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疑惑

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 どのくらい時間が経っただろう、気がつけば、ずっと鳴らされていたインターホンもノック音もパタリと止み、暗闇の中に静寂だけが広がっていた。
 私は杉山さんに抱かれ玄関で気を失っていたらしい。彼のシャツの前合わせが私の涙でぐしゃぐしゃになっていた。
 泣き過ぎて瞼が重い。きっと土偶みたいな顔になっているに違いない。暗くて良かった。
「エデン、起きた?」
 頭上から杉山さんの掠れた声がする。彼も心身ともに疲弊していたのだろう、私が起きたのを確認すると、私の肩に額を凭れ掛けてきた。
「今、こんな事を言うべきじゃないかもしれないけど、エデン、万里を守れなくてごめん」
「杉山さんは悪くありません」
「いいや、万里をここに連れて来たのも俺だし、凄く責任を感じてるんだ」
「杉山さんは万里の我儘に付き合ってくれただけだし、逆に、万里の面倒をみてもらって感謝しているんです」
 寧ろ、万里の我儘を止められなかった自分にこそ非があると思った。
「それでも、やっぱり、何か他に出来た事があるんじゃないかって思うんだ」
「私もです。考えたところで何も変わらないのに……不毛ですよね」
 私達の苦しみはきっと全く同じものだが、杉山さんには悔やんでほしくなかった。
「もっと早く、氷朱鷺に電話してもらっていたら、助かったかもしれないのにって……馬鹿ですよね」
「……」
「杉山さん?」
 杉山さんの不自然な沈黙が妙に引っ掛かった。
「氷朱鷺は本当に王女へ電話をしたんだろうか?そもそも万里が初夜に選ばれたのは──」
 杉山さんが急に顔を上げ思いつくさま早口に並べ立てる。
「どうしてトライアル候補にすらあがっていなかった万里がいきなり王女から直々に指名されたんだろう──」
「え?」
「いや、ごめん、こんな時に話す事じゃなかった」
 そう言って杉山さんは私の体を捻って前を向かせ、今度は後ろから私の肩に額を押し付けた。
「俺も混乱してるようだ」
「……」
 私は、何か奥歯に引っ掛かったような気持ちの悪さを感じていた。
 何かモヤモヤする。
 氷朱鷺はちゃんと王女へ電話した筈だ…… 
 でも私は──

『エデン?』

 ドキッとした。
 ドア一枚隔てた向こうから氷朱鷺の声がして、私の体は小刻みに震え出す。
 怖い。
「あいつ、もしかしてずっとドアの前にいたのか?」
 杉山さんも驚いたように引いていた。
「杉山さん……」
 一度震え出すとガタガタと自分の体が制御出来なくなりそれがまた恐怖を煽動し、自分ではどうする事も出来ず、私は杉山さんの胸にしがみつく。いつもはこんな事は無いのに、私の心は万里を失って相当弱っているようだった。
「大丈夫。鍵は掛かってるんだ、入ってこれないよ。俺の家とかマンションに行ければいいんだけど、あんな風にドアの前に張り付かれてたら、出るに出られないよな」
「はい……」
 今は、氷朱鷺と普通に話せる自信が無い。何より、氷朱鷺から傷口に塩を塗られそうで怖い。こちらの感情はお構い無しで、約束を果たせの一点張りを強行されるのは目に見えている。勿論、約束を果たすのは人の道理だが、何か納得のいかないところがあり、流される気にもなれない。
「まるでストーカーだな。よく、今まで無事に暮らしてこれたな……無事だよな?」
 杉山さんが言いにくそうに尋ねる。
「勿論ですよ」
「寝室に行こう。今、部屋を片付けてくるから。すぐだけど、待ってられる?」
『片付ける』というのは、万里の遺品の事だろう。私が目にして辛くなるだろうとの杉山さんの配慮だ。
「はい、大丈夫です」
 私が頷くと、杉山さんは名残惜しそうにその場を離れ、ガチャガチャと部屋中を片付け始める。
 自分だって衣食住を共にしていた弟の様な存在を失って辛いだろうに。
 私がなんだか申し訳ないなと思っていると──
『エデン、そこにいるんだろ?』
 まるで様子を窺っていたかの如きタイミングで氷朱鷺に声をかけられ、私は再度心臓の止まる思いをした。
「……」
 私は音をたてないよう細心の注意を払って座ったまま玄関から後ずさる。
『エデン、頼むから、戻って来て』
 氷朱鷺は縋るように甘い声を吐く。
『俺も焦ってて……エデンの気持ちを考えなかった事は謝るよ』
 私ははなから氷朱鷺の言葉など聞く気も無く、そのままリビングへ逃げ込もうとして、はたと気付く。
 玄関ドアの郵便受けがパカッと開かれ、氷朱鷺のゾッとする程美しくて冷たい瞳がこちらを覗いていて、それと目が合った瞬間、私は悲鳴をあげるように杉山さんを呼んでいた。
「エデン!!」
 驚いた杉山さんに慌てて抱き抱えられ、私は簡素になった寝室のベッドに下ろされる。
「大丈夫か?」
「大丈夫です、ちょっと驚いただけです……いえ、かなりですけど」
 まだ心臓のバクバクが止まらない。まるで超ド級のホラー映画を観てるようだった。
「あれはガチもんのストーカーだな。美少年のストーカーってのもいるんだな」
「勝手に合鍵を作って部屋に入ってくるイケメンも大概ですけど」
「え?」
「いえ」

 変な空気が流れた。

 自覚が無いところがストーカーなんだよな。ただ、杉山さんと氷朱鷺とではこちらの感じ方が違うせいか格差がある。杉山さんのは単に図々しいだけって感じだが、氷朱鷺のは笑えない怖さがある。
「あれ、お前が寝てる間もずっと見てたんかねぇ」
「やめて下さいよ、凄く怖いです」
 私はもう、腰が砕けて立ち上がれそうにない。
「なんであんなにエデンに執着するんだか」
 杉山さんが呆れたように自身の乱れた前髪を掻き上げる。
「私を命の恩人だと思ってるんですよ」
「それにしたって、恩と愛情は別の話だと思うけど……」
「私だって杉山さんには恩を感じているし、それとは別に愛情も持ってます。根本は同じなんだと思います。それで言うと氷朱鷺も私も似た者同士なんですよ。ただ、氷朱鷺は実直で不器用だから……」
 こうして氷朱鷺の事を理解しようとは思うし、今までもそうしようとは思ってきたが、一度綻びが生じると、彼を信じるのが難しくなってくる。
 別に氷朱鷺が何か悪い事をした訳ではない。私の、氷朱鷺を見る目が変わっただけなのだ。単に私が氷朱鷺を怖がっているというだけで、彼自身は何も変わらない。
「だからと言って相手を怖がらせるのは良くない」
「無自覚なんだと思います……杉山さんと一緒で」
「ん?」
「いえ」

 変な空気が流れた。

「とにかく、ずっとこのままって訳にもいきませんし、氷朱鷺の献上も間もなくだと思うので落ち着いたら帰ります」
 いずれは氷朱鷺と対面しなければならないのだ、調教師としてちゃんとけじめはつけなければ。
「いや、駄目だろ。氷朱鷺との約束はどうする?向こうは自分の献上が近いってんで焦ってるだろ。献上される前にお前を物にする気なんだからな。あいつが引くとは思えない」
「なんとかします」
「……エデン、俺が嫌なんだ。正直、俺はもう調教師じゃない。暫くしたらここを退去しなければならないから焦ってる。そうなるとお前を守ってやれなくなるだろう?」
 私は杉山さんからヒシと胸に抱き留められた。彼は柔和なイメージだが、シャツの下には程よく鍛え上げられた鋼の筋肉があり、私をスッポリと覆い尽くして安心感を与えてくれる。
「そりゃ心細いですけど、氷朱鷺は私が拾って来た子ですから、最後まで責任を持ってお世話しないと。私はあの子の親代わりで調教師ですから、怖がってばかりもいられません」
「親代わり、ね……エデン、俺との婚約はまだ生きてる?もう破棄したつもりでいる?」
「私は……反故にしたくはありません。でも、そうなると氷朱鷺を騙した事になるので……」
「エデン、お前は真面目過ぎるよ。そして素直過ぎる。そんなんじゃあ知らぬ間に悪い男に騙されても気付かないよ?」
「杉山さんとか?」
「いや、氷朱鷺な」

 気まずい空気が流れた。

「──それが、私は万里を失って前後不覚になっていたせいか、よく考えたら氷朱鷺は何も悪い事はしていないなって思ったんです。確かに、彼はちょっと強引で空気が読めていませんでしたが、こっちが勝手に怖がって突き放しただけで、彼は彼のままだったんですよね。そう思うと少し気の毒になって」
「どう……だろうな?俺はちょっと、氷朱鷺の事は信用してないから、なんとも。全てがエデンへの愛ゆえの行動なんだろうけど、行き過ぎてる感が否めない」
 ピリピリピリピリピリピリピリピリッ
「電話だ」
 杉山さんの尻ポケットでスマホが鳴り、彼がスマホを取り出して画面に目をやると、すぐさま眉間に皺を寄せる。
「エデン、部屋にスマホを置いてきただろう?」
「えっ、はい」
 バタバタしていてスマホにまで気が回らなかった。
「氷朱鷺からだ」
 そう言って杉山さんから見せられたスマホの画面には『多摩川エデン』という名前が表示されていた。恐らく、私に連絡がつけられないので氷朱鷺が私のスマホを使って杉山さんのスマホに電話しているのだろう。
「よっぽどお前が心配らしい」
 今日くらいそっとしておいてほしいのに……
「……出ます」
 私がスマホに手を伸ばすと、杉山さんは首を横に振ってそのまま着信を受けた。
「はい」
『──────』
「駄目だ」
『───?』
「エデンはお前を怖がってる」
『────』
「スピーカーにしろって?これ以上エデンを怖がらせるな。お前だってこれ以上エデンに嫌われたくないだろう?」
『──────』
『駄目だ。エデンも嫌がってる』
『───』
「本当だ。俺の腕の中で震えてるよ」
『──────!!』
「俺はエデンの婚約者だからね、触れて当然だ。それに約束が果たされた証拠も無いのに婚約を破棄する訳無いだろう?お前こそたかだか献上品の分際で人の婚約者に執着するな」
『──────!!』
「怒鳴るなよ、エデンが怖がるだろ?」
『──────!!』
「まったく、子供だな。エデンを返せって?別に俺はエデンを監禁してる訳じゃない。エデン本人がここに居たいから居るんだ。お前は、エデンが部屋を出て行った理由を反省するのが先じゃないのか?エデンは家族を失ったんだぞ?もっと労ってやれよ……会わせる気は無いけど」
『──────!!』
「駄目だ。俺の部屋の前に張り付くのもやめろ、ストーカー。じゃあな」
 そう言って杉山さんが電話を切った後も氷朱鷺から着信が入り、彼はうんざりしながらスマホの電源を落とした。
「しつこい奴だな。お前に会わせろって喚いてたよ。静かな奴だと思ってたが、お前の事となると見境が無くなるらしい」
「声はあんまり聞こえませんでしたけど、やり取りを聞いていて何となく内容は解りました」
 確かに、よほど心配しているようだ。私が杉山さんと城の外に外出した時もかなり怒っていたし。それが一夜を共にしたとなると……筆舌に尽くしがたいのだろう。
「帰りたくなった?」
 杉山さんが私の顔を両手で挟み、上を向かせる。
 彼は上からじっと私を見下ろし、真意を探っているように見えた。
「え?」
「氷朱鷺が恋しい?」
「いえ、そういんじゃないですけど、氷朱鷺としては親から捨てられた気になってるのかもって思ったら、罪悪感が出てきて」
「エデンはお人好しだな。お前は何があろうと氷朱鷺を見捨てないんだろうな」 
「ここに来る時、氷朱鷺と約束しましたからね。絶対に見捨てないって」
「そうか。お前らしい……でも、ここぞという時には厳しい決断も必要だと思うよ」
 そう言うと杉山さんはシャツの胸ポケットから小さく折り畳まれた2つの紙切れを取り出し、私に差し出した。
「?」
「これ、最期に万里から預かったんだ。1つはお前に、もう1つは氷朱鷺にって」 
「万里……から……」
 私はゴクリと大きくツバを飲み込む。
 万里が遺した最期の言葉?
 それは遺言書というより、まるで遺書の様に思えた。
「まだ見られないと思うから、持ってるだけ持ってるといい」
「はい、氷朱鷺のは、私が後で渡しておきます」
 私がそう言って紙切れを掴むと、杉山さんがグッと紙切れを持つ手に力を込めた。
「氷朱鷺の、中を確認しなくていいの?」
「え?」
「何が書かれているか、知りたくない?」
 杉山さんから恐い顔で尋ねられ、私は後ろへ少し引いた。
「人の手紙ですよ?見てどうするんですか?」
 勝手に拝見するのは倫理に反する。
 それに多分、万里の事だから今までありがとうとか、別れの挨拶を書いたに違いないし。
「いや、エデンがいいならいいんだ。忘れてくれ」
 杉山さんが手の力を緩めたので、私はその2つの紙切れをサッと引き抜き、シャツの胸ポケットにしまった。
 杉山さんは何故そんな事を言ったのか?
「杉山さんは中を見たんですか?」
「見てないよ。見るとしたら、エデンじゃないとって思ってたし。あれからもう日付が変わって朝になるから、何か食べないか?食欲が無いかもしれないけど、ちゃんと食べて、寝て、それから落ち着いたらあの崖に花を手向けに行こう」
「……そうですね」
 人づてに弟の死を知らされただけで死体を見た訳ではないからはっきりとした実感は無いけれど、万里が亡くなったあの崖に花を手向けてしまったら、万里はもう二度と戻って来ないと認めるようで怖かった。

 でも、ちゃんと行かなければ。

「無理して向き合う事もないんだぞ?」
 杉山さんから何度目かの強いハグをされ、私はその優しさに泣きそうになる。
「はい」
「お前はもっと後ろ向きでメソメソしていてもいいと思うぞ」
「はい」
「お前には無理、か」
「はい」
 私は再び大泣きしそうになるのを歯を食いしばってグッと堪えた。
 私はお姉ちゃんだから泣いてばかりいては駄目だ。なんせ万里は頼れる私が好きだったんたから……
 万里が初めて私の名前を呼んだ時、万里が初めて立った時、私は早く大きくなって彼を養いたいと思った。万里はいつも私の原動力となってくれた。私の弟であり、息子でもあった。それが一瞬で奪われ、私は一体──

 ──誰を恨んだらいいのだろう?

 王室を?王女を?それとも法を?
 悲しみをやり過ごしたと思ったら、やるせない怒りが込み上げてきてどうにかなりそうだった。


 それから2日間程杉山さんの部屋に留まり、その間、何度かこの部屋のインターホンが鳴らされたり、ドアをノックされ遂に2日目の朝に自室へ戻る事を決断した。
「エデン、大丈夫なの?」
 私がソファーで緊張していると、杉山さんが隣に腰掛けながらコーヒーの入ったマグカップを渡してくれた。
「なんか、2日も顔を合わせなかった事が初めてで緊張してます。あんな別れ方もしましたし。でもこれ以上杉山さんにご迷惑をお掛けする訳にもいきませんし」
「俺は行かせたくない派なんだけどな?」
 ハァと杉山さんから盛大にため息をつかれ、私は困って眉をハの字にする。
「そんな訳にはいきません。調教師の務めも休んでますし、氷朱鷺をこのままほったらかしにしておくのも許されませんから」
 杉山さんの心配も最もだが、私は私の責任を果たさなければならない。
 それに、献上される前に氷朱鷺ともちゃんと話して和解したい。こんなモヤモヤしたまま離れ離れになるのは何か違う気がする。

 ただ、話が纏まるかは別として……

 自信が無い。
 正直、私は今でも氷朱鷺が怖い。特に何かされた訳でもないが、あのガラス玉みたいな無機質な瞳に魅入られると体が硬直しそうになる。フランス人形とか綺麗に整ってて無機質な物に起こる不気味の谷現象とよく似た現象だと思う。
「ハーーーーーーーーーッ、俺も付いて行きたい」
 杉山さんから物凄く深いため息をつかれ、私も気が引けたが、なんやかんやと理由をつけてはその申し出を丁重にお断りした。
 氷朱鷺と杉山さんをかち合わせたら纏まる物も纏まらなくなる。それこそ和平協定が決裂しかねない。絶対に2人を会わせてはいけない──杉山さんは全然納得していない様子だったけど。
「何かあったらすぐに連絡して。俺はエデンが調教師の仕事から解放されるまでこの部屋に居座るから」
 杉山さんから自然な流れで額にキスされた。
「お金の力でですか?」
「お金の力だね」
「節約して下さいね」
「そうだね、しめるとこはしめるよ」
 これは分かってないな。
「じゃあ……行ってきます」
 私は背伸びをして不自然な挙動で杉山さんの頬にキスをしようとして、それに気付いた彼がやりやすい様に身を屈めたのでそこに音のしない不粋なキスをした。ふと、氷朱鷺に言われた『エデンはキスが下手だね』という言葉を思い出して自分を恥じた。
「必ず戻って来てね。ここにじゃなくて、俺の元にね」
「勿論です」
 このまま杉山さんとずっと一緒にいられたら、なんて、無責任な願いかもしれない。
 そう思いながら私は玄関ドアのドアスコープを確認し、氷朱鷺がいない事が判ると杉山さんの部屋を出た。
「良かった、いない」
 いや、自分と氷朱鷺の部屋に戻るんだからここで安心するのも変な話だ。いずれは顔を合わせる予定だったし。
 けれども私は覚悟して杉山さんの部屋を出たのにも関わらず、コソコソとこそ泥の様に自分の部屋の鍵を開け、音がしないようにドアを開けて中を確認する。
 氷朱鷺の靴がある。風呂場の方からは水の流れるシャワーの音がした。

 ご在宅だ。

 午前は献上品のマナー教室の講義の予定だから留守だと思っていたが、どうやら氷朱鷺はサボってシャワーをしているようだ。
 ど、どうする、自然とソファーに座って『ただいま』なんて言うのか?
 いやいやいや、不自然過ぎるだろ。これならいきなり鉢合わせして流れに任せた方が全然楽だった。
 一度出直すか?
 いや、せっかく覚悟を決めてここまで来たんだし、そんな事をしていたらいつまでたっても氷朱鷺と和解なんか出来ない。ここはプレッシャーに耐えてソファーで待とう。
 私は意を決し、そろそろとリビングへと入るとソファーに腰掛けた。
 大丈夫。杉山さんからスタンガンを持たされたんだから、体格差があっても何かあったらこれで対処出来る。 

 ……でもスタンガンって、相手に抱きつかれた時に使ったら自分も感電しないか?
「……」
 やばい、不安になってきた。
 手汗が凄い。
 というか、なんで私は何年も一緒に生活してきた教え子相手にこんな怯えているんだ?
 前はこんなじゃなかった筈だ。
「~~~~~~~」
 サーーー……
 シンと静まり返った室内にシャワーの音だけが響き、なんとも生々しい。
 これは普通に氷朱鷺と遭遇するよりもずっと気まずいシチュエーションじゃないか?
 帰りたい。
 いや、ここが自分の帰る場所(部屋)なんだけど……
 サーーー……
 何だ、この緊張感!
 耐えられない。
 氷朱鷺の奴、何でマナー教室をサボるんだよ。
 私も調教師の仕事を休んでたけど(ちゃんと杉山さんが連絡済み)
 そうだ、テレビをつけよう。テレビをつけて場の空気を和らげよう。氷朱鷺にも人の気配を先に知らせておいた方がワンクッションあっていい(?)かもしれない。
 私が立ち上がってダイニングテーブルにあるリモコンを取ろうとすると、キュッと水道の蛇口が締められる音がして、驚いた私は派手にリモコンを落とした。
 リモコンは激しくフローリングに叩きつけられ、結構な衝撃音と共に二本の乾電池を弾き出す。
「~~~~!!!!」
 私は声にならない声を漏らし、慌ててリモコンと乾電池の行方を追う。
「エデン?」
 私が四つん這いでダイニングテーブルの下に転がっていた乾電池に手を伸ばすと、いきなり近くで氷朱鷺の声がして心臓が跳び上がった。
 乾電池のその先、テーブルの下から氷朱鷺の濡れた素脚が垣間見える。

 最悪だ。

 裸の氷朱鷺と、四つん這いで乾電池を拾い上げるこそ泥(調教師)何とも間抜けな再会か。
「あ、あのっ」
 私はリモコン本体を諦め、急いで頭を上げると、言わずもがな下からダイニングテーブルに後頭部を強打した。
「いったぁ……」
 これはヒビが入るレベル、の痛みだった。
 私は頭を抱え、ゆっくり立ち上がってテーブルに片手を着く。
 ぶつけたところがジンジンする……
「エデン、大丈夫⁉」
 氷朱鷺が腰にタオルだけを巻いた格好で慌てて私の所へ駆け付け、私はその極近の距離感からびっくりして両手を前に突き出した。
「待て待て待て待てっ!!!!」
 ピタリと氷朱鷺の手が止まる。
「なんで?」
 氷朱鷺の洗い晒した髪から水滴が落ち、私のシャツの袖を濡らす。その冷たさがリアル過ぎて居心地が悪い。というか、この距離感で落ち着いて話し合える訳がない。心臓がバクバクで血圧もパンクしそうだ。
「なんでって……」
 そりゃあ……
「怖いの?」
 そうに決まってる。
「それは……」
「裸だから?」
 両方です。
「怖がらせないから触ってもいい?」
 氷朱鷺が突き出された私の両腕を脇に寄せ、一歩前へ前進する。その距離、体感にしてゼロメートル。氷朱鷺の素肌が肌で感じられる程近く感じた。
「怖がらせないなら触るな。てか、なんで触る必要がある?」
 私が後ろに下がった分、氷朱鷺もまた同じかそれ以上に距離を詰めてきて、気がつけば私はダイニングテーブルに腰を乗り上げていた。
 に、逃げ場が無い。
 浜辺に打ち上げられた鯨というか、まな板の鯉というか、初っ端から絶体絶命という大ピンチだ。
「ずっと会いたくて堪らなかったから。エデンには悪い事をしたと思って謝りたかったし」
「だったら離れろ。こんなんじゃあまともに話しが出来ない」
「どうして?」
「どうしてって、怖がらせないんじゃなかったの?」
「触ってない」
 そう言って氷朱鷺は両手を掲げて見せる。
「触らなくても充分怖いんだよ」
 その圧が。
「別に怖がらせるつもりは無い。エデンが勝手に怖がってるだけだ」
 そりゃそうだけど……
「人のせいにするな──って、何、勝手に人の体の匂いを嗅いでるんだよ!!」
 氷朱鷺がクンクンと犬の様に私の首元から腰の辺りまでを嗅ぎ、私は体を強張らせた。
 氷朱鷺のツンと尖った形の良い鼻が触れるか触れないかの絶妙な間隔で私の身体を行き来する。それはそれは焦らしともとれる無駄にエロティックな情景で恥ずかしさで身体中が上気した。
「嫌な匂いだ」
 失礼だな。
「ちゃんと風呂には入ってた」
「へぇ、あいつんちの入浴剤って桃の香りなんだ?それに煙草の匂いも少し。一緒に入ってたりした?俺にはそんな気分じゃないって言ってたけど」
 氷朱鷺が私の下腹部の辺りからこちらを見上げ、目が合うと、私はあの日郵便受けの向こうから見えた彼の瞳を思い出し、背筋が凍る。
 蛇の様な、纏わりつく嫌な視線だ。
「喪中にそんないかがわしい事、する訳ない」
「まあ、そうだね。ごめん、信じるよ。でもこの匂いは気に食わないからシャワー浴びて来てよ」
 氷朱鷺は上体を起こし、腰と口元に手を当てて暫し考え事をした後、私の肩をグイグイ押して風呂場の方へと追いやる。
 こいつ、本当に反省してるのか?
 有無を言わさず脱衣所に押し込められ、私は仕方なくシャワーを浴びた。
「なんでこんな事に……」
『エデン』
「!!!!」
 私がシャワーを済ませ、壁に手を着いて気落ちしていると、いきなり脱衣所から氷朱鷺に声をかけられ、心臓が止まるかと思った。いや、多分、軽く2秒ほどは止まったと思う。
 すりガラスの向こうに氷朱鷺の人影がボンヤリ浮かび上がり、それもまた私の恐怖心を掻き立てた。
 何、この無駄なスリル。
『開けるよ?』
「なんでっ⁉」
 突然の宣言に、私は慌ててすりガラスのドアを押さえる。下がりかけたドアノブのバーをすんでの所で阻止し、私は短く息を吐いた。
「開けるな。なんなの?」
 さっきから一体なんなんだ?
『自分の手で洗った方がちゃんと匂いを取れると思って』
「お前が私の体を洗うって?」
『そう』
「そう、じゃない。体くらいちゃんと自分で洗える」
 だからもうほっといてくれ。
 何も考えたくないのに、疲れる。
『じゃあ入るよ?』
「開けるなって言ってんのに、何で入ってくるの?」
 いかれてる。
『……』
 お、黙った。
『エデン、そこに立ってると全身が透けて見える』
 あー!もー!!
「もう一度洗い直すからとにかく出てって!!」
 私は人生でこんなにも声を荒らげた事は無い。
『……分かった』
 氷朱鷺の影が脱衣所から消えるのを確認し、私はいつ、また彼がやって来てドアを開けやしないかとハラハラしながら大慌てで体を洗い直した。

 大急ぎではあったが、私は全身の隅々まで洗い上げ、桃の香りをシトラスの香りで上書きする事が出来た。
 本当に疲れた……
 私はげんなりしながら脱衣所に出ると、脱いだ物を入れた籠に手を突っ込み、青くなる。

 無い。

 脱ぎ捨てた服どころかバスタオルも無い。
「はぁ⁉」
 代わりに置かれていたのは白いエプロンのみ。
 ふざけてる。
 裸にエプロンでここを出ろって言うのか?
 イタズラにしては度が過ぎてる。悪趣味だ。
 さすがの私も堪忍袋の緒が切れた。
「氷朱鷺!氷朱鷺!」
 私が脱衣所のドアに向かって怒鳴りつけると、ドアのすぐ向こうから氷朱鷺の返答がくる。 
『どうしたの?』
 え、ずっとそこにいたの?
 なにそれ、怖い。
「ふざけるのも大概にしろ。何が、私に悪い事をしたと思って謝りたかっただ!」
『それは本心だったけど、エデンからあいつの匂いがするし、着替えを用意してあげようと思ったら脱いだ物からスタンガンが出てくるし、さすがの俺でも頭にくるだろ?俺はただエデンが好きでやり直したかったのに、凄く傷ついたんだ』
「それは……」
 確かに、話し合って和解しようというのにスタンガンを隠し持ってそれに挑もうというのは信頼を裏切る事になる。
「ごめん、謝る」
 私は返す言葉もなく、しおらしく謝罪した。
『じゃあ開けるよ?』
「だから開けるなよ」
 何故そうなる?
 私はいきなり半開きになったドアを内側から力いっぱい押し返す。
『開けないと着替えを渡せないよ』
「隙間から着替えだけを差し入れればいいでしょ。なんで全身で入って来ようとするの⁉」
 しかも全力で。
『手渡しが基本だから』
「何の?」
 駄目だ、話が通じない。
 頭痛くなってきた。
『嫌なら着替えは渡さない』
「このっ……」
 イラッ
『それにそこに着替えはあるんだから大人しくそれを着ればいいじゃないか』
「着替えって、エプロンじゃない!」
 これは着替えじゃない。前掛けだ。
『嫌なら裸で出ろ。俺はその方がいいけど』
 氷朱鷺は冷たい声音でそう吐き捨てた。
 なんだ、この、氷朱鷺の傲慢な物言いは、最近特に酷いじゃないか。反抗期にしては激し過ぎないか?
 なんだってこんな仕打ち……
『じゃあ、リビングで待ってる』
「待て!氷朱鷺!」
 スタスタと氷朱鷺が去りゆく足音がして、私は愕然と膝から崩れ落ちる。
 完全に氷朱鷺のペースだ。
「サド野郎……」
 今まで猫を被っていたのか?
 とんだ小悪魔じゃないか。

「……」

 寒い……

 今日は春の陽気だが、陽の差さない脱衣所は全裸にはだいぶ厳しい気温だ。
 私は両脚を抱え、体育座りで体を震わせる。
 床が冷たい。
 どうする?
 いつまでもこうしていられない。
 氷朱鷺の思惑通り裸にエプロンを?
 屈辱的過ぎる。これじゃあ、献上品である氷朱鷺にいいように調教されてるみたいじゃないか。
 何の罰だよ。
『エデン』
「うわっ」
 いつの間に脱衣所のドアの前に来たのか、氷朱鷺の声がした。心無しか優しげな口調なのが逆に気味悪い。
『そんなに驚く事ないだろ?』
「驚くわ」
 普通、誰でも驚くだろ、普通。
『いつまで出て来ないつもり?風邪ひくよ?』
 呆れたような氷朱鷺の声とため息が聞こえた。
「誰のせいだよ」
『自業自得だろ?』
 氷朱鷺は、私が杉山さんちに逃げ込んだ事や、スタンガンの件を未だに怒っているようだ。
「……」
『大人しく裸エプロンをすればいいだけの話なのに、どうしてそう頑なかなぁ?』
 逆に出来るか?裸エプロンを。
「それは裸に匹敵するくらい恥ずかしいからに決まってるだろ」
『俺も裸だけど?』
「お前は服を着ろ」
 寧ろなんで着ない?
 それで同調圧力でも掛けてるつもりなのか?
『そんなに俺に裸を見られるのが嫌?』
「嫌」
 私は食い気味に答えた。
『でもあいつには見せれるんだろ?』
「杉山さんに?」
 ああ、そうか、この一連の悪ふざけは杉山さんに対する対抗心か。馬鹿馬鹿しい。私を試しているのか?
 そんなもの、対抗するまでも無いじゃないか。
「婚約者だからね」
 私は素っ気なく返す。
『もう婚約者じゃないだろ?だから二度と見せるな』
 痛いとこを突いてくるな。
『約束の話』か、それを言われると何とも返答に困る。元々はその話をしに来たのだけれど、確かに私も『約束する』と言った手前かなり部が悪い。
「……」
『まあ、俺が───』
「?」
 何だ?
 独り言のように呟かれた氷朱鷺の声は私の耳まで届かなかった。
『とにかく、裸が嫌ならエプロンを着ければいい』
「マリー・アントワネットみたいに言うな」
 パンが無ければ──ってやつだ。
『別に裸を見られる訳じゃないし、すぐに着替えれば問題ないだろ?前から見たらワンピースにしか見えないんだし』
「お前、最低だな」
 だったら何でワンピースを用意しなかった?
 イタズラとかペナルティにしては癖が主張してないか?
 さてはこいつスケベなのか?
「……分かった。分かったからどっか行って」
 いくら討論してもこのままじゃあ平行線を辿るだけだ。仕方が無い、ここは恥をしのんでエプロンを着よう。バックさえとられなければただのワンピースだ。そう、これは白いワンピースなんだ。
 ──と、自分に言い聞かせなければとてもやってられなかった。
『じゃあ待ってる』
 私はドアに聞き耳をたてて氷朱鷺がその場から離れるのを確認すると、おずおずとエプロンを着用する。
 あいつ、最低だな。
 最悪の気分だ。
 体の後ろ半分が無防備でスースーする。
「スー、ハーーーーーーッ」
 私は大きく深呼吸し、そっと脱衣所のドアを開けると、モジモジしながらリビングへと出た。
「へ、ぇ……」
 腰にバスタオルだけを巻いたままソファーで脚を組んでいた氷朱鷺が感嘆の声を漏らす。
 だからお前は服を着ろ。まるで風呂上がりに、コスプレしたデリ嬢を待つ客みたいな図になるじゃないか。
「あのエデンが裸エプロンだなんて、なんかアイコラでも見てるみたいだ」
 アイコラとは?
「あのエデンがねぇ……」
「こっち見んな、ど変態、むっつりスケベ」
 上から下まで舐める様に見つめられ、私の全身に鳥肌が立つ。
「中性的とか言われてたけど、俺も男だからね。認めるよ」
 氷朱鷺に『こっちこっち』と手招きされたが、私はシカトして寝室のクローゼットに着替えを取りに歩き出す。
 そっちに行ってやる義理なんか無い。
「せっかくだからそのまま昼食を作ってよ」
「嫌」
 私は氷朱鷺に目もくれず歩調を速めた。
「裏側も見たい」
「嫌」
 私はわざと氷朱鷺に裏側を見せないように少し斜め加減で歩く。
「じゃあ、せめて写メだけでも残しておこうかな?」
 と氷朱鷺が言ったかと思うと、あろうことか彼は自分のスマホを取り出し、私にスマホのカメラを向けた。
 嘘でしょ⁉
「ちょっ、止めっ──」
 私が氷朱鷺からスマホを取り上げようと手を伸ばすと、彼は待ってましたと言わんばかりにその手を掬い取り、私を体ごと自分の膝の上に引きずり込んだ。
「いたた……」
 腹から氷朱鷺の膝にダイブしたものだから鳩尾を軽く殴られた様な痛みを伴った。
「はは、まるで小さい子にお仕置きするみたいだ」
 私はお尻を突き出した状態で氷朱鷺の膝に突っ伏している事に気づき、慌てて身をひっくり返そうとするも、氷朱鷺に肘で背中を押さえ込まれ、空いた手で尻をぶたれた。
「痛っ!!」
「どう?自分が育てた献上品に尻をぶたれる気分は?屈辱的だろ?」
「お前最低だな」
 私はジタバタと足をバタつかせ、なんとかそこから抜け出そうとする。
 ああ、そうさ、尻丸出しでこの上もない屈辱だよ。氷朱鷺の視線が嫌って程恥部に注がれていっそ死にたいくらいさ。
「ごめんね。でもこれは罰だよ。伊達男の所に連泊なんて悪い子だからね。エデンには可哀想だけどちゃんと確認しないとね」
 確認だって?
 何が?
 っていうか、そんなに白くて細い腕をしてるくせに何でこんなに馬鹿力なんだよ。全然びくともしないじゃないか。
 力で捻じ伏せられる屈辱も私のプライドをズタズタにするには充分な材料だった。
「離せっ!!」
 今度は羞恥とかそんな事より、スルスルと股の間に挿し込まれた氷朱鷺の冷たい指が躊躇いも無く私のあすこに這わされ、その気持ち悪さに脚を強張らせた。
 冗談じゃない。
「何してる⁉今すぐ止めろっ!!」
 私は一層激しく暴れる。
「エデン、暴れると怪我するから大人しくしてて。別に俺はエデンを傷付けたい訳じゃないんだ。怖い事はしないから、ちょっと我慢して」
 出来るか、ボケ‼
 怖いわ、すボケ!!
「辛いだろ?ほら、力を抜いて」
 一瞬、氷朱鷺の指がどこかへ行ったかと思うと、すぐにヌルッとした感触になって戻って来た。
「濡らしたから、さっきよりは楽な筈だ」
 グッグッと氷朱鷺の中指が私の入口の辺りをノックし、ゆっくり、慣らしながら慎重に、少しずつ侵入してくる。
 氷朱鷺の言う通り、傷付けようとする指使いではないが、その動きが愛撫を含んでいて気持ちが悪かった。
「うぅ……痛い。気持ち悪い……」
「大丈夫、今日のところは最後までしないから安心して」
 今日のところは?
 最後までしないって、どこまでするの?
 ……………最後って?
「氷朱鷺ぃ……」
 私は感じたことの無い異物感に胃がせり上がり、氷朱鷺の太腿に爪をたてた。
 吐きそう、上手く呼吸が出来ない。
 私には、ただ鯉みたいに息を吸って耐えるしかなかった。
「痛い?」
「痛……い……」
 私はコクコクと何度も頷き、氷朱鷺の太腿に顔を埋める。
 指姦してくる男にしがみつくとか、情けない。
「分かった。じゃあ可哀想だからもう止めるよ」
 氷朱鷺の指がすんなり私の股から離れ、私は全身の力が抜け、詰めていた息をいっきに吐き出す。
「よく頑張ったね、偉い偉い」
 氷朱鷺はイイコイイコするみたいに私の頭を撫でた。
 舐めてる。けど、氷朱鷺の手を払い除ける事も、怒る気力も今の私には無い。
「……」
「酷い事してごめんって。でも凄く可愛かった」
 何が……
 人をこんな辱めておいて、よくもそんな半笑いで優しい声がかけられたもんだ。
 そして労るように私の腰を撫でてくる氷朱鷺の行動も理解出来ない。だったら最初からこんな事をするなと思う。
「ごめんごめん、いきなり下半身から攻められて辛かったね。本当はこのままエデンを犯す事も出来たけど、見てるこっちが辛くなるくらい可哀想になっちゃって、とりあえずその反応を見るに無事にあいつの所から戻って来たみたいだから、今は我慢するよ」
「無事に……?」
 ああ、氷朱鷺は、私が杉山さんに貞操を奪われてやしないかと確認したかったのか。私にシャワーをさせるくだりから裸エプロンのくだりまで全て氷朱鷺の策略通りだったって事か。呆れた。なんて狡賢いんだ。そしてこいつはいつから猫を被っていたのか、考えただけでもゾッとする。
「杉山さんは喪中の人間に関係を迫るような低俗な人間じゃない……少なくとも、お前とは違って紳士だ」
 私は手足を投げ出したまま無気力で答えた。
「……随分な言い草だね。俺は見せたくないけど、さっきの写メをあいつに送ってやってもいいんだよ?」
 氷朱鷺の声が一段低く圧し殺された。
 さっき、シャッターを切っていたのか?
「やめろ、サイコパス」
「なんなら、今、杉山さんをここへ呼ぼうか?」
「⁉」
 狂ってる。私と杉山さんを引き離したいにしてもやり方が汚すぎる。少なくとも、良心のある一般人はそんな事をしない。
「エデンの裸エプロン姿を見たら、さすがの杉山さんでも、エデンが無理矢理そんな格好をさせられたとは思わないだろうね。俺とコスプレを楽しんでいるようにしか見えないよね」
 氷朱鷺は人を脅してこの状況を楽しんでいるようだった。
「やめろ」
 この状況を見たら、100人中100人が変な誤解をして私を軽蔑するだろう。いくら私が杉山さんとの婚約破棄を覚悟していたとは言え、こんなふしだらな格好を見られてフラれるのはプライドが許さない。
「どうせ婚約破棄するんだから、わざわざ別れ話するより話は早いんじゃあない?」
「いかれてる」
「この状態で電話して呼んでみようか。エデンのスマホからかけたら飛んで来るだろうよ?」
「このっ!!」
 私は体に力を入れるも、氷朱鷺から両腕でしっかりとホールドされる。
「ああ、エデン、入って来る時、鍵はかけたっけ?」
「ここはオートロックだ、馬鹿!」
「そうだよね、残念。でも、ま、エデンのこんな姿は誰にも見せたくないからいいか」
『こんな姿』のところで氷朱鷺に尻を撫でられ腰がゾワッとした。
 珍しく鼻歌まで歌って上機嫌なのが鼻につく。
「……」
「ごめんごめん。そんなに落ち込まないで。本来、調教師は献上品に股を開いて指南するもんなんだから、これは自然な事だよ。なんなら、これが調教師と献上品の本来あるべき姿なんだから」
「うるさい」
「今日のところはここまでで勘弁してあげる。ごめんね、エデン。初めての経験で戸惑っただろ?俺はただどうしても確認したかっただけだから。義弟と言えど、家族を失ってショックだっただろうし」
 義弟だって?
 何を言っている?
 私と万里があまりに似ても似つかないからか?
「義弟?万里は実の弟だ。もう用が無いなら離せ」
「実の弟?」
 私の尻を撫でる氷朱鷺の手が止まった。
「そうだ。戸籍謄本も見た」
「……」
「何?」
 不自然な沈黙の後、氷朱鷺は意外とすんなり私を解放した。
「いや……本当に、酷い事をしてごめん」
「?」
 氷朱鷺はずっと嘘くさい謝罪ばかり口にしていたが、今のはこれまでで最も重みのある一言だと思った。
 急にどうしたんだ?
「シャワーし直しなよ、ヌルヌルしてるだろ?」
 セリフはセクハラなのだろうが、いかんせん氷朱鷺の元気が無くなって調子が狂う。
 私は氷朱鷺の気が変わる前にと急いで彼の膝から下り、ソファーの裏に落ちていた衣類(私が着てきた服)をかき集めて風呂場へ直行した。

「はぁ……」
 私は衣類ごと風呂場に飛び込むと、その場にへたり込む。今になって膝が笑い出したのだ。
 今まで自分の力を過信しすぎていた。氷朱鷺に全然敵わなかった。
「献上の日までどうする?」
 杉山さんの部屋に戻るか?
 でも、そうすると氷朱鷺は献上品の講習に行かなくなるし、どっちみち献上品の詳細な健康管理は調教師がやらなければならない。
 寝る時だけ杉山さんの所に戻る?
 そう思った時、先刻の『お仕置き』を思い出して目眩がした。
 私が杉山さんの所に行く度にあんな『お仕置き』をされてはたまったもんじゃない。
 刺された方がどれだけマシだったか。
「とにかく早くスッキリしたい」
 その思いだけで私は頭から熱いシャワーを浴び、氷朱鷺の指使いを思い出さないよう雑にその部分を洗うと、ムチンの様な不快なぬるつきを指先に感じ、胸がムカついた。
「なんで」
 氷朱鷺に触れられてあんなに吐き気がしたのに、私の身体はちゃんと反応していて、自分の身体ながら無性に気持ち悪かった。
 そして、婚約者である杉山さんを裏切ったような後ろ暗さに胃が痛くなる。
 よくエロビ(教材)で『口では嫌がっているのに身体は正直だな』なんてセリフがあるが、あんなものはストーリー上の演出なのだと思っていたが、実際に自分の身にそんな事が起ころうとは夢にも思わなかった。ましてや相手が実の弟のように思っていた氷朱鷺だ、罪悪感が半端ない。死にたいくらいの恐ろしい自己嫌悪だ。
 なんでなんだ?
 氷朱鷺に対する恋愛感情なんかこれっぽっちも無いし、触れられても、快感どころか憎悪しかなかった。それがどうして?
 ……

「条件反射だ」

 そう、これは条件反射なんだ。
 多分、初対面の相手でも同じ事が起こるんだと思う。脚気の検査と同じだ。自分が淫乱な訳でも、氷朱鷺に対する他意がある訳でも無い。

 後で調べて判った事だが、一説によると、女性は強姦されそうになると自身の身体を守ろうとして体液を分泌するのだという。
 あれも、そういう事だったのだろう。

 シャワーから出ると、涼しい顔をした氷朱鷺が服を着てソファーに座っていた。そして私の顔を見るなり昼食をねだってくる。
「最近まともに食べてなかったから、何か胃に優しい物、作ってよ」
 確かに、氷朱鷺は数日前より頬がこけて見える。それに心無しか顔色も悪いし、あまり寝てないのか目の下のクマも凄い。これでは献上品の規格から外れてしまう(献上品は健康体が絶対条件。故に調教師は皆栄養士の資格を取得させられる)
 やっぱり、ちゃんとそばにいて健康管理をしなければならない、か…… 
 憂鬱だ。
「分かった。今、お粥を──」
 キッチンで鍋を取り出そうとして思い出した。

 万里が風邪をひいた時、私がお粥を作っていたなあ。

 目の奥がギュンと熱くなった。
「エデン?」
 微動だにしない私に、氷朱鷺が心配して声をかけてきた。
「何でもない。すぐに作るよ」
 今は、私を心配して食べず眠らずで顔色の悪い氷朱鷺の為にお粥を作らないと。私にあんな酷い事をしたのも、私に対する好意が暴走した結果なんだ。勿論、あんなのは二度とごめんだけど、元はと言えば自分の育て方に問題があったのかもしれないし、私が油断しなければあんな事にはならなかった。
 ……あれ、スタンガンどこいった?
「エデン、何かスープが真っ赤だけど大丈夫?」
 氷朱鷺がキッチンに顔を出し、グツグツと地獄と化した鍋を指差す。
「あ」
 私は無意識に激辛スンドゥブを作っていた。
 悪意は無い。
「俺、胃に優しい物って言ったよね?」
 一見、私からの嫌がらせととられてもおかしくないが、氷朱鷺は嬉しそうに笑っている。
 変な奴。
「辛そうなのは見た目だけだよ」
 多分、な。
「この色は?」
「着色料かな?」
 何を入れたか記憶が無い。ただ、手元には空になった一味の瓶がある。この瓶には確か、八分くらい唐辛子が入っていたかな?
「すっごい目にしみるんだけど?」
 氷朱鷺の目尻に涙が滲んでいるが、やはり笑顔だ。
「私も」
 通りで、目の奥が熱い訳だ。
 でも悪意は無い。
「お皿、用意するよ。久々に2人で食べるの楽しみだなあ」
「え」
 これ食べるの?
 多分、胃の弱ってる人は胃が火事になると思うけど。
「牛乳入れたら、少しは辛さが和らいでまろやかになるんじゃない?」
「ああ、そうか」
 なんか、色んな事を考え過ぎて日常の動作まで頭が回らなかった。
「はい」
 氷朱鷺から牛乳を渡され、私は言われるがままドボドボと鍋に牛乳を注ぐ。地獄鍋はみるみる目に優しい色合いになる。
「はい、ストップ」
 氷朱鷺は私から牛乳を取り上げ、テキパキと手際良く昼食の準備を終わらせ、あの激辛スンドゥブを無理して平らげると、後片付けまで完璧にこなした。
「ごちそうさま。美味しかったよ、ありがとう」
 普段は良い子だから尚更質が悪いんだよなあ。
 調子が狂う。
 本当なら険悪な空気でピリピリすると思うんだけど。
「普通だな」
「ん?」
「いや、何でもない」
『調教師と献上品の本来あるべき姿』か、なるほどね。指南を実施している部屋ではこれが普通なのか。
 よく疲れないな。
 私がダイニングテーブルでむくれて頬杖を着いていると、脇からココアの入ったマグカップが差し出された。
「今日は疲れたでしょ?」
「ぅっ……」
 思い出させんな。
 氷朱鷺の細くて長い指を見ていると、先刻の惨事が頭によみがえって胸焼けがする。
「あ、待って」
 私がマグカップを掴む前に、目の前に座った氷朱鷺がそれを手にしてフゥーフゥーと吐息で冷ましてくれた。
「はい、まだ熱いから気をつけて」
 目の前にマグカップを戻され、私はその程よく冷めたココアをチビチビと飲み進める。
 甘い。
「……」
 さっき、あれだけ私を怒らせたのに、よく普段通りでいられるな。いっそ不自然だ。
「あ、エデン、首のとこに髪の毛がついてるよ?」
 突然、氷朱鷺が私の首元を指差した。
「え、どこ?」
 ちょうど自分から視覚になっていて見えない。
「あ、ええと、ほら、そこ、や、違くて」
 私は闇雲に首の辺りを探るが、チクチクはするものの実体は掴めない。すると痺れを切らした氷朱鷺が席を立ち、身を乗り出して私に手を伸ばす。
「いい?触るよ?大丈夫?」
「え、うん」
 さっきは嫌がっても止めなかったくせに、今度はやたら律儀に確認するな。
「ちょっとごめんね」
 寧ろ氷朱鷺は私に触れないように気を遣って髪の毛を摘出してくれた。
 人の尻までぶった奴が、なんなんだ?
 思わず本音も飛び出る。
「今更紳士ぶる気?」
「……そんなんじゃないよ。ただ、さっきはちょっとやりすぎたかなって自分でも反省してるんだ」
 ちょっとか?
「本音を言えば、またエデンを怖がらせて逃げられるのが怖かったんだ」
 氷朱鷺はテーブル上で両手を組み、そこに視線を落としている。
「私はお前を王女に献上しなければならないから……」
「だから戻って来たんだ?」
「そう」
 そこに私情は無く、これは義務なんだと氷朱鷺に予防線を張っておく必要があった。
「嘘でも、俺の事が心配でって言ってくれたら良かったのに」
 さっきはあんなにグイグイ来てたくせに、今はやけにしおらしいな。
「嘘を言われて嬉しいか?」
「良い夢は見れるだろうね」
 そう言って氷朱鷺は口だけの愛想笑いをした。
「私は調教師だから、献上品に思わせぶりな夢は見せられない」
「調教師と、献上品、ね……」
 そう口にした氷朱鷺はとこか寂しげで、私の母性をくすぐる。
 美少年の哀愁って本当に危ないんだな。
「献上されたら、きっと私の事は忘れるよ」
「それって、早く献上されて自分の事を忘れてくれればいいのにって事?」
「そこまで言ってない」
 そんな事思ってない。今までだって、そんな日がこなければいいのにって思って、いた、し?
「調教師と献上品って、体まで重ねたりするのに、献上品が献上されれば二度と会うことも無くなって無関係になるよね。それって凄くドライで寂しいよ。エデンはさ、俺が献上されたら少しは寂しいと思ってくれるのかな?」
「当たり前だよ。何年も一緒に過ごしてきたんだから、絶対に忘れる事はない」
「良かった」
 と言ったわりに氷朱鷺の表情は冴えない。
「午後の講習はちゃんと出るよ」
「ああ、組み手の──」
 そこまで言って私ははたと気付く。
 組み手って、早い話、調教師と献上品が取っ組み合って寝技までするあれだ。
「今日はもうオフにしよう」
 私は即決した。
「なんで?気まずい?」
「あのね、気まずいのを気まずいと言っちゃうのが一番気まずいって思うんだけど?」
「俺は気まずくない。ドキドキはしたけど、好きだからエデンに触れて嬉し──」
「やめて」
 何故、それが気まずいと気付かない?
 KYなんだろうな。スケベでKYなんだろう。
「ところでスタンガンは?あれは借り物だから」
「ああ、あいつからの?」
 氷朱鷺の声にドスがきいた。
「そう、杉山さんからの」
「だって返したら俺に使うでしょ?」
「いや、使わせんな」
「その杉山さんさ、てっきりエデンにひっついて来ると思ったんだけど、切って来たの?」
「切……会えば殺し合いになるかと思って置いて来た」
「なるね、間違いなく。あ、そうそう、さっき杉山さんから連絡が来てたよ?それはもう、鬼の様に電話やメールが来てた。あんまりうるさいんで電源を切ってたとこだよ」
 そう言えば氷朱鷺が私のスマホを持ってたんだっけ。
「中を見たの?」
「見た。エデンって友達いないの?9割、杉山さんとのやりとりじゃん」
 プライバシーとは?
 やはり氷朱鷺と杉山さんはどこか似ている。
「返して」
 私は毅然とした態度で氷朱鷺に手を差し出した。
「どうせ杉山さんとしか連絡しないなら必要ないでしょ?代わりに俺が返信しとくし」
 だからそれが嫌なんだって。
 さっきの裸エプロンの写メは氷朱鷺のスマホで撮られていたが、そのスマホから私のスマホに画像を転送すれば、そこから杉山さんのスマホにも送信する事が出来てしまう。それか、杉山さんの連絡先をかすめとられても同じ事が可能だ。
 それは何があっても阻止しなければ。
「返さないなら私はここを出て行く」
「じゃあ俺はエデンが戻るまで寝ないでハンストする」
「~~~」
 ムカつくな。
「杉山さんからなんて?」
「エデンの事、凄く心配してたよ。後は胸焼けしそうな文言ばっか。さすがモテ男、勉強になる。心配しないで、氷朱鷺とうまくやってるって返しといた。こっちに来ようか?って言ってたけど、居留守使っといた」
「ああ、そう」
 もうどうにでもなれ。やけっぱちだ。
「夜はどうするの?杉山さんとこに帰るつもり?俺はエデンがいないと眠れないし、エデンがそっちに行くってんならまたドアの前で帰りを待つよ?まさか、あいつをここに入れたりしないだろ?来たら刺すよ?」
 この調子じゃあ、氷朱鷺は本当に杉山さんを刺しかねない。
「ソファーで寝る」
 多分、眠れないとは思うが、氷朱鷺と同じ寝室で寝るよりはマシだ。
「じゃあ俺も」
 や、意味ないじゃんか。
「ソファーに2人も寝られるか」
 本当の問題はそこではないが、何かと理由をつけては距離をおいてやる。
「俺は床でいい」
 無駄に粘るな。自分の貞操がかかっているし、こちらも折れる訳にはいかない。冷静に、冷静に頭をフル回転するんだ。
「じゃあ寝室で寝る」
「そんなに嫌なの?」
 ふと、強気だった氷朱鷺が捨てられた子犬の様な顔をし、私の良心に訴えかけてきた。
 なんだよ、これも策略か?
「分からないの?人にあんな事をしておいて、私が氷朱鷺と同じ空間で寝られると思う?」
「しかもスタンガンも持ってるし?」
「そう」
「じゃあ返すよ。こんな物無くても、俺はエデンをどうとでも出来るんだからね」
 そう言って氷朱鷺はズボンのポケットからスタンガンを取り出すとテーブルに置いた。
「脅す気?」
 だったら尚の事同じ部屋で寝れないだろ。私が力では氷朱鷺に敵わない事はさっき嫌って程思い知らされたんだから。
「エデンがあまりにも言う事をきかないからね、目に余るようならさっきのよりもっと酷い事をする。あれは全然我慢した方なんだから。エデンがあの続きをしたいってんなら話は別だけどね。反応もなかなか良かったし」
 耳を覆いたくなる様な言い草だな。
「そんな事言われて眠れるか」
「じゃあこうしよう、俺と同じ布団で寝るなら絶対に手は出さないし、スタンガンを使ってもいい。けど、別の部屋で寝るならスタンガンはやらないし、俺はエデンを襲う。どう?どっちか選んでよ」
「話が変わってきてないか?両極端過ぎるだろ。それに前者は何の保証も無い」
「選んで」
 氷朱鷺が威圧的に迫る。あの蛇の様な冷たい目をされると無意識に体が硬直してしまう。
「~~~」
 苦しい決断だ。というか、何でいつも氷朱鷺のペースなんだ?主従関係が逆転してるじゃないか。まるでこちらが飼われる側だ。
「心配なら貞操帯でも着けたらいいだろ?鍵は杉山さんに預けてさ」
 氷朱鷺は喉を鳴らしながら馬鹿にした様に私を嘲った。
 腹立つ。
 あの可愛かった美少年はどこに行ったんだ?
 これじゃあ、氷朱鷺は天使の顔をした悪魔じゃないか。私は氷朱鷺をこんなのに育てた覚えはないのに。
「そんな恥ずかしい事が出来るか。寝室で寝るけど手は出さないに譲れ。同じ布団は駄目」
「うん、まあ、仕方ないね。エデンはまだまだおこちゃまだし、それで許してあげるよ」
 氷朱鷺は幼い子供の我儘をきくみたいにクスクスと笑って頬杖を着いた。
 癪に障る。
「それで?スタンガンは?」
 私は不機嫌全開で尋ねた。
「布団が別ならあげない」
 そうして氷朱鷺はスタンガンを取り上げた。
 こいつ!!
 なんなんだ?
 どこからどこまでが氷朱鷺の策略だったのだろう?
 この決定も本当は最初から氷朱鷺に用意されたシナリオ通りだったんじゃないか?

 私はいつから、氷朱鷺に踊らされていたのだろう?


 夜になり、あれだけ来るなと釘を刺していたのにも拘らず、杉山さんが私を迎えに来た。
 玄関のドアを開けて杉山さんの顔を見た時は、安心感と共に罪悪感も襲ってきて、彼の顔をまともに見られなかった。
「夜は危ないから、家で寝るだろ?」
 杉山さんはそれが当たり前かの様に話を進めるが、昼間の事もあり、私は了承しぐねいていた。
「スタンガンがあるから大丈夫です。ソファーで寝ますし」
 杉山さんを心配させまいと嘘をつけばつく程、私の肩に罪悪感が重くのしかかる。
「エデン、なんか怯えてない?連絡も返さないし、様子が変だよ。氷朱鷺に何かされた?」
 杉山さんに肩を抱き寄せられ、私は氷朱鷺から受けた酷い仕打ちを思い出して泣きたくなった。
 帰りたい。
 杉山さんの胸の中で、万里の事だけを考えて泣きじゃくりたい。
「スマホはまだ氷朱鷺が持ってて、変なメールが届いても信じないで下さい」
「ああ、通りで。今、氷朱鷺は?」
「本日2度目のシャワーをしてます。上がる前に戻って下さい。氷朱鷺は、私がまたここを出て行く事を心配しているので手は出しません。でも杉山さんがここに来たと知ったら逆上して何をしでかすか解らない。私の事を心配するなら、暫くここへは来ないで下さい」
 というか、これは杉山さんの為でもある。
 ほんと、杉山さんの訪問が氷朱鷺のシャワータイムと重なって良かった。
「ハァ、俺はホトホト心配だよ。あれがエデンの秘蔵っ子で王女のお気に入りの献上品でなければどうにかしてたんだけど」
 どうにか、とは?
 金持ちのそういう意味深な発言はとにかく怖い。
 ガチャッ
 風呂場のドアが開く音がして、私は慌てて杉山さんの胸板を押す。
「氷朱鷺が来ます、戻って下さい」
「分かったよ」
 と杉山さんは言ったのに、私の首の付根に顔を埋めてそこに強く吸い付いた。
「杉山さん!」
 そんな事をしてる場合じゃないでしょう!
 脱衣所のドアが開けられる音までして、私は更に焦る。
「首元に変な痣があったからね、どうにも上書きしないと気が済まなくてね」
 私は氷朱鷺からつけられたキスマークの事を今になって思い出し、今度は違った意味で焦り出す。
「あっ、違くて、これはその、氷朱鷺が勝手にマーキングというか、その……別にそれ以上の事は何も……」
 いや、されたな。
「分かってる。俺はエデンの事を信じてる。けどエデンが氷朱鷺を選ぶのなら、俺に止める権利は無いから」
「全然解ってないじゃないですか」
 杉山さんは大人だから氷朱鷺とは違って物わかりがいい。でも物わかりが良すぎるというのも不安になる。
「杉山さん」
「ん?」
「氷朱鷺と間接キスですね」
 私が意地悪な事を言うと、杉山さんは『うっ』と口元を押さえながら退散して行った。
「エデン、誰か来たの?」
 急に背後から声をかけられ、私は驚いて肩を跳び上がらせる。
「や、ピンポンダッシュされて」
 いきなりでそんなチンケな言い訳しか思いつかなかった。
「へぇ──……」
 この反応を見る限り、多分、氷朱鷺は誰が訪ねて来たか察している。
「偉いね。ちゃんと追い返したんだ?」
「……」
 私が黙っていると、氷朱鷺が後ろから腕を伸ばしてドアを閉め、きちんとドアチェーンまで掛けた。
「さて、サッパリした事だし、早いけど寝ようか?」
 氷朱鷺はさっさと先に行き、寝室へと入って行く。
「ハーーーーーーーーッ」
 私が深く息を吐き、気を引き締めて寝室に入ると、氷朱鷺が私のベッドの布団を捲って『どうぞ』と手を差し伸べている。
「どうも」
 そう言って私が布団に潜り込むと、氷朱鷺は私の足元に腰掛け、こちらを眺めてくる。
 寝辛っ……
「寝ないの?」
「こうして見張ってないと不安で眠れないんだ。俺はエデンを信用してないからね」
「奇遇だね、私もだよ。でもお前が手を出さないなら逃げ出したりしないから安心して寝なよ。寝不足でしょ?顔色が悪い」
 それもこれも、良くも悪くも私が氷朱鷺に心配をかけたせいだ。
「心配してくれるんだ?」
 氷朱鷺が卑屈そうに笑い、私はその寂しそうな笑顔が可哀想になる。
「当たり前でしょ」
 本当は分かっている。氷朱鷺に同情する度に甘やかす事は彼の為にならないと。
「俺が献上品だから?」
「そんなんじゃない。お休み」
 私は氷朱鷺の視線を避けるように頭から布団を被り、彼に背を向けた。
 本当にそんなんじゃない。かなりの行き違いはあったが、今でも氷朱鷺は私の大切な家族だ。

 最初は背中が気になってなかなか寝付けなかったが、氷朱鷺が何もしてこないのに慣れると自然に眠りにつく事が出来た。
 こんな所を過保護な杉山さんが見たら卒倒するな。
 杉山さん、ごめんなさい。
 そんな事を夢の中で思っていると、ズシリと背中の方で氷朱鷺が倒れ込む気配がした。
「寝不足だってのに無理して見張ってるから……」
 私は仕方なく寝返りをうち、彼を布団の中に招き入れてやる。
「こんなに身体を冷やして、馬鹿だな」
 氷朱鷺の肩に触れると、こっちまで体温を奪われてしまいそうな程冷えていて、私は良くないとは思いつつも彼の背中を抱き締めて温めた。
 杉山さん、ごめんなさい。氷朱鷺は疲れて熟睡しているのでこれは不可抗力です。
 とは言え胸が痛まない訳でも無い。後ろめたさで胃がキリキリする。
「ぅうん……」
 氷朱鷺が魘されなからこちらの方へ寝返りをうち、私はこれはいかんと彼に背を向けようとすると──
「エデン、行かないで。ずっとそばにいて……」
 ──と氷朱鷺が寝言を言いながら私の懐に潜り込んできて、その、子供が母親の温もりを求めるような仕草に、私は彼を突っぱねる事が出来ず、優しく頭を撫でて受け入れてしまった。
 美少年は狡い。
「本当に馬鹿だな」
 どうかしてる。でも自分も、弟を失って寂しかったのかもしれない。今は、万里と氷朱鷺を重ねている部分もある。
「寝ている時は天使なのに……」
 朝になったら離れよう、そう思っていた、のに──

 すっかり寝坊してしまった。
「おはよう、エデン。寝坊した?」
 目覚めて1秒で美少年(氷朱鷺)のどアップに出くわし、私ははえらく自分を責めた。
 氷朱鷺が目覚める前にベッドから出ようと思っていたのに。
「余程疲れてたんだね」
 いつも低血圧な氷朱鷺が今朝はどうにも上機嫌でとても癪だ。
 そして自分から氷朱鷺の肩に回した腕の処理に困る。
「あんなに酷い事をされたのに、エデンてつくづく優しいよね。だからつけ込まれるんだよ、俺に」
「もうしないよ。ほら、今日は王女との約束の日でしょ?起きて」
 私がベッドから氷朱鷺を押し出し、起き上がって自分の身なりを確認していると、彼は心外そうに自身の首の後ろを掻いた。
「信用ないな。何もしてないよ」
 約束は守った、という事か。
「胸は少し揉んだかもしれないけど」
 守った、のか?
 兎にも角にも、いつもと変わらぬ朝が始まり、私は内心ホッとしていた。
 もっとギクシャクするかと思っていたけれど、これなら献上の日まで何とか穏やかに暮らせそうだ。氷朱鷺といられる時間も残り少ないし、それなら少しでも楽しく彼を送り出してやりたい。最後が気まずい別れ方なんて、お互い後味が良くない。
 氷朱鷺を急かして送り出し、私は書類を整理しようとリビングのテーブルにファイルの山を置くと、そこに氷朱鷺のスマホが置きっぱなしになっているのを見つける。
「忘れたのか」
 恐らく氷朱鷺は自分のスマホと私のスマホを混同して、自分のスマホの方を置いて行ってしまったようだ。
 私はこれを好機とみなし、裸エプロンの写メとやらを削除しようと氷朱鷺のスマホを手に取った。つい数分前まで氷朱鷺がいじっていたおかげでロック画面は解除され、フォルダのアイコンをタップするだけでお目当ての画面が開けるようになっている。私はしめしめと思いながらフォルダのアイコンをタップした……つもりが、その隣にあった受話器のアイコンを押していた。
「ヤバ、王女に間違い電話をかけたら大変、だ?」
 ──と思っていると、私の目に不可解なものが映る。
「え?」
 万里が処刑されたあの日、氷朱鷺は王女に処刑を止めるよう電話してくれたと言った。それでも処刑を止める事が出来ず、万里は杉山さんに迷惑をかけない為に自ら命を絶った。しかしその日、氷朱鷺は王女へ電話していない。
 他の日には王女と電話のやり取りをしているのに、何故かその日だけ、王女への発信履歴が無いのだ。
「なんで?」
 氷朱鷺が削除した?
 なんでその日だけ?
 その必要性は無い筈だ。
 杉山さんは私に『氷朱鷺は本当に電話したんだろうか?』と言った。その時はまさかとその言葉を聞き入れなかったが、今にして思うと、私は実際に電話をかける氷朱鷺の姿を見ていない。彼は電話すると言って寝室へ行っただけで、本当は王女へ電話なんかしていなかった。
 顔面から冷や水を浴びせられたような感覚だった。
 騙された。
 氷朱鷺は始めから私と取引きするつもりなんかなかった。

 最初から、氷朱鷺は万里を見捨てるつもりだったんだ。

「なんで?」
 なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんで?
 激しい動悸と共に私の頭の中はその言葉で埋め尽くされていく。
 氷朱鷺はともかく、万里は氷朱鷺にとても良く懐いていたのに、どうして氷朱鷺はそんな万里に手を差し伸べてやらなかったの?
 何か、電話をかけられない事情でもあった?
 結局、私との約束を反故にしたくないから私に嘘をついた?
 たった一本、電話を入れるだけなのに。これじゃあまるで、わざと電話しなかったみたいじゃないか。
「わざと?」
 わざとだとしたら、氷朱鷺は万里に死んでほしかったとしか思えない。
 でもなんで?
 動機が解らない。万里が死ぬことで氷朱鷺に何か得があった?
 確かに、万里が王女の最初の男になれば氷朱鷺は自身の処刑を免れる。でも身代わりがわざわざ万里である必要なんかどこにも無い。そもそも氷朱鷺は王女のお気に入りだ、王女が氷朱鷺をむざむざ処刑させるような目にあわせるはずがない。
 何故、万里だったのか?
 万里ではない他の誰かが処刑されれば良かったのに、とは思わないが、どうして万里でなければならなかったのか、その理由が知りたい。
 他に何か手掛かりはないかとその場に仁王立ちしていると、万里から氷朱鷺に宛てられた最期の手紙の存在を思い出す。
「そうだ、この服は昨日着ていたまんまだ。杉山さんから手紙を受け取って、それをポケットに入れたままだった」
 私は胸ポケットを探り、2つの紙切れを取り出す。1つは私の名前、もう1つには氷朱鷺の名前が書かれている。
「もしかしたら、これに何かヒントがあるかもしれない」
 私は後ろめたい気持ちを抑え、氷朱鷺宛の紙切れを開いた。
 どきどき……
 人の手紙を盗み見るというのは何とも罪悪感が大きい。
「あぁ、万里の字だ」
 そこには丸みを帯びた可愛い文字が並んでいて、私はついつい万里が恋しくなった。不意にうるっときたが、涙を我慢し、それを読み始める。
「えっ……?」
 読み始めてすぐ、私は目を疑った。
 そこに書かれていたのは信じられない内容だった。

『氷朱鷺へ、僕は君を憎んでなんかいないから、どうか自分を責めないで。愛してる。さよなら。万里』

「これは……」
 短い文だったが、氷朱鷺への疑惑を確たるものにするには充分過ぎるくらいの材料だった。そして何より決定的だったのが、万里から私へ送られた言葉が『姉ちゃんへ、今までありがとう。ごめんね、大好きだよ。それから、氷朱鷺を責めないであげてね。万里』だった事。
 私は絶望と怒りで膝から崩れ落ち、無いはずの奥歯を食いしめた。
 そうだ、杉山さんはことあるごとに氷朱鷺の人格を疑っていたじゃないか。私は氷朱鷺可愛さにその全てを聞き流してきた。今にして思うと、その全てを後悔している。目を逸らさないでちゃんと氷朱鷺を見ていたらこんな事にはならなかったのに。
「クソッ……」

 氷朱鷺が万里を嵌めたんだ。
 氷朱鷺が万里を殺した。

 万里は氷朱鷺を『愛してる』と言った。万里は誰が見てもやたらと氷朱鷺を気にしていたし、それが言葉通りの意味なら、氷朱鷺は自分を愛してくれていた万里を利用して殺したんだ。
 いつか杉山さんが言っていた『氷朱鷺を撃たなかった事を必ず後悔する』と。

 なんで私はあの時氷朱鷺を殺さなかったんだ。
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