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献上品ライフ
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それからは杉山さんとお茶をしたり、映画を観たり、時にはキスをしたりして献上品としての日々を送り、とっぷり日が沈んだ時合には杉山さんと入れ代わり立ち代わりで氷朱鷺がナイロン袋を手に帰って来た。
「ただいま、今日はどんな勉強をしたの?」
氷朱鷺は帰宅するのを心待ちにしていたかのように上機嫌で戻って来た。
「する訳がない」
私はソファーに座り、いつも通り至って不機嫌に返す。
私は杉山さんが提案した氷朱鷺暗殺計画に未だ賛同出来ず、そのせいとまでは言わないが氷朱鷺に媚もせず来る日も来る日も冷たい態度をとっていた。
「献上品なのに?」
氷朱鷺は仕立ての良いジャケットを脱ぐとそれを壁のフックに掛けた。
「献上品じゃない」
「冷蔵庫に入れておいたサンドイッチは食べた?」
氷朱鷺が私の隣に腰掛け、重みでソファーが軋む。
近い。
「食べました」
私は氷朱鷺に目もくれず、ただ前だけを見ていた。
「今夜は俺がエデンにカレーを作ってあげます」
「何も食べたくない」
そう言うのに、氷朱鷺はシャツの裾を捲くってやる気満々だ。
「サンドイッチは食べたじゃん。カレーが嫌なの?」
「そういう事じゃない」
人を監禁しておいて、よくもそんな態度でいられるな。
「じゃあ、俺が腕によりをかけてカレーを作ります。いつも出来合いの物ばかりで悪いと思ってたし」
「だからそういう事じゃないってば」
と言うのに、氷朱鷺は食材の入ったナイロン袋を手にキッチンへと入ってしまう。
「前は毎日エデンが作ってくれてたけど、今は俺の献上品だから何もしなくていいよ」
キッチンから慣れない故のガサツな騒音と、浮かれた氷朱鷺の声がする。
「だからって、なんで王配様がカレーを作るんですか」
私はソファーで腕を組み、キッチンに向けて話し掛けた。
「好きな人に何かしてあげたいだけなんだけどなぁ」
「私は望んでません」
「そんな事言わずに。ずっと、エデンがカレーを作るのを見てきたんだから、絶対美味しく出来るよ」
何かをみじん切りにする音がして、玉ねぎの辛味のある匂いがここまで届く。
「換気扇を回して下さい」
「ゴホッゴホッ、え、何?」
氷朱鷺が噎せ返り、自発的に換気扇のスイッチを入れる音がした。
「イテッ!!」
手でも切ったか?
「あっ、大丈夫だから!」
「別に心配してません」
「冷たいなぁ」
「今更ですね」
「調教師の杉山さんにはキスも許すのに」
換気扇が回る音に混じり、聞き捨てならない言葉が耳に届いた。
「……ぇ?」
『調教師の杉山さんにはキスも許すのに』
──と言ったか?
もしそれが空耳でなければ氷朱鷺はこの部屋を監視していた事になる。そうなると氷朱鷺暗殺の会話を聞かれた可能性も高い。
私は急な喉の渇きを覚えゴクリと大きく唾を飲み込んだ。
「監視してるんですか?」
私は計画がバレる事より、それにより氷朱鷺がショックを受ける事の方が気掛かりだった。
「あー……やっぱりそうだったんだ」
氷朱鷺は何かを察し、落胆するようにボソリとそう呟く。
この反応をみるに、当てずっぽうでカマをかけられたんだろうか?
それともこれすら演技なのか……
「俺が嫌だって言っても止めてくれないんでしょ?」
「当然です。杉山さんは婚約者だ。貴方がどうこう言えた義理じゃない。更に言えば他人の婚約者を献上品としてここに監禁するのもおかしいです。いかれてる」
私は憎しみを込めて吐き捨てた。
「俺だって監禁したくてしてる訳じゃない。そうでもしないとエデンが離れて行くからだろ?」
「離れて行くような事をするからでしょ?!」
私は憤りを隠せず、目の前のテーブルに激しく手を打ち付ける。打ち付けた手はジンジンと痺れたが、怒りのせいで痛みは感じなかった。
「そんな事、した覚えないよ。俺はいつでも真っ直ぐエデンに愛情を向けてただけだ」
「どの口がっ!!」
せっかく氷朱鷺に理解を示そうと努力してきたのに、当の本人は全く悪びれた素振りも無いんじゃあ、これまでの私の苦悩が馬鹿みたいじゃないか。
「その愛情が迷惑なんだよ」
「……でもカレーは食べてよ、沢山野菜を入れたから栄養満点だよ」
換気扇に掻き消されそうな氷朱鷺の愛想笑いが儚げに聞こえたのは気のせいだろうか?
「出来たよ」
氷朱鷺が鍋を持って自信満々にダイニングに現れ、着々と2人分の夕食の準備を進めていく。
「食べないって言ってる」
「今日のカレーには俺の好物のオムレツも乗ってるんだよ。食後にはケーキもある」
「だから食べないって」
私のハンストは氷朱鷺の耳には届かないのか、彼はダイニングテーブルにちょっとした花を飾り、ワイングラスにワインまで用意している。
何か見てて痛々しい。
「嫁に食べさせてやれば?」
「今日くらいいいじゃん」
「そう言って、毎晩ここに来てるじゃないですか」
「いいだろ?夕食後にはちゃんと帰ってるんだから。前は四六時中一緒にいたのに」
「そういう問題じゃない。もう、出てってよ。こんな茶番、付き合いきれない」
私が堪らずソファーから立ち上がり、ベッドで丸くなろうとすると、氷朱鷺に手を引かれ、無理矢理ダイニングテーブルに座らされた。
今日はやけに強引だ。私がハンストしても、氷朱鷺はいつも苦笑いしながら自分だけご飯を食べて出て行くのに。
「たまには一緒に食べよ?」
「誰がお前となんて」
目の前に置かれたカレーからニンニクの効いたスパイシーな香りがしてきて、私の胸焼けを加速させる。
イライラする。
胸が悪い。
どうして私を放っておいてくれないのか。
「いいからいいから、一口だけ」
そう言って氷朱鷺がスプーンで私の皿からカレーを一口さらうと、それを私の鼻先に突きつけてきた。私は咄嗟にそれを払おうとして、テーブルに置いていた右手を振り上げると、目の前のカレー皿に指先を引っ掛け、それを床にぶち撒けてしまう。
「あっ」
と思った頃には飛び散ったカレー皿の破片が氷朱鷺の綺麗な顔に傷をつけ、彼のズボンやまっさらなシャツが泥汚れの如く彼を悲惨な姿にしていた。
「……エデンてさ、杉山さんがいる時は何でも食べるのに、俺とは何も食べてくれないよね」
氷朱鷺が寂しそうに愛想笑いをして、私は少しだけ胸が痛んだ。
「ご、ごめん……」
さすがに口をついて出たのは謝罪の言葉だった。
「いいよ。無理強いしてごめん。怪我は無い?」
「私は別に……」
それよりも、血が滲んだ氷朱鷺の頬の切り傷とか、未だ湯気が上がっているシャツのカレーとか、そっちの方が気掛かりだった。
「すぐに片付けるから、シャワーしてきて」
私はカレー皿の破片を集めようとしてふと気付く。床にぶち撒けられたカレーの具は全てみじん切りになっていて、奥歯の無い私でも食べやすいようになっていた事。トマト、ナス、玉ねぎ、じゃがいも、人参が細かく丁寧に裁断されており、これだけの量をいちいちみじん切りにするには大変な手間だっただろうにと思った。
「駄目駄目、エデンは何もしなくていいよ、手を切るから」
そう言って氷朱鷺は私の手を止めようとしたが、自身の手の汚れに気付き『あっ……』と声を漏らす。
「悪いんだけど、キッチンから布巾をありったけ持って来てくれる?」
「え、うん」
私は氷朱鷺に申し訳無くて素直に従い、キッチンから漁って来た布巾を何枚か氷朱鷺に差し出した。
「氷朱鷺、指も切ったの?」
布巾を受け取った氷朱鷺の指に何か所か絆創膏が貼られている事に気付いた。
「ああ、食材を切る時にね。あっ、でも、カレーに血とかは入ってないし、ブドウ球菌とかは大丈夫だから」
ブドウ……球菌……
そんな事はどうでもいい。
「着換えは……あるの?」
そんな事もどうでもいい。
「いや、側近に電話して持って来てもらう。心配しなくても、シャワーしたら出て行くから、落ち着いたらケーキでも食べて。カレーはさ、失敗作だから」
そんな風に気丈に言われると、胸に刺さった棘が尚更そこを穿たれる。
「失敗作だなんて……そんな……」
酷く悪い事をした気分だ。いや、実際に悪い事をした。
「俺が悪かったんだからそんな顔しないで。ちょっと意地悪でも、エデンには元気でいてほしいんだから」
そうして氷朱鷺はまたも汚れた手で私に触れようとして、思い出したように手を引っ込める。
これは、手が汚れていたから私に触らなかったのか、それとも私に拒絶されると思ったから手を引っ込めたのか、どっちだろう?
どっちにしても良心が痛い。
氷朱鷺はひとしきり片付けを終えるとカレーと汚れた衣服をゴミ箱に捨て、シャワーを浴びにバスルームへと入った。
事故とは言え、私はなんて事をしたのだろう。自分の不甲斐なさにため息しか出ない。
氷朱鷺がシャワーを浴びている間、私はずっと猛省していた。彼が腰にタオルを巻いた状態でバスルームから出て来ると、私は彼からイタズラされた事を思い出して距離をお──けなくてソファーで小さくなる。
「カレー臭い?」
「いや……」
私は目の前で濡れた髪を拭く氷朱鷺とは目も合わせられない。
立場的に氷朱鷺にいいようにされても文句が言えないうえに、今の私は氷朱鷺に頭が上がらない状況だ、こうしてソファーで両膝を抱えて丸くなる事しか出来ない。
氷朱鷺の方は、側近に電話で頼んでいた着換えを玄関に取りに行き、それをテキパキと着込んでいく。
「もう帰るの?」
ちゃんと面と向かって謝らなきゃ。
「帰ってほしかったんじゃないの?」
「それはそうだけど……」
今は状況が変わった。
「あの、氷朱鷺っ」
私は、着換えを終えて玄関に向かった氷朱鷺を追い掛け、彼のシャツの裾を捕まえる。
「えっ、エデン?どうしたの?本当に」
いつも私が冷たいからか、氷朱鷺は私の歩み寄りに驚いていた。
「今日は本当にごめん。監禁については許せないけど、今日のは全部私が悪い」
私は氷朱鷺の腰より深く頭を下げ陳謝する。
「いいよ。謝らないで。エデンを俺の自己満足に付き合わせてる自覚はあるんだ。ただ今日はちょっと私情を挟んじゃったね」
私情?
「じゃあ、また来るよ」
私が頭を上げると、去り行く氷朱鷺の背中が泣いているように感じた。
『今日はちょっと、私情を挟んじゃったね』
その言葉がやに引っ掛かる。
「今日はちょっと……今日?」
今日は何日だ?
ここへ来てから何日経った?
半月くらい?
あれ、だとしたら、もしかして……
カレンダーが無いから定かではないが、ひょっとすると今日は……氷朱鷺の誕生日じゃないか?
「あっ……」
私は残されたワインやワイングラス、綺麗に飾られた花、冷蔵庫に入れられたケーキ、氷朱鷺が好きだと言っていたオムレツを思い出し、いたたまれない気持ちに陥った。
いつも毎年2人で祝っていた氷朱鷺の誕生日。氷朱鷺は今年も私と誕生日を過ごしたくて、冷たくなった私に代わり、全て自分で用意していたのだ。
自分で自分の誕生日に自分の好物のオムレツを作るなんて、こんな可哀想な事があるか?
誕生日は結婚相手と過ごせばいいじゃないか、とは思うけれど、一途に懐いてきてくれている氷朱鷺にあんまりな態度をとってしまった。確かに氷朱鷺の事は許せないけれど、せめて今日くらいは優しくしてやるべきだった。
「ただいま、今日はどんな勉強をしたの?」
氷朱鷺は帰宅するのを心待ちにしていたかのように上機嫌で戻って来た。
「する訳がない」
私はソファーに座り、いつも通り至って不機嫌に返す。
私は杉山さんが提案した氷朱鷺暗殺計画に未だ賛同出来ず、そのせいとまでは言わないが氷朱鷺に媚もせず来る日も来る日も冷たい態度をとっていた。
「献上品なのに?」
氷朱鷺は仕立ての良いジャケットを脱ぐとそれを壁のフックに掛けた。
「献上品じゃない」
「冷蔵庫に入れておいたサンドイッチは食べた?」
氷朱鷺が私の隣に腰掛け、重みでソファーが軋む。
近い。
「食べました」
私は氷朱鷺に目もくれず、ただ前だけを見ていた。
「今夜は俺がエデンにカレーを作ってあげます」
「何も食べたくない」
そう言うのに、氷朱鷺はシャツの裾を捲くってやる気満々だ。
「サンドイッチは食べたじゃん。カレーが嫌なの?」
「そういう事じゃない」
人を監禁しておいて、よくもそんな態度でいられるな。
「じゃあ、俺が腕によりをかけてカレーを作ります。いつも出来合いの物ばかりで悪いと思ってたし」
「だからそういう事じゃないってば」
と言うのに、氷朱鷺は食材の入ったナイロン袋を手にキッチンへと入ってしまう。
「前は毎日エデンが作ってくれてたけど、今は俺の献上品だから何もしなくていいよ」
キッチンから慣れない故のガサツな騒音と、浮かれた氷朱鷺の声がする。
「だからって、なんで王配様がカレーを作るんですか」
私はソファーで腕を組み、キッチンに向けて話し掛けた。
「好きな人に何かしてあげたいだけなんだけどなぁ」
「私は望んでません」
「そんな事言わずに。ずっと、エデンがカレーを作るのを見てきたんだから、絶対美味しく出来るよ」
何かをみじん切りにする音がして、玉ねぎの辛味のある匂いがここまで届く。
「換気扇を回して下さい」
「ゴホッゴホッ、え、何?」
氷朱鷺が噎せ返り、自発的に換気扇のスイッチを入れる音がした。
「イテッ!!」
手でも切ったか?
「あっ、大丈夫だから!」
「別に心配してません」
「冷たいなぁ」
「今更ですね」
「調教師の杉山さんにはキスも許すのに」
換気扇が回る音に混じり、聞き捨てならない言葉が耳に届いた。
「……ぇ?」
『調教師の杉山さんにはキスも許すのに』
──と言ったか?
もしそれが空耳でなければ氷朱鷺はこの部屋を監視していた事になる。そうなると氷朱鷺暗殺の会話を聞かれた可能性も高い。
私は急な喉の渇きを覚えゴクリと大きく唾を飲み込んだ。
「監視してるんですか?」
私は計画がバレる事より、それにより氷朱鷺がショックを受ける事の方が気掛かりだった。
「あー……やっぱりそうだったんだ」
氷朱鷺は何かを察し、落胆するようにボソリとそう呟く。
この反応をみるに、当てずっぽうでカマをかけられたんだろうか?
それともこれすら演技なのか……
「俺が嫌だって言っても止めてくれないんでしょ?」
「当然です。杉山さんは婚約者だ。貴方がどうこう言えた義理じゃない。更に言えば他人の婚約者を献上品としてここに監禁するのもおかしいです。いかれてる」
私は憎しみを込めて吐き捨てた。
「俺だって監禁したくてしてる訳じゃない。そうでもしないとエデンが離れて行くからだろ?」
「離れて行くような事をするからでしょ?!」
私は憤りを隠せず、目の前のテーブルに激しく手を打ち付ける。打ち付けた手はジンジンと痺れたが、怒りのせいで痛みは感じなかった。
「そんな事、した覚えないよ。俺はいつでも真っ直ぐエデンに愛情を向けてただけだ」
「どの口がっ!!」
せっかく氷朱鷺に理解を示そうと努力してきたのに、当の本人は全く悪びれた素振りも無いんじゃあ、これまでの私の苦悩が馬鹿みたいじゃないか。
「その愛情が迷惑なんだよ」
「……でもカレーは食べてよ、沢山野菜を入れたから栄養満点だよ」
換気扇に掻き消されそうな氷朱鷺の愛想笑いが儚げに聞こえたのは気のせいだろうか?
「出来たよ」
氷朱鷺が鍋を持って自信満々にダイニングに現れ、着々と2人分の夕食の準備を進めていく。
「食べないって言ってる」
「今日のカレーには俺の好物のオムレツも乗ってるんだよ。食後にはケーキもある」
「だから食べないって」
私のハンストは氷朱鷺の耳には届かないのか、彼はダイニングテーブルにちょっとした花を飾り、ワイングラスにワインまで用意している。
何か見てて痛々しい。
「嫁に食べさせてやれば?」
「今日くらいいいじゃん」
「そう言って、毎晩ここに来てるじゃないですか」
「いいだろ?夕食後にはちゃんと帰ってるんだから。前は四六時中一緒にいたのに」
「そういう問題じゃない。もう、出てってよ。こんな茶番、付き合いきれない」
私が堪らずソファーから立ち上がり、ベッドで丸くなろうとすると、氷朱鷺に手を引かれ、無理矢理ダイニングテーブルに座らされた。
今日はやけに強引だ。私がハンストしても、氷朱鷺はいつも苦笑いしながら自分だけご飯を食べて出て行くのに。
「たまには一緒に食べよ?」
「誰がお前となんて」
目の前に置かれたカレーからニンニクの効いたスパイシーな香りがしてきて、私の胸焼けを加速させる。
イライラする。
胸が悪い。
どうして私を放っておいてくれないのか。
「いいからいいから、一口だけ」
そう言って氷朱鷺がスプーンで私の皿からカレーを一口さらうと、それを私の鼻先に突きつけてきた。私は咄嗟にそれを払おうとして、テーブルに置いていた右手を振り上げると、目の前のカレー皿に指先を引っ掛け、それを床にぶち撒けてしまう。
「あっ」
と思った頃には飛び散ったカレー皿の破片が氷朱鷺の綺麗な顔に傷をつけ、彼のズボンやまっさらなシャツが泥汚れの如く彼を悲惨な姿にしていた。
「……エデンてさ、杉山さんがいる時は何でも食べるのに、俺とは何も食べてくれないよね」
氷朱鷺が寂しそうに愛想笑いをして、私は少しだけ胸が痛んだ。
「ご、ごめん……」
さすがに口をついて出たのは謝罪の言葉だった。
「いいよ。無理強いしてごめん。怪我は無い?」
「私は別に……」
それよりも、血が滲んだ氷朱鷺の頬の切り傷とか、未だ湯気が上がっているシャツのカレーとか、そっちの方が気掛かりだった。
「すぐに片付けるから、シャワーしてきて」
私はカレー皿の破片を集めようとしてふと気付く。床にぶち撒けられたカレーの具は全てみじん切りになっていて、奥歯の無い私でも食べやすいようになっていた事。トマト、ナス、玉ねぎ、じゃがいも、人参が細かく丁寧に裁断されており、これだけの量をいちいちみじん切りにするには大変な手間だっただろうにと思った。
「駄目駄目、エデンは何もしなくていいよ、手を切るから」
そう言って氷朱鷺は私の手を止めようとしたが、自身の手の汚れに気付き『あっ……』と声を漏らす。
「悪いんだけど、キッチンから布巾をありったけ持って来てくれる?」
「え、うん」
私は氷朱鷺に申し訳無くて素直に従い、キッチンから漁って来た布巾を何枚か氷朱鷺に差し出した。
「氷朱鷺、指も切ったの?」
布巾を受け取った氷朱鷺の指に何か所か絆創膏が貼られている事に気付いた。
「ああ、食材を切る時にね。あっ、でも、カレーに血とかは入ってないし、ブドウ球菌とかは大丈夫だから」
ブドウ……球菌……
そんな事はどうでもいい。
「着換えは……あるの?」
そんな事もどうでもいい。
「いや、側近に電話して持って来てもらう。心配しなくても、シャワーしたら出て行くから、落ち着いたらケーキでも食べて。カレーはさ、失敗作だから」
そんな風に気丈に言われると、胸に刺さった棘が尚更そこを穿たれる。
「失敗作だなんて……そんな……」
酷く悪い事をした気分だ。いや、実際に悪い事をした。
「俺が悪かったんだからそんな顔しないで。ちょっと意地悪でも、エデンには元気でいてほしいんだから」
そうして氷朱鷺はまたも汚れた手で私に触れようとして、思い出したように手を引っ込める。
これは、手が汚れていたから私に触らなかったのか、それとも私に拒絶されると思ったから手を引っ込めたのか、どっちだろう?
どっちにしても良心が痛い。
氷朱鷺はひとしきり片付けを終えるとカレーと汚れた衣服をゴミ箱に捨て、シャワーを浴びにバスルームへと入った。
事故とは言え、私はなんて事をしたのだろう。自分の不甲斐なさにため息しか出ない。
氷朱鷺がシャワーを浴びている間、私はずっと猛省していた。彼が腰にタオルを巻いた状態でバスルームから出て来ると、私は彼からイタズラされた事を思い出して距離をお──けなくてソファーで小さくなる。
「カレー臭い?」
「いや……」
私は目の前で濡れた髪を拭く氷朱鷺とは目も合わせられない。
立場的に氷朱鷺にいいようにされても文句が言えないうえに、今の私は氷朱鷺に頭が上がらない状況だ、こうしてソファーで両膝を抱えて丸くなる事しか出来ない。
氷朱鷺の方は、側近に電話で頼んでいた着換えを玄関に取りに行き、それをテキパキと着込んでいく。
「もう帰るの?」
ちゃんと面と向かって謝らなきゃ。
「帰ってほしかったんじゃないの?」
「それはそうだけど……」
今は状況が変わった。
「あの、氷朱鷺っ」
私は、着換えを終えて玄関に向かった氷朱鷺を追い掛け、彼のシャツの裾を捕まえる。
「えっ、エデン?どうしたの?本当に」
いつも私が冷たいからか、氷朱鷺は私の歩み寄りに驚いていた。
「今日は本当にごめん。監禁については許せないけど、今日のは全部私が悪い」
私は氷朱鷺の腰より深く頭を下げ陳謝する。
「いいよ。謝らないで。エデンを俺の自己満足に付き合わせてる自覚はあるんだ。ただ今日はちょっと私情を挟んじゃったね」
私情?
「じゃあ、また来るよ」
私が頭を上げると、去り行く氷朱鷺の背中が泣いているように感じた。
『今日はちょっと、私情を挟んじゃったね』
その言葉がやに引っ掛かる。
「今日はちょっと……今日?」
今日は何日だ?
ここへ来てから何日経った?
半月くらい?
あれ、だとしたら、もしかして……
カレンダーが無いから定かではないが、ひょっとすると今日は……氷朱鷺の誕生日じゃないか?
「あっ……」
私は残されたワインやワイングラス、綺麗に飾られた花、冷蔵庫に入れられたケーキ、氷朱鷺が好きだと言っていたオムレツを思い出し、いたたまれない気持ちに陥った。
いつも毎年2人で祝っていた氷朱鷺の誕生日。氷朱鷺は今年も私と誕生日を過ごしたくて、冷たくなった私に代わり、全て自分で用意していたのだ。
自分で自分の誕生日に自分の好物のオムレツを作るなんて、こんな可哀想な事があるか?
誕生日は結婚相手と過ごせばいいじゃないか、とは思うけれど、一途に懐いてきてくれている氷朱鷺にあんまりな態度をとってしまった。確かに氷朱鷺の事は許せないけれど、せめて今日くらいは優しくしてやるべきだった。
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