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キス

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「え?」
 本当はちゃんと耳に届いていたが、私は聞き間違いであってほしくて敢えて聞き返した。
「今のは……」
「僕、エデンとキスしたい」
 氷朱鷺は空耳では片付けられない程ハッキリ言い直し、私を当惑させる。
 キスと言うと、どうしても昼間見た柳と菖蒲のようながちのやつを思い出してしまうが、家族間でやるハグとセットみたいなやつの事かもしれない。
「分かった。じゃあ、寝る前におでこにキスしてあげるね」
 うちは実地はやらないと宣言してあるし、これで氷朱鷺も納得がいく筈、なんだけど……
「え、うん……」
 何故か氷朱鷺がしょんぼりしていて、私は少しだけ不安になる。
 氷朱鷺もそろそろ年頃だし、キスとか異性に興味を持ち始めるのは自然な事だけど『キスがしたい』の欲求と『キスがしてみたい』の好奇心とではちょっとニュアンスが違うというか、前者ならこちらの対応も難しくなってくる。いや、どっちにしろ氷朱鷺は自分の身内みたいなものだから、なるべくおでこや頬以外のキスはしたくない。一種の、それこそ文字通りの同族嫌悪的なやつだ。それに、たとえそうでなくとも、彼は子供だ。私も大人というわけでもないが、ショタコンの趣味はない。
 とりあえず、その夜、私は約束通り氷朱鷺のおでこにキスを落とし、不満そうに眠った彼の枕元に子供用の性教育の絵本をそっと添えた。
 これから氷朱鷺にどんな風に性教育を教えていったらいいのか、あれやこれやと考えを巡らせているうち、私はリビングのソファーで座ったまま寝落ちしていた。


 ♪♫♬♪♫♬♪♫♬♪♫♬♪♫♬♪
 朝方、私はソファーの肘掛けを枕に横になっていて、夢の中までスマホのアラームが鳴っているのにウトウトとまどろむ。
 一昨日は誕生日の準備で大変だったし、昨日は誕生日当日で忙しかったし、あと5分くらい寝てもバチは当たらない筈だ。
 私はけたたましく鳴り響くアラームが5分おきのスヌーズに切り替わるのを待つ。
 ♪♫♬♪♫♬♪♫♬♪♫♬♪♫♬♪
 寝たいのにうるさいな、というか、朝ご飯の準備をしなきゃいけないんだけど。
 私が観念して重い瞼をうっすら持ち上げると、視界の真ん中に誰かのシルエットが見えた。誰かというか、氷朱鷺しかいないんだけど、何しろ寝起きで目が霞んでよく見えない。
 私がなかなか起きないものだから、氷朱鷺が起こしに来てくれたのだろうか?
 その影は黙ってスマホのアラームを消すと、私の顔にゆっくりと自分の顔を寄せてきた。
『彼』の顔は近過ぎてピントが合わなかったが、ここには私と氷朱鷺しかいないのだ、氷朱鷺に違いなかった。
 やけに近いな、私が起きているのか確認しているのか?
 確かに、氷朱鷺は目が悪く、興味を持ったものをこうして間近でガン見する癖がある。
 私は特段気にする事なく瞼を閉じた、と同時に、いきなり唇にグニュッとマシュマロでも押し付けられたような感触がした。
 !?
 そっと両肩を掴まれ、唇周辺に生温かい息がかかる感覚がして、私はすぐに『キスされている!!』と気が付いた。
 ただ押し当てられただけのキスは、その後の進展もなく、数秒で終わりを告げたが、私を驚嘆させるには充分過ぎるものだった。
 まさか、あの氷朱鷺が?
 私は言わば被害者みたいなものだが、氷朱鷺の可憐でいたいけな容姿を思い出すと、こっちがイケナイ事をしているような罪悪感に苛まれた。
 キスしたいとは言っていたけれど、育ての親である私の寝こみを襲う程とは……好奇心でしてしまったにしても、気まず過ぎるだろう。
 私は今後の事も考え、無かった事にしようとたぬき寝入りを決め込む。
 そうだ、ここは知らぬ存ぜぬで乗り切って、それとなく氷朱鷺を更生(?)させていけばいい。
 私は、暫く第二波に怯えながら寝たフリを演じ、起きるタイミングを見計らっていた。
 リビングに人の気配はある。それが何をしているのか全然窺い知れなかったが、私は怖くてその様子を覗き見る事すら出来ない。しかしそうこうしているうちに突然頭上から声をかけられた。
「エデン、いつまで寝てる気だ?」
 私は思わぬテノールに飛び起きる。
 氷朱鷺の声じゃない!!
 私の目の前にいたのは氷朱鷺ではなく、杉山さんだった。
「なっ」
 なんで?
 目の前に、いるはずの無い人物がいて、私は言葉を失う。
 さっきのキスは杉山さんが……?
 彼の事は良いお兄さんとして一番尊敬していたが、まさか、そんな彼が私にキスを?
 大人で落ち着いた杉山さんが、子供で身分の低い私にそんな事をするとは俄には信じがたいが、リビングには私と彼しかいないのだ、もう確定と言っても過言ではない。
 え、なんで?
 どうして?
 彼は女に困るような人間じゃないし、私の事は妹のように可愛がってくれてたのに、なんでいきなりキスなんか?
「な、んで、杉山さんがここに?鍵、締めてたのに……」
 私はパニクる頭をなんとか整理し、慌てて寝癖を直した。
「最近、あんまり連絡をくれないから、心配で顔を見にね。鍵なんか、大地主で資産家の御曹司にかかれば、国にコネもあるし、顔パスで開けてもらえるよ」
 杉山さんはそんな私の寝癖を一緒になって直してくれる。
 さっきの今で、近いな!
「だ、大丈夫です。すみません、大丈夫です」
 杉山さんが私の頭に触れてくるのはこれが初めてではなかったが、胸が、心臓発作でも起こすんじゃないかってくらい激しく、強く、早く高鳴った。
「顔が赤い」
 杉山さんが膝に手を着き、屈んで私の顔を覗き込んでくるものだから、私はどうしていい解らず、その場から逃げ出したい一心でシュバッと立ち上がる。
「す、杉山さんはいつからここに?」
 私は杉山さんに背を向けてベランダ側の窓のカーテンを開けた。
 眩しっ。
 混乱の中、不意に強い日差しを浴び、私は目を細めた。
「ちょっと前。エデンが気持ち良さそうに寝てたから、暫く寝顔を拝んでた」
 杉山さんはソファーに座り、その長い脚を組んでリラックスしている。
 人にキスしておいてこの大人の余裕、やっぱり、稀代のモテ男は育ちが違う。彼の事はそんなに意識した事はなかったが、そんな彼がちょっと格好良く見えてしまう。
 キスの魔法とは恐ろしい。
「へ、へぇ……」
 落ち着こう、とにかく落ち着こう。私はぐっすり寝ていた事になっているし、杉山さんもその事には触れない方向で接してくるし、ここは何事もなかったかのように振る舞わなければ。
「……おはよう」
 氷朱鷺が寝室から顔を出し、杉山さんを見て『ございます』と低い声で付け足した。
「あぁ、氷朱鷺か、おはよう。大きくなったな!」
 杉山さんは氷朱鷺の方を振り返り『こっちへおいで』と彼をソファーの隣に呼び付けるが、当の氷朱鷺は杉山さんの面前までは来たが、軽く会釈をして洗面所へスタスタと姿を消す。
「人見知りは相変わらずだな」
「すみません。私の監督不行届です」
 私は軽く氷朱鷺を睨みつけ、彼の代わりに頭を下げた。
「いいよ、思春期なんてそんなものだろ?しかし見違えたな、元々綺麗な子だったが、あのまんまを残しつつ上手に育ってる。今は中性的なのがモテたりするから、王女ウケはいいかもしれないな」
 と杉山さんが喋ると、洗面所の方から『ガンッ!!』とプラスチックのコップが洗面台に打ち付けられる音がし、私と杉山さんは苦笑いしながら顔を見合わせる。
「あのくらいの年頃ともなれば、かわいいとか、女っぽいっていうのは褒め言葉にならないのかもな」
「すみません、後でちゃんと叱っておきます」
 私はバツが悪くて再度深々と頭を下げた。
 氷朱鷺の奴、他人に興味を持つ事はないのに、杉山さんに対してやけに敵意を持ってないか?
 寝起きで機嫌が悪かったのか、中性的と言われて腹を立てたのか、オーラからして不穏な空気を纏っている。
 気のせいか?
「ところで杉山さん、朝ご飯は召し上がってこられましたか?」
「ん?コーヒーなら運転しながら飲んだけど?」
 杉山さんが何の気無しにこちらに視線を送り、目が合った私は、ドキッとして彼の長い脚に視線を移した。
「ご一緒に何か食べて行きませんか?大した物は作れないですけど、杉山さんがよくお食べになっていたフレンチトーストくらいなら出来ますよ?」
 なんか恥ずかしいな。今までどうやって話してたっけ?
「いいの?」
「はい。杉山さんがいつも召し上がっていたシェフの物とはいきませんが、それなりの物ならなんとか」
 杉山さんは朝早く家を出て遠方から遥々ここまで出向いてくれたのだ、料理の腕に自信は無いが、何か少しでもおもてなししなければバチが当たる。それに私が、久々に会った恩人にそうしたいと思ったのだ。
「武器ばかり持っていたエデンが包丁を握って料理だなんて、戦場にいた頃が遠い過去のように感じるよ。まあ、包丁も武器になるけど。あの頃のエデンも野生的で綺麗だったけど、俺は今のエデンの方が柔らかで好きだな」
 杉山さんは特に意識していないのか、ニコニコしながらスラスラと歯の浮いたような事を述べ、私を困らせる。
「あ、はぁ……」
 この人は誰にでも優しいから、こういったセリフは誰に対しても言っているのだろうけど、キスは……一体、どういうつもりでしてきたのだろうか?
 ハグやボディタッチは日常茶飯事だったけれど、キスに関しては、これまでに一度だってした事はないのに。
 私が杉山さんの真意を知りたいと思うのは、キスをきっかけに彼を男として意識しているからだろうか?
 杉山さんを男として?
 そういった色眼鏡を通して杉山さんを見てみると、なるほど、私がこれまでずっと気付いていなかっただけで、彼は私が思っていた以上に漢で、大人だ。シャツから覗くゴツゴツとした鎖骨や、隆起した胸板や、大きく節ばった手なんかは、中性的な氷朱鷺とは全然違う。あらゆる武道を体得した私でさえ、あの手に押さえつけられたら四苦八苦するかもしれない。
「エデン、どうしたの?」
 私がぼんやりと杉山さんの体躯を眺めていると、不意に後ろから氷朱鷺に抱きしめられ、我に返る。
「あっ、何でも無いよ。待ってて、今、フレンチトーストを焼くから」
「海苔と納豆じゃないの?」
 何故、納豆?
 氷朱鷺は基本的に好き嫌いせず何でも残さず食べるが、納豆の時だけは、眉間にシワを寄せてそれを水で喉に流し込んでいる。納豆オムレツにすると普通に食べれるものの、それがなんで、寧ろ納豆を望んでいるかのような物言いをするのか?
「今日は杉山さんもいるし、氷朱鷺もフレンチトーストのが好きでしょ?」
 フレンチトーストの日はいつも大喜びなのに、どうしたって今日は不機嫌なのか?
「今日は納豆がいい。納豆が食べたい」
 いつもは聞き分けがいいのに、氷朱鷺は今日に限って小さい子供のように駄々をこねた。
「エデン、俺は別に何も食べなくていいから、納豆にしてあげたら?」
 杉山さんは苦笑しながら遠巻きにこの茶番を傍観している。
「いえ、これも教育ですから。氷朱鷺、わがままは駄目だよ、将来献上されて王女の伴侶になれたとしても、謙虚な気持ちは忘れちゃ駄目なんだから、我慢して」
「イヤだ」
「氷朱鷺!」
 私は氷朱鷺の初めての反抗につい声を荒らげた。
 本当に、この子はどうしたんだろう?
 氷朱鷺は口をへの字に引き結ぶと、足音も荒く寝室に戻って行ってしまった。
「すみません、いつもはこうじゃないんですけど……」
 私はまたしても深々と杉山に頭を下げる。
「いいよ、いきなり訪問した俺が悪いし。氷朱鷺も、エデンを俺に盗られるんじゃないかってヤキモチを妬いたんだと思うよ。子供ってそういうところあるだろ?」
 杉山さんは特に気分を害した様子もなく、さっきと変わらぬ笑顔で私に接してくれた。
「ヤキモチですか?」
「そう、兄弟間で上の子が下の子に母親を盗られたと勘違いして拗ねるやつ」
 そう言われてみれば、そんな感じがしないでもない。しかしそれにしたってあれは子供っぽ過ぎると思うが。
「そろそろ反抗期に突入する頃合いだし、子供ながらに独占欲ってのもあるんだよ」
「独占欲ですか……」
 確かに、それはあるかもしれない。2年経った今でも、氷朱鷺は私にべったりだし。
「でも気をつけなきゃいけないよ」
 そこで杉山さんは妙に真剣な面持ちになる。
「何がですか?」
「単なる子供のヤキモチだといいけど、大きくなってからもこれが続くようなら、注意した方がいい」
「そうですね。王女に献上される時にもこれじゃあ、困りますよね」
 マザコン(シスコンか?)の献上品なんて、献上される側も嫌だろう。
「そうじゃない」
「え?」
「今は親に対するそれかもしれないけど、エデンを女として独占しようとしだしたら、気をつけなければいけないよ」
 そう言った杉山さんの目がいつになくマジで、私は言葉を失ってしまった。
 氷朱鷺が私を女として?
 まさか、そんな馬鹿な事がある筈が無い。氷朱鷺の事は毎日寝食を共にし、お風呂では毎回体を洗ってやっているのだ、そんな家族同然の暮らしの中で、氷朱鷺が私を異性として見る筈がない。
「いや、そんな、大丈夫ですよ」
 ハハハと、私は乾いた笑いをした。
「だといいけど」
「……」
 そんな筈ないと思いたいけれど、氷朱鷺が言った『エデンとキスしたい』という本当の意味が今になって奥歯に引っ掛かる。
「エデン、フレンチトーストはいいから、ちょっとここに座って」
『ここ』と杉山は自分の隣を指し、私はおずおずとそれに従った。
「エデン、君は自分の事を強いと思っていて、氷朱鷺との関係性で言えば、調教師だから主従関係の主の方だと思っているかもしれない。でも、それはあと数年で覆される」
 杉山さんは組んでいた脚を解き、私の方に体を向ける。私はすぐ間近に杉山さんの視線を感じ、肩に力が入った。ちょっと視線を上に向けると杉山さんの薄くて形のいい唇が視界に入り、どうしても萎縮してしまうのだ。
 あの唇が私にキスを……?
 杉山さんは大人で格好良くて、子供で血生臭い私の事なんか眼中に無いと思っていたのに。
「あと数年と言っても、それでも氷朱鷺は中学生ですよ?まだまだ子供じゃないですか。献上解禁になる18だって、大人とは思えないですし」
 献上品が献上されるその日までは、調教師は献上品の主な筈だ。その関係性さえ変わらなければ、いかに氷朱鷺が私を女として見たところで何も変わらない。
 杉山さんは一体、何をそんなに危惧しているのだろう?
「エデン、男は産まれた時から漢で、女の主なんだよ」
 杉山さんがいきなり私の両肩を掴み、体重をかけて私をソファーに押し倒した。
「なっ……」
 凄く、近い……
 昔から杉山さんとの距離は近かったが、今は物理的にも精神的にも物凄く近く、圧迫感を感じる。
 杉山さんから煙草とマリン系の香水が混じった『男性』の匂いがして、骨ばった輪郭や喉仏に影が射し『漢』を感じ、ズシリとした体の重量感や肩を掴む手の力強さに『大人の男の人』を意識した。そしてふと『この人に抱かれた女性達は皆、こんな情景を見たのか』と思ってしまった。
「あの、杉山さん」
 私は顔がカァッと熱くなるのを感じ、杉山さんの胸板を両手で押し返す。
「え……」
 硬くて、分厚くて、重くて、びくともしない。
 戦場を去ってからもう何年も経っているせいか、私は杉山さんの前では想像以上に無力だった。
 献上品を護衛する為に調教師達は定期的にジムで体を鍛えているが、それでも私は杉山さんの腕を振り払う事さえ出来ない。
「動けないだろ、エデン。俺は半分も力を出していない」
「うそ……」
 これで!?
 赤子の手を捻るようにとは、このことか?
 私は自分の力を過信していたせいか、ショックを隠しきれなかった。
「あと数年もすれば、氷朱鷺も同じか、それ以上に力が強くなる。エデンは少年兵だったけど、元々スナイパー出身なんだ。あの子を子供だと思って侮っていたら、こうして襲われるかもしれない。慢心せず、ちゃんと警戒するんだ」
 杉山さんはいつもニコニコ穏やかに笑っていたのに、この時ばかりは、見たこともない真剣な眼差しで私を圧倒させた。
「は、はい。あの……」
 私が合図でもするようにグッと杉山さんの胸板をもう一度と押すと、彼は自分を取り戻したように『ごめん』と言って私から離れる。
 杉山さんが体を張って警鐘を鳴らしてくれたのは解るが、私には刺激が強過ぎて内容があまり入ってこなかった。
「兄の王子への献上品に付く調教師達は皆男だが、献上品の娘達の指南に本番は無いと聞いた。けど王女への献上品にはそういった決まりや秩序は無いって話だ、お前はちゃんとそこらへんの事を解ってるのか?」
 ポンポンと杉山さんから優しく頭を撫でられ、私は首を竦めてそれを受け止める。
 確かに、この国の王となる王子への献上品の娘は処女が第一条件にして絶対条件だが、逆に妹の王女への献上品にはそういった貞操関連の縛りは無く、避妊や感染症予防さえ実施していれば実地訓練も許可されていた。
「一応、頭には入ってますけど、うちには秩序がありますから、そういった事は書面で教えますし、させません」
 氷朱鷺と実地だなんてとんでもない。近親相姦みたいでゾッとする。
「だから、氷朱鷺がやりたがって襲ってきたらどうするつもりだって言ってんの」
 杉山さんは片手で額を押さえ、深くため息をついた。
「だから、氷朱鷺がそんな事をするはずありません」
 根は聞き分けのいい優しい子だし、氷朱鷺が私にそんな横暴を働くとは到底思えない。
 私は氷朱鷺を信じる。だって家族だから。
「エデン、お前は今も昔も変わらず無鉄砲で、俺はそんなお前が心配で仕方がないよ」
 そうして杉山さんは更に深々と息を吐いた。
「既に始まりつつあるからな」
「?」
 私が何の事かと杉山さんを見上げると、彼は呆れたように手に顎を乗せて肘を着く。
「思春期だよ」
「思春期ですか……」
 無邪気に兎を追う氷朱鷺にはまだ早い話だと思うが……
「そろそろ寝室も別にした方がいい」
「私は別に──」
 今からそこまでする必要があるだろうか?
 そもそも私達にはリビングと寝室の2部屋しか割り当てられていないし、寝室が一緒だからと言って同じ布団で寝ている訳でもないのだ。
「氷朱鷺の為だ。色々と発散させてやった方がいいだろ?やり方を知らないようなら俺が教えてやってもいいし」
「発散?」
「発散」
 発散……
 ……と考えを巡らせていると、私は思わぬ答えに行き着く。
 えっ!
「それはさすがにまだ早いかと……」
 氷朱鷺はまだ12になったばかりだし、何より、あのフランス人形のような清楚な顔でそんな破廉恥な事、するだろうか?
 想像もつかない。アイドルが大をしないという都市伝説と同じで、女の子のような可憐な顔をした純粋無垢な氷朱鷺は、たとえ大人になっても純粋なままだと思う。毎日氷朱鷺の体を洗ってやっているが、彼は恥ずかしがって恥部を隠しているので、股の間にあのグロいイチモツが実際に付いているのか疑わしいくらいだし。
「早くないさ。エデンが知らないだけで、青少年の頭の中はエグい事でいっぱいなんだよ。男なんて皆そんなもんだよ。俺だって同じさ。紳士にはしているけど、たまに紳士じゃない時だってある。ただ大人だから隠し方がうまいだけ」
 杉山さんはおもむろに立ち上がり、膝に付いたズボンのシワを両手で払った。
「杉山さんはいつだって優しいし、紳士ですよ。氷朱鷺にもそんな大人になってほしいですし」
 私も立ち上がり、杉山さんの曲がったネクタイを直してやる。わりとこういう事はよくしていたのでつい癖で手を伸ばしてしまったが、キスの一件から私はどうかしてしまったのか、杉山さんから注がれる視線を意識しまくっていた。
 それにしても、杉山さんは背も高くてスラッとしてて、程よく筋肉質なのでスーツがよく似合う。氷朱鷺にはまだ程遠いが、こんな風に優しくて品のある大人になってくれれば、調教師の私としても本望だろう。
「自分自身を知る身としては複雑だよ。じゃあ、今日のところは様子を見に来ただけだから、また今度食事でもしよう」
 癖なのか、杉山さんは本日何度目かの頭ポンポンを私にすると、出口の方に歩いて行った。
「あ、はい。気にかけてくださり、ありがとうございました」
 私はその背中に向かってペコペコと何度も頭を下げる。
 今日は思わぬハプニングもあったが、久しぶりに杉山さんの顔を見れて、私はいっとき、調教師である自分を忘れる事が出来た。
「いい、いい、何かあったら連絡しろよ。何でも相談に乗るから」
 後ろ手に手を振って出て行く杉山さんは、やはり私の憧れであり、尊敬の的だ。
「はい、ありがとうございます。杉山さんも、帰り、お気をつけて」
 杉山さんがいなくなった後も、何とも言えぬ喪失感が漂った。
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