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【壱章】殺人者が蔓延る世界
母の死
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そこで目が覚めた。
手で頬を拭うと、汗がびっしょり手に付いた。いや、目元から流れている感覚があったので、汗ではなく涙なのかもしれない。とにかく蒼の手は濡れていた。
(またあの時の夢だ…)
蒼は母親が殺された日から、あの時の夢を何度も見るようになった。しかも、毎回遊園地の場面から夢が始まるのである。そして母親が殺される場面でいつも夢が覚める。
しかし、その御蔭で犯人の特徴も未だに忘れずに覚えている。
―右頬に鳥の足跡のある男
蒼は人を見る時、まず初めに右の頬を見る。そうやってこの十年間母親を殺した犯人を探し続けているのである。だが、一度も右頬に鳥の足跡の様な痣がある人間を見たことはなかった。
もし仮に、これから先の人生の中でその犯人と出会ってしまったら彼は…
―犯人の命を奪うのだろうか…
蒼自身、自分が相手を許すことは不可能だと思っている。しかし、犯罪行為をしたら自分も犯罪者となってしまう。蒼は母親を手にかけた男の様になりたいとは思っていない。
その男を例え殺しても、もう死んだ母親は帰って来ないのだ。けれど、蒼は自分が分からなくなる時がある。
実は、彼の夢には母親が死んだ日の夢と自分が殺人者になる夢の2パターンがある。自分が殺人者となる夢は最近になって見る機会が多くなった夢だ。それは、泥だらけの自分の横に血だらけの女が横たわっているという不気味な夢だ。
彼はいずれ自分も殺人を犯してしまうのではないかと不安に思っている。自分が怖いのだ。
人を殺してしまうのだろうか、自分のせいで人が死ぬのだろうか…
蒼はベッドから起き上がると、重い足取りで洗面所に向かった。
「父さん、おはよう」
洗面所には顔を洗っている父親がいた。声を掛けられた父親は顔を洗い終わると、蒼のことをちらっと見ただけで、そのまま行ってしまった。
蒼は小さく溜息をつき、冷水で顔を洗い始めた。
その冷たい水が肌に触れた瞬間、蒼の心の内側にもその冷たさが染み渡っていった。まるで父親からの冷たい態度が水を伝って来たかのようだった。おまけに心臓の鼓動が少し早くなった気がした。
鏡に映った自分の顔は、何だかとても生気が無かった。あの夢を見た後の朝はいつもこうなる。普段ストレートである黒髪の毛は、寝癖で四方八方を向いていた。もともと白い彼の肌は青白くも見える。深緑の目はまるで死んだ魚の様に濁っていた。こうなってしまったら治るのに数時間は必要だ。
寝癖だけ時間をかけて何とか直した彼はその後直ぐに、朝食を作り始めた。今日はハムエッグとトーストである。蒼にとって心が安らぐのは家に帰った時と料理をしている時である。
料理を作り終えた彼は父親の分と自分の分をテーブルへ運んだ。
「朝食だよ、父さん」
新聞から目を離して一瞬こちらを向いた父親は特に言葉もなく、新聞を読みながら朝食を食べ始めた。新聞の表紙には殺人事件についてのニュースが沢山乗っていた。
蒼はそんな父親の冷たい態度に不満を抱くことも、文句を言うこともなかった。
ただ、蒼は信じていた。
―父親との会話は無くとも、少なくとも料理で繋がっていると。
食事を終えた蒼はさっそく母親の墓参りに行く準備をし始めた。
「父さん、今日は母さんのお墓参りに行くんですけど、父さんも行きますか」
蒼が新聞を読んでいる父親にそう聞くと、
「いいや、父さんは夕方にする。お前、一人で行きなさい」
と無感情な声で言った。それは遠まわしに『お前とは行きたくない』と言われているような、そんな気がした。
「分かりました…」
外に出ると、生ぬるい風が蒼の全身を通り抜けていった。天気は晴れ。空には雲ひとつ無かった。六月初めのこの季節では珍しいくらいの晴天であった。
「あら、蒼くんじゃないの」
道端で犬の散歩をしていた近所の川田さんに声を掛けられた。五十代半ばといった感じの陽気なおばさんである。いつもこの時間になると愛犬の『テン』を連れて散歩しているのだ。
「おはようございます」
蒼が挨拶をすると、テンが舌を出しながら近寄ってきた。蒼はしゃがんでテンの栗色の毛をやさしく撫でた。テンはふさふさのしっぽを千切れんばかりに振っている。
「テンは蒼くんに懐いているのよね」
おばさんはそう言うと笑顔で微笑んだ。
「ははは、それはとても嬉しいです」
「今日は、麻子さんのお墓参りにいくの?」
「はい、今日は母さんの命日でして」
おばさんはテンの手綱を少し引くと目線を下にした。
「麻子さんが亡くなってからもう十年が経つのね…」
「はい…そうですね」
母が死んだあの日から今日で十年が経ったと思うと、蒼は時の流れの速さに驚いた。
その後、おばさんと別れた蒼はバス停へ向かった。
バス停には既に三人並んでいて、その中に一人、顔見知りがいることに蒼は気がついた。
「あれ、確か…君は二組の柏木だよね」
蒼に声を掛けられて振り返ったのは、蒼と同じ高校に通う同級生の柏木朱音だ。肩につく程の栗色の髪、ぱっちり二重で大きな瞳、スッとした顔立ちの彼女は誰が見ても『美少女』である。彼女は校内でも皆の注目の的だ。
「そうだけど、あんた誰?」
お淑やかそうに見えるその外見とは裏腹に、彼女は少々乱暴な口調でそう言った。蒼は思わず二歩下がってしまった。
「俺は入江学園の鞍月蒼です………」
彼女は、腕を組んでこちらを見据えていた。
「鞍月蒼?聞いたことあるような、ないような…」
一年の時に一度同じクラスになったことがあるはずなのに、柏木は蒼の事を覚えていないらしい。まぁ、蒼はいつも窓際の席で外を見ているような『隅っこ』だったから仕方ない。
「あの、一年の時同じクラスだったんですけど…」
蒼がそう言うと、彼女は何か思い出したような顔をした。
「ああ、蒼くんか!あの大人しくって、いつも窓際で頬杖をついていた!そう言えばいたよね。ごめん、ごめん、つい不審者かと思って…」
蒼は不審者と見間違えられたらしい。まぁ、確かに青白く顔色が悪い今の彼は、彼女の言う通り、不審者に見える。
「今からどっか行くの?」
彼女は大きな目を見開いて蒼に聞いてきた。
「ちょっと、今日は母親の命日で…」
すると彼女は瞼を少し下げた。
「蒼くんも家族を亡くしているんだ…」
柏木は悲しそうな顔でそう言った。ということは、彼女も家族の誰かを亡くしているのだろうか。彼女も同じ悲しみを抱えているのだろうか…
「柏木も、誰か亡くしているのか?」
彼女は、小さく頷くと話し始めた。
「うん、両親と姉を…」
両親と姉という事は柏木の家族はこの世にいないのか…蒼は胸が締め付けられる思いだった。自分にはまだ父親がいる。けれど、柏木には父親も…
「柏木、家族は…もしかしてお前一人だけなのか?」
蒼が心配そうに聞いたので、彼女は視線をこちらに向けると、強がった口調でこう言った。
「まあね、でも全然平気。今は独身のおばさんに引き取ってもらっているからさ。色々と優しくしてくれるし」
「そ、そうか」
「あ、バスだ」
彼女は背伸びをしてバスが来た方角を指差した。
バスが到着すると、二人は乗り込んだ。バスの中は空いていて、直ぐに座ることができた。
「柏木もアジサイ霊園に行くのか?」
「そうだよ、今日は天気も良いし、おばさんは会社に行っちゃったからお墓参りでもしようかなって」
窓際の彼女はそう言うと、バッグの中から飴を取り出して口に頬張った。
「蒼くんもいる?」
彼女は微笑むと、蒼に飴を差し出した。飴をもらった蒼は礼を言って、口の中へ入れた。飴の味は珈琲であった。珈琲のほのかな香りが口いっぱいに広がった。
十分程したら、目的地のアジサイ霊園前に到着した。バスから降りると、アジサイに囲まれた公園のような庭園が目の前に広がった。近づいてみると、アジサイの葉には昨日の朝降った雨粒がまだ残っていた。
霊園の中へ入ると、大通りの両脇に無数の墓地が広がっていた。蒼が住んでいるこの立神町には全部で三つの墓地があるが、このアジサイ霊園はその中でも一番墓の数が多い霊園である。
そして、この無数に広がる墓の下に埋められている人々の亡骸は、心無い罪人によって尊い命を奪われた人々のものが殆どである。今や病死で亡くなる人より、他殺された者の方が多いのだ。
蒼はこの墓の数を見る度に、複雑な気持ちになる。ここには母親の墓以外にも、幼馴染や、近所のおじさん、おばさん、そして従兄弟の墓までもが存在している。蒼はその一つ一つに線香をあげて回ることにした。しばらく大通りを歩いていると、
「蒼くんのお母さんは、何時頃亡くなったの?」
と、柏木が聞いてきた。
「十年前だよ、俺が七つの時」
蒼は俯いてそう言った。
「病死…じゃないわよね」
と、柏木はゆっくりと呟いた。
「他殺だよ、俺の母さんは殺されたんだ」
蒼の言葉を聞いた彼女は驚いた様子もなく、
「そう…」
彼女の声は力無く、風と共に空中で分散した。恐らく、彼女の家族も病死ではないのだろう。
その後、二人は順番に自分の知人や親戚の墓を巡った。全部で十を超える墓に線香の炎が上がった。彼女も墓一つ一つを丁寧に回っていた。家族の墓の前に来た時、柏木は無言でずっと手を合わせていた。きっと様々な思いがあるのだろう。
そして、最後に蒼の母親の墓参りをした。柏木も母親の墓に線香を上げてくれた。
「蒼くんのお母さんは…いくつで亡くなったの?」
蒼は目を閉じて墓の前で両手を合わせながら、
「三十五歳」
と言った。柏木はその後、深くは聞いてこなかった。
その後、時間はあっという間に過ぎて、午後十二時を過ぎていた。腕時計を覗いた柏木は慌てて、
「もうこんな時間だ。私、この後用があるから先に帰るね。じゃあまた」
そう言って、風のように駆けて行ってしまった。その後、蒼はゆっくりと霊園の外に出た。
空腹に耐え切れなくなった蒼は近くのコンビニで昼飯を買って、バス停の前のベンチに座って菓子パンの封を切った。
―と、その時だった。
後ろから肩を掴まれた。はっとした蒼は恐る恐る振り向く…
―そこには黒い布を纏った一人の人間…
しまった…
蒼は肩の手を振りほどくと、急いで立ち上がろうとした。しかし、時は既に遅く、服を掴まれてしまった。蒼井はその場に倒れ込んだ。
目の前に落ちている菓子パンを踏みつけたその人間は、蒼の胸倉を掴んだ。
「I find you」
そいつは英語で『見つけたぞ』と言うと、蒼の首筋に銃口を当て始めた。急な出来事に蒼は言葉さえ発せられなかった。不運なことに、周りには人ひとりいなかった。バスが到着する時間もまだ先である。
銃とか…違反じゃなかったっけ?と蒼は思考を巡らせる。
でも、昼間に襲われるなんて…
このまま自分は殺されて…墓に入るのだろうか…痛いのかな…あの世に行ったら母さんはいるのだろうか…会えるのだろうか…と蒼の脳裏にはそんな考えがよぎった。
このままだと殺されると思った蒼は、銃口を掴み上へ向けようとした。しかし、男の力は強く、銃口は蒼を捕らえたまま僅かに動くだけである。
「くっ…」
思いっきり体を反らせて男の手から何とか抜け出した蒼は、すぐに立ち上がり逃げ出そうと走り出した。
「……!」
耳を劈くような銃声が一つ頭に響いた。恐る恐る足元を見ると、足先から数センチの場所に小さな穴が空いていた。穴の周辺のアスファルトには亀裂が生じている。
ガクガクと震える蒼は静かに後ずさる。
「you can not escape(お前は逃げられない)」
男は蒼に少しずつ近づく。黒いフードから垣間見える口元は、不吉に歪んでいた。
恐怖でいっぱいの蒼の耳にはコッキングの音さえ、銃声のように響いた。
すると、急に鳥の羽音がした。その直後、男は後ろに倒れた。
「あああああああああああああ」
そいつの顔は鴉の羽で覆われていた。鴉は容赦なく顔を突っついている。コンクリートの地面には赤い血痕が飛び散っていた。鴉の黒い羽にも血が付着している。
男は何とか起き上がると、顔から血を垂らしながら、
「tut!」
舌打ちをして、そのまま逃げ出してしまった。しかし、先ほどの鴉は容赦なく男を追いかけていく。
その直後、男の姿が一瞬にして蒼の視界から消え去った。まるで魔法でも使ったかのようにそいつは消えたのだ。これに驚いた鴉は方向性を失い、そのまま何処かへ飛んでいってしまった。
「………」
蒼はしばらくそこに立ち尽くしていた。
彼の目の前に鴉の羽が弧を描いて落ちてきた。手のひらを前に差し出すと、その上に黒い羽は舞い降りてきた。
その後、何とか無事に家に帰ることが出来た蒼は、家に入った途端、安堵の溜息をした。彼の手のひらには先ほど拾った鴉の羽が握りしめてあった。
(危なかった…)
蒼は、先ほどの出来事を思い返していた。昼間にも関わらず、人に襲われるなんて…どんどん秩序が乱れてきている証拠である。これから先、この世界はどうなってしまうのだろうか、と蒼は不安に思った。
この日、蒼が外に出ることはなかった。
手で頬を拭うと、汗がびっしょり手に付いた。いや、目元から流れている感覚があったので、汗ではなく涙なのかもしれない。とにかく蒼の手は濡れていた。
(またあの時の夢だ…)
蒼は母親が殺された日から、あの時の夢を何度も見るようになった。しかも、毎回遊園地の場面から夢が始まるのである。そして母親が殺される場面でいつも夢が覚める。
しかし、その御蔭で犯人の特徴も未だに忘れずに覚えている。
―右頬に鳥の足跡のある男
蒼は人を見る時、まず初めに右の頬を見る。そうやってこの十年間母親を殺した犯人を探し続けているのである。だが、一度も右頬に鳥の足跡の様な痣がある人間を見たことはなかった。
もし仮に、これから先の人生の中でその犯人と出会ってしまったら彼は…
―犯人の命を奪うのだろうか…
蒼自身、自分が相手を許すことは不可能だと思っている。しかし、犯罪行為をしたら自分も犯罪者となってしまう。蒼は母親を手にかけた男の様になりたいとは思っていない。
その男を例え殺しても、もう死んだ母親は帰って来ないのだ。けれど、蒼は自分が分からなくなる時がある。
実は、彼の夢には母親が死んだ日の夢と自分が殺人者になる夢の2パターンがある。自分が殺人者となる夢は最近になって見る機会が多くなった夢だ。それは、泥だらけの自分の横に血だらけの女が横たわっているという不気味な夢だ。
彼はいずれ自分も殺人を犯してしまうのではないかと不安に思っている。自分が怖いのだ。
人を殺してしまうのだろうか、自分のせいで人が死ぬのだろうか…
蒼はベッドから起き上がると、重い足取りで洗面所に向かった。
「父さん、おはよう」
洗面所には顔を洗っている父親がいた。声を掛けられた父親は顔を洗い終わると、蒼のことをちらっと見ただけで、そのまま行ってしまった。
蒼は小さく溜息をつき、冷水で顔を洗い始めた。
その冷たい水が肌に触れた瞬間、蒼の心の内側にもその冷たさが染み渡っていった。まるで父親からの冷たい態度が水を伝って来たかのようだった。おまけに心臓の鼓動が少し早くなった気がした。
鏡に映った自分の顔は、何だかとても生気が無かった。あの夢を見た後の朝はいつもこうなる。普段ストレートである黒髪の毛は、寝癖で四方八方を向いていた。もともと白い彼の肌は青白くも見える。深緑の目はまるで死んだ魚の様に濁っていた。こうなってしまったら治るのに数時間は必要だ。
寝癖だけ時間をかけて何とか直した彼はその後直ぐに、朝食を作り始めた。今日はハムエッグとトーストである。蒼にとって心が安らぐのは家に帰った時と料理をしている時である。
料理を作り終えた彼は父親の分と自分の分をテーブルへ運んだ。
「朝食だよ、父さん」
新聞から目を離して一瞬こちらを向いた父親は特に言葉もなく、新聞を読みながら朝食を食べ始めた。新聞の表紙には殺人事件についてのニュースが沢山乗っていた。
蒼はそんな父親の冷たい態度に不満を抱くことも、文句を言うこともなかった。
ただ、蒼は信じていた。
―父親との会話は無くとも、少なくとも料理で繋がっていると。
食事を終えた蒼はさっそく母親の墓参りに行く準備をし始めた。
「父さん、今日は母さんのお墓参りに行くんですけど、父さんも行きますか」
蒼が新聞を読んでいる父親にそう聞くと、
「いいや、父さんは夕方にする。お前、一人で行きなさい」
と無感情な声で言った。それは遠まわしに『お前とは行きたくない』と言われているような、そんな気がした。
「分かりました…」
外に出ると、生ぬるい風が蒼の全身を通り抜けていった。天気は晴れ。空には雲ひとつ無かった。六月初めのこの季節では珍しいくらいの晴天であった。
「あら、蒼くんじゃないの」
道端で犬の散歩をしていた近所の川田さんに声を掛けられた。五十代半ばといった感じの陽気なおばさんである。いつもこの時間になると愛犬の『テン』を連れて散歩しているのだ。
「おはようございます」
蒼が挨拶をすると、テンが舌を出しながら近寄ってきた。蒼はしゃがんでテンの栗色の毛をやさしく撫でた。テンはふさふさのしっぽを千切れんばかりに振っている。
「テンは蒼くんに懐いているのよね」
おばさんはそう言うと笑顔で微笑んだ。
「ははは、それはとても嬉しいです」
「今日は、麻子さんのお墓参りにいくの?」
「はい、今日は母さんの命日でして」
おばさんはテンの手綱を少し引くと目線を下にした。
「麻子さんが亡くなってからもう十年が経つのね…」
「はい…そうですね」
母が死んだあの日から今日で十年が経ったと思うと、蒼は時の流れの速さに驚いた。
その後、おばさんと別れた蒼はバス停へ向かった。
バス停には既に三人並んでいて、その中に一人、顔見知りがいることに蒼は気がついた。
「あれ、確か…君は二組の柏木だよね」
蒼に声を掛けられて振り返ったのは、蒼と同じ高校に通う同級生の柏木朱音だ。肩につく程の栗色の髪、ぱっちり二重で大きな瞳、スッとした顔立ちの彼女は誰が見ても『美少女』である。彼女は校内でも皆の注目の的だ。
「そうだけど、あんた誰?」
お淑やかそうに見えるその外見とは裏腹に、彼女は少々乱暴な口調でそう言った。蒼は思わず二歩下がってしまった。
「俺は入江学園の鞍月蒼です………」
彼女は、腕を組んでこちらを見据えていた。
「鞍月蒼?聞いたことあるような、ないような…」
一年の時に一度同じクラスになったことがあるはずなのに、柏木は蒼の事を覚えていないらしい。まぁ、蒼はいつも窓際の席で外を見ているような『隅っこ』だったから仕方ない。
「あの、一年の時同じクラスだったんですけど…」
蒼がそう言うと、彼女は何か思い出したような顔をした。
「ああ、蒼くんか!あの大人しくって、いつも窓際で頬杖をついていた!そう言えばいたよね。ごめん、ごめん、つい不審者かと思って…」
蒼は不審者と見間違えられたらしい。まぁ、確かに青白く顔色が悪い今の彼は、彼女の言う通り、不審者に見える。
「今からどっか行くの?」
彼女は大きな目を見開いて蒼に聞いてきた。
「ちょっと、今日は母親の命日で…」
すると彼女は瞼を少し下げた。
「蒼くんも家族を亡くしているんだ…」
柏木は悲しそうな顔でそう言った。ということは、彼女も家族の誰かを亡くしているのだろうか。彼女も同じ悲しみを抱えているのだろうか…
「柏木も、誰か亡くしているのか?」
彼女は、小さく頷くと話し始めた。
「うん、両親と姉を…」
両親と姉という事は柏木の家族はこの世にいないのか…蒼は胸が締め付けられる思いだった。自分にはまだ父親がいる。けれど、柏木には父親も…
「柏木、家族は…もしかしてお前一人だけなのか?」
蒼が心配そうに聞いたので、彼女は視線をこちらに向けると、強がった口調でこう言った。
「まあね、でも全然平気。今は独身のおばさんに引き取ってもらっているからさ。色々と優しくしてくれるし」
「そ、そうか」
「あ、バスだ」
彼女は背伸びをしてバスが来た方角を指差した。
バスが到着すると、二人は乗り込んだ。バスの中は空いていて、直ぐに座ることができた。
「柏木もアジサイ霊園に行くのか?」
「そうだよ、今日は天気も良いし、おばさんは会社に行っちゃったからお墓参りでもしようかなって」
窓際の彼女はそう言うと、バッグの中から飴を取り出して口に頬張った。
「蒼くんもいる?」
彼女は微笑むと、蒼に飴を差し出した。飴をもらった蒼は礼を言って、口の中へ入れた。飴の味は珈琲であった。珈琲のほのかな香りが口いっぱいに広がった。
十分程したら、目的地のアジサイ霊園前に到着した。バスから降りると、アジサイに囲まれた公園のような庭園が目の前に広がった。近づいてみると、アジサイの葉には昨日の朝降った雨粒がまだ残っていた。
霊園の中へ入ると、大通りの両脇に無数の墓地が広がっていた。蒼が住んでいるこの立神町には全部で三つの墓地があるが、このアジサイ霊園はその中でも一番墓の数が多い霊園である。
そして、この無数に広がる墓の下に埋められている人々の亡骸は、心無い罪人によって尊い命を奪われた人々のものが殆どである。今や病死で亡くなる人より、他殺された者の方が多いのだ。
蒼はこの墓の数を見る度に、複雑な気持ちになる。ここには母親の墓以外にも、幼馴染や、近所のおじさん、おばさん、そして従兄弟の墓までもが存在している。蒼はその一つ一つに線香をあげて回ることにした。しばらく大通りを歩いていると、
「蒼くんのお母さんは、何時頃亡くなったの?」
と、柏木が聞いてきた。
「十年前だよ、俺が七つの時」
蒼は俯いてそう言った。
「病死…じゃないわよね」
と、柏木はゆっくりと呟いた。
「他殺だよ、俺の母さんは殺されたんだ」
蒼の言葉を聞いた彼女は驚いた様子もなく、
「そう…」
彼女の声は力無く、風と共に空中で分散した。恐らく、彼女の家族も病死ではないのだろう。
その後、二人は順番に自分の知人や親戚の墓を巡った。全部で十を超える墓に線香の炎が上がった。彼女も墓一つ一つを丁寧に回っていた。家族の墓の前に来た時、柏木は無言でずっと手を合わせていた。きっと様々な思いがあるのだろう。
そして、最後に蒼の母親の墓参りをした。柏木も母親の墓に線香を上げてくれた。
「蒼くんのお母さんは…いくつで亡くなったの?」
蒼は目を閉じて墓の前で両手を合わせながら、
「三十五歳」
と言った。柏木はその後、深くは聞いてこなかった。
その後、時間はあっという間に過ぎて、午後十二時を過ぎていた。腕時計を覗いた柏木は慌てて、
「もうこんな時間だ。私、この後用があるから先に帰るね。じゃあまた」
そう言って、風のように駆けて行ってしまった。その後、蒼はゆっくりと霊園の外に出た。
空腹に耐え切れなくなった蒼は近くのコンビニで昼飯を買って、バス停の前のベンチに座って菓子パンの封を切った。
―と、その時だった。
後ろから肩を掴まれた。はっとした蒼は恐る恐る振り向く…
―そこには黒い布を纏った一人の人間…
しまった…
蒼は肩の手を振りほどくと、急いで立ち上がろうとした。しかし、時は既に遅く、服を掴まれてしまった。蒼井はその場に倒れ込んだ。
目の前に落ちている菓子パンを踏みつけたその人間は、蒼の胸倉を掴んだ。
「I find you」
そいつは英語で『見つけたぞ』と言うと、蒼の首筋に銃口を当て始めた。急な出来事に蒼は言葉さえ発せられなかった。不運なことに、周りには人ひとりいなかった。バスが到着する時間もまだ先である。
銃とか…違反じゃなかったっけ?と蒼は思考を巡らせる。
でも、昼間に襲われるなんて…
このまま自分は殺されて…墓に入るのだろうか…痛いのかな…あの世に行ったら母さんはいるのだろうか…会えるのだろうか…と蒼の脳裏にはそんな考えがよぎった。
このままだと殺されると思った蒼は、銃口を掴み上へ向けようとした。しかし、男の力は強く、銃口は蒼を捕らえたまま僅かに動くだけである。
「くっ…」
思いっきり体を反らせて男の手から何とか抜け出した蒼は、すぐに立ち上がり逃げ出そうと走り出した。
「……!」
耳を劈くような銃声が一つ頭に響いた。恐る恐る足元を見ると、足先から数センチの場所に小さな穴が空いていた。穴の周辺のアスファルトには亀裂が生じている。
ガクガクと震える蒼は静かに後ずさる。
「you can not escape(お前は逃げられない)」
男は蒼に少しずつ近づく。黒いフードから垣間見える口元は、不吉に歪んでいた。
恐怖でいっぱいの蒼の耳にはコッキングの音さえ、銃声のように響いた。
すると、急に鳥の羽音がした。その直後、男は後ろに倒れた。
「あああああああああああああ」
そいつの顔は鴉の羽で覆われていた。鴉は容赦なく顔を突っついている。コンクリートの地面には赤い血痕が飛び散っていた。鴉の黒い羽にも血が付着している。
男は何とか起き上がると、顔から血を垂らしながら、
「tut!」
舌打ちをして、そのまま逃げ出してしまった。しかし、先ほどの鴉は容赦なく男を追いかけていく。
その直後、男の姿が一瞬にして蒼の視界から消え去った。まるで魔法でも使ったかのようにそいつは消えたのだ。これに驚いた鴉は方向性を失い、そのまま何処かへ飛んでいってしまった。
「………」
蒼はしばらくそこに立ち尽くしていた。
彼の目の前に鴉の羽が弧を描いて落ちてきた。手のひらを前に差し出すと、その上に黒い羽は舞い降りてきた。
その後、何とか無事に家に帰ることが出来た蒼は、家に入った途端、安堵の溜息をした。彼の手のひらには先ほど拾った鴉の羽が握りしめてあった。
(危なかった…)
蒼は、先ほどの出来事を思い返していた。昼間にも関わらず、人に襲われるなんて…どんどん秩序が乱れてきている証拠である。これから先、この世界はどうなってしまうのだろうか、と蒼は不安に思った。
この日、蒼が外に出ることはなかった。
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