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変化

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 氷朱鷺がかぐや姫役を練習するようになってから、彼に艶というか、一種の色気を感じるようになった。
 氷朱鷺ももう17、少年から大人へと変わる転換期を迎える。この、少年とも大人ともつかない時期が一番、危うい魅力を放つのだと、菖蒲は言っていた。
 確かに、発達し始めた筋肉や筋がしなやかで艶めかしい。一見、女性の様に滑らかな肌感をしているが、ふと力が込められた時、程よく隆起した筋肉が男らしさを感じさせる。
 かと言って、漢漢もしていないので長髪に十二単がやたら似合う。唇や目尻に紅をさすと女の私でもそそられる。氷朱鷺がこうして稽古場の舞台で扇の舞を舞おうものなら、献上品も調教師も動きを止めて彼に釘付けになった。
「エデン、あの子はえらく人目をひく子だね」
 私と杉山さんは暗がりの観客席から照明を浴びながら華麗に舞う氷朱鷺を見上げ、感嘆としていた。
「ありがとうございます。私には勿体無いくらいの逸材です」
「でも氷朱鷺ってブルーダイヤみたいなんだよな。無表情だからか、その美しさに不安になる」
 それは褒めてるのか?
「そうですか?私には、無邪気な子供のままですけど」
 体は成長したが、氷朱鷺は今でも私にベッタリな甘えたがりだ。
「無邪気を装ってるのかも」
 杉山さんが意味有りげにニヤッと口の端を持ち上げる。
 からかってる?
「まさか」
 氷朱鷺はそんな器用なタイプか?
「だって、ほら、演技が上手い」
 杉山さんが舞台上の氷朱鷺を指差すと、ちょうど氷朱鷺はお爺さんとお婆さんに別れを告げるシーンを演じていて、確かに、その哀憐の表情は良く出来た舞台を見ているようだった。
「うん……」
 目薬かどうかはわからないけれど、涙で睫毛を濡らす氷朱鷺の姿から目が離せない。
 私が氷朱鷺に見とれていると、それに気付いた氷朱鷺と目が合い、彼は練習中にも関わらず照れて頬を赤くした。
 かわいいな。
「氷朱鷺もなかなかの演技派だけど、万里も様になってるだろ?」
 杉山さんはクスクスと笑いながらかぐや姫を迎えに来た牛車を指差した。
「前脚?後ろ脚?」
 牛車を引く牛は二人一組のようで、見た感じ、どっちが万里の脚なのか見分けがつかない。
「後ろ。前脚役より体勢がきついから腹筋が割れそうだってボヤいてたよ」
「あー……言われてみると、あのぎこちない動きが万里っぽい」
 万里は生来不器用な質だから、見ていてハラハラする。
「俺は、万里のああいうちょっと不器用で不出来なところを伸ばしてやりたいんだよね」
「変なとこを伸ばさないで下さいよ。万里は氷朱鷺のライバルである前に、私の弟なんですから」
「大丈夫大丈夫、エデンの弟は悪いようにはしないし、これでも真面目に調教してるんだから。万里は感受性の豊かな子だから、あまり無理させないで、あの子なりの持ち味で勝負させてやろうと思ってね。氷朱鷺が完璧さを売りにするなら、うちは母性本能をくすぐるような可愛げでいこうと思ってね」
「そうですね。万里は我が弟ながらドジでほっとけなくてかわいいですから、逆にそこが王女にウケる可能性もあるかもしれませんね」
「だろ?」
 ──と言って杉山さんは何故か肘掛けにあった私の左手を握ってきた。
「え?」
 あまりに突然で、私が杉山さんの横顔を見上げると、彼は全く狼狽えた様子もなく、仏のようなニコニコ顔で微笑んでいた。
「あぁ、コーヒーと間違えた」
『ごめんごめん』と言う割に、杉山さんはそのまま私の手を握っているし、何より、彼はコーヒーなんて持ち込んでいない。しかも杉山さんは手を放すどころか、恋人同士のように指を絡めてきた。
「……」
 これは一体……
 このシチュエーションは、映画館で恋人同士がやるそれではないだろうか?
 思春期や青春時代を戦争と調教師に注いできた私にもそれくらいはなんとなく解る。
 友人同士(?)でこんな事はしないだろう。
 からかっているのだろうか?
 でも杉山さんに限って、こうして人をからかうとも思えない。一体、どういう意図でこんな事をしているのだろう?
「……」
 手、大きいな。氷朱鷺のピアニストの様なスマートな手とは大違いだ。ガサついてて意外と分厚い。漢漢してる手だ。
 幼少の頃から、別に杉山さんから触れられるのには違和感を感じていなかったけれど、間にキスを挟んでいるからか、どうしても男として意識してしまう。
 なんだ、この時間は……
 唐突過ぎるだろ。
 杉山さんの手が熱くて、私はジリジリと掌と肘掛けの間に汗をかき始める。
「あの……」
 私が困惑しながら目で訴えると、杉山さんは意に介する事無く自然にそれに応えた。
「どうしたの?」
 彼はまるで何事もなかったかのように、寧ろそれが当たり前であるかの如く振る舞っていて、私は尚更困惑する。
「えっ、はあ、いえ……」
 杉山さんは一体何を考えているのだろう?
 杉山さんはプレイボーイだから、単なるスキンシップのつもりなのかもしれない。
 もしや、私が大人になったから、杉山さんは他の女性達にそうしてきたように、私の事もいち女性として扱っているのだろうか?
 いや、でも、杉山さんはプレイボーイで夜遊びもしていたけれど、実際にこうして公の場で女性の手を握る姿なんかは一度も見た事が無い。
「……」
 益々、謎、深まる。
 ここは思い切って聞いてみるべきか?
「杉山さん、どうして手を握るんですか?」
 しまった、ストレート過ぎたか?
 私は言ってから後悔した。
 凄い気まずい。
「駄目?」
 思わぬ、質問を質問で返され、私はつい首を横に振る。
「別に」
「なら良かった」
 え、それだけ?
 なんなら手をニギニギされたけど?
 なんだ、この甘々な時間は……
「でも緊張します」
 私は恥ずかしさに敗れ、俯いて自身の膝っこぞうを刮目する。
 ドキドキして手汗が止まらない。
 なんで杉山さんはそんな冷静でいられるんだろう。杉山さん、手は熱いのに、手汗すらかいてない。
「良かった」
 ……何が?
「氷朱鷺との指南はさして進んでないんでしょ?」
 杉山さんは全てを見透かしたように尋ねてきた。
「進むというより進めていませんし、進める気もありません。氷朱鷺は弟みたいなものですから、彼には教材での性教育のみで対応しています」
「それを聞いて少しは安心したけど、未だに寝室は一緒なんだろ?俺は部屋が隣でも毎晩気が気じゃないよ」
「どうしてですか?」
「どうしてかな、心配なんだよ。戦場にいた時でもエデンの事が心配で身を焦がしていたけど、今は違う意味で心配みたいだ」
「はあ……」
 違う意味?
 氷朱鷺が私を襲うとでも言いたいのだろうか?
 あり得ない。
「エデン、エデンは氷朱鷺を献上した後はどうする気?」
 氷朱鷺を献上した後?
 今が精一杯で考えてもみなかった。
 でも、そうか、氷朱鷺が後宮に入れたとしても、入れなかったとしても、どちらにせよ私は職を失うのか。
「今はまだ考えてません」
「結婚は?」
「さあ、想像出来ません」
 私は戦場で幸福とは真逆の世界にいたせいか、幸せな結婚生活というものが思い浮かばない。好きな人の子供を産んで育てるとか、私には関係の無い絵空事のように感じられた。
「じゃあ、この城を出た時、答えが出るまで家にいるといいよ。いや、そうでなくても好きなだけ家にいたらいい。そうしているうちにきっと答えは出るからね」 
「え、でも、そんな訳には」
「いいからいいから」
 そうして杉山さんから再度手をニギニギされ、私は反応に困った。
「杉山さんはご結婚されないんですか?」
 杉山さんとて、既に1人くらい子供がいてもおかしくない年齢だ。それに彼はその気さえあればいつでも結婚出来そうな程おモテになる。なのに結婚していないのは、まだまだ遊び足りないからなのか……
「エデン、してくれる?」
 杉山さんに顔を覗き込まれ、私は一瞬、なんの事かと内心首を捻ったが、すぐに、からかわれたのだと察した。
「私には杉山さんの護衛くらいがお似合いですよ。肉の盾ですけど」
 そもそもこんな猛々しい女、杉山さんには不釣り合いだから、そこらへんはわきまえているつもりだ。
「駄目。俺がエデンを守りたい」
 何気なく持ち上げられた私の左手が、ゆっくりと杉山さんの唇に持ってかれ、人差し指の関節の所がそこに触れそうになるのを、私は他人事のように眺めていた。
 まるで映画のワンシーンだ。
 杉山さんて、浮世離れした器量から鑑みるに、俳優業がぴったりなんじゃないだろうか?

「待った」

 私が杉山さんの雰囲気に飲まれ、ボンヤリしていると、いつの間にか舞台から降りてきた氷朱鷺に右手を奪われた。
「エデンに触るな」
 氷朱鷺はキリリとアイラインの効いた目尻を更に吊り上げ、親の仇でも見るかの如く杉山さんを睨みつけている。
「氷朱鷺」
 私は、面倒なところを見られてしまったなと思った。
 氷朱鷺は独占欲が強く、嫉妬深いので、私は浮気が見つかった妻のような気分になる。別に、私は氷朱鷺に気負う必要などどこにもなかったのにも関わらず、彼に見咎められたような気になり、なるべく杉山さんの方を見ないようにした。
「氷朱鷺、舞台に主役がいないんじゃあ、練習にならないよ?」
 杉山さんがすかさずフォローを入れてくれたが、諸悪の根源が口を挟むのは火に油だと思う。
 氷朱鷺は杉山さんの事となるといちいち目くじらを立てるから。
「さっきから貴方がエデンにセクハラをするので気が散るんですよ」
 氷朱鷺は瞬きするのも忘れて杉山さんを凄んでいた。
 どうしてこんなに杉山さんを毛嫌いするのか。
「氷朱鷺、セクハラだなんて、単なるコミュニケーションじゃない?」
 私がやんわりその場をおさめようとするも、杉山さんが『単なるコミュニケーションだなんて、寂しいね』と余計な一言をぶっ込み、それこそ氷朱鷺の怒りの炎に油を注いだ。
 かねがね思っていたが、杉山さんて人は、天然であるがうえにKYでもあると思う。
 とんだナチュラルキラーだ。
「エデン、エデンは俺の調教師なんだから、俺以外の人とスキンシップしないで」
「え?あぁ、うん、分かった」
 私は昔から氷朱鷺の懇願するような駄々っ子(?)に弱い。というか、どうするのがベストなのかわからないのでとりあえず何でも了承している。そのせいか、氷朱鷺は懇願すればある程度の事はまかり通ると思っている節がある。
 万里がわがままいっぱいなのも、私が甘やかしたせいか?
「逆だよ。調教師は献上品と距離をおかないといけない。なにしろ情が移るからね。調教師は献上品と恋仲になってはいけないし、献上品に本文を忘れさせても駄目。それから、いざって時は迷わず献上品を撃ち抜かないといけないからね」
「杉山さん!」
 最後の一言はさすがに氷朱鷺の耳に入れていいものではない。
 氷朱鷺だって、月波の一件以来、その話題は避けているのに、どうして杉山さんはわざわざそんな事を言うのか。事実にしても少し言い過ぎだ。
「ごめん、言い過ぎたけど、それが事実だからね。お互いの為にも距離は大事ってことさ」
「お互いの為?自分の為なんじゃないんですか?」
 棘はあるが、ゆったりといつも通り話す杉山さんに氷朱鷺が突っかかり、その場が修羅場と化す。
 バチバチだな。
 見えない火花が散っているようだ。
「認めよう」
 ナンデ?
「杉山さん、貴方には他に沢山女がいるでしょ?うちのエデンにちょっかい出すのやめて下さい」
 氷朱鷺にグイグイ引っ張られ、私はあれよあれよという間に立たされて彼の背後に押しやられる。
「さすがにこの歳でまで遊んじゃいないよ。それにエデンにちょっかいだなんて、元々俺とエデンはこんな感じだし、強いて言えば、俺はエデンの後見人で保護者だから、彼女は君の物じゃないよ」
 ──というと、私は杉山さんの物なのだろうか?
 それも違うような気もするが、彼には世話になっているので敢えてそこはつっこまない。
「俺の物だよ」
「献上品なのに?」
「関係ない」
「大アリだと思うけど」
 杉山さんが脚を組んで大人の余裕を見せているせいか、氷朱鷺はどんどんいらついているように見える。
 面倒だな。
 私が天を仰ぎ呆れ返っていると、茶色いスパッツを履いた万里が文字通り氷朱鷺の背中に突っ込んで来た。
「いたっ」
「氷朱鷺、お昼ご飯食べに行こう~」
 万里は氷朱鷺の腰に腕を回し、甘えたような声を出した。
「後でな」
 氷朱鷺はベタベタ引っ付く万里には目もくれず、相変わらず臨戦態勢のまま私の前に立ちはだかっている。
「駄目だって。昼休憩が終わっちゃうよ」
「一人で行けよ」
「えーっ、ボッチ飯になっちゃうよ」
「行って来なよ、氷朱鷺」
 私のまさかの裏切り(?)により、氷朱鷺は上体を大きく捻ってこちらを振り返った。
「えっ」
「そうそう、俺らは午後から課外講習だから外で食べるし」
『俺ら』と言いながら杉山さんは私の腕を掴んでそのまま自身の背後に移動させる。
「俺も行く」
「許可も無しに外に出たら射殺されるぞ」
 杉山さんは軽く笑い飛ばし、氷朱鷺の胸の辺りを人差し指で2度トストスと指した。
「このっ……」
 氷朱鷺が唇を噛み締め、物凄く悔しがっている。
 あまり感情を表に出さないタイプなのに、相当我慢しているようだ。
「ごめん、氷朱鷺。今日は早めに帰るけど、課外講習が長引くかもしれないから先に夕飯食べてて。万里は氷朱鷺と一緒にいてあげて」
 私は氷朱鷺の反応を気にしつつ、強引な杉山さんのエスコートで稽古場からフェードアウトする。


「さっきの氷朱鷺、良くないんじゃないの?」
 杉山さんの愛車に乗り込むなり、彼は開口一番にそう言った。
「ご迷惑かけてすみません。うちの子、ちょっと独占欲が強くて。普段は聞き分けの良い良い子なんですけど」
 私は申し訳がたたなくてシートベルトをするより何より先に頭を下げる。
「別にエデンに嫌味を言っている訳じゃないよ」
 杉山さんは私を安心させる為に朗らかに笑って私の頭を撫でてくれた。
 温かい、大きな手だ。
「心配してくれてるんですよね?」
 杉山さんは保護者として私の事が心配でたまらないのだと思う。
「そう」
「ありがとうございます。でも氷朱鷺の独占欲は子供が親に抱く一過性のものだと思うので」
「エデンにはあれが子供に見えるの?」
「えっ、まあ、でかくはなりましたけど……よく、親が子供の事をいつまでたっても子供は子供って言うのと同じ感情なんですよね」
「それはエデンから見た氷朱鷺の存在で、向こうから見たエデンの存在は、親に対するそれではないと思うんだよな」
「はあ」
「思春期の少年から見たエデンは、到底親には見えないって事さ」
「まあ、歳がそこまで離れている訳ではないですし、姉くらいの感覚ですかねぇ」
 私は話をうやむやにするようにシートベルトをして車の発進を促した。
「まるで俺とエデンだな。エデンは俺の事を歳の離れた兄みたいに思ってる?」
 ──なんて聞かれて、私は改めて考えてみる。
 杉山さんの事は恩人だと思っている。しかし兄や親、友人等、そのどの呼び方で形容するのが一番失礼が無いか、悩みどころだ。
「保護者……」
「え?」
 私が恐る恐る杉山さんの顔色を窺うと、彼は笑顔の能面を顔に貼り付けたように『無』な微笑みで聞き返してくる。
 お、おう……
「ではなくて、身内?」
「身内か」
 杉山さんは何故かがっかりしたように前を見据えて車のエンジンをかける。
 私は何かをしくじったようだ。
 そして車は杉山さんの性格を表すように優雅に走り出す。
 山道を暫く走行した所で、急に杉山さんが突拍子もない事を言い出した。
「ねぇ、エデン、俺を男として見てみるのはどうかな?」
「男ですか?」
「あ、異性」
 それはつまり、恋愛対象にもなり得る存在として、だろうか?
 そんな事を言ったら、私は杉山さんから既にキスをされているのでとっくに彼を男性として意識していると思う。ただし、杉山さんがあまりにもキスについて触れてこないので努めて意識しないようにしていた。それが何故、今になって私の心を乱しにくるのか、理解に苦しむ。
「どうかなと言われましても……」
 そもそも特定の誰かを恋愛対象として見た事がないので困惑しかない。
「じゃあ、2人がドライブデートしているとこを想像してみて」
 それはまるで、今、この時そのものじゃないかとさえ思える。
 密室の車内に2人きりというシチュエーションだけど、杉山さんにはよく車に乗せてもらっていたのでいまいちドライブデートの感覚が掴めない。
 そんな私を見越してか、いきなり杉山さんが私の右手を自身の左手で包んだ。
「……」
 ぎょっとして杉山さんの横顔を見上げると、彼は年齢に不相応ないたずらっぽいはにかみを見せて笑った。
 こんなにあざとかわいいアラサー男がこの世に存在するなんて、狡いな。
「ギアと間違えた」
 あ、この間違えたシリーズはプレイボーイな杉山さんの女を落とす手口だ。
 当然、私はその手口にまんまと乗ってしまい、まんまと杉山さんの細長くて大きい手にドキドキしている。
 不思議だ。さっきも握られたのに、やっぱりドキドキする。
 暑いな。
「どう?意識した?」
「はい、良くわかりました。でも、どうしてこんな事をするんですか?」
「ちょっと考えたんだけど、俺達2人が付き合ってるって事にすれば氷朱鷺の独占欲もおさまると思うんだよね」
「悪化しませんか?」
 逆に氷朱鷺の神経を逆撫でして面倒な事になりそうだけど。
「どうせエデンとは離れ離れになるんだから諦めがつくんじゃない?」
「そういうものですか?」
 火に油を注ぐ事にならないか?
「自分で一過性のものだって言ってたろ?」
 ニッと杉山さんが爽やかに揚げ足をとってきて、私は断る理由を失った。
 ん?
 でも『付き合ってる事にする』っていうのに杉山さんを異性としてみるとか、意識するとか、そういうのは関係なくないか?
 ──と思ったが、そこは別に深く掘り下げる必要もないので敢えて尋ねない。
「はあ、そういう事にしたとして、私はどういう風に振る舞ったらいいんでしょうか?」
 氷朱鷺の目がある時だけ付き合っているフリをすればいいのだろうが、なにぶん、誰かと付き合った試しが無いのでどうしていいかわからない。
 俗に言う、ラブラブする?とか?
「え?そりゃあ、まあ……イチャイチャと」
「イチャイチャですか」
 ラブラブとイチャイチャの違いとは?
 え、イチャイチャって、どうやって?
 かと言ってそれを杉山さんに尋ねるのはなんだか怖い。なんでかわからないけど怖い。
「実践する?」
 ──ってなるから怖い。
「あ、いえ、大丈夫です」
 スン……
 昔から知る気の良いお兄さんの漢の部分を見るのはだいぶ勇気がいる。日頃から愛用していたマッサージ機に全く別のいかがわしい使用方法が存在していたと知った時と同じような衝撃や裏切りを感じそうな気がするのだ。
「そんなに警戒しなくても、エデンが嫌がる事はしないよ」
『どっからが嫌かはわからないけど』と付け足すあたり、恐らくこの人はとぼけた顔をして人の領域にグイグイ入ってくるだろう。
「ヤるのは?」
「氷朱鷺の前で見せつけるつもりですか?変態ですよ」
 悪い冗談で私をからかうのはわかるが、内容が内容だけに気まずくなるのでやめてほしい。
「じゃあキスは?」
「っえ、と……」
 私は返答に行き詰まり、左手で自身の腿を揉んだ。
 私に了承を得る前から人にキスをしておいて、杉山さんはどういうつもりでそんな事を言うのか、心臓に毛でも生えているんじゃないかと思う。
「嫌?」
 別に付き合っている訳でもないのに、長年保護者だった相手からそんな風に聞かれて『嫌じゃないです』なんて答えようものなら、安定した今の関係性が崩れそうで嫌だ。
「そこまでする必要はないと思われます」
「何事もリアリティは大事だよ」
「でも、それは慣れないんで絶対ボロが出ると思われます」
「じゃあ練習する?」
 杉山さんが春の麗らかな気候の如きほのぼのした笑顔でこちらを見やり、私は確信した。
 あ、この人、タラシだ。
 私が大人になったから杉山さんの夜の部分が見えてきたのか、又はそうなったから彼がその部分をさらけ出しているのか、とにかく杉山さんとこのような会話をするのは新鮮……というか、困惑する。
「この先は鹿の飛び出しが多いですから注意して下さい」
 私が前を指差すと、杉山さんは『え、まじ?』と慌てて前方を注視する。
 危ない、杉山さんのペースに巻き込まれるところだった。
 私はシートの傍らでそっと胸を撫で下ろす。
「エデンは身持ちが堅いね。安心したよ……俺にだけガードが堅い訳じゃないよな?」
「杉山さんこそ、プライベートはこんななんですね」
「どんな、なの?」
「グイグイくる感じです」
「俺はケースバイケースかな」
「ケースバイケースですか。今までどんな女性達と付き合ってきたんですか?」
 これまで杉山さんの恋愛遍歴にはまるで興味が無かったが、今日はなんだか踏み込んで聞いてみたい気分だった。
 杉山さんは大人の男性だから、知的で大人っぽい女性とばかり付き合ってきたんじゃあないだろうか?
「様々だよ。十人十色さ」
 杉山さんて、雑食系男子なのか?
「好みとかないんですか?」
「好みっていうか、安産型かどうかは気になるけど」
 え?
「こうね、骨盤が張ってて安定感のある腰なんだけど──」
 等と言いながら杉山さんの視線が私の腰の辺りを品定めするように彷徨う。
「あ、杉山さん、鹿」
「えっ!ヤバ」
 私が咄嗟に機転を利かせて前方を指差すと、杉山さんはそれにまんまと乗り、辺りをキョロキョロ警戒している。
 なんか……
「鹿なんかいた?」
「えぇ、まあ……」
 鹿なんか始めからいない。
 私はただ、杉山さんからあからさまに性の対象として見られた事が気恥ずかしくて耐えられなかったのだ。
 背中を鳥の羽根で擽られたようなざわざわ感があった。
「エデンが意外と安産型で安心したよ」
 せっかく私が話をそらしたのに、この人はつくづく……ん?
 私達は氷朱鷺の前でだけ恋人のフリをする約束を提携したのに、今のセリフには違和感がある。
「それは──良かったですね」
 まあ、いいか。
「エデンって、いつも他人事のように物を言うよな?」
「戦場にいたせいか、あまり深く考え込まないように自我を切り離して考える癖がついたみたいです」
 戦場では、ただ目の前の人間に向かって引き金を引くというシンプルな考えでなければ精神が崩壊していたと思う。
「だからか」
 杉山さんは妙に納得したような顔で顎を触った。
「なんですか?」
「いや──だから男の車にホイホイ乗り込むのかなって」
「んなゴキブリみたいに……杉山さんは恩人ですから警戒する必要はないかと」
 それに杉山氏の車に乗り込むのはこれが初めてではない。子供の頃から乗り慣れているのに、何を今更、だ。
「あー……恩人、ね。因みにエデン、笑う民生委員って知ってる?」
「なんかの映画かドラマですか?」
 また藪から棒に。
「いや、実際に起こった殺人事件の見出し」
「それはまた物騒ですね」
「認知症を患った老婆が金を盗まれて殺されたって話なんだけど、その犯人が、実は同じ団地に住むおばさんで、日頃から甲斐甲斐しく被害者の世話を焼いていた民生委員だったんだよ」
「世も末ですね」
「しかも逮捕前に受けたテレビのインタビューで怖いくらい、これでもかと善人な笑顔で受け答えしてて、後日、その異常性から笑う民生委員って異名がついたって訳」
「へぇ……それはそれは……」

 ん?

「何のお話ですか?」
 いけない、ここでもあまり深く考えない性格が発動するところだった。気を抜くとつい『へぇ』で全てを完結してしまいそうになる。私の悪いところだ。
「恩人と言えど、身近な人間にこそ危険が潜んでいるのになって事」
「杉山さんの事は信用してますから」
「良心に訴えかけてくるね」
 何故か杉山さんは肘鉄でもくらったかのように片手で脇腹を押さえた。
 杉山さんの良心は脇腹にあるのか?
「いや、でも、氷朱鷺の事もあるし、教訓として教えておいた方がいいか」
 そう独り言ちて杉山さんはハンドルを左に切り、車体を崖の斜面ぎりぎりに寄せる。
「こんな何も無い山道で、どうしたんですか?オシッコですか?」
 ここは山を切りひらいた長い山道だ、当然、コンビニも無ければ自販機も無い。そんな所で停車して、杉山さん、余程膀胱に余裕がなかったのか。
「違う違う」
 杉山さんは片手で自らの顔を覆って軽く失笑した。
「違うんですか?」
「違う」
 杉山さんはシフトレバーをパーキングに入れ、シートベルトを外してこちらに身を乗り出すも『あっ』と何かに気づいてサイドブレーキを引く。
「揺れるからね」
『笑う恩人』そんな異名をつけてもいいくらい、杉山さんは良い顔で笑った。
「揺れるんですか?」
「揺れる揺れる」
 そう言いながら杉山さんはまた私の方に身を乗り出してくる。
 近いな。
「どうしたんですか、近いですね」
 柔軟剤か、香水か、杉山さんの首筋の辺りからほんのりとフルーツ系の甘い香りがした。
 彼に至っては、このくらいの距離には慣れていたのに、やにお尻のあたりがムズムズするというか、とにかく落ち着かなくなってきた。
 それに杉山さんのこの真剣な顔、いつも笑顔なだけに妙に緊張感がある。
 いつもと雰囲気が違う。そう気付いた頃には私は杉山さんにキスされそうな程距離を縮められていた。
「エデンは調教師の夜伽指南講習会でどこまで習った?」
 唇に杉山さんの吐息を感じ、私は恥ずかしくなって思わず顔を窓側に背ける。
「どこまでって……ひと通りですけど」
「なるほどなるほど」
「なるほどなるほど?」
 この、まな板の鯉状態の私にこれ以上何をしようというのか。
「全部ね」
「はぁ……」
「じゃあ、これから俺が何をしようとしているのか解るよな?」
「えっ、分かりません、分かりません」
 私は逆に解ってしまうのが怖くて考えるのを止めた。
「大丈夫、俺はノーマルで淡白だから初めての人に怖い事はしないよ」
 その言い方と、自然な流れで人のシャツの裾から手を差し込もうとしているのがもはや怖い。
「恩人が怖い?」
 杉山さんが普段通りの笑顔で尋ねてくるのも今はホラーだ。
「杉山さんが怖いです」
「嫌悪感は?」
「それは……」
 不思議と無い。これは彼がイケメンだからか?
 私はただ、未知の領域と、恩人の知らない一面を見るのが怖いだけなのかもしれない。

 いや待て、その前に、私は何故、後見人の杉山さんとこんな事になっているのか?
 確かに恋人のフリをするとは言っていたが、ここまでするのはさすがにフリの領域を越えている。
 これはイケナイ事なのではないだろうか?
 だってこの先は……さすがの私でも解る。

「良かった。俺はエデンが恥ずかしがる事はするけど、エデンの嫌がる事はしたくないから」
 あ、これ、流されちゃいけないやつだ。
「そもそも恥ずかしい事が嫌です」
「じゃあ逃げれば?」
 笑顔なのに突き放すように言われ、私は思い出したようにドアの取っ手を引っ張り、一旦外へ避難しようとドアを開けた。

 ガンッ

「えっ?」
 ドアが土砂崩れ防止のコンクリート壁にぶつかり体が通り抜けれるだけのスペースが確保出来ない。
「あのっ……」
 一旦距離をおく事で杉山さんの頭が冷やされるか、この場の変な空気が払拭されるだろうと踏んでいたのに、今、恐ろしくも恐ろしい嫌な空気が流れている。
 これは……いよいよガチじゃないか?
 車内は快適な温度なのに、背中にかいた汗が背骨のRに沿って滑り落ちるのを生々しく感じた。
「最初はこの姿勢の方がいいかな」
 ──と杉山さんが訳の解らない事を呟きながら助手席のレバーを引いて背凭れを倒し、私を仰向けに寝かせ、更にはそつなくドアも閉める。
 手際が良過ぎる。
「杉山さん、ドアをぶつけたのは謝ります。弁償もします。ですから無かった事にしてもらえませんか?」
 いきなりこんな事、私の理解が追いつかない。
 杉山さんて、こんな突っ走る性格だったっけ?
 もっとおっとりとしていて、包み込むような優しさがあったのに、どうしてしまったのか。
 これじゃあまるで女たらしじゃないか。
「ドアの事はいいよ。気にしてないし、気にしなくていい。それより俺に集中して」
 不意に杉山さんが私の唇に自分の唇を寄せ、私は思わずギュッと目を閉じた。
「なんか顔面にボールでも当てられそうになってるような顔をするね」
 耳元でクスクスと笑われ、その吐息のこそばゆさに肩を竦める。
「じゃあ止めて下さい」
「嫌悪感が無いのに?」
「無いですけど駄目です」
 杉山さんに耳朶を甘噛みされ、私はそこが熱くなるのを感じた。
 駄目だ、流されてねんごろになってしまう。
 ワンチャンみたいな流れで杉山さんとの関係を壊したくない。
 でも杉山さんに覆い被されてシートベルトは外せないし、車からの脱出も出来ない。

 絶体絶命だ。
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