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失恋
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さて、俺は処罰待ちという窮地に追い込まれた訳たが、ピンチはチャンスという言葉があるように、自分の処遇を悲観してはいなかった。
万里は心配して涙まで流していたが、泣いたところでどうにかなる程世の中は甘くない。俺なら、泣いている暇があったら事態を好転させる為に最善を尽くす。だから演劇を披露するまでの数日間、死にものぐるいで練習をした。それこそ、エデンが心配するくらいに。周りはそんな俺を見て『かぐや姫はあいつの遺作だな』なんて嘲笑していたが、俺には他人の騒音なんて全く気にならなかった。
俺はただ、演劇を成功させて調教師であるエデンの株を上げたい一心だったのだ。
そんな開演の前夜の事だった。
俺が遅くまで稽古をして部屋に戻ると、エデンが深刻な顔をして俺を出迎えてくれた。
「ただいま」
いつもはキッチンの方から声をかけるだけなのに、どうして今夜はわざわざ出迎えてくれたのか?
「遅くまでお疲れ様」
そう言ったエデンの方が何倍も疲れた顔をしている。
「お風呂湧いてる?」
いつも、帰ると何かしらの料理の匂いが鼻腔をくすぐるのに、今日は風呂場からの入浴剤の香りしかしない。
「うん」
エデン、元気が無い。
「今日の晩御飯は何?」
俺が先に立ってダイニングへ行くと、テーブルには2人分のパンと空のグラスしか置かれていない。
「ごめん、まだ途中で。先にお風呂に入ってて」
エデンは後ろから小走りで俺を追い越し、キッチンのまな板に向かった。そこには切りかけの芋と、捌きかけの小海老に、ジューサーが出しっぱなしになっていて、エデンは一体何を作り出そうとしていたのか、全く想像もつかなかった。
今日は結構遅くなったのに、エデン、忙しかったのかな?
「体調悪い?顔色も良くなかったし、無理しなくてもいいから。俺、カップラーメンでも全然構わないし、寧ろお粥でも作ろっか?」
連日の猛特訓で俺の体は悲鳴をあげていたが、エデンの為なら全然体が動かせた。
「えっ、全然、元気なんだけど、献立が決まらなくて」
「献立?」
「うん」
それだけが原因のようには思えないんだけど。そうして考えて見ると、エデンの背中がもの寂しさを醸し出して見える。
少し、肩が震えてないか?
「エデン」
「ん?」
「どうしたの?」
俺はいつものように後ろからエデンを抱き締め、その肩に顎を乗せる。
「どうしたって、芋の皮を──いっ!!」
エデンは包丁で芋の皮を剥こうとして手を滑らせ、自らの左手をさっくりと切った。
「ほら、調子悪いんじゃん。貸して」
そう言って俺がエデンの左手を掴み、そのままこちらを向かせると、彼女は瞳に涙をたたえていて、俺はギョッとする。
そんなに痛かったのか?
確かに、エデンの左手からは一筋の血液が零れ落ちていたが、あの我慢強いエデンがこれっぽっちの怪我で涙するのはあり得ない。というか、エデンが泣いている姿を見る事自体初めてで戸惑っている。俺はかわいいとか、儚いとか、守ってあげたいとか──
──もっと泣かせたい、とか。そんな邪な気持ちで溢れてしまう。
「どうしたの?何か辛い事でもあった?」
でもここではエデンに嫌われたくないから敢えて慰める事にしよう。
「いや、それが……料理をしようとして、明日、演劇が終わったら、氷朱鷺がどうなるかわからないと思ったら、私は今から氷朱鷺の最期の晩餐を用意しているようで堪らなくなって……」
エデンがスンと鼻をすするも、涙の方は瞳に表面張力となってうるうるとなかなか滴り落ちない。
あれが零れ落ちる瞬間というのはさぞや退廃的で、且つ、甘美な事か。滴る血も、舐めたらエデンの味がするのかと思うとゾクゾクする。エデンの成分を体に取り込んだら、少しだけエデンに近付ける気がする。
「俺は大丈夫だから」
自分が危うい立場にさらされている事はこの際どうでもいい。今は、俺の為に泣いてくれているエデンの方が大事だ。
「氷朱鷺、お前は昔から聞き分けの良い子で手がかからなかった。でもこんな時くらい、取り乱して私に頼ってくれてもいいのに……」
「俺は充分動揺してるよ」
気が狂いそうなくらいにエデンをめちゃくちゃにしたくて取り乱してる。
エデンが俺のせいで血を流し、俺の為に涙を流しているなんて、どうしよう、ドキドキする。熱い。体温も血圧も急上昇したようだ。頭の中で警鐘も鳴り始めている『エデンに嫌われるような事はしちゃ駄目だ』ってね。
「エデン、手当てしよう」
俺は戸棚から救急箱を取り出し、エデンの左手を掴み上げた。
「そんなものはいい、舐めておけば治るから」
エデンが左手を引き、俺は彼女の手を逃してしまいそうになる。
「いいの?」
俺はどうしてか、エデンが俺に『舐めて』と言っているように聞こえた。当のエデンは目を丸くしていたけれど。
「え?」
「舐めて」
俺は呆然とするエデンの左手を自分の方へ手繰り寄せ、そのしとしととした患部に唇をつけた。
「そういう意味じゃない」
一瞬、エデンの顔に怯えの色が見え、彼女は俺から自分の左手を引っ手繰り、胸の前でその手を大事そうに揉んだ。
へぇ、あの勇敢で完全無欠のエデンが俺に怯えるなんて、ほんとに、征服したくなる。俺に屈するエデンなんて、陵辱の対象だろ。
俺がぺろりと舌舐めずりすると、唇に付着したエデンの血の味が僅かに感じる事が出来た。単なる鉄の味だけど、今の俺にはとても感慨深かった。
「なら俺の前では慎重に言葉を選んだ方がいいよ」
場合によっては止まれなくなるからね、特に今日は──
「変な事を言わないで」
エデンは自身を抱え込むように両腕を組んでそっぽを向く。
「ごめん、冗談だよ。エデンが元気なかったから」
嘘も方便とはこの事か。
「私の事はいい。それよりも……」
そこでエデンは確固たる信念を持った眼で俺を見上げてきて、こう言った。
「氷朱鷺、私と一緒にここを出よう」
「え?」
まさかエデンがそんな事を言うとは思わず、冷静な筈の俺も少なからず驚いてしまう。
「2人でここを出ようって、脱走するって事?」
エデンは黙って頷く。
「駆け落ちでもしようって言うの?」
「違う」
冗談だよ、即答なんて傷付くな。でもエデンが俺の為にそんな事まで考えてくれていたなんて、信じられない。ヤバイ、好き過ぎる。献上品としてエデンにこの上もない栄誉をもたらせるのが俺の目標だけど、もし、その目標がくじかれたとして、エデンと2人で何処か静かな場所へ駆け落ちして誠心誠意彼女を幸せにするというのもありか。
いや、凄く胸熱だ。
「氷朱鷺には過酷かもしれないけれど、城の国定公園の崖からロッククライミングの要領で下りて、それから国外へ逃亡して、後は氷朱鷺の好きなように生きたらいい。城には、私が氷朱鷺を取り逃がしたと報告をするから」
「そこは、末永く2人で生きていこう、じゃないんだ?」
多分、今の俺はムスッとした顔をしている。
どうして可愛がっていた室内犬を野生に還すような事をするんだ?
こんなにも懐いてる愛犬を、だ。
「一歩ここを出たら献上品じゃなくなる。自由に生きられるんだよ」
「だからって俺を捨てるの?」
自由に生きられるのなら、俺は迷う事なくエデンと一緒にいる事を選ぶのに、エデンはそうじゃないのか?
相手の気持ちが思い通りにならなくて駄々をこねるのは俺がまだ子供だからなのかもしれないけれど、エデンの事となるとどうしても感情が抑えきれない。
これは何か悪い病気なのか?
だとしたら俺は末期だ。駄々をこねたところでエデンを困らすだけなのに、止まれない。
「そういう事じゃない」
「杉山さんと付き合ってるから?杉山さんと一緒になりたいから俺を野に放つような事を提案するの?」
自分で杉山さんの名前を出しておいてすこぶる不機嫌になった。
嫌な事を思い出した。
「杉山さんの事は……」
「……」
「……」
エデンが困ったように言葉を詰まらせるものだから、半信半疑だった2人の交際説が真実味を帯びてくる。
「なんで黙ってるの?」
「それが……」
エデンの煮えきらない態度にイライラする。
エデンは本当に杉山さんと?
交際説は杉山さんの戯言じゃないのか?
エデンが他の男と?
想像しただけで気持ちが悪い。相手が顔見知りで難なく2人の絡みが想定出来るのが尚もおぞましい。
ずっと自分がエデンを穢す妄想をしていたのに、今じゃ、その妄想の自分が杉山さんに差し替わって仕方がない。
忌々しい。
「こっち見て」
俺はおぞましい想像を現実で上書きしたいと思った。
「なに?」
エデンが顔を上げたところで、俺はその角度に合わせて顔を近付けた。
「氷朱鷺、それは駄目」
俺がエデンにキスしようとすると、キスされると思った彼女に胸板を押し返される。
「なんで?」
多分、俺はどんな言い訳をされても納得出来ないだろう。
「実地の指南はしないって言ったでしょ?」
エデンはまた俺から顔を背けた。
「指南だって?俺は処罰待ちで事実上献上品じゃないのに?これはただのキスだよ。好きな人に対する愛情表現」
そう、俺はエデンを愛している。だからこそ、処罰を受ける前にせめて彼女とキスしておきたかった。一方通行ではあるけれど、それくらいの慰めは許してほしかった。
なのにエデンは俺を受け入れてくれない。
エデンはどうしてそんなに困った顔をしているのか?
「尚更駄目だよ」
「尚更?」
業務内のキスよりもプライベートなキスの方が容認出来ないって?
「そんなに俺の事が嫌い?」
「違──」
「違わなくない。こんな時ですら俺のささやかな願いも叶えてくれないじゃないか」
俺が処断されるかもしれないという時ですら、エデンは俺に気を許してはくれない。
「他の事なら……」
「じゃあ、俺と寝てくれる?」
俺が冷たく突き放すように吐き捨てると、エデンはUMAでも見るような目で『信じられない』と言った顔をしてこちらを見上げた。
「何?俺の、エデンに対する愛情が家族愛や憧れからくるものだとでも思った?」
勘違いも甚だしい。
「最期だから言っておくけど、俺のおかずは専らあんただったよ」
自分でも言っていて可笑しくなって自嘲してしまう。
献上品が調教師をおかずにするなんて、とんだお笑い草じゃないか。
もうやけっぱちだった。
「やめて、気分が悪い」
エデンは口元を押さえ、顔を青くした。
傷付く反応じゃあないか。
「気持ち悪い?同じ部屋で寝ているかわいい坊やに妄想で犯されてたなんてゾッとする?」
「本当にやめて」
「俺がずっとエデンに手を出さなかったのは嫌われたくなかったからだよ。けど、それももう、関係ないね」
俺はエデンの両手を掴み、そのまま壁に彼女を押し付け、荒々しいキスをした。
エデンはギョッと目を見開き、両手に思い切り力を込めたが、所詮は非力な女の抵抗、俺は難無く彼女を懐柔出来た。
エデンは、まさか俺にこんな力があったなんて想像もしていなかっただろう。俺は力無いふりをしてずっとこの時を待っていたんだから。エデンらしくて愚かしい。
そして愛おしい。
俺にとって憧れの絶対的存在であった人物が、俺にいいように口内を犯されてる様は本当に堪らない。万里でその唇の味を想像した事もあったが、圧倒的に想像以上だ。女の唇が初めてという事や、憧れに対する贔屓目も少なからずあるだろうけど、エデンの唇と言ったら、薄くて張りがあって、それでいてマシュマロのように軟らかい。吸ったり舐めたりと飽きのこない感触をしていて、俺は更にその先を味わうべく、固く引き結ばれた唇の隙間に自身の舌を挿し入れようとグリグリ攻め込む。
「ぐぅっ」
エデンが舌の侵入を阻もうと尚も鉄壁のディフェンスで『貝』になり、俺は逆に躍起になって、そっちがその気ならと右手で彼女の胸を鷲掴みにした。その瞬間、自由になった左の拳でエデンに喉を思い切り殴られた。
「いっ……」
ってぇっ!
俺は殴られた反動で背中を戸に強打し、激しい鈍痛を訴える喉を押さえ、そのままズルズルと床に座り込む。
エデンを組み敷けたと思ったのに、情けない。喉仏が首にめり込んだかと思った。
「ゴホッ!!ゴホッ!!オェッ!!」
上手く呼吸が出来ないうえに、吐き気までする。殴られた角度が斜め横でなければ大変な事になっていた。急所をついてくるなんてさすがエデン、本気で俺を拒絶したいらしい。そりゃ強引過ぎたのは悪かったが、ここまで激しく抵抗されるとさすがの俺も傷付く。
「私は調教師だから献上品の顔は殴らない。でも力で女をどうにかしようとする奴にはそれなりの制裁を与える」
「ちょっ……と前に、調教師と献上品じゃなくなるっ……て、言ってなかった?」
油断すると声が上擦る。
「今はまだ調教師と献上品だよ。そして氷朱鷺は私の家族だから、こういう事は出来ない」
エデンは毅然とした態度でキッパリと言い放った。
「頼んでもないのに勝手に家族に加えないでよっ!!」
俺がカッとなって拳で床を殴り、エデンを怒鳴りつけると、その声に驚いた彼女が両肩をビクリと跳ね上げた。いつも物静かで冷静沈着な俺が初めて声を荒らげたものだからエデンはさぞや驚き、怖かった事だろう。
床を殴りつけた拳はジンと熱く痛んだが、アドレナリンが出ていたせいか全く気にならない。それよりも『家族』とか『弟』とか、俺がほしかったポジションはそこじゃない。家族なんて言ってれば、俺がその絆に身をやつすとでも思っているのか?
そんなもの、これまでだってとんでもない重荷だった。どうして、血も繋がっていないのに杉山さんと同じ土俵に立たせてくれないのか、男として見てくれないのか、思春期の俺には耐え難い地獄だった。
「……氷朱鷺、私はお前の事を大事な家族としか見れない。それはこれからも同じ」
だからその『大事な家族』というパワーワードが俺を圧迫して苦しめるんじゃないか。
人生初の最初で最期の恋心がものの見事に粉砕されようとしていて、俺はなんだか泣けてきた。
「恋人同士だって、結婚したら家族になるじゃないか」
俺は意気消沈して項垂れる。その様はまるで廃人、というか死んだ珊瑚、みたいな?
失恋真っ最中に口をついて出るのはみっともない恨み節ばかり。自分でもかっこ悪とは思うけれど、止められない。
「……そうだね。確かにそうだ。でもその相手は氷朱鷺じゃない」
「杉山さん、そうでしょ?」
俺がそう尋ねると、エデンは少し迷った後に『そうだね』と答えた。
『杉山さんが好きなの?』と聞き返そうとしたが、それは声にならなかった。
喉に力が入らなかったからだ。
それは決して喉が痛かったからではない。
エデンの口からはっきりと『好きだよ』と聞くのが恐ろしかったからだ。
万里は心配して涙まで流していたが、泣いたところでどうにかなる程世の中は甘くない。俺なら、泣いている暇があったら事態を好転させる為に最善を尽くす。だから演劇を披露するまでの数日間、死にものぐるいで練習をした。それこそ、エデンが心配するくらいに。周りはそんな俺を見て『かぐや姫はあいつの遺作だな』なんて嘲笑していたが、俺には他人の騒音なんて全く気にならなかった。
俺はただ、演劇を成功させて調教師であるエデンの株を上げたい一心だったのだ。
そんな開演の前夜の事だった。
俺が遅くまで稽古をして部屋に戻ると、エデンが深刻な顔をして俺を出迎えてくれた。
「ただいま」
いつもはキッチンの方から声をかけるだけなのに、どうして今夜はわざわざ出迎えてくれたのか?
「遅くまでお疲れ様」
そう言ったエデンの方が何倍も疲れた顔をしている。
「お風呂湧いてる?」
いつも、帰ると何かしらの料理の匂いが鼻腔をくすぐるのに、今日は風呂場からの入浴剤の香りしかしない。
「うん」
エデン、元気が無い。
「今日の晩御飯は何?」
俺が先に立ってダイニングへ行くと、テーブルには2人分のパンと空のグラスしか置かれていない。
「ごめん、まだ途中で。先にお風呂に入ってて」
エデンは後ろから小走りで俺を追い越し、キッチンのまな板に向かった。そこには切りかけの芋と、捌きかけの小海老に、ジューサーが出しっぱなしになっていて、エデンは一体何を作り出そうとしていたのか、全く想像もつかなかった。
今日は結構遅くなったのに、エデン、忙しかったのかな?
「体調悪い?顔色も良くなかったし、無理しなくてもいいから。俺、カップラーメンでも全然構わないし、寧ろお粥でも作ろっか?」
連日の猛特訓で俺の体は悲鳴をあげていたが、エデンの為なら全然体が動かせた。
「えっ、全然、元気なんだけど、献立が決まらなくて」
「献立?」
「うん」
それだけが原因のようには思えないんだけど。そうして考えて見ると、エデンの背中がもの寂しさを醸し出して見える。
少し、肩が震えてないか?
「エデン」
「ん?」
「どうしたの?」
俺はいつものように後ろからエデンを抱き締め、その肩に顎を乗せる。
「どうしたって、芋の皮を──いっ!!」
エデンは包丁で芋の皮を剥こうとして手を滑らせ、自らの左手をさっくりと切った。
「ほら、調子悪いんじゃん。貸して」
そう言って俺がエデンの左手を掴み、そのままこちらを向かせると、彼女は瞳に涙をたたえていて、俺はギョッとする。
そんなに痛かったのか?
確かに、エデンの左手からは一筋の血液が零れ落ちていたが、あの我慢強いエデンがこれっぽっちの怪我で涙するのはあり得ない。というか、エデンが泣いている姿を見る事自体初めてで戸惑っている。俺はかわいいとか、儚いとか、守ってあげたいとか──
──もっと泣かせたい、とか。そんな邪な気持ちで溢れてしまう。
「どうしたの?何か辛い事でもあった?」
でもここではエデンに嫌われたくないから敢えて慰める事にしよう。
「いや、それが……料理をしようとして、明日、演劇が終わったら、氷朱鷺がどうなるかわからないと思ったら、私は今から氷朱鷺の最期の晩餐を用意しているようで堪らなくなって……」
エデンがスンと鼻をすするも、涙の方は瞳に表面張力となってうるうるとなかなか滴り落ちない。
あれが零れ落ちる瞬間というのはさぞや退廃的で、且つ、甘美な事か。滴る血も、舐めたらエデンの味がするのかと思うとゾクゾクする。エデンの成分を体に取り込んだら、少しだけエデンに近付ける気がする。
「俺は大丈夫だから」
自分が危うい立場にさらされている事はこの際どうでもいい。今は、俺の為に泣いてくれているエデンの方が大事だ。
「氷朱鷺、お前は昔から聞き分けの良い子で手がかからなかった。でもこんな時くらい、取り乱して私に頼ってくれてもいいのに……」
「俺は充分動揺してるよ」
気が狂いそうなくらいにエデンをめちゃくちゃにしたくて取り乱してる。
エデンが俺のせいで血を流し、俺の為に涙を流しているなんて、どうしよう、ドキドキする。熱い。体温も血圧も急上昇したようだ。頭の中で警鐘も鳴り始めている『エデンに嫌われるような事はしちゃ駄目だ』ってね。
「エデン、手当てしよう」
俺は戸棚から救急箱を取り出し、エデンの左手を掴み上げた。
「そんなものはいい、舐めておけば治るから」
エデンが左手を引き、俺は彼女の手を逃してしまいそうになる。
「いいの?」
俺はどうしてか、エデンが俺に『舐めて』と言っているように聞こえた。当のエデンは目を丸くしていたけれど。
「え?」
「舐めて」
俺は呆然とするエデンの左手を自分の方へ手繰り寄せ、そのしとしととした患部に唇をつけた。
「そういう意味じゃない」
一瞬、エデンの顔に怯えの色が見え、彼女は俺から自分の左手を引っ手繰り、胸の前でその手を大事そうに揉んだ。
へぇ、あの勇敢で完全無欠のエデンが俺に怯えるなんて、ほんとに、征服したくなる。俺に屈するエデンなんて、陵辱の対象だろ。
俺がぺろりと舌舐めずりすると、唇に付着したエデンの血の味が僅かに感じる事が出来た。単なる鉄の味だけど、今の俺にはとても感慨深かった。
「なら俺の前では慎重に言葉を選んだ方がいいよ」
場合によっては止まれなくなるからね、特に今日は──
「変な事を言わないで」
エデンは自身を抱え込むように両腕を組んでそっぽを向く。
「ごめん、冗談だよ。エデンが元気なかったから」
嘘も方便とはこの事か。
「私の事はいい。それよりも……」
そこでエデンは確固たる信念を持った眼で俺を見上げてきて、こう言った。
「氷朱鷺、私と一緒にここを出よう」
「え?」
まさかエデンがそんな事を言うとは思わず、冷静な筈の俺も少なからず驚いてしまう。
「2人でここを出ようって、脱走するって事?」
エデンは黙って頷く。
「駆け落ちでもしようって言うの?」
「違う」
冗談だよ、即答なんて傷付くな。でもエデンが俺の為にそんな事まで考えてくれていたなんて、信じられない。ヤバイ、好き過ぎる。献上品としてエデンにこの上もない栄誉をもたらせるのが俺の目標だけど、もし、その目標がくじかれたとして、エデンと2人で何処か静かな場所へ駆け落ちして誠心誠意彼女を幸せにするというのもありか。
いや、凄く胸熱だ。
「氷朱鷺には過酷かもしれないけれど、城の国定公園の崖からロッククライミングの要領で下りて、それから国外へ逃亡して、後は氷朱鷺の好きなように生きたらいい。城には、私が氷朱鷺を取り逃がしたと報告をするから」
「そこは、末永く2人で生きていこう、じゃないんだ?」
多分、今の俺はムスッとした顔をしている。
どうして可愛がっていた室内犬を野生に還すような事をするんだ?
こんなにも懐いてる愛犬を、だ。
「一歩ここを出たら献上品じゃなくなる。自由に生きられるんだよ」
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自由に生きられるのなら、俺は迷う事なくエデンと一緒にいる事を選ぶのに、エデンはそうじゃないのか?
相手の気持ちが思い通りにならなくて駄々をこねるのは俺がまだ子供だからなのかもしれないけれど、エデンの事となるとどうしても感情が抑えきれない。
これは何か悪い病気なのか?
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「杉山さんの事は……」
「……」
「……」
エデンが困ったように言葉を詰まらせるものだから、半信半疑だった2人の交際説が真実味を帯びてくる。
「なんで黙ってるの?」
「それが……」
エデンの煮えきらない態度にイライラする。
エデンは本当に杉山さんと?
交際説は杉山さんの戯言じゃないのか?
エデンが他の男と?
想像しただけで気持ちが悪い。相手が顔見知りで難なく2人の絡みが想定出来るのが尚もおぞましい。
ずっと自分がエデンを穢す妄想をしていたのに、今じゃ、その妄想の自分が杉山さんに差し替わって仕方がない。
忌々しい。
「こっち見て」
俺はおぞましい想像を現実で上書きしたいと思った。
「なに?」
エデンが顔を上げたところで、俺はその角度に合わせて顔を近付けた。
「氷朱鷺、それは駄目」
俺がエデンにキスしようとすると、キスされると思った彼女に胸板を押し返される。
「なんで?」
多分、俺はどんな言い訳をされても納得出来ないだろう。
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エデンはまた俺から顔を背けた。
「指南だって?俺は処罰待ちで事実上献上品じゃないのに?これはただのキスだよ。好きな人に対する愛情表現」
そう、俺はエデンを愛している。だからこそ、処罰を受ける前にせめて彼女とキスしておきたかった。一方通行ではあるけれど、それくらいの慰めは許してほしかった。
なのにエデンは俺を受け入れてくれない。
エデンはどうしてそんなに困った顔をしているのか?
「尚更駄目だよ」
「尚更?」
業務内のキスよりもプライベートなキスの方が容認出来ないって?
「そんなに俺の事が嫌い?」
「違──」
「違わなくない。こんな時ですら俺のささやかな願いも叶えてくれないじゃないか」
俺が処断されるかもしれないという時ですら、エデンは俺に気を許してはくれない。
「他の事なら……」
「じゃあ、俺と寝てくれる?」
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「何?俺の、エデンに対する愛情が家族愛や憧れからくるものだとでも思った?」
勘違いも甚だしい。
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自分でも言っていて可笑しくなって自嘲してしまう。
献上品が調教師をおかずにするなんて、とんだお笑い草じゃないか。
もうやけっぱちだった。
「やめて、気分が悪い」
エデンは口元を押さえ、顔を青くした。
傷付く反応じゃあないか。
「気持ち悪い?同じ部屋で寝ているかわいい坊やに妄想で犯されてたなんてゾッとする?」
「本当にやめて」
「俺がずっとエデンに手を出さなかったのは嫌われたくなかったからだよ。けど、それももう、関係ないね」
俺はエデンの両手を掴み、そのまま壁に彼女を押し付け、荒々しいキスをした。
エデンはギョッと目を見開き、両手に思い切り力を込めたが、所詮は非力な女の抵抗、俺は難無く彼女を懐柔出来た。
エデンは、まさか俺にこんな力があったなんて想像もしていなかっただろう。俺は力無いふりをしてずっとこの時を待っていたんだから。エデンらしくて愚かしい。
そして愛おしい。
俺にとって憧れの絶対的存在であった人物が、俺にいいように口内を犯されてる様は本当に堪らない。万里でその唇の味を想像した事もあったが、圧倒的に想像以上だ。女の唇が初めてという事や、憧れに対する贔屓目も少なからずあるだろうけど、エデンの唇と言ったら、薄くて張りがあって、それでいてマシュマロのように軟らかい。吸ったり舐めたりと飽きのこない感触をしていて、俺は更にその先を味わうべく、固く引き結ばれた唇の隙間に自身の舌を挿し入れようとグリグリ攻め込む。
「ぐぅっ」
エデンが舌の侵入を阻もうと尚も鉄壁のディフェンスで『貝』になり、俺は逆に躍起になって、そっちがその気ならと右手で彼女の胸を鷲掴みにした。その瞬間、自由になった左の拳でエデンに喉を思い切り殴られた。
「いっ……」
ってぇっ!
俺は殴られた反動で背中を戸に強打し、激しい鈍痛を訴える喉を押さえ、そのままズルズルと床に座り込む。
エデンを組み敷けたと思ったのに、情けない。喉仏が首にめり込んだかと思った。
「ゴホッ!!ゴホッ!!オェッ!!」
上手く呼吸が出来ないうえに、吐き気までする。殴られた角度が斜め横でなければ大変な事になっていた。急所をついてくるなんてさすがエデン、本気で俺を拒絶したいらしい。そりゃ強引過ぎたのは悪かったが、ここまで激しく抵抗されるとさすがの俺も傷付く。
「私は調教師だから献上品の顔は殴らない。でも力で女をどうにかしようとする奴にはそれなりの制裁を与える」
「ちょっ……と前に、調教師と献上品じゃなくなるっ……て、言ってなかった?」
油断すると声が上擦る。
「今はまだ調教師と献上品だよ。そして氷朱鷺は私の家族だから、こういう事は出来ない」
エデンは毅然とした態度でキッパリと言い放った。
「頼んでもないのに勝手に家族に加えないでよっ!!」
俺がカッとなって拳で床を殴り、エデンを怒鳴りつけると、その声に驚いた彼女が両肩をビクリと跳ね上げた。いつも物静かで冷静沈着な俺が初めて声を荒らげたものだからエデンはさぞや驚き、怖かった事だろう。
床を殴りつけた拳はジンと熱く痛んだが、アドレナリンが出ていたせいか全く気にならない。それよりも『家族』とか『弟』とか、俺がほしかったポジションはそこじゃない。家族なんて言ってれば、俺がその絆に身をやつすとでも思っているのか?
そんなもの、これまでだってとんでもない重荷だった。どうして、血も繋がっていないのに杉山さんと同じ土俵に立たせてくれないのか、男として見てくれないのか、思春期の俺には耐え難い地獄だった。
「……氷朱鷺、私はお前の事を大事な家族としか見れない。それはこれからも同じ」
だからその『大事な家族』というパワーワードが俺を圧迫して苦しめるんじゃないか。
人生初の最初で最期の恋心がものの見事に粉砕されようとしていて、俺はなんだか泣けてきた。
「恋人同士だって、結婚したら家族になるじゃないか」
俺は意気消沈して項垂れる。その様はまるで廃人、というか死んだ珊瑚、みたいな?
失恋真っ最中に口をついて出るのはみっともない恨み節ばかり。自分でもかっこ悪とは思うけれど、止められない。
「……そうだね。確かにそうだ。でもその相手は氷朱鷺じゃない」
「杉山さん、そうでしょ?」
俺がそう尋ねると、エデンは少し迷った後に『そうだね』と答えた。
『杉山さんが好きなの?』と聞き返そうとしたが、それは声にならなかった。
喉に力が入らなかったからだ。
それは決して喉が痛かったからではない。
エデンの口からはっきりと『好きだよ』と聞くのが恐ろしかったからだ。
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「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
社長の奴隷
星野しずく
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