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献上品、多摩川エデン

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 私は氷朱鷺に担がれたままエレベーターで上階へと上り、ガランとしたフロアにある、これまたガランとした部屋のベッドに降ろされる。因みにここに来るまでに何人もの使用人達に遭遇したが、皆一様にギョッとして目を逸らすだけで誰も助けようとはしてくれなかった。一応、助けを求めて暴れたり唸ったりはしてみたが、その都度氷朱鷺に鼓の如く尻を打たれては恥辱で項垂れた。
 何たる屈辱。
 私はベッドに降ろされてからは疲労と屈辱でぐったりしていた。
「エデンてこの上なく猿轡が似合うよね」
「……」
 氷朱鷺は背を向けて横になる私のそばに腰掛け、先程とはまるで違った優しい手付きで私の前髪を撫でる。
「怒ってるの?」
 私は氷朱鷺の手から逃れるようにプイと顔を背けた。
「エデンが舌を噛んで死ぬって言うからいけないんだよ。いい?エデン、エデンが死んだら俺も死ぬ」
「……」
「死ねばいいって思った?」
 私がコクッと頷くと、氷朱鷺は深くため息をついて後頭部を掻いた。
「舌を噛まないって約束してくれないと猿轡もベルトも外さない。一生このままの姿で俺に介護されたくなかったら約束して」
 私は仕方なく頷く。
「良い子だね、エデン」
 氷朱鷺から頭を撫でられ、私は本当に自分が献上品になったようで絶望した。
「ああ、その前に」
 と言って氷朱鷺はベッドの下から黒いリング状の物を取り出し、それを私の右足首にガッチリ装着する。
「GPSだよ。完全にロックした」
 やっぱり。
 反撃する元気もない。
「この部屋から逃げ出しても誰も助けてくれないし、少しでも変な動きをしたら俺が飛んでくるから。それに警備兵達にはエデンを絶対に外に出すなって念押しの伝達もしてある」
「……」
 まるで保護観察中の囚人だな。
「じゃあ猿轡とベルトを外すけど、怪我させたくないから暴れないでね、いい?」
「……」
 私は頷かなかったが、氷朱鷺は猿轡もベルトも外してくれた。
「ごめん、痕が残った。すぐ消えるとは思うけど、痛くない?」
「……」
 私はこれにも反応しなかった。疲れていたのだ。肉体的に、という事もあるが、殆どは精神的に疲れていた。今後の事を考えるだけで疲れた。
「お腹減ってる?冷蔵庫にゼリーだけは入れておいたんだ。エデンは奥歯が無いからプルプルした物なら何でも食べると思って。必要な物はこれからどんどん増やしていくから、欲しい物があったら何でも言って」
「食べない」
「俺が用意した物は食べたくないって?」
 私が静かに頷くと、氷朱鷺は悲しそうな顔をした。
 さっきまであんなに強引で、人の尻まで打ったのに、時折そんな顔をして、狡い。
「ハンストされちゃうと困るなぁ。心配でこっちまで何も喉を通らなくなる」
 さっきからずっと、氷朱鷺は私を愛おしそうに眺め、壊れ物でも扱うように人差し指の背で髪を撫でてくる。
 腹は立つが、なんだか心地良くて眠たくなってきた。撫でられているうちに眠ってしまう猫の気持ちが良く解る。これ、好きだな。
「心配しなくても、すぐに杉山さんが来て何か食べさせてくれるよ。あの人はその為に存在してるんだから」
 横目で氷朱鷺をよく見ると、元気が無いように見えた。
「変だよね、こんなに好きなのに、お互いにパートナーは別にいるなんてさ。本当に好きな相手とは結婚出来ないものだって、本当の話だったんだね」
「王女はお前の事を本当に愛してる。見てれば判る」
 だから大事にしてやれ、なんて、私が言うのもおかしな話か。
「あの人は単に世間知らずなだけだよ。俺の外面しか知らないミーハー」
「それでも大事にしてあげて……」
「エデンがそんな事を言うなんて、残酷だよ」
 確かに、私の言えた事ではない。
 氷朱鷺は非難する口振りではあったが、それでも私を見る目も撫でる手付きも優しい。
「エデンは、俺の事もミーハーだと思ってる?」
「お前のは単なる執着だよ」
「俺の愛はね、執着なんだよ。他に愛せる者がいないから全精力が向けられる」
「迷惑な話だ」
 やれやれと私は目を閉じた。
「エデン」
「何?」
「俺、王配だよ?」
 クスクスと氷朱鷺が笑っているのが聞こえる。
 王配相手にタメ口とか、完全に気が抜けてた。
「……」
「2人きりの時は別にいいけど」
 でもまあ、いいか。
「……」
 猫みたいに愛でられ、私は体を丸くしてウトウトとまどろむ。
「眠いの?」
「眠いから1人になりたい」
 ……そう言えば氷朱鷺は弟の仇以前に、私の体にイタズラしてきたスケベじゃないか。今のこの状況は氷朱鷺にとってモロに上げ膳。立場的にも私を好き勝手出来る権利がある。どんなに私が嫌がって叫ぼうと、拒もうと、氷朱鷺の思うままだ。ただ、形式的に献上品制度を守ろうってんなら、ある程度の勉強期間を得て、正式な手続きを踏まないと彼は私に手出し出来ない事にはなっている。まあ、その制度もどの程度まで有効かは謎だけど。言ってみれば、最終的には氷朱鷺の理性にかかっている訳で、私にしたら、やはりこの状況はあまり好ましくない、んだけど、それにしても気持ちいいな。あれこれ考えつくけど眠気が敵う。
「じゃあ俺が膝枕してあげます」
「私の話、聞いてた?」
 多分、聞いてない。氷朱鷺はいつもこうだ。
「眠ったら1人になれるよ、夢の中でね」
 やめろとは言っていないが、言葉のニュアンスでそういう風に捉えられる筈なのに、氷朱鷺は私の頭を持ち上げてその下に自身の太腿を挟み込む。
 相変わらず強引だな。なんて言うか、思ったらもう『こう』なんだよな。そのくせ思い出したように人の顔色を窺って謙虚になったり。多分だけど、育った家庭環境が影響している。あまり良い環境ではなかったんじゃないだろうか?
 初見から氷朱鷺は売られそうになっていたし。
 だから甘えるのが下手なくせに好意を抱いた相手にはやたら甘えたがりだし、独占したがる。愛情に飢えている証拠だ。サイコパスだけど、生まれながらのサイコパスってのはいないって言うし、本当は可哀想な奴なのかも。
「夢の中にだって人は出るでしょ」
「そう?俺は現実から逃げたい時、夢の中に逃げ込んで独りになるけど」
 やっぱり、氷朱鷺の闇は深い。
「……氷朱鷺、お前は私と出会う前はどんな生活を送ってたの?」
 傷を抉るようで氷朱鷺の過去には触れてこなかったけど、彼を知るうえでも聞いておいた方がいいと思った。
「ん?普通だよ、エデンと同じ。つまらない話さ」
「私と同じなら、結構悲惨な子供時代だと思うけど」
 かねがね思っていたが、察するに、私と氷朱鷺の境遇には近しいものを感じる。ただ、私には万里という希望があってそれなりに幸せだったけれど、氷朱鷺には誰かいたのだろうか?
「そうなの?」
「いや、でも私はまだ恵まれた方かな」
「杉山さんがいたから?」
「……」
 今頷いたら、氷朱鷺は逆上して何か良からぬ事をしでかすかもしれない、と思ったが、存外彼は落ち着いていた。
 動物セラピーというものがあるが、彼は私(動物)を撫でる事で穏やかな気持ちを得られているのかもしれない。氷朱鷺もいやらしい事はしてこなさそうだし、ここはこのまま撫でられててやるのが得策か。何より撫でられている私も穏やかな気持ちになっていたし。
「俺だってエデンと出会えたから恵まれてるよ。エデンがいなかったら、今頃は売り飛ばされてどっかの金持ちの性奴隷になってたかもね」
 そうして氷朱鷺は軽快に笑い飛ばしたが、本当は笑えない境遇であった事は想像に難くない。
 私を愛人にしようとしている奴に同情するのは良くないが、境遇が似ているだけに同調するなと言う方が難しい。それに彼とは長く衣食住を共にしすぎた。情とは厄介なものだ。これが、私が氷朱鷺を殺せない理由なのだろう。
「万里の事は絶対に許さないけど、私の事は忘れて王配として幸せになりなよ」
 そんな風に言うと、氷朱鷺は私の髪を撫でる手を止め、その手を私の肩に置いた。
「嫌だ。それに無理だね。そもそも俺は自分が王配になりたくてなったんじゃなくて、エデンを幸せにしたいから献上品になって王配を目指したんだ。それが俺の幸せでもあったし」
 さっきまで穏やかだったのに、氷朱鷺の口調がやや強く頑ななものになる。
「褒賞金なら腐る程受け取ったからもう充分だよ」
「褒賞金?そんな物、エデンの手には残らなかったじゃないか。それに俺はね、最初からそんな一時的な金なんか重要視してなかったよ。俺は自分の地位を確立してエデンを愛人に迎える事でエデンの地位も上げて幸せにしたかったんだよ。非現実的な話だったら、自分が王になってエデンを正妻にしたかったけど」
「えっ?」
 私はあまりに寝耳に水過ぎて重かった瞼を持ち上げた。
「最初から、私を愛人にするつもりで献上品になったって事?私の意思関係なく?」
「そう。おかしい?俺が王配になればエデンが手に入るし、エデンだって一生楽に暮らせる。ウィンウィンだろ?」
 待って待って、おかしいおかしい、氷朱鷺が献上品になると言い出したのはまだ十くらいの頃だ。その頃から私を愛人にしようとずっと頑張ってきたって事?
 え、どうしよう、怖い、怖いよ……重過ぎる。
 私は幼少期の氷朱鷺を無邪気でかわいいと思っていたのに、向こうは違った目線で毎日私を見ていて、将来、私を愛人にして好きにしようとしていたなんてサイコホラーでしかない。
 私は急に眠気が吹っ飛び、全身を硬直させた。
「どうしたの?急にカチコチになったじゃん」
 氷朱鷺はフッと息を漏らして笑い出す。
「1人になりたい」
「怖くなった?」
 その妙に優しい言い方が逆に怖い。
「……」
 そして図星過ぎて逆に言葉に出来なかった。
「1人になりたいとか言って、それでも杉山さんが来たら歓迎するんだろ?」
 そりゃね。でも言える訳がない。
「……」
「俺が直接調教師になれれば良かったのに。そしたらずっと一緒にいられるし、自分色にエデンを染められる。でも王女の手前、そうもいかないからね、仕方ない。暫くの我慢だ。そしたらエデンは俺の物になる。正式に手が出せる」
 氷朱鷺からポンポンと肩を撫でられ、私は思わず全身に鳥肌を立てて肩を怒らせた。
 怖っ、てか怖っ!!
「正式に手が出せるって、自分の調教師が家族に褒賞金を巻き上げられて行き場を失ってしまって、愛人っていう体で面倒をみるって口実だか建前はどこ行った?」
「だから建前だよ。そんなものは口実で、本当はエデンを好きにしたいから献上品にしたし、愛人にするんだ。だから人知れず手は出すに決まってんじゃん」
 氷朱鷺の、厚顔無恥でちょっと呆れ加減に言ってくるところが腹立つ。
「おまっ……子供が出来たら……」
 私は完全に混乱していた。
「ほら」
 と言って氷朱鷺が枕の下から取り出したのは6個綴りのゴム。ラージサイズの極薄タイプ。イボイボ付きの黒いやつだ。
「なんでこんなとこに……」
 ここは献上品の部屋で、手が出せない調教師の杉山さんと暮らすとこだ。そんな所にゴムなんて、教材か何かだと言ってくれ。
 まさか、今からここで氷朱鷺と……?
 いや、待て待て、何回する気だよ!
 そしてイボイボはエグいだろ!
 その前に、形式的な事はどうした!
「まさか杉山さんと使わせようってんじゃないよ。俺は一応既婚者になるから、エデンを自分の寝室には呼べない。だからここを愛人宅にしたって訳。因みに夜は杉山さんには帰ってもらうからね。あの人にはエデンの健康管理をしてもらって、最後に俺とエデンがしけこむのを見届けてもらうだけの人だから。なに、エデンは今すぐ俺と生でしたかったの?」
 氷朱鷺から今度は腰を撫でられ、私は更に背を丸くした。
 ゾッとする。
「いやいや、でも……私はまだ献上品なんでしょ?そしたらまだ使えないじゃん」
 献上品になるとは容認していないが、せめてここは形式に乗っ取ると言ってほしい。そうしたら考える猶予が出来る。
「そうだね、気が早かったかもね。でもエデンがまだ献上品としても、俺がムラムラしちゃったら仕方ないじゃないか。その保険だよ。ここに連れ込んで早々、そうなるかもとか思ったし。そもそも献上品なんて単なる形式なんだし、王配なら破っても問題ないだろ?」
 これはまずい空気じゃないか?
「王女にバレたら見放さられるぞ?」
「バレやしないよ。上手くやるし、一体誰が告げ口するって?エデン?杉山さん?どっちにしろ王女が信じるのは俺だ」
「嫌だ、したくない」
「可哀想だけど、やるかやらないかは俺次第だから」
「可哀想だなんて思っちゃいないくせに!」
「思ってるよ、それはほんと。でも可哀想なエデンにムラムラするのも本当。守ってあげたいと思う反面、めちゃくちゃにしたくなる」
「このっ、変態っ!!」
 私は氷朱鷺から身を守るよう彼に背を向け、離れて丸くなった。さっきまでのまどろみが嘘みたいだ。
 ちょっとでも気を許すなんて、私はどうかしてた。
「認める。俺は変態だよ。でもそれはエデンにしか発動しない。エデンしか愛してないから」
「なんで一方通行だって解らないの?私は氷朱鷺の事を愛してない。私が愛してるのは杉山さんだけなのに」
「人の気持ちは変わるし、変えられる。今はそうでも、エデンはきっと俺を好きになる」
「本気でそう思ってるの?そんな訳ないでしょ」
「そうでも思わないとどうにかなりそうなんだよ」
 だからどうして、そんな悲しそうな声でそんな事を言うんだ?
「ただ今は、俺の気持ちよりもエデンの気持ちがついて来てないから時期尚早かなって思ってる。時間は沢山あるから、少しずつでも俺を受け入れてよ」
「私を絶望させて諦めさせる気?」
「そう受け取ったんならそうだよ。長くこの部屋にいたら、いずれ自分には俺しかいないって気付くだろ?」
 そんなのあり得ない。
「お前はそんなんで満足するの?」
「やり方はどうでも、結果がそこに辿り着けばそれでいいんだよ」
 なんでこいつはいつも強かで自信満々なのか?
 ナルシストなのか?
 美少年だからそんな事が言えるのか?
 私には理解不能だ。
「結果が必ずそこに辿り着くなんて解らないじゃないか」
「解るよ、エデンは必ず俺を受け入れる」
「断言する。あり得ない」
「ハハ、手厳しいな。そこまで言われるとはね。ああ、でもさ、先に肉体関係を築いたらエデンも俺に情が湧くかもね」
 氷朱鷺は名案みたいに手を打って閃いちゃってるけど、それは完全に逆効果だ。嫌なものは嫌なんだから、嫌悪感が増幅するだけだ。
「いいの?私が献上品のうちに手を出したら、いくら杉山さんとやってもお前にバレない」
 とにかく、今は今を凌ぐ事が最優先だ。
「……そうだった。ワクワクしすぎて忘れてた。やっぱり形式的な事は大事だね。エデンには最短で献上品の勉強をさせて、きちんとした手順で正式に俺の愛人になってもらうよ。その時は覚悟してね」
「……」
 今を凌ぐ事は出来たが、果たしてこれで良かったのか疑問は残る。
「あ、でも、素股くらいならいいよね?さすがに口でしてもらうのは噛み千切られそうで怖いけど」
 果たしてこれで良かったのか、疑問は残る!!
「じゃあ杉山さんともそういう事が出来るって事だよね」
 する気はなかったが、これは私のささやかな反撃だ。
「あの伊達男に疑似セックスは無理だよ。これまで欲望のままに生きてきたんだろう?自分で、止まれなくなるって解ってる筈さ。それに無理矢理やられない限り、エデンには素股とか口淫なんて恥ずかしい事は出来ない、だろ?そんな事が出来てたら、とっくに調教師時代に俺とやってた」
 それ(杉山さん)とこれ(氷朱鷺)とは話が違う。
「……」
 確かに一度やってしまえば徐々にそんな事も出来るようにはなるかもしれないけれど、いきなりそんな事をするのは本番をするより遥かに恥ずかしい。そしてそれだけで終わるのも間抜けな話だ。
「それにエデンて、絶対冷凍マグロだし」
 そう言って氷朱鷺は鼻で笑った。
 なんか知らんけどムカつくな。
「でも逆に、エデンのそういうところが凄く良い。ドロドロに解凍して食べたくなる」
 氷朱鷺に人差し指でツツーッと背中をなぞられ、私は拗ねるようにその指をかわした。
「……嫌いだよ、お前なんか。好きになる事は絶対にない」
「…………………………」
 急に室内がしんと静まり返り、私が言い過ぎたかと思って氷朱鷺の方を振り返ると、彼は心底傷付いたのか肩を落として落胆していた。
 氷朱鷺の今までの横柄な態度は単なる虚勢だったのかもしれない。
 氷朱鷺は今も純粋だ。恐らく純粋で一途が故に暴走する自分を止められないのだ。
「言い過ぎたよ、ごめん」
 私は起き上がって力無く俯く氷朱鷺の両手を握る。
 これが良くない事とは解っているが、彼が可哀想で勝手に体が動くのだから始末が悪い。長年の習慣がそうさせるのかも。
「俺はただ、エデンの事が好きで──」
 今にも泣き出しそうな氷朱鷺を見ていると、幼かった頃の彼のままだと思った。図体ばかりでかくはなったけれど、心は昔のまま無垢だ。
「王女とだって、長く一緒にいて体を合わせていたら情も湧いて好きになるよ」
 私は優しく氷朱鷺を諭した。
「ならない。絶対に。だって俺はエデンが好きなんだ。どうして解ってくれないんだ」
 こんな風に涙目で拗ねるとこなんて、子供そのものだ。
「氷朱鷺、そういう事だよ。私は私で杉山さんが好きだから、例えこれから氷朱鷺と長く一緒にいても気持ちは変わらない」
 酷だけど、氷朱鷺にはちゃんと話して伝えなければならない。
「こんなに頑張ったのに……どうしたら俺を好きになってくれるの?これ以上どうしたらいい?エデンに離れて行かれたら、もう生きてる意味がない」
 氷朱鷺は泣いているのか両手で顔を覆って声を震わせている。
「そんな事言わないで」
 私が励ますように氷朱鷺の背に手を回すと、彼は自然な流れで猫みたいに私の懐に顔を寄せてきた。
「じゃあずっと一緒にいてよ」
「だからそれとこれとは話が別だって」
「チッ」
 おい、今、舌打ちしなかったか?
 さてはこいつ、嘘泣きしてたのか?
「あーあ、早くエデンが正式に俺の愛人にならないかな。そうしたら愛人宅に入り浸れるのに」
 氷朱鷺はさっきまで涙目だったくせに、今はケロッとして私の胸に頬を擦りつけている。
「離れろ」
 私は氷朱鷺の肩を押して自分から引き離そうとしたが、彼は一層強く私にしがみついて離れない。
「少しくらいいいじゃん──あれ、エデン、意外と……あぁ、なるほど」
 氷朱鷺が何かを味わうように私の胸に顔を埋め、犬のようにその匂いを嗅いでいると、ふとフローリングを靴下で歩くようなヒタヒタとした足音が聞こえ、私は音源であるリビングの出入口に刮目した。
「調教師なんて始めから必要なかったんじゃないか?」
 そこに、不機嫌そうな出で立ちの杉山さんが腕を組んで仁王立ちしていた。
「杉山さんっ⁉」
 私は浮気現場でも目撃されたかのように動揺して思わず氷朱鷺を突き飛ばす。
「いたっ」
 氷朱鷺は後ろに仰け反って尻もちをついた……って、そんな事はどうでもいい。
「あの、これは……」
 杉山さんは一体いつからそこにいて、どこまで聞いていたのだろう?
 いつも柔和な杉山さんから怒りのオーラを感じる。
 絶対誤解してる。
 嘘泣きをした氷朱鷺の背に自分から手を回していたし、内容はどうあれ、パッと見で私が氷朱鷺を抱き締めていた図にとられてもおかしくない。
 誤解を解きたいけれど、口にする全てが言い訳がましくなりそうでどうにも踏み切れない。そんな事をしたらきっと見苦しいだろうなと、客観的に冷めた目で見ている自分がいる。
「杉山さん、そんなに責めないであげてよ。エデンは正式に俺の献上品になったんだからさ。ね、エデン」
 私が困っていると、ここぞとばかりに氷朱鷺がキラーパスを出した。
 どうしてこうも杉山さんの神経を逆なでするような事を言うのか。案の定、杉山さんの片眉がピクリと動いた。
「正式な献上品にはなっても、正式な愛人ではないだろ。そもそも愛人てのも正式な存在じゃない」
「愛人差別だね。でも俺にしてみたら正式だろうがそうでなかろうが、正妻だろうが愛人だろうが、一番大事なのはエデンだけだ」
「一方通行だけどな」
「杉山さんさ、王配に対してそれはないんじゃない?どうしてそう、俺を見下すの?」
「そりゃ、お前が尻もちを着いてるからな。ま、立ち上がっても俺のが目線は上だけど。それにお前は王配だが、一般家庭で言うところのマスオさんにすぎない。虎の威を借る狐だよ」
「そうだね。とても的を得てる。俺の力じゃ資産家を調教師に抜擢するのがやっとだ。それも貴方が調教師登録をしてある前提でね。だからあの時、万里を撃てずに法の力で貴方自身が撃たれていれば良かったのに……って思ってるよ」
 氷朱鷺は、末恐ろしい事を口走っているとは思えないくらいカラッと爽やかに微笑んだ。
「……お前は人を殺していないだけの人殺しだ」
 杉山さんは万里の事を思い出したのか、氷朱鷺を蔑んだ目で睨む。
「……殺してるよ、万里をね」
 さっきまでの爽やかな微笑みはどこへやら、氷朱鷺は怖い顔をして立ち上がった。
「氷朱鷺、日中は公務があるんでしょ?夜にまた来てよ」
 私は慌てて氷朱鷺の背を玄関まで押した。そうでもしないと氷朱鷺が杉山さんに手を出しそうで怖かったから。
「まあ、初日だし、今はこのくらいにしといてあげるよ。夜は一緒に食事しよう」
 やれやれと氷朱鷺は私に押し出されるまま玄関から外に出る。
「じゃあ、夜にね」
 氷朱鷺が振り返り、私にキスしようとしてきたが、私は顔を背けてそれをかわした。
「やめて」
「そうだね、エデンはまだ献上品だった」
 氷朱鷺は意に介した様子も無く飄々としている。
「そういう事じゃない……もう、いいから行けば?」
 私はディベートするのにも疲れ、壁に手を着いて頭を抱えた。
「ご主人様に対して冷たいね、エデン。因みに保健体育の授業は受けてもいいけど、調教師と変な事はしないでね。ちゃんと見てるから」
 氷朱鷺はそんな不穏なセリフを残し、後ろ手に手を振りながら去って行った。
「何、今の。ここ、カメラでもあるの?」
 杉山さんが後ろから玄関のドアを閉め、それからキョロキョロと室内を見渡す。
「わからないですけど、GPSも着けられたんでやりかねないです。何処かに隠しカメラがあるかもしれません」
「え、GPS!?」
 杉山さんは驚いて私と顔を見合わせた。
「はい」
 と言って私はGPSが着けられた右足首を杉山さんに見せた。
「凄い束縛だな。あれだけの美少年でも自分に自信が無いのか?」
「どうですかねぇ、解らないですけど」
「後でカメラを探してみよう。それ、取れないの?」
『それ』と言って杉山さんは私の右足首を指差す。
「ロックされました。多分、うまく外せても遠くには逃げられません」
「確かに、エレベーターを降りたら警備兵が2人立ってた。でも、何とか手立てを見つけて──」
 杉山さんが私の両肩を掴んで何とか私を鼓舞するが、私は肩を落として彼の言葉を遮った。
「例えこのフロアから逃げ出せたとしても、私は献上品なんで城の敷地外へ出た瞬間、その場で撃ち殺されるか、万里と同じように崖に立たされます。そうなったら私の調教師である杉山さんに銃を握らせる事になります。そんなの、私は良しとしません」
 多分氷朱鷺は、私に脱走を諦めさせる為にわざわざ杉山さんを調教師にしたのだ。私はまんまとその作戦に嵌っている。杉山さんに迷惑はかけられない。
「すみません、杉山さん。いきなり調教師だなんて、迷惑おかけします」
「何言ってる、俺はエデンの調教師じゃない、婚約者だ。妻になる人を諦めたりしない」
「でも……」
「でももヘチマもあるか」
 そう言って杉山さんは私を抱き寄せた。
「俺が嫌なんだ。エデンが他の男の物になるなんて許せない。ずっと、お前が大人になるのを待ってたんだから」 
 杉山さんにヒシと抱き締められながら、私は奥歯に物が挟まるような感覚を覚える。
「……それまで夜遊びしながら待ってたんですか?」
 そこらへんは何かと無視出来ないものがある。
「──それは言うな」
「許します」
 私は杉山さんの肩に顔を埋め、その煙草混じりの彼の匂いを堪能する。青臭い氷朱鷺の匂いとは違う大人の匂い。それが杉山さんだからか安心する。
「エデン、お前も約束してくれないか?」
「はい?」
「さっきみたいに氷朱鷺に触れるな」
「はい」
「あれを甘やかしちゃ駄目だ。何より俺が嫌だ。財力を使えない俺は無力だが、必ずなんとかするから」
 逃げ場が無いのにどうやって?
 ──そう思ったが、私は今を噛み締めるように杉山さんの背に手を回した。

 それから私達は部屋中をくまなく捜索したが、隠しカメラのような物は発見出来なかった。
「ほんとに無いんですかね?氷朱鷺の事だから絶対にあると思ったのに」
 私はキョロキョロしながらそう口にする。
「確かに、あれはペットを飼ったら絶対にペットカメラを無数に置くタイプの人間だからな」
 つまり、氷朱鷺は支配欲の塊という事だ。
「逆に無いのが不自然というか、不気味ですよね。私達が探せていないだけかも」
「それか俺達がこうして疑心暗鬼になるのを楽しんでるのかも。心理作戦でさ、実際はカメラが無いのに、あるかもしれないっていう緊張感を持たせる事で俺達の行動を制限してるのかもな。あの捻くれ者ならやりそうな事だ。カメラなんか、見つけたところでたちまち破壊させるからな」
 杉山さんはソファーに腰掛け、ふんぞり返って脚を組む。
「氷朱鷺は策士なんで何を考えてるやら。物理的な支配もそうですけど、そうして心理的にも支配しないと気が済まないのも確かです。だから何か試されてるようで怖くて動けないです」
「そうかな?」
 杉山さんはあたかも何かを企む様にニヤッと不敵に微笑んだ。
「え?」
「試されてるなら、逆にこっちも試してやろうぜ?」
「なんですか?怖いな」
 この顔は、何か良からぬ事を企んでいる顔だ。
「エデン、こっちにおいで」
 杉山さんから手を差し出され、私は二の足を踏む。
「もしカメラがあるとしたら、寝室兼リビングはかたいと思いますよ?」
 私達が触れ合っているところを見たら、氷朱鷺は何をしでかすか解らない。
「いいから」
 杉山さんは手を伸ばし、困惑している私の腕を引いて強引に自身の膝の上に私を跨がらせる。
「え、え、でも、もし氷朱鷺が見ていたら飛んで来るだろうし」
 というか、百歩譲って今、そんな事はどうでもいい。この、その、まるで座位みたいな体位──じゃなくて、それに準ずる格好が恥ずかし過ぎる。顔から火が出そう、というより顔が熱くて既に出ている自信がある。考え過ぎかもしれないけれど、互いのあすこが擦れ合っていかがわしい気がする。
 私が遠慮がちに腰を引くと、杉山さんはそれを逃がすまいと私の腰を両手で引き寄せ、私は咄嗟に数センチ腰を浮かす。
「もし氷朱鷺が飛んで来たら、カメラがあるって立証した事になるだろ?」
「いや、解ります、解りますけど……」
 未経験者の私には刺激が強過ぎる。
 私は右手の甲でそれとなく赤面する自身の顔を反らしながら隠す。
 恥ずかしくて逃げたいのに、杉山さんから腰の後ろで手を組まれては後退も出来ないし、浮かせた腰のせいで太腿の筋肉がプルプルしてきつい。
「緊張してるね」
 みなまで言うな。
 ニコニコと余裕な杉山さんが憎い。
「恥ずかしい?」
「おかげさまで」
「まるでエッチしてるみたいだね」
「なっ……」
 だから、なんでそんな事を通常通りに言えるのか!
 恥ずかしくて憤死しそうだ。
「なんで隠すの?」
 と言って杉山さんが私の右手を脇に寄せ、顔を覗き込んでくるので、私はその腑抜けた顔を見られまいと今度は左手の甲で隠す。
 いっそ、氷朱鷺がここに飛び込んで来てくれればいいのに、とまで思った。
「恥ずかしいので見ないで下さい」
「ハハ、かわいい。こんな事で顔を赤くするなんて、やっぱり好きだなあ。濡れてたりして」
 人の良い笑顔でそんな事を言われ、私は羞恥で目眩さえする。
 もう、氷朱鷺でもいいから助けて。
 それにしても『こんな事で』だなんて、杉山さんはこれまでどれだけハードな性生活を送ってきたんだ。
 彼はノーマルなのか???
 いや、それより──
「ぬ、濡れてるもんですか!!」
「じゃあ確認するよ?」
 杉山さんの右手が私の腰の方から下着に差し入れられ、私は『ヒッ』と息を飲んでその侵入を防ぐ。
 やだ、自信が無い。好きでもない氷朱鷺に触られて濡れたなら、大好きな杉山さんになら……言わずもがなだ。そんな恥ずかしい姿、絶対に見せられない。
「止めて下さい!」
「婚約者なのにここから先に触れた事がないなんておかしいと思わない?」
『ここ』と言って杉山さんに臀部の割れ目を指でトントンされ背中に電気が走った。
 妙な気分だ。氷朱鷺に触られた時の事を思い出す。あの時は羞恥の他に屈辱感も味わった。
「こ、婚前交渉しない人だっているじゃないですか」
「俺の周りにはいない」
 さっきまであんなに怒っていたのに、今の杉山さんは上機嫌で私を左右に揺らしている。
 なんなんだ、この人は……
「類は友を呼ぶんですね」
「酷いな」
「カメラがあるか確認するだけなのに、ここまでする必要がありますか?」
「俺がしたいからしてるだけだよ。好きな人に触れたいのって俺だけなの?エデンも触っていいんだよ?」
「何処にですか⁉」
 私は条件反射的にそう尋ねてしまってから『しまった』と後悔した。
「それ聞く?」
 杉山さんは堪らず小さく失笑した。
 ば、馬鹿にしてる。
「すっ!!」
「す?」
 杉山さんは意地悪だ。
「ホラホラ、触っちゃうよ?」
「じ、自信がないので止めて下さい」
 私がゴニョゴニョと嘆願すると、杉山さんは向こうを向いて声を殺して笑った。
 こういうのに慣れていないから仕方ないじゃないですかあ!!
 あれこれ不満はあったが、恥ずかしさの方が圧倒的に勝り、その全てを喉の奥で飲み込んだ。
 ぐぬぬ……
「ごめんごめん、なんかエデンを見てるとムズムズしちゃって意地悪したくなるんだよね」
「私が子供の頃は優しかったじゃないですか!」
 私は責めるように杉山さんの肩に右ストレートをくらわした。
「えっ、痛い。ごめんて」
 杉山さんは殴られた肩を軽く引っ込める。思いの外クリティカルヒットしたようだ。
「カメラは無いようなので降ります」
 ながらく取り乱しはしたが、私はようやく少しだけ落ち着いた。
「油断させてるだけかもよ?」
「まさか、氷朱鷺がこんな事を許す筈がありません」
「でもさーカメラが無いなら尚更イチャイチャしてても問題ないんじゃない?」
「それで止まれるんですか?」
「止まれない」
 杉山さんは真顔でキッパリと断言した。
 死にたいのか?
「じゃあ駄目です」
「俺が国の所有物である献上品に手を出せば法律で罰せられるから?」
「はい」
「悔しいけど氷朱鷺の思う壺か。自信があるからカメラを付けなかったのかもな」
 杉山さんは観念したように大きなため息をついて背凭れに凭れ掛かった。
「ヤれないのに、濡れてるか確認して糸なんか引いたら気まずいしな?」
 だから何故、気まずくなる事をわざわざ口にして気まずくするのか、氷朱鷺もそうだけど男ってデリカシーがないな。
「もう、杉山さんを嫌いになりそうです」
「ごめんて」
「ほんとに降ります」
 私が杉山さんの膝から降りようと横に逸れると、そのタイミングで室内の壁に設置されたインターホン(内線電話)が鳴った。
 私と杉山さんは顔を見合わせ、2人でインターホンの前に立つ。
「これ絶対氷朱鷺からだろ」
「そうですね。なんか、早く杉山さんの膝から降りろと言わんばかりにかかってきましたね」
「そうだな。俺が出る」
 そう言うと杉山さんは受話器を取り、それを耳に当てた。
「はいはい」
 杉山さんが軽めに応対すると、受話器の向こうか氷朱鷺の声が割とはっきり聞こえてくる。
『どうも杉山さん、エデンに変な事しないで下さいね』
「それって当てずっぽう?」
『どうかな』
「心配しなくても変な事なんかしてないさ。お前の望み通り、俺はエデンの調教師なんだから献上品に指南してただけさ」
 杉山さんが悪い顔で微笑したのは、恐らく電話越しにも氷朱鷺に伝わった事だろう。
『そうですか。でも言っておくけど、貴方がエデンを仕上げれば仕上げる程、俺がエデンを美味しくいただくだけだって事を忘れずに。あ、それと、エデンにはちゃんとご飯を食べさせて下さいね』
「過保護だな。言われなくてもそうするよ」
 杉山さんは張り合う様にそう言った。
『エデンを死なせないように、くれぐれも頼みましたよ』
「……それは栄養面の事か?それとも──」
『さあて、とにかく貴方はエデンが俺の愛人として落ち着くまで自分の役割をまっとうして下さい』
「なるほど、なんでわざわざ俺をエデンの調教師に選んだのかと思ったら、そういう事か。ほんとに過保護だな」
『何の事だか。俺はただ、あんたにマウントを取りたかっただけですよ』
「どうだか」
『とにかく頼みましたよ、調教師さん』
「はいはい、じゃあなパトロン」
 そう杉山さんはおざなりに言って受話器を置いた。
「氷朱鷺はお前が自殺するのを防ぐ為に俺を調教師においたようだ」
「え……」
 寝耳に水というか、いつも一方的に自分の気持ちをぶつけるだけの氷朱鷺が私の事をそこまで考えてくれていたなんて、ちょっと意外だった。
 確かに、もし私が死にたいと言い出しても、それを止められるのは杉山さんしかいない。氷朱鷺は、自分じゃ止められないと自覚していたのか。
 それもなんか切ないというか哀れというか、冷たい態度をとっていたのが少し可哀想に思えてくる。
「あいつ、俺がエデンに近付くだけでも異常に嫌がるくせに……本当にエデンの事が好きで大事なんだな」
「……」
 言葉も出なかった。
「エデンが氷朱鷺を心から憎めない理由が解った気がするよ。俺がエデンでも、あいつの無垢な好意を無下にできない」
「……私はこのままこの後宮で氷朱鷺の愛人になるべきなのかも」
 正直、正解が解らない。自分はどうしたいんだろう?
 今のところここから逃げ出す術は無いけれど、愛を貫いて杉山さんに迷惑をかけるというのも違う気がする。
 心を無にして全てを受け入れる?
 そうしたら、少なくとも杉山さんに迷惑はかけないし、氷朱鷺の事も宥められると思う。
「まさか」
「でも、そうしたら万事上手く纏まるというか、一番角がたたないと思うんです」
 この際、自分の感情は二の次だ。
「勝手に纏めるな。それにそんな生贄みたいな気持ちで愛人になられても、氷朱鷺が傷付くだけだ」
「氷朱鷺は既に傷付いてますよ。私が沢山傷付けました」
 これに関してはお互い様だけど。
「氷朱鷺に負い目を感じてるのか?」
「多少は」
 私の為に杉山さんを調教師につけてくれた事にだけ言えるだけだけど。
「俺にも負い目を感じてほしいもんだ」
 杉山さんの深いため息が耳に痛い。
「すみません」
 私が心から反省し頭を垂れると、杉山さんは仕方なさそうに笑って私の頭をポンポンと軽く撫でた。
「エデンに何か食べさせないとな。ご主人様に叱られる」
 そう言うと杉山さんが冷蔵庫から桃のゼリーを2つ取り出したので、それをダイニングのテーブルを囲って2人で食べる事にした。
「凄い、白桃が丸ごと1個入ってるんですね」
 プラスチックの容器に、ゼリーよりも体積をとる大振りな白桃が中に穴が空いた状態で浮いており、これはスプーンよりフォークを選んだ自分の大勝利(?)だと思った。
「随分高級なゼリーだな」
 杉山さんは黄桃のそれをスプーンでこそげ取りながら食している。背筋も伸びているし、杉山さんは食べ姿が綺麗だ。しかし私と言ったら、フォークで一突きにした白桃を丸ごと持ち上げかぶりついては杉山さんに優しく窘められる。
「ほらほらエデン、マナー違反だよ」
 せっかく美味しく食べてたのに……
「だって食べづらいじゃないですか。なんか調教師みたいな事を言うんですね」
 私は口を尖らせて白桃を容器に戻すとフォークで一口サイズに切断していく。ゼリーも押し潰されてグズグズだ。
 情けない。
 氷朱鷺にマナーを教える側の人間だったのに、今は立場が逆転してしまった。
「ごめんごめん、今の状況を否定していたのに、習慣てのは怖いな。無意識にエデンを調教しようとしてた」
「私は元調教師として恥ずかしいです」
 細かく切断した黄桃をフォークでひとかけひとかけ口に運びながら、自分は何をやっているのだろうと笑いがこみ上げてきた。
「今後についてだけど、買収出来ない相手が敵となると、脱走って事になるけど、ここでは指名手配犯並に氷朱鷺が包囲網を張っててそれも難しい。チャンスがあるとしたら、氷朱鷺自身がエデンを城の敷地外に連れ出した時だろうな」
 杉山さんは食べかけのゼリーを脇に置き、真剣な面持ちで両手を組む。
「そう、ですね。私に外出許可を出せるとしたら、氷朱鷺か、それより上の人間でないといけませんよね」
「こう言っちゃなんだけど、今は氷朱鷺から信用を得るために従順なフリをして、時がきたら外に息抜きに出たいとねだるってのはどうかな?」
「そう言えば、ここからかなり離れた地域で花火大会があるんですよ。それを見に行きたいとねだるのも手かもしれません。もしかしたらお忍びで連れて行ってくれるかも」
「名案だ。氷朱鷺にしてみたら既婚の逢引だし、邪魔者を省く為にお供もつけないだろう」
「人混みに紛れて逃げ出したら、GPSを壊してトンズラすればいいんですね」
 私が食べるのも忘れ、乗り気で声を弾ませると、杉山さんは私の反応を見極めるようにこちらを見据えて言った。

「2人が追い剥ぎに襲われた事にして、氷朱鷺だけを闇に葬る」

「……っ?」
 何も食べていないのに喉が詰まる思いがした。
 闇に葬るって、それはつまり……
「氷朱鷺を暗殺するんですか?」
 それを言葉にすると、先程までの和やかな雰囲気が一気に破壊され、重苦しい空気となって私の肩にのしかかる。
「暗殺なんて、実際に実際の追い剥ぎに襲わせたら、それは暗殺じゃなくなる」
「でも殺させるんですよね?」
「反対か?」
「反対も何も……私は氷朱鷺を殺せなかった人間ですよ?」
 そのくせ氷朱鷺が他の誰かに殺されるのも許容しがたい。
「万里の仇でも、か?」
「それでも殺せなかったんです」
「他に手が無いとしても?」
「それは……」
「エデン、目を逸らさずによく考えてみろ。氷朱鷺の愛人として一生を過ごすか、氷朱鷺を消して自由を得るか」
 勿論、氷朱鷺の愛人として一生を終えるつもりはないけれど、氷朱鷺を殺したうえで成り立つ自由に価値はあるのだろうか?
「何もそこまでしなくても……」
 氷朱鷺との事は、今後一切関わらないだけで十分なのに……
「あいつの執着は、あいつ自身を消さない限り無くならない。俺が思うに、氷朱鷺がいる限りお前に本当の自由は無い。あいつは地の果てまでお前を追って来るぞ?」
 だからと言って氷朱鷺をみすみす見殺しにしていいのか?
「……」
 食欲が無くなった。
「考えておいてほしい、というか、そういう事で話は進めておく」
「……」
 何と返事をして良いものか解らなかった。きっと杉山さんは、氷朱鷺を殺せなかった私の代わりに彼を始末しようと言うのだ。
 本当にそれでいいのか?
 氷朱鷺のあの執着的性格は、なにも氷朱鷺だけのせいで形成された訳じゃない。遺伝や恵まれない家庭環境、私の調教の仕方が悪かったせいもある。それを全て氷朱鷺のせいにして亡き者にするのはおかしくないか?
 万里の事だって……氷朱鷺に少しでも良心が残っているのであれば、彼はまだやり直せる。
「納得がいっていないって顔だな」
「一時は氷朱鷺を殺したい程憎んだ時もありましたけど、冷静になって考えると、彼を殺したところで万里は戻って来ないし、そこからまた自分の苦しみを増やすだけだなって思ったんです」
「氷朱鷺が生きてても、現にお前は苦しめられてるだろ?」
 思い詰める私の手を、杉山さんは真正面から握ってくれたけれど、今はそんな気分じゃなかった。
 彼はこの手で氷朱鷺から私を救おうとしてくれているのか、はたまた単に氷朱鷺を殺そうとしているのか、私には判断出来なかった。
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