たくなるんだ、そう思ったら自然と彼と繋ぐ手に力がこもり、勘違いした氷朱鷺が嬉しそうに笑いかけてきた。
「良い心がけだ」
「……」
 そうじゃないのに。
 私が直接氷朱鷺を殺す訳じゃないのに、氷朱鷺は弟の仇なのに、彼は死んで当たり前の人間なのに、なんでこんなに悲しいんだろう?
「大丈夫?抱っこしようか?」
 私の様子を見て氷朱鷺が不安気に尋ねてきた。
「今日はお忍びでしょう?目立ちますよ。新婚の王配様が他の女と浮気していると思われます」
「いいよ、別に。そうしたらこの海を渡って一緒に駆け落ちしよう。無人島でさ、2人だけで幸せに暮らそう」
 氷朱鷺があまりに嬉々として夢見がちな事を言うものだから、その後の彼の顛末が憐れに思えて胸が痛かった。
 ああ、でも──
「幸せって、どっちのですか?」
「どっちもだよ。2人で幸せになるんだ」
「貴方の幸せって?」
「エデンと死ぬまで一緒にいる事さ」
 やれやれ夢でも語るみたいに目をキラキラさせて、人の気持ちなんか考えた事もないんだろうな。
「私の幸せは万里のいる世界で杉山さんと一緒になる事ですから、貴方とは幸せになれませんね」
 つらつらとこんな事を言って氷朱鷺が機嫌を損ねるかとも思ったが、存外彼は私の一字一句全てを受け入れている。
「俺が万里の仇だから?」
「よく解ってるじゃないですか」
 この話になると私の方が冷静でいられなくなりそうだ。
「もし俺が万里を殺していなかったら?」
 もしそうなら、私の、氷朱鷺に対する位置付けは血の繋がらない弟のままだった。
「貴方との関係性は平和なままだったかもしれないけれど、それでも私は杉山さんを選んでた」
 杉山さんの名前を出すと流石に氷朱鷺の表情も曇る。
「エデン」
「なんですか?」
「ストーカーってさ、好きな相手の好きな人さえいなかったら自分がその好きな人と一緒になれるのにって本気で思うもんなんだよ」
「ストーカーの自覚でもあるんですか?」
 ストーカーと言うには氷朱鷺は少し稀有な気がする。依存タイプのシリアルキラー、的な?
「さあ、好きな人とずっと一緒にいたいっていうのはストーカーなのかな?エデンは杉山さんに対してそんな事を思わないの?」
「思うけど、常識の範囲内での事です。相手の嫌がる事はしない、これが大事」
「へえ───」
 全然響いていない返事だ。
「じゃあ行こっか」
 ほら。
 私は氷朱鷺に肩を抱かれる形で痛んだ足を引きずって歩いた。
 もう少し。
 いちご飴、たこ焼き、チョコバナナ、私達は軒を連ねる屋台群を抜け、途中で氷朱鷺がたこ焼きとチョコバナナを買い、人混みを掻き分けて海岸へと抜ける。そこから少し丘になった緑の獣道を抜け、人気のない穴場へと出る。
「いたた、ようやく着いた」
 ここが氷朱鷺の墓場になるのか。
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